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3

「ただいま」


室内に声をかけてドアを閉める。


いつもなら深雪が真っ先に駆け付けて来るのだが、今日は気配すらない。


「深雪?」


不思議に思い、声をかける。


玄関に靴はある。外出しているわけではなさそうだ。


「もう寝てるのかな」


きっと今日は、色々と気疲れもしただろう。


上着を脱ぎながらリビングのドアを開ける。


中を見た瞬間、ピタリと足を止めた。


「お帰りなさい」


「た、ただいま……」


そこには怖い顔をした深雪が、腕組みをしてソファーに座っていた。


その様子は、誰がどう見ても怒っている。


「どうしたんだ?何かあった?」


あまりの威圧感に、退け腰になる。


「話があるの」


人差し指を曲げて近づくように指示され、恐る恐る歩み寄る。


一体何をされるのか。と言うより、何故怒っているのか。


コウが歩み寄った瞬間、深雪は拳を握り、鳩尾に叩き込んだ。


「ぐっ……!」


目にも止まらぬ早業に、成す術もなく無防備な状態でボディブローを食らってしまう。


体をくの字にさせ、喘ぐ。


しかし深雪は容赦なく胸ぐらを掴むと、壁に体を叩き付け、喉元に右手の肘を当てがった。


「な、何を怒ってるんだよ!?」


このままでは喉を潰される。


しかし謝罪しようにも、全く何も思い付かない。


それを『シラをきっている』と判断したのか、深雪は鋭い表情で腕に力を込めた。


「何?何を怒っているのかって?本当にわからないの?」


発せられたのは、普段の彼女からは予想できない程に低い声だ。


コウは驚きと同時に『懐かしさ』を感じた。


「取り敢えず落ち着いて。何がなんだかさっぱりわからない」


コウはあくまでも自分をペースを保ち、ゆっくりと宥めるように言う。


「シラをきり通せると思っているの?」


ギリギリと肘を押し付けられ、命の危機を感じた。


なんとか技を解こうと、当てられている腕を掴む。


しかしビクともしない。


「裏切り者。絶対に、絶対に許さないわ」


「う、裏切り者!?何も裏切ってねぇだろ!何言ってんだよ!」


身に覚えのない理不尽な言葉に、つい素になってしまった。しかし構っていられない。


「あのまま隠し通す気だったの?」


「っ……!!」


脇腹に鈍い刺激を受け、痛みに眉を寄せる。


「昔からツメが甘いのよ。いつもいつも、私に勝てた事なんか無かったわよね」


絶え間なく与えられる鈍い痛みに、コウはカッとなって怒鳴った。


「調子に乗るんじゃねぇ!!」


何の事かわからない状態で好き放題に言われ、黙っていられる筈がない。


ぐっと唇を噛むと、いけない事だと思いつつも力任せに深雪の体を突き飛ばした。


「!?」


バランスを崩した所を狙い、右手を掴み、床に捩じ伏せる。


それは夫婦喧嘩と言うよりも、優勢を取った人間と取られた人間の在り方だ。


「痛い……っ!」


この生意気な奴をどうしてやろうかと考えた時、苦し気な表情で悲鳴を上げる妻を見てハッと我に返る。思わず手を放してしまった。


「あ、ごめんっ………!」


「ばァか!だから甘いんだよ!」


力が緩めた隙をつき、再び深雪はコウの腕をねじ上げて壁に押し付けた。


「テメェっ……き、汚いぞ!」


すっかり忘れていた。深雪はあんな事で悲鳴を上げたりする女じゃないという事を。


「馴れ馴れしく呼ばないでよ。この、裏切り者が!」


顔は見えないが、僅かに今、声が震えているように聞こえた。


そう言えば先から、何故『裏切り者』という言葉を連呼しているのか。


しかしどんなに考えてもわからない。


「だから、俺が何を裏切ったんだよ!?」


「あぁそう……。まだそんな事言うのね」


深雪は目を細めて笑うと、おもむろに真横の壁に叩き付けた。


なんとか首を動かし、それを見る。


「これをあなたの別宅の、寝室で見つけたわ」


手をよけると、そこにはダイヤのピアスが刺さっていた。


しかしまだわからず、眉を寄せる。


「な、なにそれ……」


「何?それはこっちが聞きたい事よ。寝室の床にこれが落ちてたの。私はピアスは空けてない。一体誰のよ、このっ……浮気者!」


どうやら彼女は、これを見て先から『裏切り者』とキレているらしい。


一通り怒鳴り終えると、息を切らせて力を抜き、目を潤ませた。


「私しかいないって言ってたのに。嘘吐き!!私はずっと……ずっとあなたしかいないのに!!なのにっ……!」


「深雪……」


切な気な顔で手を伸ばし、そっと肩に触れる。


「もう二度と私に触るな!」


叫び、手を払い除けられる。


口調がコロコロと変わるのは混乱しているせいだろう。


戸惑い、ピアスに視線をやる。


その瞬間、ある事を思い出した。


「そのピアス。まさかあの時の……」


「!?」


思わず浮気を肯定する意味合いの言葉を漏らしてしまった。


とたんに深雪は不敵な笑みを浮かべる。


「やっぱり……やっぱりね」


腕を伸ばしてテーブルに置いてあるタバコに火をつける。


それが何を意味するのか気付いたコウは、さっと顔色を変えた。


「ま、待て!早まるな!違うッ」


顔を真っ青にしながら必死に弁解する。


「この期に及んで何が違うのよ」


先端が赤く焼けているタバコを手にしながら、ジリジリと歩み寄って来る。


壁に追い詰められたコウを見て、楽し気な笑みを浮かべると、腕を振り上げた。


「絶対に許さない。今回もあなたの負けよ。落とし前はつけて貰うわ。歯を食いしばれ!」


「違う!浮気じゃない!話を聞けッッ」


無理矢理手からタバコを奪い取り、コーヒーの入ったカップに突っ込む。


しかし深雪は諦めなかった。


「往生際が悪いわね!大人しくやられろ!」


「いい加減にしろっ」


カッとなり、思い切り頬を殴ってしまった。


しかもグーで。


鈍い音が響き、深雪はその場に倒れる。


「浮気なんかしてないって言ってんだろ!?そんなに俺が信じられないのか!?」


「っ……」


深雪は殴られた頬を押さえながら、じっとこちらを睨み付けている。


「信じてたわよ……今までずっと信じてた。あなたにはわからないのよ。あのピアスを友達に見つけられて、自分のふりをした私の気持ちも、何もわからないのよ!」


一気にまくし立てると、涙を流して泣き出してしまった。


「な、泣くなよ……」


男は涙に弱い。また深雪の作戦の可能性はある。


しかし放っておく事などできない。


「ごめん……泣かないで。ちゃんと説明するから」


「説明なんか聞きたくない!」


「だから俺は浮気なんかしてしてないんだって!と、取り敢えず泣き止んでくれよ……」


肩を抱いて立ち上がらせ、ソファーに座らせる。


しばらく深雪は嗚咽を漏らし、泣きっぱなしだった。


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