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翌朝、深雪はいつもより少し早めに起き、浮かない顔で朝食を作っていた。
コウを怒らせてしまった。
昨夜のことを思い出すと、ズキンと胸が痛む。
(電話なんか出なければ良かったわ……)
きっと信用を失ってしまったのだろう。
そう思うだけで悲しくなる。
加えてあの責める口調。
いつもは多少怒っても優しく話してくれていたのに、あの時は違った。
何年も怒鳴られた事がない為、それが怖くてたまらなかった。
(やっぱり駄目だわ。今日は顔を合わせられない)
テーブルに朝食を並べ、自分だけ先に軽く済ませてしまう。
しかし食欲がわかず、大半を残す羽目になってしまった。
仕方なく残りにラップをかけ、冷蔵庫にしまう。
その時ふと、寝室が気になった。
あいにくコウは、深雪が起こさなければ起きない。
時計を見て、少し早めに家を出る事に決めた。
メモにメッセージを残すと、タイマーをセットした目覚まし時計を耳元に置く。
あまり荒っぽい事はしたくないのだが、こうすれば嫌でも目覚めるだろう。
「……行ってきます」
呟くと、起きてしまわないうちに鞄を持ってマンションを後にした。
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暫くし、コウは目を覚ました。
今日は何故か、深雪に起こされる前に目が覚めたのだ。
「今何時だ?」
いつもならリビングからテレビの声が聞こえてくるはずだが、今日はしんと静まりかえっている。
不審に思い、周囲を見回す。
「深雪……?」
声をかけるが、返事はない。
(なんだ?いないのか?)
起き上がろうとした時、突然耳元でけたたましい音が鳴り、思わず飛び起きてしまった。
「なっ!なんだよ!?」
叫び、視線を落とす。
そこには目覚まし時計が震えながらベルを鳴らしていた。
「は?なんだ一体……」
何が何だかさっぱり分からない。
ベッドから降り、リビングへ向かう。
カーテンは開けられているが、人の気配はない。
ふと見ると、テーブルの上に冷めかけの朝食が並べられていた。
皿の下には、深雪の字で書かれた小さなメモが挟まれている。
『今日は社長に早朝出勤するように言われたので、早めに出ます』
読んだとたん、コウは眉を寄せた。
「社長に言われた……?何言ってるんだよ」
社長が早朝出勤を要求する事はあり得ない。
何故そんな嘘を吐くのか考え、はっと気付いて頭を抱えた。
「アレか……」
思い当たる節が有りすぎる。恐らく昨日の口論のせいだろう。
テーブルの上には自分のものと思われる朝食が並べられていた。
手をかざしてみると、まだほんのりと温かかった。
という事は、家を出てからあまり時間が経っていないということだ。
今からなら、まだ追い付けるかもしれない。
小さく舌打ちをし、急いで準備を済ませてマンションを出た。
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ホームにはまだ人は疎らだった。
あと数時間もすれば、いつもの出勤ラッシュにぶつかってしまう。
幸い2時間も早く出た為、人は数えられる程にしかいない。
深雪は線路を見ながら溜め息を吐き、列車の到着を待つ。
『3番ホームに列車が参ります。危険ですので、白線の内側に下がってお待ち下さい』
アナウンスが鳴り、線路の曲線の向こうから電車が姿を現した。
重い足取りで、目の前に停車した車両に乗り込む。
頭の中に女性専用車両の存在は無かった。
普通車両の座席に座り、流れる景色を見つめる。その表情は浮かない。
(逃げて来ちゃった……)
ケンカをしたわけではない。
しかしどうしても会いたくなかった。
その為、あからさまな嘘を吐いて出てきてしまったのだ。
(怒ってるかしら……)
目を伏せ、何度目かの溜め息をつく。
こんな時、夫婦は辛い。どんなに気まずい状況であろうとも、帰る場所は同じなのだから。
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「深雪?」
その時ふと名前を呼ばれて顔を上げる。
そこに立っていたのは、柊光佑だった。
挨拶を返そうと口を開きかけるが、ふと周囲が気になった。
少し離れた所に同僚を見つけ、視線を戻す。
「おはようございます。早いですね?」
「アンタこそ」
光佑は笑顔で言い、隣に腰を下ろす。
「今日は早朝出勤なんです。社長に仕事が遅いから、早く来るように言われたんで」
「へぇ、実はオレも。昨日休んだから、自主早朝出勤」
「そうなんですか……」
それきり黙りこくってしまい、気まずい雰囲気が漂う。
光佑はチラリと深雪の様子を窺い、呟いた。
「元気ないな。どうした?」
「ちょっと、ケンカみたいなのをしてしまって」
「旦那と?」
「は、はい」
誤魔化しても仕方ないだろうと思い、素直に頷く。
「へぇ。ま、結婚してりゃ色々あるわな」
光佑は目を細め、遠くを見る。
また静寂が戻った。無言のまま目的駅に着いてしまい、2人は立ち上がる。
「気にする事ないんじゃないか」
「え?」
改札を出た所で言われ、足を止める。
「夫婦喧嘩ってさ、自分が思ってる程深刻じゃなかったりすんだよな。寧ろ、そう思い込んだ気まずい反応のせいで悪化するパターンが多いんだ」
「そうなんですか?」
「そう」
にっこり笑うと、軽く肩を叩いて踵を返す。
「じゃ、オレちょっと用があるから。元気出せよ」
それだけ言うと、光佑は手を振って去って行った。
「は、はい。ありがとうございます」
背中に向かって声をかけると、深雪は微笑みながら出口に向かった。
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その足で会社には向かわず、コンビニに入る。
光佑の言葉で肩の荷が降り、お腹が空いてきた。
店内に入ると、迷わず弁当のコーナーに向かう。
そこに、見知った人が立っているのに気づく。
「新道さん」
何故ここに新道幸一がいるのか。
今はできるだけ関わりたくなかったが、名前を呼んでしまった手前、逃げるわけにもいかない。
「あぁ、アンタか。早いな」
「おはようございます。新道さんも早いですね」
「うん。まぁ、ちょっとな」
曖昧な笑みを浮かべると、幸一は手にしていた商品を棚に戻した。
「アンタはどうしたんだ?」
「いえ、ちょっと色々あって」
笑いながら誤魔化し、手早くサンドイッチを手にする。
「なんだよ。隠す事か?」
曖昧な物言いを不審に思ったのか、幸一は僅かに眉を寄せた。
「ち、違いますよ。別に何もありません」
慌てて言うが、誰が見ても隠し事をしているのが明らかだろう。
幸一は眉を寄せ、更に詰め寄ってくる。
「お前本っ当にリアクション下手だな。なんだよ吐けよ」
「本当になんでもないんです。下らないんです」
じりじりと一角に追いやられてしまう。あり得ない程に顔が間近に迫り、背けたくなった。
「ち、近いですって。なにもそんなに追及しなくてもいいじゃないですか」
「言わないからだろ。隠すから気になる」
まるで尋問されているような形に、ゴクリと生唾を飲む。
「じ、実は……旦那と喧嘩して」
「は?なに?」
「だから旦那と喧嘩したんです」
「喧嘩?」
それを聞くと、幸一は「なんだ」と呟いて離れていった。
「平和な悩みか」
「平和?平和じゃありません」
「旦那と喧嘩したなんて、平和だろ。俺はてっきり、セクハラとか、ストーカーとか、なんか深刻な悩みかと思った」
呟き、頬を掻く。
「まさか。セクハラとか、ストーカーだなんて縁がありませんから」
女としては幸か不幸かわからないが、今までそんな経験は皆無だ。
「そうか、だよな。向こうにも好みはあるしな」
「そうですね……」
さり気無く言われ、引き吊った笑みを浮かべる。
確かにそうだが、その肯定のされ方は、なんとなく釈然としない。
「ま、とにかくただの痴話喧嘩ならいいや。喧嘩する程仲が良いんだから気にすんな。離婚はしないように頑張れよ」
笑い、バシバシと深雪の背中を叩く。
「あ、ありがとうございます。離婚なんて縁起でもない」
なんだか幸一と話したら、一気にバカらしくなってきた。
軽く頭を下げ、手にしていたサンドイッチを持ってレジに向かう。
あまり食欲はなかったが、お陰さまで朝ごはんを食べる気力だけは戻ってきた気がした。