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「おはようございます!ごめんなさい!遅刻しちゃいました!──ってあれ?」
猛ダッシュで出勤してきた瑞穂は、人数の少ない室内を見回して目を丸くする。
普段なら全員揃っている筈なのに、何故か2人しかいない。
「なんで艶子さんと長女さんだけ?」
花子ちゃんとキャリアさんは?と首を傾げ、椅子に座る。
「2人は風邪でお休み。しかも社長もよ。さっきメールが来ていたわ。なんか話では、他の課にも多いみたい。インフルエンザかしらね」
さゆりはため息を吐き、頬杖をつく。
「へー。集団風邪ですかね。社長もだなんて珍しい」
あの人は何がなんでも出社して来そうなのに、とぼやく。
「どうせ女の所に入り浸ってるとかじゃないの。社長、かなり遊んでるらしいわよ」
呟き、チラリと無人の社長室に視線をやる。
「でもまだ若いのに社長ですもんねぇ。お金はあるし、あれで性格が良ければ結婚したいんだけどなぁ」
「そうだ。結婚って言えば、さっき深雪ちゃんの旦那さんと話したよ」
「え!?本当ですか!」
優の言葉に、瑞穂は身を乗り出す。
「うん。花子ちゃんが寝込んでるから、代わりに電話してきた」
「へぇ。どんな人でした!?」
「どんな人って言われてもねぇ……」
予想以上の食い付きに、優は苦笑いを浮かべる。
「優しそうな人だったよ。『入社早々で申し訳ないんですが、お休みを頂きます』って。あの感じは営業マンかな?」
「へぇ。なんか丁寧な人ですねぇ。じゃあ今頃、旦那さんも会社休んで看病してるのかなぁ」
一人暮らしで恋人がいない瑞穂には、何もかもが羨ましい。
うっとりと目を閉じ、浸っている。
「バカねぇ。さすがに看病で会社休んだりなんかしないでしょう?」
今までネイルを塗っていたさゆりが、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「そうなんですか?冷たいなぁ」
「冷たいとかっていう問題じゃなくて。風邪で具合悪い時に、彼氏が側にいても嫌じゃない」
「先輩の場所は『彼氏』だからですよ。旦那さんは毎日一緒にいるんだから。それに私なら、具合悪い時は誰かに看病してもらいたいなぁ」
「ふぅん」
さゆりは興味がないのか、適当な返事をしてネイルに息を吹き掛ける。
「そう言えば」
その時ふと思い出した様に、優は眉を寄せて声を潜めた。
「その、花子ちゃんの旦那さん。どっかで聞いたような声だったんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。誰かはわからないけど。もしかしたら旦那さんって、うちの会社なんじゃない?」
「えぇ!?それって誰ですか!」
「いや、わかんないって。憶測なんだから。でも気になるよね。ちょっと調べてみようか」
好都合な事に今日はあまり仕事がない。
加えて口うるさい社長も華江も不在だ。
「調べてみましょうよ!」
「他人のプライバシーに首を突っ込むのはどうかと思うけど。知ってる人だったら、面白いわね」
こうして満場一致で、深雪の旦那探しが始まった。
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その頃深雪は、会社でそんな事が起こっているとは知らず、相変わらずベッドで眠り込んでいた。
「ん……?」
しかし何故か目が覚め、小さく欠伸をする。
「もう朝……あれ?」
いつの間にか横には、ソファーにいた筈のコウの姿があり、下着姿で寝息を立てている。
(いつの間にきたのかしら。今、何時──)
遅い時間に眠った筈だが、頭は妙にスッキリしている。
腕の中から逃れると、目覚まし時計に手を伸ばした。
「えぇ!?」
時刻を見た瞬間、悲鳴を上げて固まる。
遅くとも7時には起きなければならない。
目覚ましも毎日6時にセットしている。
なのに今は、出勤時間をゆうに超えた11時だったのだ。
「嘘でしょう?どうしてこんな……。た、大変だわ。起きてっ」
隣で呑気な顔で寝ている旦那の体を揺する。
「起きてってば。遅刻よ。遅刻なんてものじゃないわ。大遅刻なのよ!」
入社早々、無断で大遅刻をするなんて、もしかしたらクビになってしまうかもしれない。
だがコウは、全く起きる気配を見せない。
「もう!知らないわよ!クビになったって!!」
自分には、朝ごはんの支度やら身仕度やらで時間がかかる。
取り敢えず旦那は放って置こうと、ベッドから降りようとする。
しかし後方に腕を引かれ、振り向いた。
「朝っぱらから騒ぐなよ。二日酔いなんだ」
「朝っぱらじゃないわ。もう昼間なのよ。11時っ」
「11時?──なんだ、まだ11時じゃん」
深雪の焦りをよそに、呑気にぼやいてまた眠りだす。
「おい、なんでまた寝ようとしてんの?11時って言っても、夜中じゃなくて昼間よ!」
パニックと苛立ちで多少口調が荒くなってしまったが、気にしていられない。
「あぁ、もう!とにかく手を離して!」
呑気すぎる旦那に苛立ちがつのり、捕まれている右手を振り払う。
「大丈夫大丈夫。今日は俺もお前も風邪で欠勤。さっき電話しといたから」
「え!?」
意味がわからず、目を丸くする。
「たまにはいいだろ。揃って休みなんて、滅多にないんだから。秘書課の……近藤さんに電話して伝えた」
「近藤って誰なの?」
秘書課には近藤はたくさんいる。と言うか、近藤しかいない。
「名前……忘れた。ほら、しっかりした感じの、長女」
「優さん?」
「そう」
いつの間に電話したのだろうか。
携帯を見てみると、そこには優からゆっくり休んでといった内容のメールが届いていた。
「どうして勝手な事をするのよ……」
しかし、休むと言ってしまった手前、出勤するわけにもいかない。
渋々ベッドに戻り、コウを睨む。
「まぁ、いいじゃん。あの時点で9時で遅刻確定だったし。俺も休んだからさ、久しぶりにゆっくりしよう」
満面の笑みで抱き締められ、深い溜め息を吐く。
「そうやってサボって、クビになっても知らないわよ」
「俺がクビになんかなるわけないだろ」
色々と言いたい事も、腑に落ちない事もたくさんある。
しかしこうなってしまった以上は仕方ないと観念し、再び目を閉じた。
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「じゃあまずは、今日休んでる社員の中から探してみましょうか」
職場では、秘書課の仲間達が着々と捜査を進めていた。
「今日は休んでいる社員が多かったから、大変だったわ」
どこから仕入れたのか、さゆりが満面の笑みで社内の欠勤者が書かれた用紙を取り出す。
「今日の休みは……総務課は柏木さんと林さん。営業課は滝村さんに、井上さんに、黒山さん。広告課は新道さん、皆村さん。庶務課は岸部さん。人事部の柊さん。あと事務の愛内さん。そして社長です」
瑞穂が読み上げると、目で追っていた優は溜め息を吐く。
「また随分とたくさんいるんだね」
「取り敢えず候補を絞らなきゃね。確か『コウ』って呼んでるって言ってましたよ」
「じゃあ名前に『コウ』がつく人って事じゃない?案外簡単だったわね」
さゆりは1人1人名前を確認していく。
そして最終的なリストに上がったのは、下記の3人だった。
1・総務課 柏木広太郎
2・広告課 新道幸一
3・人事部 柊光佑
彼らは皆、若くして管理職になった実力派であり、名前に『こう』が入っている。
その時ふと瑞穂は、あることに気付いて眉を寄せながら首を傾げた。
「そういえば社長って名前なんでしたっけ?」
一応リストには入っているので、拾ってみたようだ。
「そういえば、社長の名前って聞いたことないね」
「ちょっと確認してきます」
今日休んでいる人、という可能性がある限り、除外する事はできない。
瑞穂はそっと無人の社長室に浸入すると、デスクにあるネームプレートを確認して戻ってくる。
「近藤公一って書いてました!よりよって元彼と同じ名前なんて」
「なるほどね。じゃあ社長の線はなしだね」
優は興味なさそうに赤ペンを取り出し、社長に線を引く。
「候補はこの3人ってわけね。花子ちゃんは別姓にしてるみたいだから苗字じゃわからないし」
「結婚の有無もわからないし」
「もう終わり?」
呟き、顔を見合わせる。
果たしてこの3人の内にいるかも定かではないのだが、ここまで順調だったにも関わらず、肝心な所で行き詰まってしまった。室内に微妙な空気が流れる。
「ま、まぁとにかく、3人まで絞れたんだから良しとしましょうよ!後は花子ちゃん本人に確認してみるとか!」
なんとか雰囲気を良くしようと、瑞穂は必死に明るい声で言う。
しかし2人の表情は相変わらず浮かない。
「確認できないから調べてるんじゃない。聞いてもきっと、上手くはぐらかされるだけだわ」
「そうかもね。ならこっちは、もっと上手くやらなきゃいけないってわけだ」
正直、深雪の旦那が誰にせよ、3人には関係の無い事だ。
しかし秘密にされると、探りたくなるのが人間の性分だ。
気持ち新たに顔を見合わせると、深く頷き合う。
「そうですよね!聞いて駄目なら探し出すしかない!花子ちゃんが出勤してきたら、上手く聞き出してみましょう!」
「そうね。私も協力するわ」
「私も。やっぱ気になるしね」
こうして一致団結した3人は、各々の職務へと戻って行った。