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東京都内にある、高層マンション。
入り口にはオートロックは勿論の事、警備員が配置され、住人以外の人間が不用意に入る事は安易ではない。
玄関ホールにはゲストルームや待合室があり、床には白い大理石が、そしてその上にはカンヌ国際映画祭を思わせる赤いカーペット。
天井には照明として目映いばかりのシャンデリアが設置されている。
そこは誰でも知っている、高層マンションだ。
本来なら計160世帯が生活できるのだが、現在は156の世帯しか入っていない。
その理由は、中でも高額である、最上階の住人にあった。
世帯主の名は『桜岐 孝博』代々伝わる名家の主であり、ワンフロアすべてを買い占めるほどの財力の持ち主だ。
そしてそこを譲り受けて住んでいる青年も、若くして大手企業の高給取りである。
物語りは、その一室から始まる。
紺色のリクルートスーツに身を包んだ深雪は、全身鏡の前に立ち、軽く裾を引っ張った。
今日は長年の目標が、やっと叶う晴れ舞台の日だ。
くるりと一周し、スーツに乱れや皺がないのを確認する。
そんな事を何度もしているうちに、いつの間にか30分も時間が経ってしまっていた。
身支度チェックも飽きてしまい、チラリと時計を見る。
家を出るのは8時。
現在は7時半だ。
(あぁ、どうしよう。緊張してきたわ)
胸に手を当て、深呼吸をする。
その足元には、真新しいビジネス鞄が置かれている。
深雪は人生初の正社員として、都心部にある、大企業商社の秘書課に、めでたく就職できた。
今日はその入社式の日だ。
(ちょっとだけ、化粧が濃いかしら。気張りすぎも良くないわよね)
緩く巻かれた茶色い髪をひとまとめにし、ドレッサーの前に座る。
口紅やファンデーションを、ティッシュで軽く押さえ、鏡をのぞき込む。
するとリビングから、穏やかなトーンの声が聞こえてきた。
「深雪。今日のネクタイは……」
黒いスーツに身を包んだ青年が、2本のネクタイを手にしながら顔を出す。
そして、深雪の姿を見た瞬間、小さく笑った。
「なんだ、まだやってたのかい?」
飽きないなぁとぼやき、息を吐く。
「だって、初めての入社式なのよ。色々不安じゃない」
少しムッとした表情を浮かべ、椅子から立ち上がって歩み寄る。
「まぁ、気持ちはわからなくもないけどね。ねぇ、どっちがいいかな?」
差し出された青と水色のネクタイを、軽く見る。
別に、どっちも変わらない。
そう思ったが、声には出さず、「こっち」と水色を指差す。
「水色かぁ。ま、たまにはいいかな。でも青もなかなかなぁ」
深雪に決めてくれと言ってきたのだが、どうやら彼の中では、まだ決まりきっていないらしい。
どうしようかと呟きながら見比べている手からネクタイを抜き取り、素早く水色をつけてしまう。
「こっちの方が、爽やかで素敵よ。良く似合っているわ」
にっこり笑いながら言うと、コウはその気になったらしく「確かにそうだね」と納得した様子を見せた。
「そういえば、今日はどうする?一緒に車で行こうか」
残された青いネクタイをクローゼットにしまっていると、コウが車のキーを人差し指に引っ掛けながら呟いた。
「そうね。本当は、JRで行った方が良いのでしょうけれど……」
呟き、壁にかけてある時計に視線をやる。
面接などで何度か会社には訪れているが、やはり通勤にかかる時間帯は把握しておきたい。
しかし、ただですら不安でいっぱいな入社式当日に、通勤ラッシュの電車に乗り込むのも、気が重い。
「えぇ、お願いするわ。あ、でも入り口で下ろしてね」
「わかってるよ。じゃあ、そろそろ出ようか。通勤ラッシュは、交通機関だけじゃないからね」
含み笑いを浮かべると、コウは自分と深雪の、2つの鞄を持って歩き出した。
その後に続きながら、深雪は誰もいない室内に向かい、小さな声で「行ってきます」と呟いた。