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翌朝、少し早めに目を覚ました深雪は、痛みに眉を寄せながら起き上がった。
やはり、心配していた通りの状態になってしまったようだ。
恐る恐る手を当ててみると、右の頬が熱をもっていた。
「ちゃんと冷やしたのに……。力が強いのね」
枕元にあった溶けた保冷剤を手にし、ドアに向かう。
リビングのソファーでは、コウが大人しく眠っていた。
どうやらスーツのまま、なにもかけずに眠ったらしい。そっとブランケットをかける。
「もう怒ってないわよ」
耳元で優しく囁き、洗面所に歩いて行く。
そして鏡を見た瞬間、言葉を失った。
「うわ……」
鏡に映る自分の顔は最悪だった。右頬は赤く腫れ、青アザができている。
倒れた時に額を打ったらしく、左上のこめかみにも傷があった。
これは誰が見ても『殴られました』という怪我だ。
「どうしよう」
幸い今日は日曜日で仕事は休みだ。しかしこの怪我が、1日で治るとは思えない。
こんな顔をして出勤すれば、きっと大騒ぎになってしまうだろう。
「どうしよう。困ったわ」
例え無理だろうと、なんとかしなければならない。
リビングに戻ると、新しい保冷材を頬に当てる。
これでなんとか、腫れだけでも引かせなければ。
この際多少の冷たさは我慢しなければならない。
小さく息を吐くと、頬を冷やしたまま寝室に戻った。
「深雪、深雪」
旦那の声で目を覚ます。
いつの間にか眠ってしまったらしく、目の前には苦笑いを浮かべたコウの顔があった。
「ん……おはよう」
小さく欠伸をし、起き上がる。
「おはよう。あのさ、今日は何も予定はない?」
「えぇ。特にはないわ」
「そう。じゃあさ、出掛けないか?ほら、その……いい天気だし」
どうやら彼なりに気を遣っている様だ。
それを察し、深雪は満面の笑みで頷く。
「勿論よ。デートなんて久しぶりね」
思えばここ何ヵ月も、忙し過ぎて2人で外出する暇がなかった。
頬の怪我の事等すっかり忘れ、子供の様に大喜びする。
その反応を見て、コウはほっと安堵したようだった。
「じゃあ着替えて行こうか」
「えぇ、ちょっと待ってて。先にシャワーに……」
頷き、髪の毛を掻き上げた時、一瞬にしてコウの表情が強張る。
そのあからさまな表情の変化に、深雪はキョトンとしながら首を傾げる。
「どうしたの?」
「そ、その顔……」
「顔?──あぁ」
思い出し、恥ずかしそうに右頬に手をやる。
「大丈夫よ。別に骨も折れてないと思うし、ただ内出血しただけよ」
「…………」
しかしコウは、呆然としたまま手を伸ばす。と思った瞬間、強く深雪を抱き締めた。
「ごめん!俺、なんて事をっ……」
「大丈夫だってば。気にしないで」
嘆くコウの首や腕にも、深雪がつけてしまった痣があった。
「私だって怪我させちゃったし。寧ろ私が先に仕掛けた事なんだから、自業自得じゃない」
初めは、もっと冷静に話し合おうと思っていた。
だが顔を見た瞬間、どうしてもそれを抑えきれなくなってしまったのだ。
「そんな事あるかよ!!」
コウは悲痛の表情で叫ぶと、肩を掴んで離す。
「俺は、顔を殴ったんだぞ!?女の顔を!!」
「それはそうだけど……でも」
「病院行くぞ」
「え!?」
抱き上げられ、バランスを崩しそうになった。
「取り敢えず、市立病院……いや、大学病院に行こう」
「ま、待ってよ!病院なんかいいわ!行きたくないっ」
しかしコウは退かない。
「ちゃんと診てもらわないと。……俺のせいだ。なんであの後直ぐに冷やさなかったんだ」
パジャマに上着をかけ、足早に玄関に向かう。
部屋を出られたら終わりだ。そう悟り、近場にあった柱にしがみつく。
「おい!」
「嫌よ。絶っ対に行かないわ!」
「そのまま痕でも残ったらどうするんだよ!?」
相当混乱しているらしく、先からコウは声を荒立ててばかりだ。
「痕なんか残るわけないでしょう。大体なんて説明するのよ!」
「そりゃ勿論、俺がやったって言うしかないだろ」
「そんなの、DVだと思われるじゃない!警察でも呼ばれたらどうするの!?」
「女を殴っちまったんだ。俺が悪いには違いない。とにかく今はお前の方が優先なんだよ」
「だから、嫌だって言ってるでしょ!?」
たかがこの程度で病院になんて行きたくはない。何度もそう主張するが、水掛け論状態になってしまう。
「行くんだよ!ガキじゃないんだから、手ぇ離せ!」
「絶っ対に嫌!行かない!」
何がなんでも嫌なものは嫌だ。
殆んどヤケになり、自分でも子供の様だと思いつつも、柱から手を離さなかった。
暫く引っ張り合いをしていた2人だったが、コウはため息を吐きながら体を下ろす。
すかさず深雪は、離れた場所に逃げた。
「……深雪、頼むから」
声を抑えて呟き、息を吐く。
「行きたくないの。私がいいって言っているんだから。こんなの直ぐに治るわ。コウが傷を見たくないって言うなら湿布を貼るから」
「そういう事じゃないだろ」
「俺は別に、怪我を見たくないとか、そんな事を言っているわけじゃないんだ。お前の顔に傷を残したくないから」
「だから傷は残らないって言ってるでしょう?殴られただけで痕が残るほどヤワじゃないわ。それにそうなら、今頃体中痣だらけじゃない」
「…………」
互いに無言状態の睨み合いに変わる。
しかし先に折れたのは、やっぱりコウの方だった。
「わかったよ。病院は行かない。だけど手当てはさせて」
「……うん」
頷くと、恐る恐る歩み寄る。
「いきなり部屋を飛び出したりないわよね?」
「そんな強行突破はしないよ。ほら、おいで」
キャビネットから救急箱を取り出し、ソファーに座って手招きする。
隣に座ると、コウは悲し気な表情で頬に触れた。
「痛いだろ?本当に……ごめん」
「別に痛くないわ。謝るのもやめて。私だって悪かったんだから。女だってだけで、あなただけが気に病むことなんかない」
「あぁ、わかったよ」
コウは小さく笑うと、切った湿布を頬に貼る。
「明日は一緒に車で行こう」
「そうね」
確かに、この顔で電車には乗れないだろう。さすがの深雪にも、そんな度胸はない。
「会社で、色々聞かれるかもしれないな。その時は俺の事は気にしないで──」
「言わないわよ。あなたが悪く言われるの、私も嫌だから」
「ありがとう」
呟くと、肩に頭を乗せる。
「そんなに落ち込まないで。ねぇ、デートは?行かないの?」
その言葉に、コウは苦笑いしながら顔を上げる。
「駄目だよ。行けるわけない」
「どうして?こんな顔の私とは出掛けたくない?」
「違うよ。好奇の目で見られるのが嫌だからだよ。気疲れしそうだ」
「それはコウが?私が?」
「深雪」
眉を寄せながら言われ、口を閉じる。
「ごめんなさい」
「とにかく今日は安静にしていた方がいいよ」
「安静?また寝ていろって言うの?そんなの嫌よ。ちょっと待っていて」
立ち上がると、そのまま寝室に消えて行く。
そして暫くし、しっかり化粧も着替えも済ませて戻って来た。
「ほら見て。これならいいでしょう?」
「……」
そう言う深雪の頬には、先ほどまでの酷い痣が見られない。
何をしたのか分からず、コウは目を丸くする。
「あれ……湿布は?」
「あんなのファンデーションとかコンシーラーで隠せるのよ。湿布は剥がしたけれど」
「剥がしたのかよ」
せっかく今貼ったばかりなのにと、力なくぼやく。
「ね、これならいいでしょう?行きましょう」
「今日は随分我が儘だね」
「だって2人揃っての休みなんて、久しぶりじゃない。行きたい所はたくさんあるの。だから」
「わかったわかった。仕方ないなぁ。着替えてくるから待ってて」
そう言いつつも、コウの顔はどこか嬉しそうだった。
「じゃあ行こうか」
数分し、コウも着替えを済ませて戻って来る。
「休みなのにスーツ?」
まるで会社に行くような格好だ。せっかくの休日なのに、なぜわざわざスーツなのだろうか。
「別にいいだろ。最近はこの方が落ち着くんだよ。それに、誰に見られるかわからないし」
「そう。まぁ、別にいいけれど」
「女みたいに、そう雰囲気を変えられないんだ」
そう言うと、テーブルに放りっぱなしの車のキーを取った。
「車で行くの?」
「その方がいいだろ?休みの日にまで、公共交通機関なんか使いたくないよ」
「休みの日にまでって……。普段だって乗らないじゃない」
「乗ってるだろ。たまに」
そのまま地下の駐車場に降り、スターターを押す。
止めてあった車に乗り込むと、ハンドルに手をかけて首を傾げる。
「で、どこに行きたい?」
「どこでも構わないわ。あなたが最初に出掛けようって言ったんじゃない。行きたい場所があるんじゃないの?」
「あぁ、そっか……」
実際の所彼も、何か予定があって言ったわけではなかったらしい。
暫く考えた後、何かを思い付いてアクセルを踏む。
「とりあえず腹減ったから飯食おうか」
「えぇ」
2人を乗せた車は風を切って走って行った。




