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「さぁて、仕事終わり!」
5時になり、瑞穂は大きく伸びをして立ち上がる。
この会社は始業時間にはうるさいが、終業時間についてもきっちりと守られているのが長所だ。
勿論決算時など、多忙な時期は残業を頼まれる事が多い。
その代わり、そうでない時期は滅多に残業がない。
だからこそ、深雪はこの会社を選んだのだ。
「陽子は昼と帰りは一段と元気ね」
笑みを浮かべ、さゆりも着替える為にロッカーへ向かう。
「それは勿論。ご飯と遊びが一番の楽しみですからね。じゃあお疲れ様でした!」
素早くジャケットを羽織ると、鞄を持って出て行く。確か今日は、合コンだと張り切っていた。
「はぁ。あの子みたいに気楽でいられたら、毎日楽しそうよね。私もお先に失礼します」
溜め息をつきつつ、さゆりも後に続く。
そして、終業時間から30分もしないうちに、室内は深雪と華江、それに優の3人だけになっていた。
真剣な眼差しでパソコンを見つめていた深雪は、ファイルを保存して声を上げる。
「私も終わりました!」
「今日もみんな定時で上がれそうね。じゃあ社長に言って来るわ」
いつの間にか帰る準備をしていた華江が、鞄を肩にかけたまま社長室のドアをノックする。
「失礼致します。社長、私達帰宅しますが、急ぎの仕事等はございませんか?……あ、はい。わかりました。はい、ではお先に失礼致します」
パタンと戸を閉め、2人に振り返る。
「特に急ぎの仕事もない様だわ」
「良かった。行くよ、花子」
「はい」
急いで課を出ると、優と華江も後に続く。
「一緒に駅まで行こうか。あんたはこれから買い物?旦那に夕飯作らなきゃならないんでしょ?」
「はい。何時に帰って来るか、わからないんですけどね」
駅に向かって歩きながら、苦笑いを浮かべる。
「へぇ。毎日夕飯考えるのって難しそう。ちなみに今晩は?」
「まだ決めてません。でも、旦那は和食が好きだから、迷った時は魚とかにしています」
「魚かぁ。いいね、それ。私も今日は魚にしようかな」
そんな他愛もない会話をしつつ、駅前に向かう。
「じゃあ私はこっちだから。また明日ね」
「はい。お疲れ様でした」
手を振って見送ると、定期を手にして改札を通る。
「さて。これから帰宅ラッシュね」
今度こそ絶対に女性専用車両に乗ろう。
ホームに並びながら、そう意気込んだ。
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「お帰りなさいませ」
「ただいま」
マンションの玄関前にいるガードマンに挨拶を返してエレベーターに乗り込む。
ボタン下にある電子盤に暗証番号を入力し、40のボタンを押す。
最上階は深雪達夫婦しか住んでいない為、ロックがかけられているのだ。
エレベーターは一気に40階に上がり、電子音と共にドアが開く。
「今日は何時になるか聞いてみなきゃ」
自室で私服に着替えると、リビングの電気をつけて携帯を取り出すと、ショートカットダイヤルからコウに電話をかけた。ちょうど休憩中だったのか、それとも単に気付いただけなのか。数回のコールですぐに電話に出た。
『もしもし』
「今日は何時に帰って来るの?」
『そうだなぁ……』
呟いた後、少し間が空いた。
『多分8時くらいだと思う。あと少しで終わるから、急な仕事が入らなきゃだけど』
受話器の向こうから、含み笑いの声が聞こえる。どうやら今は、周りに人はいないらしい。
「8時ね。わかったわ。遅れそうなら電話して」
『わかった』
電話を切り、時計に視線をやる。まだ短針は6を指したままだ。
「今から作っても冷めちゃうわね」
自分の我が儘で共働きになってしまったのだ。
せめて夕食だけは、出来立てを食べさせてあげたい。
帰り際にスーパーで買ってきた食品を冷蔵庫にしまうと、ソファーに座ってテレビをつけた。
仕事を初めてからというもの、めっきりテレビを見る時間が減ってしまった。
以前は、ひどい時は1日中テレビをつけっぱなしにしており、朝のニュースから夜のドラマまで釘付けだったのに。
あの時はそれを楽しいと思っており、悲惨なニュースに怒りも覚えたし、ありきたりな男女の恋愛ドラマにドキドキもした。
だが、今思えばあれは、他に楽しみがなかったからだ。
今は社会に出て、たくさんの人と触れあっている。
ドラマでしか見たことのない、オフィスでの仕事風景。今の自分はその一部に溶け込めている。
そう思った瞬間、テレビの中の物語が一気に退屈なものに思えた。
(これ、確か前に夢中になっていたドラマ……。まだ、終わっていなかったのね)
ぼんやりと、画面の向こう側の世界を眺める。
そして気付けば、そのままソファーに背を預け、眠りに就いていた。
少しし、遠くから電話の音が聞こえている様な気がして目を開ける。
「あ、あら?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
意識がはっきりしてくると同時に、すぐ近くで電話が鳴っているのに気付いた。
携帯電話ではない。自宅の固定電話だ。慌ててサイドボードに置いてある子機を取ると、耳に当てる。
「はい、もしもし」
『あれ。家に居たんだ』
それはコウからの電話だった。
「ずっと家に居たけれど……。どうしたの?こっちに電話してくるだなんて」
何故携帯ではなく、家の電話にかけたのか。首を傾げ、問いかける。
『風呂にでも入ってた?携帯にかけても出ないから、心配した』
「え?あ、ごめんなさい」
話ながら、テーブルに置いたままの携帯を見る。
バイブレータにしていた為に気付かず、着信が10件も入っていた。
『もう夕飯作った?』
「え!?え、えぇ。大体は」
時計を見ると、既に7時半を過ぎていた。
まさか寝ていたとは言えず、思わず嘘を吐いてしまう。
『実は、取引先の人と食事をすることになった。だから、もう少し遅くなるよ』
「あら、そうなの」
口調は残念そうに、しかし心の中では良かったと思い、息を吐く。
『なるべく早く帰るよ。夕飯はそのまま置いといて。夜食に食べる』
「わかったわ」
電話を切ると、伸びをして立ち上がる。
慣れない仕事で疲れていたのだろうか。テレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまった。
「良かった。まさか寝ていたなんて言えないわ」
どのくらい遅くなるのかはわからないが、今から作れば間に合う。
正直、1人ならば出前でも取って簡単に済ませてしまい所だが、夜食に食べると言われた手前、何も作らないわけにもいかない。
「取り敢えず、作っておかなくちゃ」
ソファーの背もたれにかけたエプロンを身に付けると、キッチンに立った。