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第十五話 -強い恋情-

ミラが、シャルを背負ったアルスと別れた後の話です。

 彼等と別れて暫く経った。

 互いが互いを縛る思慕を想って仕舞えば、端で眺める俺の思考が散らばる。四方山に霧散して仕舞う。二人の思慕とは関係ない筈の少女の相貌が、俺の意識の前面を覆い隠して仕舞うのだ。

 何故か。静寂に満ち満ちた帰路を辿る暇、延々と自分自身の内懐に問い掛け続けていた。

 幼少期から慕い続けて来た少女に、一種の情愛を抱いている事に疑う余地は無い。だが、其の思慕の正体は、弛まぬ信条を抱える彼女を尊ぶ畏敬の念に違いないと……。

 然う思っていたのだが、何故だろうな。何故か、胸中に蟠る靄は晴れなかった。

 思えば、同じ問答を幾度も繰り返していた。

 過去を辿って今を巡り、未来に翔る。俺が納得できる回答に辿り着かぬ限り、此の線分の終端を踏み抜く事は叶わないのだろう。

 然して、宵闇を掻き消す眩い明光が、視界の端に割り込んだ。意識に触れた光を追って、俺は曲線を描いた細道の右手側に群生した木々を見遣る。其の隙間から漏れ出す光は、暗所に慣れた俺の目を眩ませた。

 仮にだ。仮に、思慕の正体が淡い恋情だと思えば、果たして如何だろう。他人の意志を尊重しながらも、己が信条を貫き通す彼女への畏敬の念が、アルスとシャルの逢瀬に絆された結果、鮮烈な朱を纏ったのだ。


「……ああ」


 然して、俺は瞼を目一杯に瞑って、浮いた感情を薙ぎ払う様に首を左右に振った。

 然うだ。何時も然う。此の思慕を恋情と思えば、俺の意識は瞬く間に朱を差す。居た堪れず、纏まった思考さえ蹴散らして仕舞う。先の一件を思い出して、所構わず大穴を穿ち、此の身を隠して仕舞いたくなるのだ。

 極めて度し難い感情だと、俺は盛大な溜息を吐いた。

 最早、如何なる結論も纏まらない。斯く至りて、俺は結論を組む思考の欠片を投げ捨てる。斯く過程を、俺は何度も経験して来た。

 難儀だと野郎に言って遣る権利も無い。斯く言う俺も同じ穴の狢だ。

 然して、俺は宵闇を彩る矮小な光点を眺めた。

 俺の腕の黒子より小さな彼等は、只管に長く思える俺の人生の半分を見守り続けて来た。

 人類の記の大半は、総統府の命に依って尽く焼かれて仕舞ったが、遺った数少ない文献に彼等の観測記が在る。其の齢は、人の齢を基準として数千。飽くまでも、記録に遺っている範囲だが、彼等は数千年もの永遠を延々と生き存えて、矮小な人類を照らし続けているのだ。

 幾星霜の時間を生きて、無数の人間を照らし続けた彼等ならば、俺の思慕の正体を知っているのだろうか。透き通った寂し気な視線は、俺の心まで見透かすのだろうか。彼等ならば、俺に的確な助言を呉れるのだろうか。

 斯くして、場所は細い舗装路を抜けて、先に見た光の出所を踏んだ。薄鈍色の石畳が敷き詰められた此処は、エクセリア魔力学校に籍を置く俺の居所。擡げていた視線を眼前に向けた先には、中央広場を取り囲む様に聳える三棟の寮が、何時もの様に其処に在った。

 周囲を見渡せば、広場の中央に備えられた噴水の縁に腰掛けて、楽し気に談笑に耽る生徒が見える。暖色の光を撒き散らす魔力灯火に、煩わしい羽虫の如く群がる生徒も居る。暇を持て余した数十人の生徒が、魔力灯火の暖色を映した白壁の寮前で、各々に与えられた時間を有意義に過ごしていた。

 総じて平和を謳歌する彼等を一瞥、俺は中央の棟を見据えて脚を動かした。


「み、ミラ」


 中央の噴水の傍を横切った刹那、鼓膜を叩いた弱々しい声音。聞こえた方向を見遣れば、水場の縁に一人で腰掛けていた少女と目が合った。


「君は……」


 何時かの日に、面と向かって俺を鼓舞して呉れた其の少女の名は……。


「モニカ?」


 然して、眼前の少女は微笑んだ儘、小さく頷いた。

 彼女は後頭部で縛った撫子色の髪を揺らして、早足で此方に向かって駆け寄って来る。


「驚いたな。此処に住んでいたのか」


 俺の眼前まで寄った彼女は、「うん」と、穏やかな口調で答えた。


「自宅が遠いから……」


 何処か懐かしい芳香を纏う彼女は、視線を彷徨わせた儘、頬に灯火の朱を映す。はて。何処で嗅いだ薫香か。彼女の目を見据えた儘、俺は寡黙に記憶の欠片を寄せ集める。凡ゆる可能性を辿る暇、「あ」と、俺は思い至った。


「カノンの薬屋……」


 其処まで口走った瞬間、俺は口を噤んだ。


「え?」


 仕舞ったな。要らぬ話だった。

 眼前の少女は、此方に視線を向けて首を傾げている。其の様子を受けて、「いや」と、俺は手を左右に振った。


「済まない。忘れて呉れ」

「う、うん」


 何処か腑に落ちない様子のモニカだが、俺の発言以上の追求は無かった。

 帰路を辿る間、随分と悩んで仕舞った所為だろう。未だに意識に語り掛ける問答を、俺は必死に振り払った。

 悶々と苦悩しても仕様が無いのにな。何度も何度も思い悩んだ結果、”何も得られなかった”と言う非情な事実が、俺の脳裏を駆け巡った。

 此の心が封じ込められた殻の中に、俺が迷いなく頷ける解は存在しないのだろう。手前の視力で以て見付けた光点だが、唯ひとつの粒を選別する事は出来ないのだろう。俺自身の経験で以て養って来た自我は、導き出した可能性を理解し得ない上に、其奴の正否の判断を拒んだ。

 カノンと俺は、斯くの如き間柄では無い。然う信じて疑わなかった過去を覆して仕舞う可能性に、何故か俺は恐怖していた。


「あ」


 然して、何か思い出した様に目を見開いた彼女は、場の膠着を解く様に此方を見上げた。


「模擬訓練。お疲れ様」


 彼女の労いの言葉は、此の出口の無い思索を遮る。両の手を打ち鳴らす少女を見据えて、「ああ」と、俺は彼女と同様に手を叩いた。


「見ていて呉れたのか」

「うん」


 モニカは胸元で両の掌を合わせた儘、顔を綻ばせる。


「ミラ。やっぱり強いね」


 他意は無いのだろう。彼女の褒め言葉を浴びた俺は、「有り難う」と、素直に礼を告げた。


「誰が相手でも、負ける気は無いさ」


 左様。仮令、並大抵の技量を遥かに凌駕するアリステリアが相手だったとしても……。


「あ」


 彼の不敵な微笑が思い浮かんだ瞬間、俺の脳裏を埋め尽くした情景。意図せず声が漏れた。

 色味が欠けた心に刺さった棘の様な今朝の一幕を、俺は唐突に思い出した。

 斯くて、刹那の衝動に駆られた俺は、「モニカ」と、無意識に彼女の名を呼んだ。


「聞きたい事が在るのだが……」

「う、うん?」


 疑問を呈した彼女を意に介さず、俺は手前の疑問を思い描き、徐に口を開いた。


「アリステリアとは、知り合いなのか?」


 模擬戦闘訓練の開催直前に、此方の陣営に前哨戦を仕掛けて来た彼奴は、去り際に入退場口に居た少女と言葉を交わしていた。

 ほんの一瞬、横目で目した其の少女は、いま此の目前に立っている彼女と思しき人物だったのだ。


「あー……」


 然して、モニカは困惑した様に眉を顰めて、息を吐く様に唸った。


「うん。一応は知り合いだよ」

「一応、とな」


 幾分か暈した表現だが、真実に掠り得る可能性は幾つか在った。

 彼女は暫し間を置いて、言葉を纏める様に視線を地に落として、後頭部で纏めた撫子色の長い髪を揺らした。


「入学式の時に告白……されたのかな?」


 モニカの下がり気味の眉尻を照らした暖色の光は、彼女を飾る貴石の如く煌めく水流の薄膜を映し出した。


「其れは、悩む所なのか」

「なんて言うのかな。あまり誠意が感じられなくて……」


 頬を伝う横髪を縒る仕草を見据えて、「ああ」と、俺は大いに納得した。


「俺の女になれって……」

「目に浮かぶ様だ」


 何時もの高飛車な態度で、新入校生を相手に斯く告げる彼奴の音容を思い浮かべた。

 靡く奴は靡くのだろうな。毎回の様に引き連れている女連中が良い証拠だ。だが、肝心な彼女は然う容易くない様だな。

 然して、モニカは其の身を翻して、絶えず流れる噴水まで駆け寄る。其の儘、此方を振り返って手を招いた。

 俺は手前の寮を一瞥、彼女が示した所作に従って、噴水の縁に腰掛ける彼女の隣に腰を下ろした。


「クロアね」


 溜息を吐いて、上天を見上げた末に呟いた其の名は、あまり聞き覚えの無い名だった。

 だが、話の筋道を踏まえて、「アリステリアか」と、呟いた俺の言葉を聞いた彼女は頷いた。


「彼、強いよ。もしかしたら、ミラより強いかも知れない」


 先と変わらず空を見上げる彼女は、淡々と告げる。其の刹那、「でも」と、僅かな間を置いた彼女と目が合った。


「クロアは、ただ強いだけ。ただ強くなりたいだけ」


 蒼穹より淡い白藍色の真摯な瞳を呉れる彼女の誠の心が宿る言葉だった様に思う。


「目的なんて、ないんじゃないかな」


 此処を彩る灯火に揺れる彼女の双眸は、輪郭の霞んだ感情を映す。忌避とは異なる色を見る其の感情に、「然うか」と、俺は投げ掛ける言葉も見つからず、他愛も無い相槌を打った。


「薄くて軽い人って、あまり好きじゃないんだ」


 眉尻を下げて、眼前を向いた彼女は微笑を湛えた儘、麗らかな口調で告げた。

 確かな意志が宿る強い言葉だった様に思う。其の認識に触れた俺は、無意識に口を開いていた。


「彼奴は……」


 彼女の判断の正誤を疑った俺の言葉は、此の喉元を飛び出す間際に、此の意志に依って堰き止められた。

 口から飛び出した言葉は、当人の意志の統率から解き放たれて、虚空を自由自在に揺蕩う。能く能く練り上げる前の戯言を、感情の流離う儘に口に出す必要は無い。

 故に、「然うだな」と、俺は喉元まで迫り上げた文言を、彼女の心に向けた肯定で覆い隠した。


「然うなのかも知れんな」


 殊更に肯定して、自分自身の悶々とした感情さえ押し留める。余計な事を口走って仕舞うのは、俺の悪い癖だ。

 悶々と思い悩んでいる俺の傍で、話題の当事者であるモニカは何を想うのか。アリステリアとの関係は単純なものだが、彼女が抱える感情は極めて複雑な様に見受けられる。純粋な忌避では無く、何かしらの期待が込められている様にも感じた。

 或いは、他に意中の人間が居るのか。

 然う思い至った俺は、手前の思慕の形を思い出した。


「モニカは、好きな奴が居るのか」

「えっ⁉︎」


 ああ。また、余計の話だったか。

 モニカは跳ねる様に此方を見返して、驚愕に眼を見開いた。


「あ。いや。ただ疑問に思ったのだが……」


 俺は焦燥感に揺れる心を取り繕う様に、両手を左右に振った。

 だが、彼女は顔を伏せて、視線を水面に落として仕舞った。

 伏した視線は、美しく煌めく珠玉の様に揺らめく水面を泳ぐ。其の双眸の下に見える表情に浮かんだ朱は、周囲の灯火の所為なのか。彼女が、此の手の話題に慣れていない所為か。


「答え難いのならば……」

「いるよ」


 斯くして、彼女は言い切った。

 俺の言葉を遮る様に、思い切った様に彼女は言葉を吐いた。


「この学校でね。知った人」


 其れは、俺の言葉に背を押されて吐き出した言葉の様に思えた。


「想いは、伝えたのか?」


 然う聞けば、俺の糧と成り得る疑問が、次々と口を衝いて出る。知って仕舞った彼女の思慕が、俺の心に潤いを与えて呉れるのならば……。

 其の勝手な期待を背負った彼女は、瞼を閉じた儘、首を横に振った。


「まだ、無理なんだ」

「無理?」


 其の回答を噛んだ俺は、首を捻る。如何にも要領を得ない回答だったのだ。

 瞼を薄く開いて、またも水面に視線を浮かべた彼女は、「彼ね」と、達観した様に微笑を湛える。


「格好よくて、真面目で、強くて、人気があってね」


 淀まず言葉を途切らせる事も無く、彼女は想い人を想う所以を挙げ連ねる。其の間隙に、彼女は水面に這わせていた視線を擡げた。


「自分の強さに固執しない人」


 蒼穹を宿した水面の様に透き通った双眸に映った俺の姿。其の双眸が語る想い人の姿に、自分の相貌が映った刹那、俺は彼女から視線を逸らした。


「クロアとは大違いで……」


 手前の自意識過剰な心を叱責する様に、俺はアリステリアの不敵な微笑を思い浮かべる。彼とは異なる強い人間の姿。俺の知らない想い人の姿が、モニカの心を握り締めているのだ。

 憂う様に言の葉を紡ぐ彼女は、温かい光を宿した双眼を細めて笑った。


「私とは、吊り合わないんじゃないかって。ちょっと、気後れしちゃうんだ」


 然して、彼女は大きな憂悶を言葉に乗せて、宵に吐き出した。

 寮生の談笑は大きく、噴水から噴き上がる流水が奏でる風雅な旋律が埋め尽くす中、俺は言葉を失くして此処に在った。

 其の様な想い方は、俺の想像の範疇に無かった。

 そもそもの話として、俺は其処に至る可能性を秘めた分岐点で、独り孤独に思い悩んでいる状況だった。

 畏敬の念か恋情か分からない思慕の正体さえ掴めない儘、脚を上げる事すら儘ならない状況で、彼女の憂鬱に寄り添える筈も無かった。

 然しだ。仮に、俺が斯く状況に置かれたのならば、如何だろう。自分の思慕が、明確に慕情だと判断できたのならば……。


「俺ならば、伝えて仕舞うな」

「え?」


 無知であるが故に、口に出せる戯言もある。恋情を知らない儘、此処で彼女と顔を合わせる俺だからこそ、堂々と告げられる純粋な戯言だ。


「俺には良く分からないが、同じ学校の生徒なのだろう?」


 モニカは呆気に取られた様に眼を見開いた儘、俺の問いに対して首を縦に振った。


「ならば、相手も同じ立場の人間ではないか」


 然り而して、他者が内懐に秘めた感情を確実に推し量る方法など無いのだろう。


「吊り合うか否かは問題でなく、自分の想いの問題……」


 手前の言葉を手前で噛み締める暇、俺は眼前の少女の澄んだ灯火が揺れる双眸を見据えた。


「モニカが、其奴を好いているか否かの問題だろう」


 然うだ。自分が抱え込んだ感情の正体を見破れたのならば、手前が見据える分岐路の一方は決まる。


「本当に、好きなのか否か。其れが明確ならば、迷う事は無いさ」


 其の分岐路を踏み締める最初の一歩は、なかなか踏み出し難いのだろう。モニカの話を聞いて、斯く思う。だが、いまの俺の状況が打破できたのならば、俺は直ぐ様に一歩を踏み出せる筈だ。辿る分岐路を見定めたのならば、いとも容易く未来は訪れる筈だ。

 然して、俺は呆然と此方を見詰める少女の姿に、意識を移した。


「じゃあさ……」

「ん」


 眉尻を下げて、暫しの間を置いた彼女は、徐に口を開いた。


「周りの人に、二人が釣り合ってないって思われたら?」


 モニカは切羽詰まった様に、語調を強めて問い掛ける。


「相手にも迷惑が掛かるかも……」


 もの憂げな様子で、他者の視線を気に掛ける少女は、変わらず此方に視線を向ける。其の問いを受けた俺の視線は、モニカの撫子色の髪を超えて寮を捉えた。

 吊り合っていない人間と連れ歩いて、相手に迷惑が掛かる可能性を憂慮しているのか。またまた、考えた事も無かった。

 俺が斯く在れば、如何おもうか。

 暫くの間、脳裏に思い描いた空想戯曲。似た様な状況を想定して、幾星霜の時を経ても、変わらず想い描き続けた薬屋の娘を相手に、俺は空想の双翼を羽撃かせる。ひとつひとつの感情を大切に、「然うだな」と、俺は口を開いた。


「恋は盲目と言うのならば、俺は其れで良いと思うがな」


 纏める前に紡いだ言葉に、「え」と、モニカは疑問符を口に出す。


「モニカの想い人は、強くて芯のある男なのだろう?」


 俺の眼前で、モニカは力強く頷く。


「思うに、其奴は人様の視線など意に介さない筈だ」


 人様の脳裏を読む技量に欠けた俺は、手前が培った脳裏を吐き出した。

 他の同期諸君より強い自信がある。其の俺が抱いた感想が、俺を応援して呉れる彼女の役に立つのであれば……。


「俺ならば、然うだ」


 此の意志は、うそ偽りの無い誠の心を映していた。

 然して、モニカの双眸に居る俺は、慌てて両手を横に振った。


「ああ。すまん。慕情に疎い野郎の戯言……」

「ううん」


 俺の謝辞の語尾を掻き消したモニカの声音。彼女は、酷く大袈裟に首を横に振った。

 然うして、暗々とした宵闇に花開いた満面の笑顔には、時の渓流さえ脚を止めて振り向いた。


「ミラが言うんだから、間違いないよ」

「お、おお。期待が重いな……」


 笑顔は崩さず、此方を見上げて胸元で両手を組み合わせた少女は、宵の風に吹かれて横髪を靡かせた。


「ミラは、そうなんだね」

「ああ。俺はな」


 飽くまでも、免罪符を冠した意見だが、多かれ少なかれ彼女の役に立ったのだろうか。だが、其れは彼女の表情に咲いた満開の笑顔を見れば、一目瞭然だった。

 水辺に咲いた一輪の撫子色の花は、小さな掌で手前の心を包み込む。彼女の熱を帯びた視線は、俺の瞳を捉えた儘で……。


「あと少し悩んだら、きっと伝えるね」


 其の決意の奔流に揉まれた刹那、俺の心は濁流の渦中で躍動した。

 色艶よく火照った頰と、宝玉を宿した清らかな双眸に見た決意は、誰某に差し向けられた代物なのか。俺の知り得ない人間に、慎ましく捧げられた慕情だった。


「あ、ああ。是非とも頑張って呉れ」


 だが、先程から感じていた違和感の正体は……。

 然う思い悩んだ所で、俺は強く歯を軋ませた。

 いや。甚だしい勘違いだ。未熟な精神を持つ人間様の煩悩が生んだ疑念が、此の心から此の意識に、此の身体に伝播したに過ぎない。


「うん」


 モニカの微笑。モニカの紅潮する頬。俺は堪らず、彼女から視線を逸らした。

 勘違いだ。然うとも。勘違いに違いない。彼女の想い人が、俺の筈は無いのだ。能く能く考えたら分かる事だろう。慕情を抱く想い人に、斯くの如き相談を持ち掛ける筈が……。


「ッ!」

「ミラ?」


 閉塞した喉元から漏れた声音を受けて、小首を傾げた少女に、「いや」と、俺は曖昧な返事を返した。

 然うする他に無かった。

 脳裏を過ぎった衝撃に、勇猛な心の臓は猛々しく吠える。平静を装う暇も無く、俺は視線を手前の膝に落とした。

 想い人か否か分からない相手とは言え、俺も同じ事を考えていたのだ。思い悩んだ挙句に、自明な解が得られないのならば、カノン本人を頼れば良い。分からないのならば、思慕の矛先で微笑む彼女に問い掛けたら良い。彼女は、何時も其処に居るのだと、俺は心の奥底で何度も反芻していたのだ。

 此の状況とは異なるのだが、似た様な状況を思えば、俺の鼓動は殊更に喧しく喚く。


「……」


 だが、碌に話した事も無い少女の本心は見透かせず、俺は其の御心を問い質す勇気さえ振り絞れない。他者が抱える明確な思慕。其奴が呉れた不明確な可能性を問う難しさを、いま如実に感じた。


「大丈夫?」


 俺の相貌を覗き込む様に語り掛ける少女の双眸に見た俺は、酷い表情を浮かべていた様に思う。其の表情を変えず、「ああ」と、俺は懸命に口を開いた。


「流石に疲れた様だ」

「あ。ごめんね。引き留めちゃって……」


 焦りの色を浮かべた少女を見据えて、「いや」と、俺は彼女の言葉を遮った。


「同じ住居の誼みだ。何時でも話し掛けて呉れて構わないさ」


 然うして、俺は焦燥感を押し殺す様に、噴水の縁に手を据えて勢い良く立ち上がった。

 其の様子を見ていた彼女も、「やったあ」と、力の抜けた声音で呟いて追従する。


「帰ろっか」

「然うだな」


 斯くして、モニカは身体を反転させて、後方に聳える第一棟に向かって歩を進める。何処に向かうのか疑問に思った刹那、俺は思い至った。


「モニカ。第一寮なのか?」


 此方を見返した彼女は、「うん」と、端的に答える。


「実は、ミラの部屋の隣なんだよ」

「左様か……」


 喜怒哀楽の激しい今宵の逢瀬だ。俺は大きく息を吐いた後、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 いまのいま知った驚嘆に値する事実だった。


「声を掛けようか迷っててさ。今日、やっと話せたんだ」


 モニカは眉尻を下げた儘、嬉しそうに顔を綻ばせて笑う。


「気が付かなかった」


 然して、俺は彼女の横に並んだ。其の様であれば、斯く様に共に帰ろう。

 斯くして、麗らかな少女と共に辿る帰路を吹き抜ける小夜嵐は、背後から強く吹き付ける。さざめく木々が奏でる音色が心地好い此処で、モニカは横髪を梳いた。


「風が強いね」

「然うだな。障壁が薄い状態なのだろうさ」


 睨め付けた上天を覆う魔力障壁が生み出す七色の光沢は、宵闇の黒に掻き消されていた。

 内郭の外側で颶風が吹いている時は、内郭の空気循環を促す絶好の機会だ。其の折には、総統府の令に依って魔力障壁の強度を落とす。何れは構造を学びたい技術のひとつだが、相当な意識統率力が必要との噂を、何時か聞いた。

 黙して思索を巡らせた儘、俺は風に靡いて目を隠す前髪を幾度も掻き分けた。

 髪に遮られて歪んだ視界の先には、第一棟の入り口が在る。俺は隣人より前に進んで、風に揺れる第一棟の硝子扉を早々に引き開けた。


「あ。ありがと」


 モニカは礼を述べて、早足に入り口を潜る。眼前を通り過ぎた其の背を見据えて、俺も同様に扉を潜り抜けた。

 然して、視界を埋め尽くした眩い光に、俺は目を細めた。

 噴水広場とは打って変わって眩い光に満ち満ちた此処は、三棟ある寮の第一棟。三棟の内で唯一、男女が共用している棟だ。広場から第一棟に向かって左側が、女生徒専用の第二棟。右側が男生徒専用の第三棟だ。共用の第一棟も、男女の生活区画は半々に分かれているのだが、入り口の近辺には仲睦まじい男女の姿が散見された。


「お。ミラだ」

「お疲れさま!」


 靴箱の奥で楽し気に談笑していた男女ひと組が、此方の存在に気が付くや否や、他愛ない挨拶を呉れる。何度か話した覚えのある彼等に向かって、「おう」と、俺は足は止めず、手を挙げて応えた。

 然うして、場所は靴箱の前。手前の靴箱の蓋に手を掛けた儘、見返した背後に居た少女は、靴箱の前に屈んで、手前の膝下まで覆う革靴の留め具を緩めていた。

 俺は視線を戻して、取り出した館内用の履物を真紅の絨毯が敷かれた床の上に置く。次いで、腰を折って手前の靴の金具に手を掛けた。

 手間だが、戦の場で脱げて仕舞うのは頂けない。剣戟に依る直接攻撃を扱う俺の場合は、特に注意が要る。

 固く留められた複数個の金具を外して、一足の金具を外し終えた頃には、モニカは俺の背後で手前の履物を携えていた。


「ミラ。大変そうだね……」

「なあに。いつもの事だ」


 慣れて仕舞えば、どうという事は無い。俺は脱いだ靴を靴箱に放り込んで、持ち上げていた蓋を閉じる。館内用の履物に足を通しながら、横目で見る少女も同様に、手前の長靴を靴箱に仕舞い込んでいた。

 ふと、彼女が床に置いた館内用の履物に目を遣れば、其奴には踵が無く、彼女の髪の色に似た可愛らしい装飾が施されていた。

 俺の味気ない暗色の館内用の靴とは大違いだ。


「おまたせ」


 モニカは振り向き様に、履物に暗黒色の薄布で覆われた脚を差し込んで、真っ直ぐに姿勢を正した。


「ん」


 俺が身体を捻れば、彼女は横に付き従う様に身体を回した。

 然して、人の行き交う玄関を抜けて、談笑に耽る男女を一瞥、俺等は自室を目指す。彼女の部屋が俺の部屋と隣接しているのならば、二人とも向かう先は変わらない。

 手前の記憶を頼りに、俺は第一棟の部屋の区画を思い浮かべた。

 俺の部屋は、男生徒用の区画の最端に位置する角部屋だ。其奴に対して、通路を挟んで隣の部屋から女生徒用の区画に指定されている。彼女の話を踏まえれば、モニカの部屋は女生徒用の区画の其の最端に位置するのだろう。

 然うして、目に見えぬ地図を辿る暇、此方の死角から出て来た男女と目が合った。


「お疲れ様っす」

「ミラ。明日も頑張ってね!」


 生徒諸兄諸姉と擦れ違う度に、彼等は律儀に今日の奮闘を労って呉れる。彼等が言葉を呉れる毎に、俺は何時もの様に礼の言葉を返した。


「いつも、こんな感じなの?」


 階段に差し掛かる頃、人影が途絶えた此処で、僅かに顔を引き攣らせた彼女は疑問を漏らした。

 其の言葉を噛み砕いて、「然うだな」と、俺は弧を描いた白花色の天井を見上げた。


「毎日の様に声を掛けて呉れる。有難い話だ」


 沢山の寮生が、毎日の様に激励の言葉や挨拶を呉れる。擦れ違い様に、沢山の労いの言葉を呉れる。此処は、優しい人間に溢れた場所だ。

 だが、然うだな。能く能く思えば、然うだった。

 俺は持ち上がる視線を落として、手前の口元を緩めた。


「モニカだけかも知れないな」

「え?」

「此の寮で、楽しく話が出来た人は……」


 シャルとアルスの様に、他愛ない会話が出来る人間が居た。

 此の寮に、たったの一人だけ。其奴が、モニカだった。

 此処で、挨拶以外の他愛ない会話を呉れた初めての人間かも知れない。ひと付き合いの方法が分からない俺に、彼女の方から話し掛けて呉れた。

 真紅の絨毯に彩られた階段に脚を掛けて、一段一段を登って行く暇、モニカの靴の音は止んでいた。

 然し、直ぐに其の音は背中を叩く。俺の靴の音より忙しなく響いた末に、彼女は俺の横に並んだ。


「ミラ」


 俺の名を呼ぶ彼女の声は、麗らかに木霊する。応答の言葉を漏らして、無意識に見遣った其処には、憂いを纏った彼女の横顔が在った。


「好きな人はいる?」


 手前の足元を見詰めた儘、静かに吐いた問い掛けに、俺は彼女の顔を二度見した。


「随分、唐突な質問だな……」

「ちょっと、気になったんだ」


 一寸とは言うが……。

 モニカの面貌を見る限り、何らかの大きな欲に満ち溢れている様に見受けられる。此処は、素直に答えるのが吉なのだろうが……。

 悩んだ末に俺は唸り、又しても悩み込んだ。

 好きな奴が居るか否か。其奴は散々に悩んだ挙句、決して答えに辿り着かない件の問答に似ていた。


「然うだなあ……」


 然れば、何時もの様に悩んで終いだ。思索を巡らせているかの様な言葉を吐いたが、手前の脳味噌は思考を放棄していた。

 いま此処で、確かに頷ける答えは出て来ないのだろう。然らば、深く考える必要も無い。

 然うとも。ありの儘を告げたら良いのだ。

 斯くて、ひとつ息を吸った俺は、重たい口を開いた。


「正直な話、分からないな」

「分からない?」


 俺は首を傾げる様に頷くと、彼女は静かに息を呑んだ。


「尊敬している奴が居てな」


 カノン・エクスタシア。俺と同い歳で、一人で薬屋を経営している療養魔法に長けた少女だ。幼少の時分、共に研鑽を重ねた日々が塗り重ねた思慕の情は、間違い無く此処に宿る。


「畏敬の念さえ抱いている奴なのだが……」


 俺は言葉を区切って、漂う空気を大きく吸い込んだ。


「いま其の感情が何者なのか分からない」


 透き通る様な白金色の繊細な髪。華奢な肢体と麗らかな声音に相反する強靭な精神と、決して弛まぬ立派な信条が魅せる彼女の全容は、世情から隔絶された形容し難い美を孕む。


「尊敬の念とは斯くの如き感情なのか。果たして、他の異なる異色な感情なのか……」


 彼女の包括的な美を尊ぶ感情は、畏敬の念なのか。或いは、慕情なのか。好意の種別さえ曖昧な感情に振り回される暇、俺は縦長の硝子窓に映る灯火の明光を眺めた。


「モニカの言う様に、恋情かも分からない」


 然して、吸い込んだ空気を目一杯に吐いた俺の隣を征く少女は、「そっか」と、囁く様に呟いた。


「じゃあ、まだ恋じゃないよ」

「え?」


 心臓が大きく跳ねた。

 強く脈動した心臓が押し出した吐息に紛れて、俺は疑問を呈した。

 彼女の崩れない笑顔に見た得体の知れない覇気に、俺は気圧される。手前の脚は止まり、視線で追い掛ける彼女との距離は徐々に開いていく。其の末に、俺の先を征く彼女も脚を止めて、此方を振り返った。


「私には好きな人がいる。初めは、好きな理由なんて分からなかった」


 淡々とした口調で、熱を帯びた内懐を語って聞かせる彼女の澄み切った白藍色の双眸は、人心を惑わす魅惑的な色を宿して……。


「でも、好きだったんだ」


 一切の嘘も無い言葉だった様に思う。其の言葉を最後に、彼女は視線を落とした。


「なんでだろうね。私も分からないけど……」


 赤紅を彷徨う視線の先に見透かす情景は、果たして何色の過去を映すのか。


「恋ってさ。理由があっても無くても、意識して初めて恋なんじゃないかな」


 面と向かう俺は吐き出せる言葉も無く、ただ寡黙に彼女の言葉を意識に投げ掛ける他に無かった。


「恋を自覚した時に、人は初めて恋をするんだ」

「自覚……」


 落としていた視線を擡げて、「うん」と、小さく頷いた彼女は蠱惑的な目を細めた。


「恋か恋じゃないか。深く考えなくても良いんじゃないかな」


 然うして、彼女は殊更に笑った。

 断続的に襲い来る衝撃は、俺の喉を強く締め付ける。先に絞り出した言葉も、何ら意味を成さない反復に過ぎなかった。

 何事の言葉も浮かばない儘、呆けて彼女の表情を見据える暇、「だからね」と、彼女は俺の言葉を待たず口を開いた。


「あまり深く考えないで聞いて欲しいんだ」

「何……」


 しなやかな肢体を翻して階段を駆け上がった彼女は、真白い格子に縁取られた縦長の硝子窓に駆け寄った。

 静寂さえ鼓膜に突き刺さる此処で、彼女は何も語らず宵闇に視線を這わせる。窓際の手摺に掛ける指は、心做しか震えている様に見えた。


「も、モニカ?」


 暫くの停滞に居た堪れず、沈黙を破って一歩を踏み出した刹那、俺の接近を拒む様に彼女の後ろ髪は揺れた。

 時の歯車に頸木が噛んだ瞬間、振り返った彼女の視線の彼方に見た揺れる瞳は、真っ直ぐ此方を見据えていて……。


「好きです」


 其の純粋な言葉は、俺の暗い意識を圧倒的な白に塗り潰した。

 彼女の真摯な瞳を疑う余地は無い。凡ゆる雑念が割り込む空白も無い。其れは、圧倒的な白だ。彼女の言葉の意味さえ曖昧な輪郭を残して消え去って仕舞った。


「……」


 開く間際の唇が震えて言葉は詰まり、段差を踏み締めた脚は止まった儘、地面に根を張っているかの様に微動だにしなかった。


「ミラ。固まってる」


 モニカは、嫌らしい微笑を湛えて笑う。震える拳を握り締めた俺は、「あ」と、唐突に喉元を突き破った言葉に驚いて、また言葉を仕舞い込んで息を呑んだ。


「当たり前だろうが……」


 其の台本に無い台詞は、震えていた様に思う。

 初めて出会った時、彼女は此の様だったか。噴水広場で声を掛けて呉れた時、彼女は斯くの如き妖艶な表情を浮かべていたか。切り取られた一枚の情景が、在りし日の彼女の姿を掻き消した。

 俺の戸惑う様子を見て、「ふふ」と、彼女は声を漏らして笑う。


「固まりたいのは、私の方なんだよ」


 俺の脳味噌に鮮烈な記憶を植え付けた彼女は、其の表情に困惑の色を浮かべた。


「ほら。こんなに震えてる」


 吐き出した言葉を掴み取る様に伸ばした彼女の手は、やはり震えていた。

 此の身体を震わせる焦燥感は、止め処なく溢れ出る。感情の源泉は枯渇する気配も無く、満々と此の身を満たした。


「どう、かな?」

「如何って……」

「ミラは、私のこと好き?」


 未だに、虚か誠か判断できない彼女の慕情を想い、濁した俺の言葉を、彼女は無情にも切り捨てた。


「深く考えないで良いよ」


 優しさの中に宿る意志は、何かしらの解答を求める強い強制力を孕んでいた。

 思惟する事さえ儘ならない俺に……。


「分からない……」


 然うして、彼女の真摯な視線から顔を逸らして、地に視線を這わせて、俺は素直に呟いた。

 数刻前の俺が、数回しか面識の無い彼女に思慕を抱いている筈も無かった。

 だが、如何だ。いま明確に思慕を抱いていない証拠は無かった。

 此の動揺する心は何だ。乾いた口腔は。吹き出す焦燥感は。震える握り拳は。額を伝う汗は。恋情を抱いていない筈の相手を見て、激しく脈打つ心臓は、いったい何なのだ。此れ等が何に繋がる反応なのか、其の一切が分からない状況で吐き出せる明確な言葉など無かった。

 其の矮小な命を見下ろして、「だよね」と、笑顔を浮かべた彼女は、身体的に精神的に弛緩した様に窓枠に寄り掛かる。まるで、俺の曖昧な解答を予想していたかの様だった。


「じゃあ。ミラが好きかも知れない人のことは?」


 矢継ぎ早に投げ掛けられる質問に割り当てられる脳内資源は、彼女が呉れた途方も無い想いの奔流に占有されていた。

 如何にか割り当てた僅かな脳味噌も、直ぐに枯れて仕舞う。


「駄目だ。全く分からない……」


 然うして、捻り出した言葉は、黒白を弁せぬ貧弱な心の証左だった。

 思慕も、恋情も、畏敬の念も、誰に紐付く感情なのか。其れ等が、何の様な色を宿すのか。其の輪郭さえ霞んで、此の手に掴む未来は遠く霞んで仕舞った。

 斯くして、「なら」と、彼女は笑う。


「どっちも、ちょっとだけ似た感情だね」


 窓枠に凭れた身体を揺らして、彼女は此方に歩み寄った。


「ミラ。ごめんね」

「い、いや」


 階段を数段おりて、モニカは俺の顔を覗き込む様に腰を曲げる。彼女に対する俺は、恐らく疲れた表情を浮かべているのだろう。モニカは僅かに顔を歪めて、また顔を上げた。


「いましかないと思ったんだ」


 俺は、彼女を追い掛ける様に視線を擡げる。


「ミラと話してさ。不思議だけど、いまならば言える気がしたんだ」


 事の所以を言い切った後に、「ううん」と、彼女は何事か気が付いた様に大きく首を振った。


「ミラにも、そういう人がいるって聞いてさ……」


 カノン。俺が思慕を抱く人。其の名も知らない人間の存在が気に掛かって、モニカは……。


「言いたくて、仕方なかったんだ」


 然うして、彼女は朗らかに笑った。


「こんな時なのに、ごめんね」

「いや。良いんだ……」


 脳味噌から血の気が引いている感覚を覚えて、俺は顔を片手で覆い隠す。平静を求めて深呼吸ひとつ、「俺も」と、言葉を吐き出した瞬間、此の喉が詰まった。


「悪い。まだ何も分からない状態で……」

「うん」


 閉じた瞼の裏に透ける薄ら白い灯火に映る姿は、眼前に居る彼女の顔だった。


「斯くの如き経験は、初めてで……」


 薄眼を開けて、眼前に居る筈のモニカを見遣れば、瞼の裏に見た優しい彼女の微笑が在った。


「大丈夫だよ」


 然して、彼女は俺から数段ほど離れた距離で首を傾けた。


「私は、いつまでも待ってる」

「モニカ……」


 宵風を浴びて軋んだ窓硝子を背後に、「でもね」と、風の叫声さえ搔き消す旋律を奏でた彼女は、ひとつ距離を詰めた。


「もう我慢しないし、遠慮もしないよ」


 もうひとつ。横髪を揺らして、丈の短い裾を揺らして、彼女は震えながら其の距離を狭める。此の逢瀬を隔てる壁は無かった。

 然うして、俺の眼前に揺れる姿ひとつ。此の手の届く距離に、彼女の澄んだ双眸が並んだ。


「ごめんね」

「ッ!」


 彼女の唇が小さく開いた次の瞬間、俺はモニカの体温を知った。

 空を舞う横髪を追い掛ける余裕は無く、開いた此の口を閉じる余裕も無かった。

 肩口に掛かる彼女の重み。彼女の掌から俺の胸元に徐々に伝わる体温。身体で感じる彼女の震え。鼻腔に触れる懐かしく甘い彼女の薫香。左耳を撫でる彼女の髪。其の全てが、彼女の仕出かした行為を語っていた。


「私は、ミラが好きだよ」


 其の言葉には、何かしらの意図が孕んでいた様に思う。だが、いま其の真意を汲み取れる筈も無く、心さえ腑抜けて仕舞った俺に出来る事は無かった。

 雄々しく猛る鼓動を感じ、弱々しく震える彼女の身体を支えた儘、ただ寡黙に彼女の熱を想って、俺は此処に在った。

 風は凪いで、遠方より聞こえる男女の談笑が、此の逢瀬を彩る。脆弱な此の心を惑わせる彼女は、俺の良く知る幼馴染に紐付く芳しい薫香を纏い、俺の動揺を殊更に駆り立てた。

 此の手に頼らず、華奢で柔い彼女の身体を、此の肌が此の意識に訴える。雌雄で別つ二人の性差が生んだ生物の神秘。斯くも庇護欲に駆られるのは、男の生得的な性質の成せる業なのか。

 既の所で堪える情動。此の庇護欲を糧に、彼女を抱き留めて仕舞えば、此の衝動は箍を外して仕舞う可能性が在った。

 言葉も無く、永遠とさえ紛う刹那の逢瀬。其の間隙を衝いて、再び時間は動き始める。身体の奥に融ける様に、此の身が預かっていた圧は消えて、此の空間は再び廻り始める。

 俺に沿う様な流線を描いた彼女は、俺の眼前に戻り、頬に朱を差した顔を逸らした。


「誰か見てたら、勘違いされちゃうね」

「ッ!」


 モニカが示唆した未来に、一種の罪悪感の様な不安を感じた俺は、慌てて背後を見返した。

 だが、其処に空蝉の影は無く、其の気配も無い。然うして、相反する様に感じた背後の気配と、響き渡る手拍子にも似た旋律を追って、此の身を翻せば、モニカの姿は忽然と消えていた。

 其の土産に響かせる旋律の奏者は、彼女なのだろう。目に見えない姿を追って、乳白色の天井を見上げた刹那、其の旋律は鳴りを潜めた。


「……」


 訪れた寸刻の停滞。彼女の気配を感じた儘、其の姿を手摺の奥に見透かして佇む暇、彼女は手摺の縁から顔を覗かせた。


「ミラ」


 垂れ下がる彼女の横髪と後ろ髪が、滑らかに揺れる。未だに、頬に朱を滲ませる彼女は笑顔を浮かべた儘、徐に口を開いた。


「また明日ね」


 斯くして、彼女は再び手摺の奥に姿を消した。

 鼓膜を叩く軽快な靴の音が、遂に消えて行く階上の奥を見透かして、俺は寡黙に此処に在った。


「モニカ……」


 未だに俺の胸元に残る熱は、彼女の体温を物語る。微かな残り香は、此処に在った逢瀬の証明だった。

 何という因果か。疾風の様に俺の意識に現れて、烈火の如く意識を掻き回し、閃光の様に消えて仕舞った彼女を想って、俺は手摺に倒れる様に身体を預けた。

 夢か現か。彼女の置き土産は、確かな逢瀬の名残と手前の脳は理解していたが、此の疑心を理路整然と説き伏せる事は叶わない。高鳴る鼓動も其の儘に、俺は血の気の引いた顔を覆った。


「あれ。ミラじゃん」


 然して、広い空間に反響して暈けた声音が、俺の背中を叩いた。

 何処かで聞いた覚えのある其の声の方を見遣れば、其処には玄関先で見掛けた男女の姿が在った。


「うわっ!」

「ちょ、大丈夫か……?」


 彼等と視線が合った瞬間、女生徒は大袈裟に驚いて、口元を手で覆い隠した。

 隣の男生徒は、あからさまに表情を曇らせている。


「何の事だ」


 聞き返した次の間に、「顔」と、男は俺を指差す。


「蒼白だぞ?」


 然うして、俺は漸く理解した。

 成る程。人様から見ても、然うなのか。

 憂げな様子を伺わせる二人を目の端に、俺は手摺に預けていた身体を起こした。


「いや。流石に疲れた」


 嘘では無いのだが、今し方の逢瀬を語り聞かせる理由も無く、俺は口角を吊り上げて適当に話を濁した。

 然して、硬い表情を崩した彼は、「ああ」と、安堵の溜息を吐いた。


「明日に備えて、今日は早めに寝た方が良いぞ」

「ああ。然うだな」


 言葉の最後に礼を付け加えて、俺は早々に此の身を翻す。彼等の視線と、別れの挨拶に背を押されながら、俺は片手を挙げた。

 如何したものか。段差を登る俺の脚は、僅かに震えていた。

 身体的な疲労。精神的な疲労。然うして、先程の因果。蓄積した身体的な疲労ならば、一晩も休めば回復する。だが、精神的な疲労は、然う容易く処理できる代物では無い。況してや、其奴が未知の経験が呉れた疲労であれば、尚更だ。

 三階から四階を辿る間も、此の脚の震えは治らなかった。

 然うして、漸く辿り着いた五階で、俺は壁際から覗き込む様に、手前の自室に続く廊下を眺める。端から端まで隈なく見渡しても、モニカの姿は見当たらない。恐らく、自分の部屋に戻ったのだろう。

 自然と口を衝いて出る溜息は、虚無を纏って虚空に融けて消える。其の往生際を弁えた死に様は、残響さえ残さず、俺の優柔不断な性分とは相反していた。

 寝静まる噴水広場を望む此処で、俺は背丈の数倍も上に見上げる天井を飾る円弧を眺める。思い煩う所以は、先と変わらない。真紅を踏み締める脚は止めず、乳白色の天井に見透かす情景は、先程の逢瀬に依る現実の頸木だ。

 架空の絵空事だったのならば、何も思い悩まず此処に居たのだろう。だが、唐突な来訪者は疑う余地も無く、俺に如何ともし難い枷を嵌めた。

 堂々巡りの問答は、まるで巡り巡る滑車の様に繰り返される。為す術を見出せない状況で、俺は黙して脚を止めた。

 僅かな逡巡の末、徐に見据えた部屋の表札に記された其の名は、永遠の記憶となって俺の意識に刻み込まれるのだろうか。


「モニカ……リトゥール」


 誰にも届かぬ声音で囁いた其の名を冠する人間は、男生徒用の区画の最端に位置する自室の直ぐ隣。通路を挟んだ女生徒用の区画の最端に住んでいた。

 暫くの間、俺は其の名を眺め続けていた。

 先の邂逅。今朝の競技場の入退場口で見掛けた姿。今宵の逢瀬。彼女に係る記憶を手繰り寄せる事は容易かった。

 カノンと描き紡いだ過去の逢瀬と比べて仕舞えば、其の情報量は圧倒的に少ない。だが、如何だ。幾星霜の人生を埋め尽くす様に巣食う憂愁は、ほんの数日の付き合いに依って生み出された代物だった。

 斯くして、俺は再び前を向いた。

 彼女の居所から十歩も歩けば、俺の居所を辿れる。装飾過多な赤銅色の鉄扉を押し開いて、俺は早々に後ろ手で扉を閉めた。

 仄暗い空間に差し込んだ寮生用の訓練場を照らす灯火の光を頼りに、俺は魔力系統の操作盤の前に立つ。数多の点滅器のひとつを下げて、俺は手前の寝具に倒れ込む様に寝転がった。

 硝子窓から差し込んだ僅かな光が照らす天井。訓練場から聞こえる生徒等の談笑。時おり響く衝撃音と、目を眩ませる強い閃光は、明日の模擬戦闘訓練の参加者が放った魔力攻撃だろう。

 周囲の変遷に思索を巡らせる暇、気味の良い音を鳴らした灯火が天井を暖色に染め上げた。

 然うして、俺は柔らかい光を遮る様に、片腕で手前の目を覆った。

 何時か。何時かの日に、此の憂愁と思慕に黒白を示す時が来る。モニカは、然う言っていた。

 煩悶の深淵に沈まず、内懐が恋情を感じた瞬間こそが、人間が慕情を抱く証明だと……。


ー私は、ミラが好きだよー


「ッ!」


 自室にも拘わらず、居た堪れない感情に埋め尽くされて、俺は傍に転がっていた毛布を強く引き寄せた。


「何故。何故、俺なんだ……」


 其の答えは、彼女の口から聞いていた筈だった。

 だが、何度でも問い質したく思う此の焦燥感を誤魔化す事は出来なかった。


「カノン」


 唇を震わせた其の名を冠した少女の顔が、僅かな朱を映す瞼の裏側に思い浮かぶ。強い思慕の象徴。俺の前を征く少女。其の尊い存在に、俺は問い掛ける。


「俺は、如何すれば良いのか……」


 掠れる声は、彼女の心を叩かず、仄暗い自室に刹那の残響を残して、霧散する。然うして、独り思い悩んだ儘、俺は暗い深淵に沈み込んで行くのだ。

 俺は深い深い憂愁が拵えた闇に、其の源泉を拵えた二人の笑顔を思い描いた。

更新が遅れて申し訳ございません。

実家の愛猫に逝かれて、すっかり滅入っておりましたが、だいぶ落ち着きました。

今後とも、本作品を宜しくお願い致します。


さて。伏兵が居ました。

模擬戦闘訓練の真っ最中である彼に、大きな影響が出そうな出なさそうな。

何れにせよ、立ち塞がる壁は何度も越えて来た男です。どんな結果でも、何らかの答えは出すのでしょう。

では、また次話で。

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