5
「ただいま」
午後11時。カラオケに行こうという誘いを丁重にお断りし、店からタクシーで真っ直ぐに帰宅した。
「おかえり。楽しかった?」
家には既にコウが帰宅しており、パソコンをしながら笑顔で出迎えてくれた。
深雪は思わず駆け寄り、ぎゅっと抱き着く。
「どうしたの?酔ってる?」
「あなたにお願いがあるの」
「なに?」
眼鏡を外し、額を合わせて微笑む。深雪は僅かに口ごもったが、意を決して言い放った。
「家から出て行って」
「え?」
何を言われたのか理解できないらしく、声を上げて固まる。
「あなたが家に居ると、困る事になるの。だから、出て行って」
「え?なんで?」
あからさまに動揺し、肩を掴んで深雪を見つめる。
「何で急にそんな事──まさか、昨日の事か?だからあれは怒ったんじゃないんだよ。電話で気が立ってて……だからついあんな言い方」
「だって、あなたが居たら困るのよ。だからお願い」
「だから、なんでだよ!今朝仲直りしただろ?それなのに急に出ていけなんて納得できるかよ」
「私だって、こんな事、お願いしたくないのよ」
「だったら──」
「でもあなたがいたら駄目なの。瑞穂さんや優さんにバレたら……私、あそこにいられなくなっちゃうわ。だからお願い……。休日出勤して」
「は?休日出勤?」
なぜそこで休日出勤なのか。
話が噛み合っていない事に気付き、恐る恐る深雪を見る。
「やっぱり、かなり酔っ払ってる?」
「そうね。でもこれは本当にお願いしてるの。1回だけでいいから、来週の土曜日だけは家にいないで」
「来週の土曜日?」
「そう。土曜日は会社が休みでしょう?だから、休日出勤して欲しいのよ」
「えーと、ちょっと話が見えない。取り敢えず水でも飲んで」
体を離すと、酔いを醒まさせる為に冷たい水を取りに行った。
「これ飲んで。それからもう一度説明して」
「うん」
グラスを受け取ると、喉を鳴らして一気に飲み干す。
「どう?マシになった?」
「多分」
「じゃあもう一度、初めからちゃんと説明してくれ」
コップをテーブルに置き、さっきよりは比較的ハキハキとした口調で話す。
「土曜日に、瑞穂さんと優さんがうちに遊びに来る事になったの。あなたが居たら、バレちゃうでしょう?だから、その日だけは休日出勤してほしいの」
「あぁ……なんだ、そういう意味か。別に良いよ。もともとその予定だっから」
「本当?良かった……ごめんなさい。断れなくて」
「別に構わないって」
安堵の溜め息を漏らし、ソファーに座り直す。そして軽く室内を見回すと、ぽつりとぼやいた。
「でもこのマンションはヤバイんじゃないかな。高いし」
「窓に近づかなきゃ平気よ」
「いや、その高さじゃなくて。見るからに高層マンションだろ。なんでこんな場所にって思われそうだし」
改めて言われ、気付いた。
確かに皆には、旦那はただのサラリーマンだと言ってある。
現にこのマンションの持ち主はコウの母方の祖父のもので、結婚祝いに貰ったものだ。
だがあの2人を自宅に招き、色々と探りを入れられるのは危険だ。
「どうしよう。約束しちゃったわ」
「そうだなぁ」
今さら断るわけにはいかない。
コウは眉を寄せて考え込む。すると、何か思い付いたように顔をあげた。
「そうだ。あっちのマンションなら安全じゃないか?」
「あっちのマンション?」
突然あっちと言われても、何も浮かばない。
一瞬、客室にしている部屋の事かと思った。
このフロアは全て義理の祖父の持ち物だ。
4つある内、3つは各自のプライベートルームと住宅として使用している。
あと1つは客室になっているが、仮にそちらに通しても何も解決しないのではないか。
しかし彼が考えている『あっち』とは、全く別の物だった。
「前、本駒込にマンション買っただろう?俺が会社の人間を招くのに使ってるやつ。深雪も何回も来た事あるよ」
「マンション……」
まだ酔いが残っているせいで、上手く頭が回らない。しかし段々と思い出してきた。
そう言えば3年前、2LDKのマンションを買っていた気がする。
家具の搬入に立ち会った時と数回何かの理由で泊まっただけで、詳しくは覚えていないのだが。
「あの、白いやつ?」
「そう。あそこなら2人でも適当な広さだし、賃貸っぽいし。深雪の私物はクローゼットにあるから、それを置いとけばわからないんじゃないか」
言われてみると確かに、着ない洋服や小物を運び込んだかもしれない。
やはりこれも記憶が曖昧なのだが、頻繁に出入りしているコウが言うなら間違いないだろう。
「そっか。そうね」
なんとか策を見出だせ、ほっと安堵した。
これで問題は解決だ。
「ありがとう。助かったわ」
「いや。もしバレたら、色々大変だからね」
さすがに会社を追い出される事はないだろうが、それでも居づらくなってしまうのは事実だ。
コウは深雪の肩を抱き寄せて頭を撫で、耳元で優しく囁く。
「友達ができて良かったな」
「うん。ありがとう」
深雪にとって、瑞穂達は初めて出来た友達だった。
そんな友達を、下らない理由で失いたくはない。
騙すのは忍びないが、同僚として、友人として付き合っていくには仕方ない事なのだ。