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「ただいま」
室内に声をかけてドアを閉める。
いつもなら深雪が真っ先に駆け付けて来るのだが、今日は気配すらない。
「深雪?」
不思議に思い、声をかける。
玄関に靴はある。外出しているわけではなさそうだ。
「もう寝てるのかな」
きっと今日は、色々と気疲れもしただろう。
上着を脱ぎながらリビングのドアを開ける。
中を見た瞬間、ピタリと足を止めた。
「お帰りなさい」
「た、ただいま……」
そこには怖い顔をした深雪が、腕組みをしてソファーに座っていた。
その様子は、誰がどう見ても怒っている。
「どうしたんだ?何かあった?」
あまりの威圧感に、退け腰になる。
「話があるの」
人差し指を曲げて近づくように指示され、恐る恐る歩み寄る。
一体何をされるのか。と言うより、何故怒っているのか。
コウが歩み寄った瞬間、深雪は拳を握り、鳩尾に叩き込んだ。
「ぐっ……!」
目にも止まらぬ早業に、成す術もなく無防備な状態でボディブローを食らってしまう。
体をくの字にさせ、喘ぐ。
しかし深雪は容赦なく胸ぐらを掴むと、壁に体を叩き付け、喉元に右手の肘を当てがった。
「な、何を怒ってるんだよ!?」
このままでは喉を潰される。
しかし謝罪しようにも、全く何も思い付かない。
それを『シラをきっている』と判断したのか、深雪は鋭い表情で腕に力を込めた。
「何?何を怒っているのかって?本当にわからないの?」
発せられたのは、普段の彼女からは予想できない程に低い声だ。
コウは驚きと同時に『懐かしさ』を感じた。
「取り敢えず落ち着いて。何がなんだかさっぱりわからない」
コウはあくまでも自分をペースを保ち、ゆっくりと宥めるように言う。
「シラをきり通せると思っているの?」
ギリギリと肘を押し付けられ、命の危機を感じた。
なんとか技を解こうと、当てられている腕を掴む。
しかしビクともしない。
「裏切り者。絶対に、絶対に許さないわ」
「う、裏切り者!?何も裏切ってねぇだろ!何言ってんだよ!」
身に覚えのない理不尽な言葉に、つい素になってしまった。しかし構っていられない。
「あのまま隠し通す気だったの?」
「っ……!!」
脇腹に鈍い刺激を受け、痛みに眉を寄せる。
「昔からツメが甘いのよ。いつもいつも、私に勝てた事なんか無かったわよね」
絶え間なく与えられる鈍い痛みに、コウはカッとなって怒鳴った。
「調子に乗るんじゃねぇ!!」
何の事かわからない状態で好き放題に言われ、黙っていられる筈がない。
ぐっと唇を噛むと、いけない事だと思いつつも力任せに深雪の体を突き飛ばした。
「!?」
バランスを崩した所を狙い、右手を掴み、床に捩じ伏せる。
それは夫婦喧嘩と言うよりも、優勢を取った人間と取られた人間の在り方だ。
「痛い……っ!」
この生意気な奴をどうしてやろうかと考えた時、苦し気な表情で悲鳴を上げる妻を見てハッと我に返る。思わず手を放してしまった。
「あ、ごめんっ………!」
「ばァか!だから甘いんだよ!」
力が緩めた隙をつき、再び深雪はコウの腕をねじ上げて壁に押し付けた。
「テメェっ……き、汚いぞ!」
すっかり忘れていた。深雪はあんな事で悲鳴を上げたりする女じゃないという事を。
「馴れ馴れしく呼ばないでよ。この、裏切り者が!」
顔は見えないが、僅かに今、声が震えているように聞こえた。
そう言えば先から、何故『裏切り者』という言葉を連呼しているのか。
しかしどんなに考えてもわからない。
「だから、俺が何を裏切ったんだよ!?」
「あぁそう……。まだそんな事言うのね」
深雪は目を細めて笑うと、おもむろに真横の壁に叩き付けた。
なんとか首を動かし、それを見る。
「これをあなたの別宅の、寝室で見つけたわ」
手をよけると、そこにはダイヤのピアスが刺さっていた。
しかしまだわからず、眉を寄せる。
「な、なにそれ……」
「何?それはこっちが聞きたい事よ。寝室の床にこれが落ちてたの。私はピアスは空けてない。一体誰のよ、このっ……浮気者!」
どうやら彼女は、これを見て先から『裏切り者』とキレているらしい。
一通り怒鳴り終えると、息を切らせて力を抜き、目を潤ませた。
「私しかいないって言ってたのに。嘘吐き!!私はずっと……ずっとあなたしかいないのに!!なのにっ……!」
「深雪……」
切な気な顔で手を伸ばし、そっと肩に触れる。
「もう二度と私に触るな!」
叫び、手を払い除けられる。
口調がコロコロと変わるのは混乱しているせいだろう。
戸惑い、ピアスに視線をやる。
その瞬間、ある事を思い出した。
「そのピアス。まさかあの時の……」
「!?」
思わず浮気を肯定する意味合いの言葉を漏らしてしまった。
とたんに深雪は不敵な笑みを浮かべる。
「やっぱり……やっぱりね」
腕を伸ばしてテーブルに置いてあるタバコに火をつける。
それが何を意味するのか気付いたコウは、さっと顔色を変えた。
「ま、待て!早まるな!違うッ」
顔を真っ青にしながら必死に弁解する。
「この期に及んで何が違うのよ」
先端が赤く焼けているタバコを手にしながら、ジリジリと歩み寄って来る。
壁に追い詰められたコウを見て、楽し気な笑みを浮かべると、腕を振り上げた。
「絶対に許さない。今回もあなたの負けよ。落とし前はつけて貰うわ。歯を食いしばれ!」
「違う!浮気じゃない!話を聞けッッ」
無理矢理手からタバコを奪い取り、コーヒーの入ったカップに突っ込む。
しかし深雪は諦めなかった。
「往生際が悪いわね!大人しくやられろ!」
「いい加減にしろっ」
カッとなり、思い切り頬を殴ってしまった。
しかもグーで。
鈍い音が響き、深雪はその場に倒れる。
「浮気なんかしてないって言ってんだろ!?そんなに俺が信じられないのか!?」
「っ……」
深雪は殴られた頬を押さえながら、じっとこちらを睨み付けている。
「信じてたわよ……今までずっと信じてた。あなたにはわからないのよ。あのピアスを友達に見つけられて、自分のふりをした私の気持ちも、何もわからないのよ!」
一気にまくし立てると、涙を流して泣き出してしまった。
「な、泣くなよ……」
男は涙に弱い。また深雪の作戦の可能性はある。
しかし放っておく事などできない。
「ごめん……泣かないで。ちゃんと説明するから」
「説明なんか聞きたくない!」
「だから俺は浮気なんかしてしてないんだって!と、取り敢えず泣き止んでくれよ……」
肩を抱いて立ち上がらせ、ソファーに座らせる。
しばらく深雪は嗚咽を漏らし、泣きっぱなしだった。




