第六話 -違えた者-
フォルクの武具屋で所用を済ませて、本話はミラの幼馴染との逢瀬です。
フォルクの陰気な武具屋を出て、場所は第一主要街道。今朝と比べて人気は増えて、忙しなく道を行き交う人々の数も増えた。
雑踏、喧騒、声音に聞く各々の人生の語り音を耳に、遥か遠方に霞む関所を見据えて向かう場所は薬屋だった。
学校の薬理実験で用いる薬草の調達が主な目的だが、薬屋を経営する幼馴染とも無沙汰だ。数ヶ月前に、薬草各種を買い溜めて以来だろう。
荘厳な雰囲気を纏うアルカディア総統府を背に第一主要街道を下り、運車の停留所を二つ越した頃、漸く目的の店は見えて来た。
白の塗料で塗られた木板の壁面が眩しい薬屋は、暗い雰囲気の武具屋とは対照的な雰囲気を醸していた。
出入り口の両側を穿つ窓辺を彩る淡色の花々。窓枠に据えられた花壇から枝垂れた蔓と陽光を浴びて輝く純白の壁面が織り成すコントラストが、相も変わらず美しい店だ。
真横を過ぎる店内を透かす窓辺は覗かず、金属の支柱の先端に魔力灯火が備えられた木製の下げ看板に蒼穹の色を見透かす暇。営業中の札が掛けられた木製の扉の前に立って、俺は息を整えた。
其の刹那、表層意識を覆った雑踏に掻き消される心音。たった数ヶ月の空白が塗り潰した”慣れ”は、久しい少女の顔を思い浮かべた俺の焦燥感を煽った。
柄にも無く揺れる心は、まるで他人の所有物であるかの様に思えた。
然して、動揺する心を押さえ付ける様に、地に張り付いた足を引き剥がす様に、俺は扉の取っ手を引いた。
開け放たれた扉に下げられた鉄管が擦れて響く呼び鈴が、耳から内懐に触れて、抱えた焦燥感を殊更に駆り立てる。漸く踏み入れた店内に広がる薬草の独特の臭気と、鼻腔に触れた微かな甘い芳香は、確かに嗅いだ事の在る懐かしい記憶の便りだった。
「いらっしゃい」
そして、響いた小鳥の囀りの様に懐かしく麗らかな声の主人は、其処に在った。
揺れる白金。採光用の天窓から差し込んだ陽光が魅せる刹那の情景。煌めく白金を塗した繊細な髪は、木枠の窓から入り込んだ涼風に戦ぎ、陽光に照り輝く彼女の柔肌を撫でた。
切り取られた一枚絵の様な光景の中心には、彼女の柔和な微笑が在った。
「ミラ。久しぶりだね」
透明な入れ物で仕切られた薬草棚の前に立って、此方を見据える婉美な幼馴染。双眸に蒼穹を宿した天色の瞳を見せる少女の名は、カノン・エクスタシア。ヒーリング療法に長けた薬屋の実質的な経営者だ。
幼少期に、自宅の近所に住んでいた彼女と出会い、共にフォルクとアクラスの下で能力の研鑽に励んだ。同じ境遇の下、同じ環境で育った二人にも拘らず、俺は剣戟の研鑽を重ねて、魔族掃討を胸に誓って此処に居る。だが、彼女は魔族に関わらない街の薬屋の経営者として、ヒーリング治療の専門家として此処に居た。
出会った時から既に、互いの志は根元から枝を分けていたのだ。故に、俺は彼女に畏敬の念を抱いた。
寸刻の停滞を経て、俺は後ろ手に扉を閉めて、店内中央の薬草や籠の乗った円卓を挟んだカノンの対向に立った。
「薬草が切れた」
「うん。だと思ったよ」
諦めた様に肩を竦めたカノンは、円卓から麻で編まれた籠を手に取って、背後の薬草棚に手を伸ばした。
「たまには、普通に会いに来てよ」
「柄じゃ無いだろ」
俺はカウンター脇に据えられたソファに腰を下ろして、溜息を吐いた。
「柄じゃなくても良いんだよ。幼馴染なんだしさ」
手慣れた所作で薬草を詰めるカノンが鳴らした小瓶の擦れる音を耳に、俺は天窓から覗く上天を見上げた。
「俺だって忙しいんだ」
冗談半分で無理矢理こじ付けた理由も、案の定、カノンには見透かされる。此方を向いて、「へえ」と、嫌らしい微笑を浮かべたカノンは、籠を腕に提げた儘、しなやかな体躯を捻らせた。
「こんな可愛い娘との逢瀬より大切な事があるの?」
「自分で言うか」
陽光を裂く様に翻るコルセットスカートに目を惹かれた儘、俺は何食わぬ顔で未だ抑え切れない動揺を隠した。
「冗談には冗談で返すのが礼儀ってね」
「言って呉れるじゃねえの」
事実、忙しい理由が無い分、何も言い返せない。フォルクの武具屋で剣戟を受け取って、カノンの薬屋で薬草を調達すれば、今日の予定は終いだ。
光の加減、傾斜角の差異で煌めく埃が舞う店内には、俺とカノンの二人の閉ざされた世界が在った。
街の雑踏さえカノンの所作に掻き消される此処では、美醜の定義さえ揺らぐ。俗世から隔絶された美に溢れた世界で、俺は肩の荷を地に据えて、閉じ切っていた双翼を悠々と伸ばした。
「今日は休日なんだね」
「ああ。明日までな」
碌な趣味も無い俺に取っては、剣戟の修練時間に費やされる休日だ。学校の有無に依らず、やる事は変わらない。
「学校での調子はどう?」
「まあ、上々だ」
先刻、妙に高飛車な上級生に絡まれたが、あの言動の根底に在るのは恐怖や嫉妬の類だろう。自分自身の力量の肯定材料に使う理由は無いが、他者に取っての主観的な視点は有意だ。
「今度、対人戦闘訓練があってな。それの結果次第では、特待生特権が貰える」
件の上級生と戦う機会も其処に在る。俺の見据える遠方に聳える壁は、遥かな蒼穹さえ穿つ鉄壁だ。小丘程度の壁に阻まれている猶予は無い。
然して、カノンは薬瓶を持った儘、此方を見返して小首を傾げた。
「じゃあ、まだ魔族討伐は許可されてないんだ」
其のカノンの面貌に滲んだ仄かな期待の色は、俺の空目では無いのだろう。
「やっぱり気になるか?」
俺は質問には答えず、カノンの相貌を見据えて問い掛けた。
「当たり前だよ」
間髪を容れず、カノンの揺るぎない信条が魅せた真摯な表情に、俺は俺が信仰する彼女の強い意志の奔流を見た。
「私は、魔族を斃して欲しくなんて無いから……」
俯いたカノンが呟いた言葉は、いったい何度きいた言葉だろう。何度、自分自身の脳裏で反芻した言葉だろう。アルカディア公国の内郭に生きて、カノン同様の信条を信仰できる人間は、果たして何人いるのだろう。
俺の父親とカノンの父親は、志を交える同期の勇者だった。堅実に、誠実に、確実に、アルカディア公国の為に尽くす立派な勇者だったと聞く。
然し、カノンの父親は殺された。惨たらしい有様で、俺の父親と同じ様に、憎い魔族に殺された。
「魔族との共存が、本当の平和なんだよ」
何故、俺と同様に奈落の底に叩き付けられた彼女は、憎んで然るべき魔族を受け入れる道を模索しているのか。恨んで然るべき魔族との共生の道を探しているのか。共存を望む事が出来るのか。幾星霜の歳月を経ても尚、俺には到底、理解し難い信条だった。
故に、俺は彼女に畏敬の念を抱いた。
俺の心は、只管に揺れ動いた。
眼前の少女は、俺が生まれて初めて心の底から尊敬した他人だった。
「俺とカノンは似ているが、似ていないな」
「そうだね」
二人の間に聳える壁は、魔族掃討の夢を叶えても尚、跨ぐ事は叶わない途方も無い代物だ。俺たち二人の信条は、決して相入れる事は無いのだろう。
「私には、私の信念がある。ミラには、ミラの信念がある」
透明な薬瓶を胸元に抱えて、カノンは神妙に語った。
「折衷案なんて無いんだと思う」
暗々とした過去の清算を賭けてカノンが希求する未来の姿は、現代の世情に触れて仕舞えば、輪郭さえ残さず霧散するのだろう。理想の彼方に在る途方も無い御伽噺だ。それは、カノン自身も理解しているのだろう。
然して、「だからね」と一言、間を挟んだカノンは、目を細めて微笑んだ。
「私は、私」
蒼穹を仰ぐ平原に芽吹いた小さな野花の様な少女は、決して手折られる事の無い荊の形で、地の奥底まで根を伸ばす野草の様に強い心を抱えて生きている。降り掛かった悲哀を乗り越えた彼女の華奢な身体に太く張り巡らされた根は、途方も無い理想郷への強い羨望だ。
「私は、魔族との共存の道を見つけるよ」
其れが、カノンの久遠の彼方に夢見る希望だった。
カノンの蒼穹を宿した瞳の奥に、俺は暗い深淵に沈んだ煌めく希望を見た。
「敵わんな。カノンには……」
無意識に口を突いて出た言葉は、弛まぬ因果の絡んだ宙を掻いた。
然し、「ううん」と、カノンは大袈裟に首を振って否定した。
「凄いのは、ミラだよ」
「俺?」
「そうだよ」
小さく頷いたカノンは、薬瓶を抱えた儘、半円状の純白のレースカーテンに仕切られた窓の外を眺めた。
「信念を貫き通して、着実に前進してる」
「カノンも、此処で平和に貢献しているだろう」
涼風に横髪を揺らしたカノンの横顔を見据えて、「違うのか」と、俺は疑問を投げ掛けた。
然し、カノンは首を横に振った。
「まだ、歩き始めてもいないよ」
斯く言うカノンの遠い目は、いったい何処を映しているのか。遥か蒼穹の彼方を見据える情動は、果たして如何なる機会を伺っているのか。
「私は立ち止まって、ミラの背中を見てる。ミラの行く背を見てるだけ……」
間髪を置かず、「それにね」と、囁く様に呟いたカノンは、顔を綻ばせて此方を見た。
「私は、ミラに自分の信念を預けてるのかも知れないんだ」
「え?」
意識外から触れた言葉に、思わず漏れ出した疑問符は虚空に溶けて消える。
「矛盾してるね」
静かに呟いたカノンは笑って、揺れる布地から覗く華奢な脚で、俺の眼前まで寄った。
「心のどこかで、ミラならば……って思ってる」
其の言葉に孕んだ言外の意は、俺の信条を汲み取った故の優しさなのだろう。
「ごめんね」
小首を傾げたカノンは、眉尻を下げて呟いた。
斯くして、俺は知った。
いま理解した。
決して交わる事の無い二人の信条に、カノンは折衷案が存在する可能性を信じているのだ。
斯く境地に至った地点に紐付く凄惨な悲劇を、カノンは誠の平和を以って清算する為に奮起している。だが、俺たち二人の悲願を成就させる為には、互いの存在は枷なのだ。
係る決意に、如何程の葛藤が在ったのだろうか。恐怖や悲憤、憂鬱、悲哀が複雑に交錯する葛藤を乗り越えて、カノンは此処まで来た筈だ。だが、漸く辿り着いた起点には俺が居た。
そう思い至れば、俺の口は自我に依らず開いた。
「いや。謝る必要は無いさ」
寧ろ、謝らなければならないのは俺なのかも知れない。
「魔族が憎い」
カノンの蒼穹を映した瞳、至極真面目な表情を見据えて、俺は吐露する。
「だがな。俺の父親を本当に殺したのは、魔族の長だ」
「……そうなの?」
眉を曇らせたカノンの言葉に対して、俺は頷いた。
母親から聞いた事実だ。父親は、魔族掃討の任を遂行している最中に出会した魔族の長に殺された。母親は、父親の遺体と共に訪れた総統府の人間に、其の事実を聞かされたと言っていた。
「父親を殺した魔族に対する憎悪の念が心に巣食っているが、本当に殺さなければならない相手は一人だ」
魔族を統率する長は、魔族の頂点に君臨する強者なのだろう。斯く道程は、魔族との和平より難しいのかも知れない。
「だが、魔族の長も魔族だ。結局、魔族が俺の父親を殺したんだ」
荊の道を征く事になろうが、此れは揺るぎない事実だった。
俺自身、魔族の長を此の目で見た事は無い。故に、決して自分自身に言い聞かせる訳では無く、此の誤魔化せない怨恨の矛先は魔族であり、魔族の長なのだ。
「非道な魔族の長が統括する魔族は、やはり憎い」
俺は、震える拳を握り締めて呟いた。
「だから、俺は魔族を掃討する。そして、魔族の長を殺す」
揺るぎない過去が在った。
譲れない信条が在った。
仮令、カノンの信条と相対する信条だったとしても、俺は此処に父親の雪辱を期する。仮令、カノンの葛藤を無碍に帰して仕舞う事になろうと、俺は此処に魔族の掃討を誓う。
「俺の信条だ」
俺は、誠実に告げた。
「そっか」
然して、カノンは柔和に微笑んだ。
「悪いな。カノン」
「謝らなくていいよ。分かってる」
漂う埃さえ優美に煌めく此処で、一人の少女は世界に溶ける。
「でも、私は信じてるね」
「ああ」
切り取られた刹那を彩った少女の言葉を、俺は今生の限り忘れないだろう。カノンに、人生を賭しても叶えたい悲願を差し向けられた事を、俺は生涯に渡って忘れないだろう。
斯くして、吸い込まれて仕舞いそうな程に透き通ったカノンの瞳を見据えて、俺は頷いた。
そして、暫くの時間が流れた。
永遠の様な一瞬の様な、自分自身の意識が眼前の少女に溶け込んだ逢瀬。
「あ。薬草、詰めちゃうね」
我に返った時には、カノンは焦燥を隠す様に、俺に背を向けていた。
俺は暫くの間、其の後ろ背を眺めている事しか出来なかった。
朽葉色のコルセットスカートに身を包んだ華奢な体躯は揺れて、揺らめく白色のレースを飾った詰襟の肌着から伸びた細い手が、薬瓶に緑葉の薬草を手際よく詰めて行く。洗練された無駄の無い所作に見る内懐に想い馳せて、俺は重たい腰をソファーに埋めた。
「ミラ」
刹那、静寂を縫って届いたカノンの呼び声。俺は、カノンの後ろ背を眺めた儘、「どうした」と、呼び声に応えた。
然して、再び寄り集った静寂が世界を包み込んでいる事に気が付いたのは、呼応した呼び声が虚空に消えた直後の事だった。
手を止めて、呼吸さえ止めて、振り向いたカノンの表情に滲んだ不安の色を見た瞬間、俺は視線を逸らす事さえ叶わなかった。
やがて、寸刻の停滞を経て衣擦れの音ひとつ、カノンは徐に口を開いた。
「何でも、私に相談してね」
絞り出した様な声音で、淑やかな様子で彼女は紡ぐ。
「できれば、もっと色々な話もして欲しい」
表情に浮かべた不安の色を隠す様に、カノンは顔を伏せた。
「外の世界も、ミラの事も知らない事ばかりだから……」
斯く言う少女の言葉を思えば、成る程。其の言葉も容易に納得できた。
外界と隔絶された公国内で生きるカノンが外の世界を知る術は、殆ど存在しない。情報の統制が徹底されたアルカディア公国で、只の国民が外界の情報を知る術は、厳しい検閲を通した書物くらいのものだ。況して、カノンが切望する和平の相手である魔族に関する読み物など、極めて基本的な情報しか載っていない代物が大半を占める。
依り代は、魔族に関わる仕事に従事する人間。俺の様に、魔族掃討に係る人間しか頼れないのだ。
「俺には難しい注文だな」
「うん。だから、薬草は割引してあげる」
自分の信条とは相反する人間にしか頼れない少女は、健気に自分の信条を貫き通している。手元に提げた籠を揺らして、「ね」と、此の俺に笑い掛けている。その事実が、ただただ眩しかった。
故に、俺の返答は決まっていた。
「まあ、最善は尽くす」
精神的な部分で人に頼る術を知らない俺が、必死に紡いだ言葉だ。カノンの希望を断る理由は無かった。
「ありがとう」
いつもの様に小首を傾げて、カノンは柔和に微笑んだ。
然して、「詰め終わったよ」と、籠一杯に敷き詰められた薬瓶を持って、カノンはカウンターの方へ向かった。
其の言葉を目安に立ち上がった俺も、カウンターを挟んだカノンの対向に移動した。
「幾らだ?」
「2000ルゥだよ」
紙袋に薬瓶を詰めるカノンの手元を眺めた儘、「2000ルゥな」と一言、俺は腰巾着に手を伸ばした。
然し、腰巾着に手が届く前に、俺の身体は反射的に一切の挙動を止めた。
「……お家賃の数ヶ月分なのだが?」
「割引価格だよ」
何を如何すれば、薬草の割引価格が学生寮換算で数ヶ月分の家賃に匹敵するのだろうか。内地産の最高級薬種でも使っているのか。
「破格だな。恐れ入った」
然して、俺は巾着から100ルゥ紙幣二枚を引き抜いて、カノンに差し出した。
「あ、通じた」
「蘞い冗談だ」
差し出した紙幣を受け取ったカノンは、紙袋を手に持ってカウンターに沿って此方側に回り込んだ。其の儘、細い腕に抱えた紙袋を揺らして、俺の横に立った。
「はい。オマケは無いから、早く買い足してね」
「仮にも客相手の言葉とは思えんな」
紙袋を受け取って、俺は苦笑した。
然して、受け取った紙袋の封を開いて覗き込んだ先には、規則的に詰められた薬瓶に混じって、白桃色の小さな巾着が納められていた。
「此れは?」
巾着を取り出して目前に掲げた刹那、芳しい薫香が鼻腔を撫でた。何処か嗅いだ事の在る、郷愁さえ想起させる芳香の正体は何か。
寸刻の停滞を経て、「ああ」と、俺は思い至った。
「此処か」
そうだ。此の巾着から漂う薫香が連想させたのは、薬草の臭気に混じって薬屋の店内に薄く広がる仄かな芳香だった。
其れは、通い慣れた此処に係る数少ない美しい過去の記憶に紐付いていた。
ヒーリング効果でも付与されているのだろうか。甘く上品な薫香に触れた脳漿は、睡魔さえ招き入れた。
「匂い袋だよ。いつも持ち歩いてるから、お店に染み付いちゃったけど……」
カノンはコルセットスカートの上端に細指を差し込んで、俺の持つ巾着と似た色調の袋を取り出した。
「匂い袋なんて持ち歩いていたのか」
「うん。ヒーリング効果の高い香草のブレンドだから、落ち着くんだ」
取り出した匂い袋を再び仕舞い込んで、カノンは裾を揺らした。
「ミラの匂い袋は、香草のブレンド比率を少し変えてあってね。ちょっと優しめの香り」
優しい芳香か。店内に香る匂い袋の残り香は、然程も気にならないが……。
斯くして、俺はカノンの間近に歩み寄った。
「ミラ?」
眼下に見据えた小柄な少女は、俺を見上げて疑問符を浮かべていた。
其の下顎の奥に結ばれたコルセットスカートの上端を一瞥、俺は頭を下げて鼻先を近付けた。
「……」
華奢な肢体を包み込んだ朽葉色のコルセットから漂う薫香は、此の開放的であり閉鎖的な空間を満たした残り香の源泉だ。カノンを取り巻いた独特の芳香に浸る暇に、いま俺の脳髄は、後に引き返す事さえ叶わぬ深淵に沈み込んでいるのだと知った。
まるで、緻密に張り巡らされた蜘蛛の糸に絡み付いた矮小な羽虫の有り様だ。酷い醜態だ。然し、そうと思い至っても尚、此の多幸感から逃れる術は無かった。
永遠の様に感じた一瞬の出来事だったのだろう。俺の襟足を越えて後頭部、背筋に掛かる圧を認知した刹那、俺の身体はカノンに凭れ掛かっていた。
其の圧の正体が、カノンの両の掌と気が付いたのは、カノンの体温を感じて間も無くの事だった。
「……如何した?」
「落ち着くかなって」
俺の頭頂から響いた麗らかな囁き声。普段、俺の眼下に見ていた筈のカノンの微笑は、いま其処には無かった。
斯く欲望に溺れた訳では無い。創造主に誓って、幾星霜の人生に於いて想像した事さえ無い。
だが、此処にはカノンに抱き留められている矮小な俺が居た。
「俺は子供では無いぞ」
「うん。そうだね。ミラは、子供じゃない」
カノンが自分自身に語り聞かせる様に紡いだ言葉は、彼女の身体を震わせて、俺の身体を震わせた。
ほんの微動。カノンが紡いだ声の振動が、此処に居れば、只管に暗い身体の芯から聞こえて来る。些細な自然の摂理さえ、仄かな幸福を伝えた。
寸刻の間を置いて、「なら」と、小さく呟いたカノンは、殊更に腕に力を込めた。
「変態だね」
「否。断じて否」
俺は、声に出して否定する。断じて、俺は斯くの如き人種では無いのだ。
「此の状況は、俺の意思では無いだろう」
此の状況を端から見れば、言い訳も出来ない状況なのだろうが、事実は違う。此の後に及んで溢れ出した焦燥感は、俺の言葉に覇気の焔を宿した。
「腕、離すよ」
焦燥感と多幸感の交錯する心に弁明を図る最中、俺の後頭部と背中を優しく抱いていた圧が消えた。
俺を抱き留めていたカノンの所作は、俺に何時でも逃げる機会を与えた事に他ならない。俺は、いま此の瞬間にも身体を退かす事が出来た。
だが、俺の身体は動かなかった。
「逃げないんだ」
「……居心地が良い。只管に、居心地が良いんだ」
客観的な印象は否定できるが、誠の心に嘘は付けない。俺の心は、此処を動く事を拒んだ。身体さえ心は引き止めた。
「それだけだ」
消え行く間際に主張した焦燥感に急かされて、必死に紡いだ言い訳の言葉が、カノンの胸を震わせた。
斯くして、俺の身体は再び小さくも大きな腕に包まれた。
「ミラ。疲れてるんだよ」
手に提げた紙袋から響いた薬瓶が擦れる音。殊更に、包み込む様に腕全体で抱き留めたカノンの言葉に、「疲れているのか」と、俺は半ば無意識に言葉を吐いた。
「疲れていても、他人を頼らないもんね」
錘でも付いているかの様に重たい瞼を必死に開いた儘、俺は眼前の衣服を留める大理石模様の留め具を力なく眺める。脆弱な心の証左に過ぎない憂鬱など、他人に打ち明けられる筈が無いと、俺は忌避して来た。
父親を失った悲哀の念は、誰にも打ち明けて来なかった。
情けない情念は心の奥底に隠し通して、他者には魔族への揺るぎない怨恨のみ語り聞かせて来た。
身体的な、精神的な猛者である為に弛まぬ努力を重ねて、着実な一歩一歩が有意と信じ続けて此処まで来た。
「私は、此処に居るよ」
だが、俺の心は其の場で地を踏んでいたのかも知れない。心は、俺の想像を超えて遥かに脆弱な儘だったのかも知れない。
情けない自覚は在った。
此の状況を許さない心が在った。
だが、此れは人に頼る方法を知らない俺が生み出した”無用な虚勢”に過ぎないのかも知れない。
嗅ぎ慣れた薫香に混じって、心身に浸透する匂い。カノンの衣服か。カノンの素肌か。其れは、俺には分からなかった。
だが、何方でも良かった。
斯くして、俺は瞼を閉じた。
「……そうだったな」
もう暫くの間、此の安心感に甘えていられるのならば、俺は死さえ厭わない。そう、思えたのだ。
「こんちわ!」
然して、閉ざされた世界を包み込んだ静寂は突如として破られた。
最近、寒いですね。
寒風に凍えながら、寒空を見上げて嗜む一服に美味しさを感じる季節です。
さて、本話で一人の少女が登場しました。
ミラの幼馴染で可愛らしい風貌のカノンですが、結構お転婆なので何を仕出かすのか。あまり突飛な事は駄目よ。
次話は早々に更新できる様に頑張ります。今後とも宜しくお願い致します。