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翌朝、枕元の目覚まし時計が鳴り響き、眉を寄せながら手を伸ばしてベルを止めた。
昨日連れて行ってもらったレストランは、確かに最高の場所だった。
しかも料理は、深雪が好きな中華を選んでくれたらしく、久しぶりに大好きな中華料理を堪能した。
「痛い……。まさか、筋肉痛?」
やはり昨日の階段が応えたらしく、足だけではなく下半身全体が痛い。
重く軋む体をなんとか起こし、スーツに着替える。
これから朝食を作らなければならないのだが、エプロンをすれば汚れないだろう。
スーツ姿のまま手早く和食を用意すると、時計を見て寝室に戻る。
「起きて。会社に行く時間よ」
熟睡している旦那の体を揺すり、声をかける。だが一向に起きる気配はない。
「遅刻したらまずいでしょう。早く起きて」
手加減無しに肩を叩いていると、小さく呻いてやっと目を開けた。
文字通り叩き起こしを食らった為、すこぶる機嫌が悪いようだ。
「痛ぇ……。お前、容赦ないなぁ」
「ほら、早く支度してね」
寝起き眼の座った目で睨まれ、誤魔化す為に甘ったるい声に満面の笑みを浮かべて口づける。
「今日の飯は?」
「和食よ。冷めちゃうから早くね」
笑顔で頬を撫で、リビングに戻る。
(全く、本当に寝起き悪いんだから……)
保温していた味噌汁の鍋に火をつける。
「そういや今日は随分早いね」
スーツに着替えたコウは、ご飯を口に入れながら時計を見る。確かに昨日の今の時間は、まだ寝ていた。
「今日は電車で行くんだもの」
「なんでわざわざ電車で」
コウは不満そうな顔で「一緒に車で行けばいいだろ」と言う。
「昨日は特別。せっかく定期だって買ったんだし」
「別にそんなの、気にするなよ。朝のラッシュはキツイんだよ」
「そんなのわかってる。結婚するまでずっと利用していたんだから」
表情は穏やかだが、きっぱりと言い放って味噌汁を飲む。だがコウは、まだ退かない。
「もしかしたらダイヤが乱れるかもしれない。そしたら結局遅刻になるんだよ」
「ちょっとくらいなら大丈夫よ。その為に早く起きたんだから」
「それにほら、チカンとかも出るかもしれない」
どうやら言いたいのはそれらしい。心配そうな顔を見て、深雪は嬉しそうに笑った。
「大丈夫よ。チカンなんて、会ったことないもの」
「それは昔の話だろう」
話している合間にも、時間は刻々と過ぎていく。ふと時計を見ると、かなり時間が差し迫っている事に気付いた。
「大変だわ。もう出なきゃ。あ、お弁当は用意してあるから、忘れないでね」
カバンを手にし、まだ不服そうな顔をしている旦那の頬に口付ける。
「行ってきます」
「あぁ。気を付けて」
「大丈夫よ。心配いらないから」
元気良く言い切ると、靴を履いて慌ただしくマンションを後にした。
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「うわ、凄い」
ホームに着いたとたん、想像を遥かに超える人の波に、深い溜め息を吐く。
結婚するまでJRは一番多用していた足だったが、よく考えれば、名物とも言われる朝の通勤ラッシュは初めてだった。
(こんなにたくさん乗れるのかしら?多分無理よね)
自問自答をしつつも、取り敢えず3つに分かれている列の末に並ぶ。
人数に圧倒されている場合ではない。このOL社会を乗り切るには、通勤ラッシュにも負けるわけにはいかないのだ。自分に言い聞かせ、鞄を胸に抱えて意気込む。
だが現実は、やはり想像以上のものだった。
なんとか車内に潜り込む事には成功したものの、全く身動きがとれない。
線路の繋ぎ目に合わせ、不旋律な揺れが酷く、足元も危うい。
(な、なにこれ。凄い……)
降りる駅は5つ先だが、この分だと無事に降りられるかわからない。
(やっぱり車で送って貰えば良かったかしら)
明日からは変な意地を張らず、車で行こう。溜め息をつき、揺れに身を任せ、目を伏せた時だった。
「!?」
何かが触れ、ゾワリと体が震えた。
なんとか視線をずらして見ると、無防備な尻を男の手が撫で回しているのが見えた。
(これが痴漢!?)
無遠慮に尻を揉み、太ももの隙間から手を差し入れようとしている。
(信じられない!)
いくら初体験でも、痴漢くらいは撃退できる。鞄を押さえていた手を後ろへ回し、痴漢の手を甲を思い切りつねる。
「ッ……!!」
どこからか声を抑えた悲鳴が聞こえ、同時に手が消えた。
フッと満足そうな笑みを浮かべ、片手を尻に添えてガードする。
しかし今度はどこからともなく伸びてきた腕が、胸を鷲掴みにした。ゴツイ指が蠢く。
(ちょっと……何なのよ一体!)
唇を噛むと、身を捩って上着のポケットから、あるものを取り出した。
幸い、つい最近『痴漢撃退方法』という記事を、雑誌で見たばかりだ。
この方法ならば、確実に犯人を仕留める事ができ、更には言い逃れもできなくするらしい。
痴漢行為というものが、どんなに下劣で度胸を必要とする事かを、この男に思い知らせてやる。
取り出した物を構え、手の甲に狙いを定めた時だった。
「いい加減にしろ」
すぐ後ろから、低く不機嫌そうな声がし、深雪は慌てて『ある物』をポケットに戻した。と同時に、胸をまさぐっていた腕が強制的に離された。
「痛ぇっ!!」
どこからか男の悲鳴が聞こえ、驚いて辺りを見回す。
自分はまだ何もしていない。一体何が起こったのかわからない。
その時、突然誰かに抱き締められ、手にしていた鞄を落としそうになった。
「な、なに……?」
恐る恐る視線を上げると、そこにはスーツ姿の青年が、苦笑いを浮かべながら立っていた。
「あの……」
何故抱き締められたのか。聞こうにも驚きのあまり、舌が上手く回らない。
男は深雪を見たまま、小さく溜め息を吐いた。
「言っとくけど、オレは痴漢じゃないから。アンタみたいな女は女性専用車両に行くべきじゃないか?」
顔は笑っているがどこかぶっきらぼうに言われ、僅かに眉を寄せる。
「大丈夫だよ。3つ先の駅までだろ?オレも同じだ。こうしてると痴漢に合わないんだ。任せとけ」
公衆の面前で突然抱き締める行為も痴漢ではないか。
そう思ったが、彼にはどうこうしようという意思はないらしい。
ただ深雪の体を抱き締めただけで、その後は視線を合わせる事も身動きをする事もなく、ただぼんやりと外を眺めている。
「……」
何も出来ず、胸元に頭を寄せる。無意識に鼓動が早くなっていた。




