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「…………」
ふらふらとエレベーターから降り、秘書室に向かう。
柏木広太朗にキスをされた。
勢いよくドアを開け、室内に飛び込んでドアを閉める。
「なに、今のは?今のって……何をされたの?」
頭を抱え、繰り返す。
あれは確かに唇の感触だった。顔が近付いたと思った瞬間、柔らかなものが触れた。
「嘘でしょう?」
口元を抑えた時、ハッとする。
エレベーターには確か、防犯カメラがついていた筈だ。という事は、もしかしたら誰かに見られた可能性もある。
「どうしよう……」
完全にパニックになり、室内を行ったり来たりを繰り返す。
すると突然ドアが開けられる音がし、飛び上がる程驚いた。
「朝からうるさいぞ花子」
「しゃ、社長!」
秘書室から社長室へと通じるドアには、眉を寄せた近藤社長が立っていた。
まさか全て聞かれていたのか。みるみる顔色が失われる。
「随分遅いな。朝早く出たんじゃなかったのか?」
「え……?」
だが社長からその話に触れられる事はなかった。
どうやら聞かれていなかったらしい。
だが、今言われた言葉を理解したとたん、疑問を抱いた。
なぜ、早出の事を知っているのだろうか。
社長はニヤニヤ笑いながら腰に手を当てる。
「何をそんな顔をしている?今日は俺に言われて早朝出勤なんだろう?旦那にそう言ったんだよな?」
その時やっと気付いた。自分がいかにマヌケな嘘を吐いてしまったのかを。
「その顔を見ると、自分の嘘を忘れていたようだな。まぁだからこそ、すぐにバレる嘘を吐いたんだろうが」
「そ、それはその……」
「嘘を吐いてまで旦那と顔を合わせたくなかったのか?」
「ち、違います。ただ、私は新人だし、早めに出社して仕事を覚えようと思って。社長の名前を出したのは……なんて言うか、その方が現実味があるかと思いまして」
パニックになり、自分でも何を言っているのかわからない。
必死に身振り手振りで説明するが、社長は鼻で笑い飛ばした。
「まぁ、俺にはどうでもいい。せっかくだ。希望通り仕事を与えてやる。来い」
こんな事なら、下らない嘘を吐かなければ良かった。後悔するが、もう遅い。
「さっさ来い!」
「は、はい」
深雪は泣く泣く準備を整え、社長室に向かった。
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「何をすれば宜しいのでしょうか」
室内に入り、なるべく目を見ないようにしながら呟く。
そんな深雪の前に、社長はぶ厚い紙の束を置いた。
「これをページ順に並べてホチキスで止めろ」
「こんなに沢山ですか?」
積み上げられている束を見つめ、唖然とする。
これは数枚単位ではない。明らかに数百単位だ。
「当然だ。そこでやっていても構わない。ただし、始業時間までに終わらせろ。仕事が出来て嬉しいだろう」
「……はい」
力無く頷き、言われた通りにページ数を合わせてホチキス止めをしていく。
2人きりの空間に居る事で、更に気が滅入る。
しかも先から専務や常務等のお偉方が頻繁にドアをノックする為、全く落ち着けやしない。
「花子」
「はい」
ふと社長が口を開き、深雪を見る。
「お前、旦那と喧嘩をしたのか」
「喧嘩ではないです。ただちょっと、私が無神経な事をして怒らせてしまって」
「それで顔を合わせるのが気まずくて早出か。まるで子供だな」
「…………」
馬鹿にされているのはわかっていたが、返す言葉もない。黙って書類を整える。
「こんな言葉、本来なら俺が言うものじゃないがな。恐らくアイツは、お前が思う程気にしてはいないだろう」
「え……?」
手を止め、顔を上げる。
「本当ですか?」
「あぁ。疑うなら、後で電話してみろ。お前等夫婦が仲違いしていると仕事に影響を及ぼす。困るのは俺だからな」
「は、はい。ありがとうございます」
やっぱりコウは怒ってなんていない。
それを知り、安堵してホチキスを動かす。
効率が上がり、束はどんどん厚みを失っていった。
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「終わりました」
「もう戻れ」
「はい。失礼します」
1時間後。モチベーションが上がった為か効率があがり、あっという間に書類の束はなくなった。
頭を下げ、社長室を後にする。ドアを閉めると同時に、携帯を取り出してコウに電話をかけた。
『もしもし』
「あ、コウ!」
『どうかした?』
電話の奥で、笑みを含んだいつも通りの優しい声が聞こえた。
「今日、先に行ってごめんなさい。あと……昨日の事も」
いくら社長に気にしていないと聞かされたといっても、やはりちゃんと謝っておきたかった。
『もういいよ。そんなに気にしないで。俺の言い方も悪かったから』
「ううん。もう絶対に、携帯を見たりしないわ。約束する」
『だからいいって。別にそんな、すごい秘密ってわけでもなかったから。仕事頑張って』
「うん、ありがとう」
電話を切り、嬉々として席に着く。
その頃頭には、広太朗とのハプニングの事等全く残されていなかった。
「おはようございます」
ちょうどそこへ華江達が現れ、笑顔で挨拶を返す。
「おはようございます」
「あ、花子ちゃん!風邪治ったのね」
「はい、もうすっかり元気です」
「本当。なんかいつもより何倍も元気みたい」
今日は誰1人欠けることなく、全員が揃った。
始業時間になり、意気込んで仕事にとりかかる。
心の中のモヤモヤがなくなり、自分でもおかしいくらいに晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
「ねぇ花子ちゃん。今日みんなでご飯食べに行かない?」
給湯室でお茶を飲んで休んでいると、さゆりが現れてそう言った。
「ご飯って晩御飯ですか?」
もしかしたら昼食の事かもしれない。首を傾げながら問う。
「そう。ほら、まだうちの課では歓迎会してないじゃない?社長は来られないみたいなんだけど、上司はいない方が気兼ね無くできるし」
「そうですね」
確かにあの性格の社長とは、お酒の席では一緒になりたくない。
行きたいのは山々だが、コウに早く帰るからと言われてしまった手前、易々と了解はできない。
少し考えた後、直接聞いてみることにした。
「では、旦那に聞いてみますね」
携帯を取り出し、さゆりに背を向けてダイヤルする。
「あ、もしもし。今は休憩中なの。──うん。あのね、今日会社のみんなでご飯に行きたいのだけれど──勿論女の子だけよ。だから……え?そうなの?わかったわ。えぇ、なるべく早く帰るわね」
一通り会話を終えると、携帯をしまって振り向く。
「すみません、あの、あまり遅くまではいられないかもしれないですが、ぜひ」
「本当?良かったわ。じゃあ今晩は、楽しみましょうね」
ウインクをし、踵を返して戻って行く。
後ろ姿を見ながら、深雪は無意識に顔を綻ばせた。
(友達と食事なんて初めてだから楽しみだわ)
今までとある理由で、一度も同性の友人と出掛けた事がなかった。
そして、つい最近まではずっと家に隠って専業主婦をしていた為、機会を得る事もできなかったのだ。
やはり就職して良かった。今晩が楽しみだ。
嬉しさを噛みしめながら、手にしていた湯飲みを洗い、仕事へ戻って行った。