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「あぁ、疲れた。朝のラッシュって本当に地獄だな」
なんとか目的の駅で降りた深雪は、黙って相手の顔を見つめる。
視線に気付き、青年は人ごみのせいで乱れた前髪をかきあげながら微笑んだ。
「なに。どうかした?」
「あの、ありがとうございました」
「いいや。オレさ、痴漢って許せないんだよ。まぁ同じ男だから気持ちはわかるけど、やるなら堂々と殴られる覚悟でやれって感じだよな。身動きとれない所を襲うなんて卑怯だ」
「堂々なら良いってわけでもないと思いますけど……」
だが、殴られる覚悟の部分は同意だ。ポケットから定期券を出し、一緒に改札口に向かう。
「あれ、アンタも西口?って事は職場近いんだな」
「かもしれませんね。私はこの先の貿易商社に――」
そう言いかけたると、男は目を丸くし「あぁ」と声を上げる。
「そういえば入社式で見たな」
「え?あ、そういえば……」
最初から、どこかで見たことがある顔だなとは思っていた。だがこの言葉で確信した。
入社式で一番最初に挨拶をしていた人だということに。
「私は秘書課の近藤と――あ、近藤深雪と申します。本当にありがとうございました。柊さん」
秘書課の女は全て近藤という苗字である事を思い出し、フルネームを名乗る。彼は目を丸くさせ、笑い声を上げた。
「ははは。覚えてたんだ。俺もあんたのことはよく覚えてるよ。秘書課に新しく入った巨乳がいるって噂になっていたから」
(巨乳って……)
貧乳と言われるよりはマシかもしれないが、これはれっきとしたセクハラだ。痴漢はダメでセクハラは良いのだろうか。
そう訴えたかったが、面と向かって堂々と、というモラルには反していないので、恐らく彼の中ではアリの部類に入るのだろう。
ついでだから一緒に行こうかと言われ、ついて行くことにした。
歩きながら、男は改めて自己紹介をする。
「いまさらだけど、オレは人事部の柊浩介だ。君みたいな人は、明日から女性専用車両に行った方が良いな。痴漢のイイ餌食だ」
「はぁ。そうします」
君みたいな人とは、一体どういう意味なのだろうか。
褒め言葉なのか悪口なのか判断できず、曖昧な表情を浮かべる。
「女性専用車両なんていうのがあったんですね。全然知りませんでした」
ラッシュ初日で根を上げてしまい、明日からは車に頼ろうと思ったが、女性専用の場所があるならば別だ。明日からはアドバイス通り女性専用車両に乗ろう。
「なんだ、もう不倫か花子」
不意に後ろから嫌みったらしい声がし、姿を確認せずとも誰なのかを悟った深雪は、顔が強ばるのを感じた。
「おはようございます、社長」
なんとか笑みを浮かべ、振り向く。そこには案の定、近藤社長がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「社長、おはようございます」
柊も倣い、頭を下げる。だが社長は、柊に対してはおざなりな返事をし、相変わらず嫌味を含んだ笑みで深雪を見ている。
「入社2日目にして、男を同伴させての出勤か。柊、コイツはこれでも人妻らしい。社内不倫は即刻解雇。お前は昇進もかかっているんだ。下手な女には近付くな」
隠す素振りも全くない嫌味をたっぷりと含んだ口調で言い捨てると、エレベーターホールに去って行く。
「………」
その後ろ姿を見ながら、深雪は左手を強く握った。
「相変わらず社長は毒舌だな。気にするなよ」
柊は心配そうに深雪の顔を覗き込む。
「大丈夫です。社長の毒舌ジョークには少し慣れてきましたから。それじゃあ私はここで。失礼します」
軽く頭を下げると、ヒールの音を響かせて階段に向かう。
こんなにも広く、社員も何百人といる大手企業。沢山人がいれば、嫌な奴や気の合わない人間等山ほどいるだろう。
「我慢。我慢よ」
何度も繰り返しながら、階段を使って10階へと向かった。