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「おはようございます」


秘書室に入ると、そこには既に華江とさゆりが出社しており、コーヒーを片手に寛いでいた。


こちらに気付くと、コーヒーカップから上がる湯気の奥で、優雅な笑みを浮かべる。


「おはよう花子ちゃん」


「おはようございます」


やはり『花子』と呼ばれるのは慣れない。が、これが会社……いや、社長の意向ならば仕方がない。会釈しながらコートを脱いでロッカーにかける。


デスクに着こうと振り向いた所へ、好奇心に満ち溢れた目をしたさゆりが駆け寄って来た。


「そうだわ。聞いたわよ。今朝は柊さんと仲良く出社したんですって?」


「えっ……」


つい数分前までの事を、何故、彼女が知っているのか。ピタリと動きが止まり、笑顔が引きつった。


「仲良くというわけじゃ。ただ、電車で偶然会ったんです」


「でも私は、満員電車の中で抱き合ってたって聞いたけど?」


給湯室からカップを手にした瑞穂が現れ、言葉に詰まる。


恐らくあの中に、社の人間が乗り合わせていたのだろう。


どう説明すれば良いかわからず、シドロモドロする。


勿論、疚しい事は一切ない。だが、女は何であれ、噂話が大好きなのだ。


それは、この会社に入ったその日から、痛感した。


「あの、あれは違うんです。その、柊さんが痴漢を撃退して下さって、それで」


真実なのに、どうしても言い訳がましくなってしまう。が、彼女達は意外にも、すんなりと納得した。


「あぁ、そういえばあの人、姑息な真似は嫌いだ!っていうタイプだもんね。でもね花子ちゃん。今朝のラブラブ雰囲気は、もう社内で噂広まっちゃってるみたいよ」


「噂がですか?」


一体どんな噂なのだろうか。嫌な予感がし、冷や汗が流れる。


「うん。私も『噂』で聞いたし。だって相手があの柊さんじゃない?今まで誰かと、特に女の子と一緒にいる場面って目撃された事がないから。妙に注目されちゃったみたいで。付き合ってるんじゃないかみたいな感じでね」


「……」


確かに柊光佑は、注目を集める部類に入るかもしれない。だが問題はそこではなかった。


社内での噂の広まる早さが尋常ではない。つい30分程前の出来事が、こうも早く、噂になってしまうものなのか。そこに不安を覚えてならない。


(これは、もっと気をつけてなきゃ)


変な噂等が流れたら、どこかでコウに迷惑をかけてしまうかもしれない。


もしもそんな事が起きて、彼の立場が危うくなってしまったら。


取りあえず今日、それとなくコウにも聞き、必要ならば弁解しなければならない。


次々と起こる問題にうんざりしながら、ペンを握って業務に専念した。


----------------------------------------


「えっと、この計算式がこっちまでで……あら?」


勤務開始から2時間が経った。


深雪はパソコンを睨み付けながら、独り言を繰り返す。


与えられた業務は、ただの表計算式を作るだけというものだ。が、機械オンチの為、何回やってもうまくいかない。


「どうしてかしら。じゃあまず、ここからここまでの合計を――」


「ねぇ、花子」


「は、はい」


パソコン画面に集中していた為、突然肩を叩かれ、驚いて振り向く。


「あ。ゆう……じゃなかった、長女さん」


彼女は近藤優。あだ名は確か、しっかりしているので長女だったはずだ。


勤務中はあだ名呼び徹底というおかしな決まりに従い、言い直す。


「なんでしょうか?」


笑みを浮かべながら問うと、優は、おもむろに黒いファイルを差し出した。


「これ、総務課の柏木さんって人に届けてくれないかな」


「今、ですか?」


「そう。今ね」


すぐに行けと言われ、少しだけ困ってしまった。


今はエクセルの表計算式を設定していたのだ。だが、先輩のお遣いは断る事はできない。


「わかりました。行ってきます」


ファイルを受け取ると、椅子から立ち上がる。


ドアを出ようとした時、背後から、優の声がした。


「これは私がやっといてあげるから、ついでにコーヒーでも飲んでおいで」


「は、はい。ありがとうございます」


流石は長女。すごく親切だ。


深々と頭を下げると、ファイルを持って秘書課を後にした。


----------------------------------------


「総務課は……あった。ここね」


階段の踊り場にある、各階の案内図。それを見ると、どうやら8階のようだ。


「また階段でいいわよね」


パソコンを見過ぎて、肩が凝ってしまった。体に血を廻らせる為にも、運動は欠かせない。


ヒールの音をなるべく響かせない様に気をつけて、10階から8階まで降りて行く。


その時何やら柔らかい物を踏み、足元に視線をやった。


「あ、お財布だわ」


階段を使った誰かが落としたのだろうか。


よく見るとそれは、よく見覚えのある物だった。


「届けてあげなきゃ」


財布を開くと、カード入れに挟まれた名刺を見つけ、取り出す。


『総務課 柏木 広太朗』


総務課の柏木。それはまさに、今自分が会いに行く人の名前だ。


「丁度良かったわ」


財布をファイルに重ねると、総務課へ向かう為、廊下を歩いて行った。


----------------------------------------


総務課は思いの外すぐに見つけられた。


開きっぱなしのガラスドアに『総務課』と書かれたプレートが貼られている。


「だから、散々探したんだよ!」


「いいからもう一度行った方がいいですよ。焦ってると、見つかる物も見つからないですし」


(なんだか騒がしい)


ドアが開いている為、中から男の怒鳴り声がダイレクトに響いてくる。


(なんかギスギスしてそうな課ね。早く用事済ませて戻ろう)


下手に長居をして、絡まれたらたまったものじゃない。


軽くドアをノックし、中に入る。


「失礼致します。秘書課の者です」


少し大きめの声で言うと、1人の男性が振り向いた。


「どうかしましたか?」


「秘書課からこちらのファイルを預かって参りました」


「ファイル?……あぁ、優さんからか。ありがとうございます」


愛想笑いを浮かべ、男性は手を差し出す。


「よろしくお願いします」


渡しかけた時、ふと、これは柏木さんにと託された品物という事を思い出した。


「あの柏木さんはいらっしゃいますか?一応指名でお預かりしましたので」


「柏木さん?あぁ、今はちょっと無理かもしれないなぁ」


呟き、チラリと後方に視線をやる。


そこには、若い男が、苛立ち気味に立ち尽くしていた。


どうやら、先ほど喚いていたのが、柏木らしい。


「柏木さん。ちょっといいですか?」


男が声をかけると、柏木と呼ばれた男は眉を寄せたまま振り向いた。


「なんだよ。――あ!お前っ」


と同時に目を丸くすると、どうやら深雪が持っていた財布を見つけたらしく、駆け寄ってきた。


「アンタ、なんで俺の財布持ってるんだ!?」


「えっ」


まるで盗んだ様に怒鳴られ、驚きのあまり、言葉を失う。隣に立っていた男は、溜め息を吐き、柏木を宥める。


「柏木さん。彼女は拾って届けてくれたんですよ。ねぇ?」


苦笑いをしながら問われ、深雪は軽く柏木を睨んだ。


「階段で拾ったんです。中に名刺が入っていたからお持ちしたんですけど。そのまま落とし物として届けた方が良かったかしら」


精一杯の嫌味を込め、にっこり微笑む。


それに気付いたのか、柏木はバツが悪そうに頭を掻いた。


「あぁ……いや、ごめん。ありがとうございました」


「いいえ、どう致しまして。では私はこれで失礼します」


深々と頭を下げ、足早に総務課を後にした。

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