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「はぁ……」
夕食を終え、先に風呂に入った深雪は、熱い湯船に身を沈めて息を吐き出した。
思い切り両手両足を伸ばすと、ぼんやりしながら天井を見上げた。
(やっぱり、瑞穂さんにメールしてみようかしら)
罪悪感は勿論だが、せっかくできた同僚だ。1日1回は職場の人と会話をしておきたい。
素早く事を済ませ、浴室を出る。
「お前何回目だと思ってんだ!?」
髪を拭きながら戻る途中、リビングから怒鳴り声が聞こえ、思わず足を止める。
「3回じゃねえよ、5回だ!ついでに10年も一緒に居ながら、俺の性格も分からねぇのか!」
そっとドアを開け、中の様子を伺う。
どうやら、電話で誰かと口論をしているらしい。
出て行けない雰囲気だと悟り、そのまま耳を傾ける。
「出世払いじゃねぇよ。そういう問題じゃないだろうが!もう良い。明日直接話す!」
コウは怒りを込めた声で言うと、終話したらしく、携帯をソファーに放り投げていた。
「ったく……」
軽く舌打ちをし、忌々しそうに前髪をかきあげた。
なんだか妙にイライラしている。
相手は誰なのかはわからないが、こんな時は関わらない方が良さそうだ。
気付かれない様に、そっとドアを閉めたかけた時だった。
「深雪」
あともう少しという所で名前を呼ばれ、ドキリとする。
「そこにいるんだろ。なんで逃げるんだよ」
「逃げたわけじゃないわ」
閉めかけていたドアを開け、恐る恐る顔を出す。
コウはソファーに凭れながらこちらを睨み、軽く手招きをした。
仕方無く室内に入り、隣に座る。
「何かあったの?」
「別に」
コウは目を伏せながら呟くと、こちらに凭れて肩に頭を乗せた。
「意見の不一致というか。まぁ、些細な事なんだ」
「きっと、仲直りできるわ」
相手の事も仕事内容もわからない為、それ以上上手い言葉が見つからなかった。だが、あの口調から、相手は職場関係ではないような気がしたのだ。
「仲直りって、子供の喧嘩じゃないんだよ」
「でも喧嘩なんでしょう?10年も一緒にいる人なんだから、きっと分かってくれるわよ」
そう言った瞬間、コウは頭を上げて目を丸くした。
「誰の事か知ってるの?」
「え?」
驚いた顔をされ、深雪もつられて驚愕の表情を浮かべる。
「誰かはわからないけれど、電話でそう言ってたじゃない。10年も一緒にいるって」
するとコウはハッとしたようだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「あ、あぁ……うん。そうだね」
「なに?どうかしたの?」
リアクションに違和感を感じた。
何か隠している。
直感でそう思った。
「いや、なんでもない。俺も風呂入るよ」
深雪の視線から逃げるように立ち上がると、そそくさとリビングを去って行ってしまった。
やっぱり、様子がおかしい。
そう思ったが、これ以上刺激をしてさらに不機嫌にするわけにはいかず、追及するのは止めた。
ソファーに座ると、早速瑞穂にメールをする。
「今日は突然休んでごめんなさい。もうすっかり良くなったので、明日は出社します……と」
素早く片手で文章を作り、送信する。
意外にもすぐに返事がきた。
『良かった。治ったんだね!実は今日、社長や他の課の人も沢山休んでたみたい。社長がいなかったおかげで、のんびりできたんだけどね』
内容を読み、深雪は苦笑いを浮かべる。
(その中にコウもいるのよね。しかもズル休みで)
しかしそんな事は送れない。
当たり障りのない内容を返すと、息を吐いて天井を見る。
浴室からはシャワーを使っている音が聞こえる。
ぼんやりしながら目を閉じていると、どこからかバイブレータの音が聞こえてきた。
「私の……じゃないわね」
辺りを見回すと、クッションの影にコウの携帯が投げ捨てられているのを見つけた。
サブディスプレイには『着信中』の文字が。
「誰かしら」
何となく気になり、手を伸ばす。
どうやらロックはかかっていなかったらしく、画面には『K』とだけ表示されていた。
「K?」
会社の人間なら、こんな略し方はしないはずだ。
相手は先ほど電話で口論をしていた人ではないか。
女の勘でそう感じ、良くないと思いつつも通話ボタンを押して耳に当てる。
『あ、コウ!さっきの話だけど、あれは──』
相手は男の声だった。
一瞬女の声を想像していた為、ほっと安堵する。
『──だからあれは違うんだよ。そういう意味じゃないんだって!』
深雪が考えている間にも、男は慌てた様子で話し続けている。
その時ふと、この声はどこかで聞いた事がある様な気がした。
しかし誰か思い出せず、考え込む。
相手は暫く一方的に話していたのだか、応答が無いのを疑問に思ったのか、少し間を開けた。
『もしもし?聞いてんのか?』
「コウは今──」
そう呟いた時だった。
「何してんだ!?」
勢い良くドアが開けられ、怖い顔をしたコウが歩み寄って来た。
驚いている深雪から携帯を奪うと、耳に当てる。
「またお前か!今のは俺じゃねぇよバカ!!明日話すっつったろ!今日はもうかけてくんな!!」
怒鳴り付けると、電源を切って深雪を見下ろす。
「今の奴と会話したのか?」
いつもとは違う口調で聞かれ、申し訳なさそうに目を伏せる。
「話してないわ……」
「コイツが言ってる事、聞いたのか」
「よく覚えていない」
そう言うと、コウは「勝手に出んなよな」と呟いて溜め息を吐く。
「ずっと鳴っていたから、誰かと思って……。ごめんなさい。盗み聞きをするつもりはなかったの」
結婚してから、こんな風に叱られた事はない。
必死に謝りながら、目には涙が溜まっていく。
それを見て我に返ったのか、コウは慌てて深雪を抱き寄せた。
「ごめん……怒ったりして。だけど、この携帯は仕事用で会社の奴もかけてくるんだ。深雪にでも聞かれたら困る内容のもあるし。社外秘のものだってあるんだよ」
「……わかったわ。ごめんなさい」
胸元にしがみつき、涙を流しながら謝る。
なんだか無性に怖かった。
「いや、もういいんだ。俺の言い方が悪かったから。ごめんな」
いつの間にかいつもの口調に戻り、優しく背中を撫でられる。
それでも何故か、泣き止む事ができなかった。