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翌朝、カーテンの隙間から射し込む日射しに眉を寄せ、深雪はゆっくりと目を覚ました。


まだ頭がぼんやりとしていて、ここがどこなのかよくわからない。


寝惚け眼で髪をかきあげ、周囲を見回す。


目が冴えてくると同時に昨夜の事を思い出し、みるみる顔色を変える。


「え?え……なんで?」


記憶が正しければ、確か2人でレストランに行き、コウが飲めない代わりにと、そこでたくさんワインとシャンパンを飲んだ。


そしてその後は、猛烈に眠気に襲われ、車内で眠ってしまったはずだ。


にも関わらず、目の前に広がっている風景は、見慣れたマンションの自室だった。


「コウ……?」


隣に視線をやり、名前を呼ぶ。しかしそこに旦那の姿はない。


「え?コウ?どこ?」


旦那が自分よりも早く起きるなんてあり得ない。


自分の置かれている状況も、目の間の状況もわからず混乱してしまう。


「どうしたんだ?」


すると、リビングに続くドアから、いつものスーツ姿のコウが顔を出した。


「私、どうしてここにいるの?いつの間に帰って来たの?」


「あ、あぁ」


眠った場所と起きた場所が違えば、パニックになるのも仕方がない。


コウは小さく笑うと、こちらに歩み寄ってベッドに腰かけた。


「いくら呼んでも起きなかったからさ。あのまま車に放置するわけにもいかないだろ?だから寝てる間に連れて来たんだ」


「なんだ……。そうだったの」


納得のできる理由を聞き、ほっと安堵する。と同時に新たな不安に襲われ、ベッドから飛び出す。


「今、何時かしら」


彼が起きているのだから、早い時間ではないだろう。


勝手にそう解釈し、慌てふためく。


「なぁ、落ち着いて」


「だって、遅刻したら大変だわ」


制止の声も聞かず、バタバタとクローゼットを開けて着替える。


下着姿になった時、ハッとして振り向いた。


「あっちに行っていて!」


「は、はい……」


あまりの剣幕に、コウは素直に寝室から出ていった。


「すごい慌ててるな」


リビングに戻ったコウは、寝室から聞こえる音に苦笑いしつつ、ホットミルクの入ったカップに口をつける。


ソファーに腰を下ろし、テレビをつけた。


液晶画面の左上には、デジダル文字で7:15と表示されている。


普段セットしている目覚ましは8時。


実際は45分も早いのだが、深雪は気付いていない。


伝えようにも、タイミングを逃してしまったのだ。


テレビのニュース番組を見つつ、新聞に視線を落とす。


「熱ッッ!」


そんな“ながら作業”をしていた時、寝室から物凄い音と悲鳴が聞こえ、慌てて立ち上がった。


「どうしたんだ!?」


中に飛び込むと、深雪はドレッサーの前で頬を押さえながら踞っていた。


脇には彼女がいつも髪をセットする時に使っている、ピンクのアイロンが転がっている。


「おい、大丈夫か?」


「火傷した……」


「火傷!?」


駆け寄り、半泣きになっている深雪の顔を覗き込む。


左の頬にはまだ一昨日の痣がくっきりと残っており、その近くにアイロンが当たったと思われる赤い跡がついていた。


「何してるんだよ。危ないだろ」


眉を寄せ、髪を掻き上げて肌に触れる。


「だって、髪も化粧もしないで会社に行けないじゃない。それにシャワーだって……」


「とにかく落ち着いて。よく見ろよ」


余程焦っているのか、行動と言葉が矛盾している。


普通は、髪をセットするなら、先に風呂に入るべきだ。


時計を見せると、深雪は瞬きを繰り返しながら数字を見つめた。


「まだ7時ちょっとだよ。普通に準備しても遅刻なんかしないから」


「え?……あれ?」


一瞬間が空き、時計を奪い取る。


確かに短針は7の上にあり、長針はまだ4に差し掛かった所だ。


それを見た瞬間、深雪は安堵しながら息を吐く。


「よ、良かった……。早く言ってくれればいいのに」


「言おうにも、全然聞く耳持たないから」


遅刻、または欠勤になるかと無駄に心配してしまった。


とたんに気が緩み、その場にへたりこむ。


「オーバーだなぁ。仮に遅刻したって、誰も怒らないよ」


確かに遅刻をしたとしても、文句を言われる事はないだろう。


しかしこれは社会人としての常識の問題だ。


いくらコウが大丈夫だと言っても、これでは社会人失格だろう。


「怒られるとか怒られないじゃないのよ。これは人間としてのモラルの問題よ。まさかあなた、時間にルーズなんじゃないでしょうね?」


だとすれば、妻の立場として見過ごせない。


放り投げたアイロンを拾い、ドレッサーの椅子に腰掛ける。


「俺が?まさか。俺みたいな叱る立場の人間が遅刻なんかできるわけないだろ」


「じゃあ私にも、そんないい加減なやり方を勧めないで欲しいわ。仮にも叱る立場の人間の、妻なんだから」


再び髪のセットを始める。


「朝食まだよね?支度が終わったらすぐに作るから待ってて」


「うん、ゆっくりでいいよ。──先にシャワー浴びたら?」


「そういえば……そうよね」


どうやらまだ本調子ではないらしい。


恥ずかしい様な情けない様な複雑な気分で、アイロンはドレッサーに置いたまま浴室へと向かった。


シャワーを浴びて着替えを済ませた深雪は、改めて化粧をする為にドレッサーの前の椅子に座る。


そうして、まじまじと鏡を覗き込んだ。


「やっぱりまだ腫れている。問題は痣ね」


昨日よりは多色薄らいではいるが、やはりまだ目立つ。


しかも今日は、昨日のような厚化粧は難しい。


そうなると必然的に目立ってしまい、どうにも隠す事が出来そうにない。


「こうなったらもう、仕方ないわよね」


暫く考えた後、湿布を取り出して頬に貼る。


どちらにせよ目立ってしまうなら、隠そうとしない方がマシだろう。


一番嫌な事は、ヒソヒソと噂話をされる事だ。


ならばいっそ、嫌でも聞きたくなる状況を作ってしまえば、変な噂を流されなくて済む。


手早くいつもの化粧と身支度を済ませると、鞄を持って寝室を出た。


「お待たせ。朝食は何がいい?」


ソファーに鞄と上着を起き、軽く髪をまとめ、新聞を読んでいるコウを横目にキッチンへ向かう。


「ホットケーキ」


「ホットケーキ?」


朝からそんなものをリクエストされるとは思っていなかった。


コウは相変わらず新聞に視線をやったまま答える。


「そう。メープルシロップとバターが、たくさんのったやつ」


「朝からそんなの食べるの?胸焼けしそうだけど」


せめてパンケーキならばわかるが、あいにくこの時間から準備をしても美味しいものは作れそうにない。


深雪が好むのは、空気がたっぷり入った、ふんわりとしたタイプのものだ。


だがあれは、生地作りに数時間かかってしまう。


仕方なく卵と牛乳を取り出し、市販のミックスをボウルにあける。


「別に胸焼けしないよ。昔から、よく朝食に食べてたから」


「まさか高校の時も?」


当時の彼の様子を思い浮かべ、そのアンバランス加減に吹き出してしまった。


それに反応し、コウは軽く眉を寄せながら視線を上げる。


「いいだろ、別に──なぁ」


「なぁに?」


「なんだよその顔」


まさかそれで行くのか?と、渋い表情を浮かべる。


「そうよ。この方が治りも早いだろうし」


「いや、それはそうだけど。でもそれ、目立つじゃないか」


「わざと目立つようにしているのよ」


熱く熱したフライパンに油を引き、ミックスを流し込む。


「中途半端に隠したら、変な噂とかされるでしょう?どうせ気付かれるなら、こうした方がいいのよ。ちゃんと理由を説明できるもの」


「遠巻きの噂でも、最初に出るのは旦那の暴力だと思うけど……」


真実も噂も大差ない。


ならばわざわざ自分から目立つような真似をしなくても良いんじゃないか。


それがコウの考えだ。


しかし深雪は、ホットケーキをひっくり返しながら首を振る。


「そんな事言わないわ。この怪我はね、私がおっちょこちょいだから、ドアにぶつけちゃったの。ただそれだけ」


「深雪……」


コウは悲し気に眉を寄せ、何か言いたげに口を開いた。


「ごめん、俺の──」


「待って。もうこの流れはやめにしましょう。ほら、焼けた」


湯気をたてているホットケーキとシロップ、そしてバターをテーブルに起き、背を向ける。


「先に食べてて。今からお弁当作るから」


「あ、あぁ。ありがとう」


コウは新聞を畳むと、ナイフとフォークを持ってダイニングテーブルに移動した。



時計は午前8時20分を指している。


食事も弁当作りも済ませ、ソファーに置いた上着を羽織る。


「そろそろ行こうか。今日は車で良いんだろう?」


いくら深雪でも、顔に湿布を貼ってJRを利用する度胸はない。


この姿なら、堂々とシルバーシートに座れるかもしれないが。


「えぇ。お願い」


「じゃあ行こう」


コウはサイドボードから通勤用の車のキーを取り出し、マンションを後にした。

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