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「何かしら、あの人」
廊下を歩きながら、小さな溜め息を吐く。
どうやら柏木は、頭に血が上っていたり、興奮やパニックに陥ると、我を忘れてしまうタイプらしい。
財布を紛失してしまって焦っていたのはわかる。
しかし開口一番に出たのが、疑いの言葉だったなんて。
意識的であっても無意識であっても、自分の感情をコントロールできない人なのだろう。
「コーヒーだけ飲んだら戻ろう」
ラウンジに行き、自販機で微糖のエスプレッソを購入する。
ぼんやりと景色を見つめながら、紙コップに口をつけた。
「あ。深雪」
後ろから名前を呼ばれ、振り向く。
そこには入社初日にお世話になった、新道幸一が立っていた。
「こんにちは」
微笑み、頭を下げる。
「なに?お前もサボりか?」
幸一は自販機のボタンを押すと、出てきた紙コップを持って隣に立つ。
「サボりじゃありません。休憩中です」
「ふぅん。秘書ってのも結構大変そうだよな。俺なんかには絶対に無理」
呟くと、背広の内ポケットから煙草を出し、火をつける。
「大変と言うか……今はまだ、仕事を覚えるのに手一杯で、業務自体の感想を言える余裕なんてありません」
慣れれば違うのだろうが、今の深雪にはそれすらもわからない。
苦笑いを浮かべると、幸一もつられて笑う。
「そりゃまぁ、入社したての頃はみんなそうだろ。深雪だけじゃないよ」
「……はぁ」
励ましてくれるのはとても嬉しい。だが、ある言葉が引っ掛かってならない。
「そう言えばさ、旦那ってどんな人なんだ?」
「え?随分突然ですね」
何故この流れで旦那の話が出るのだろうか。
更に引っ掛かりを感じたが、雑談の雰囲気を壊すのも躊躇われた。
「どんな人って聞かれても。普通ですよ、多分。普通の会社員です」
「普通ねぇ」
意味有り気に言うと、幸一は湯気の立つ紙コップを傾けた。
よく見ると、中身はホットミルクだった。
「次、他の人に同じ事を聞かれたら、普通はやめた方がいいと思うよ。好きな女に普通って言われるなんて、男にとったら大問題だからね」
「そうなんですか?」
今までずっと『普通』と言い続けてきた深雪は、ピクリと反応する。
まさか、気を悪くする言葉なんて、思ってもみなかった。
「なんて言うかさ、男も女も、やっぱり好きな奴の中だけでは、特別で在りたいだろ。俺も経験あるけど、人伝に『普通』って言ってたなんて聞いたら、結構傷つくんだよなぁ」
「そ、そうなんですか。知らなかったわ」
それが一般論だとすれば、今後は気を付けなければならない。
いつまたこんな話になり、コウの耳に入るかわからないのだから。
「じゃあなんて言えばいいんですかね。凄く優しいですよ。滅多に怒ったりはしませんし。その代わり、少し嫉妬深いかもしれませんね」
「嫉妬深い?そうなんだ?」
「はい。少し、ですけど」
「へぇ。じゃあやっぱりアンタの言う通り、普通の人なんだな。男はみんな、少し嫉妬深いから」
「そうですか……」
自分の意見を肯定されているのに、なんだか複雑な気分になる。
冷めかかったコーヒーを飲み干すと、空になったコップをゴミ箱に捨てる。
「あ、私そろそろ戻りますね。新道さん、頑張って下さい」
「あぁ、深雪も」
「はい」
軽く頭を下げ、階段の踊り場に向かう。何か考え事をするには、階段が一番だ。
その間、深雪は先程の引っ掛かりを考えていた。
「どうして呼び捨てなのかしら」
細かい事だと思いつつも、やはり複雑な気分にならざるを得なかった。