16話 「狼のなく夜」
「いててて」
ベランダに叩きつけられた体が悲鳴を上げる。
高度差はほとんどなかったがそのダメージは想像以上だった。
普段余り体を鍛えていなかったのが呼んだ不幸だが、それ以上に目の前のガラスの先にあるものを見据えてそんな気持ちは吹き飛んだ。
僕の家は前ヨウと別れた道を左に進んで最初の曲がり角を曲がって五軒目のところにある。
僕の部屋から見て左斜め前には三角屋根の洋風の家が建っていた。
つまりここは、ヨウの家だと思われる。
さっきマップでも確認したので正解率は80%はあるだろう。
「ヨウ!開けて!」
そう言いながら窓を叩く。
返事はない。でも、窓の奥からはかすかに物音が聞こえた。
もう僕の頼りの綱はここしか残っていなかった。
ここで退けば再び心は折れ、絶望の海をさまようだろう。
ダンッ!
不意に耳の真横で大きな音がした。
見るとそこにはカッターが刃だけを窓のこちら側に覗かせた状態で突き刺さっていた。
瞬時に血の気が引きかける。
しかし、そんなことで諦められるほど僕の想いはやわじゃない。
カッターの刃を指でつかみへし折る。
窓の向こう側で本体が地面に転がる戸が聞こえた。
「無茶するけど、ごめんね」
手をグーに握りカッターが刺さっていたところに全力でパンチを繰り出す。
さすがに一発で砕けることはなかったが、それを何度も何度も繰り返す。
回数を重ねる度にヒビは波紋状に広がっていき、ついには穴が開いた。
その穴から腕を突っ込み内側から鍵を開ける。破片が腕に突き刺さり血が流れ出ていた。
窓を横にスライドさせて強引に中に入る。
カーテンの向こう側に光は灯っておらず薄暗い空間に淀んだ半月が二つ浮かんでいるように見えた。
その月の周囲には夜の黒とは別の沈んだ闇が渦巻いている。
その瘴気には見覚えがあった。
「ヨウ!」
もう目の前にまで迫ったその影に飛び掛るように近づこうとする。
「近寄らないで!これ以上来られたら、もう、無理……」
そう言う影の中央付近に無機質な光を放つ刃物が握られていた。
急ぐ足を一旦止めて、あたりを見渡しながらゆっくりと歩を進める。
もういまさら刃物にビビることはない。もう十分見慣れたし、それ以上に目の前に迫ったヨウから退くなんて考えられなかった。
一歩一歩部屋の中をゆっくりと歩く。
ベッドの上には愛川と書かれた体操服や、昼食時に見たことのあるスプーンが転がっている。
「テル!やめて!」
壁の端に追い詰められたヨウは刃物を突き出しながらそう叫ぶ。その手はガタガタと震えている。
さらに一歩進んだところでヨウは圧縮されたバネのように勢いよく飛び出した。
僕はそれを優しく包み込むように抱きしめた。
腹部に刃物が刺さるがそんなことは問題ではなかった。
「ごめん、ヨウ」
密着するヨウの背中に手を回しながらやさしく呟く。
「なんでなんでなんで、なんで来ちゃったの!テルが私を思って行動してくれたのにそれを憎んじゃうような最悪な女だよ!」
腕の中で暴れながらヨウは叫ぶ。
「自分の中ではテルのやさしさが分かってるのに、体が言うことを利いてくれないの。もう私、自分がよく分からないよ!」
ヨウは泣きながらすがり付いてくる。
今できることはヨウの気がすむまでこうやっていることだと思う。
その途中で死んでしまう可能性も無きにしも非ずだが、それ以外に手段が浮かばない。
腹部では何度もカッターが突き刺されているような感触が伝わってくる。
「うぅぅ……うぅぅっ……」
ヨウは本格的に泣き始めた。僕の服を掴む手に力が入り、鎖骨に指が食い込む。
片手は腰に回したままそっと頭を撫でる。
「離れたくないよぉ……ずっとこうやっていたいよぉ……」
「僕もだよ。もうどっか行くなんて悲しいこと言わないでよ」
「ごめん。でも私、自分を抑えれなかった。こんなことになるって分かってたのに、みんな悲しむって分かってたのに」
「謝らなくていいよ。悪いのは全部僕だ。ヨウがこんなになるまで放っておいて」
「テル……。それでも私のしたことは変わらないよ。もう学校に行っても白い目で見られるだけ、だからもう家から出ないようにしようかなってそしたらテルも幸せでしょう」
「それは絶対違う!」
急に大声を出したのでヨウは驚いて鎖骨にめり込む指がさらに深く突き刺さった。
僕は少し怯えた顔をしたヨウに優しく微笑みながら続けた。
「僕にとって最高の幸せはヨウと一緒にいることだよ。だから、家から出ないとか言わないでよ。もっといろんなヨウの姿を見たいよ。ヨウのいない学校なんて楽しくないよ」
そう言っているうちに自然と涙があふれ出ていた。
滲む世界に映るヨウはまだ悲しげな表情をしている。
「テルにそう言ってもらえて嬉しいよ。でも、これから先自分がどんなことをしてしまうか分からなくて怖いの。もしかしたらテルを殺してしまうかもしれない」
「そうなる前に僕がヨウのその病気を治すよ。だから何も心配しなくていい。でも、何かしてしまいそうになった時は一言いってね。いつでも相談にのるから」
「じゃあ、一個お願い聞いてもらっていい?」
「うん、なんでもするよ」
「今日、朝までここで一緒にいてもらっていい」
「もちろんいいよ」
霞に覆われた世界の中、悲しみにくれるヨウはもうどこにもいなかった。
ヨウの周りを覆っていたドス黒い闇は消えていく。
「きゃ!」
少し正気に戻りかけたヨウは自分の手に持っていた物と、それが突き刺さっていた場所を見て驚きの声を上げる。
「テル、死なないで。やっぱり私はダメな」
「死なないし、ヨウはダメな子じゃないよ」
ヨウの言葉を遮ってそう言った。
僕は用の後ろに回した手をほどいて、一歩後ろに下がった。
薄暗くて分かりにくかったが僕のお腹に刺さったカッターナイフの周囲に血は出ていなかった。
「入れっぱなしにしてて良かった、のかな」
そう言いながら服の下から分厚い雑誌を取り出した。
表紙は滅多刺しにされ原形をとどめていない。
雑誌の下にあった僕の皮膚は貫通してきたカッターの先に少し触れて小さな血の玉が出来ていたが気にするほどでは無かった。
それよりも僕はコレを下に入れていて良かったのだろうか。
ヨウの気持ちを裏切ったことになってしまうのではないだろうか。
でもそんな考えは杞憂だったようで目の前には涙を浮かべながらも満面の笑みをするヨウが飛びかかってきていた。
「テル!ごめん!でも生きてて良かったぁ」
そう言われながら僕はヨウのベッドに押し倒される。
ふかふかの布団が僕を包み込み、柔らな優しい匂いに包まれた。
「ヨウ、手紙ありがとう。あの手紙のおかげで僕はヨウを助けることができた」
「そんな、あんなのただの未練の塊だよ」
「それでも救ってもらったことに変わりはないよ。ありがとう」
そう言って僕の上に覆いかぶさるように乗るヨウを再び抱きしめた。
「あと、最後の方に書いていた言葉の続きだけど、あれはもう少ししてから言うよ」
そう言うとヨウはまた何処か悲しげな顔を浮かべた。
「でもそれはヨウがダメだからじゃない。ただ僕がもっとヨウについて詳しくなってから。ヨウの病気を治せるようになってから言うよ」
ヨウはその言葉を聞くと顔を隠すように僕の体に強く今まで以上にくっついた。
僕は何も言わずにただその頭を撫で続けた。
ヨウの部屋は薄暗く、家と家との隙間から差し込む微かな月の光だけが僕たちを照らしている。
この光景はどこか幻想的でずっとこのまま一緒にいられるのであればそうしたい。
夜は僕の思いなんて気にしないで今日もいつもと同じように刻々と過ぎていく。
僕はそんな夜に反抗するようにさらにヨウを強く抱きしめた。
なぜか今夜は世界がゆっくり進んだ気がした。