無題
私があるリサイクルショップで手に入れたICレコーダーは相当古い部類の物だったがまだ正常に動作する物で、特に用途は決めていなかったがちょっとしたことに使えばいいと思って購入したのだった。しかし、店員のミスか、以前の所有者が記録したと思われるデータが残っていた。そのICレコーダーがどのような経緯でそのリサイクルショップに行きついたのかは分からないが、記録されていた内容はあまりにも信じられないものだった。
そのICレコーダーの記録は所有者の自己紹介から始まっていた。
私は関東地方に在る与須ヶ谷文化大学……といっても多くの人は知らない私立大学で半ば趣味のような研究に没頭する傍ら教鞭を執っている。研究の一環で日本各地の伝承や民話、都市伝説などを調査しており、今回この那崎市という寂れた都市を訪れた理由もこの地で以前から行われているという悪魔信仰に興味を持ったからに他ならない。
その悪魔信仰というのが七つの大罪の暴食に対応する悪魔、すなわち、ベルゼブブを信仰することでその年の豊穣を祈っているという都市伝説で、普通の人ならまともに取り合わないような全く信じられない話なのだが、一説によるとベルゼブブは本来豊穣の神として信仰されていたと言われており、それが何らかの形で現代まで受け継がれていたとすれば興味深い発見になる。それに、火のない所に煙は立たぬとも言う。実際にベルゼブブ信仰が行われていなくとも何らかのこの土地特有の祭事が行われているなら、それだけで私にとって調べてみる価値はあるのだ。
那崎市駅。地元の人間から市駅と呼ばれ親しまれているこの駅で実に4時間半にも及ぶ鉄道の旅がようやく終わった。簡素な一面一線のホームにこれまた粗末な小屋のような待合所から成るその無人駅は一段高くなった場所にあるようで、ホームの東側が駅のある場所より一段低い平地になっていた。そこには小さな建物が身を寄せ合うように建っていたが高層建築は見当たらなかった。そのため、ホームから正面に目を向けた時に視界を遮る物は無く雄大な山々を眺めることができた。人の住処というものは大抵開けた場所で大きく発展するため、私が住んでいる都市からでも見える山などこの山々に比べれば丘のような物に思える。とはいえ、私の場合は幸か不幸か研究と称して各地を巡る中で、田舎どころか半ば未開の地と言える場所を訪れる機会さえあったため、このような光景も見慣れたものである。むしろ、その経験からこの手の景色は近すぎると迫力はあるが美しさに欠け、遠すぎても美しくはあるが迫力はないという持論があるのだが、その点このホームからの眺めは迫力と美しさを兼ね備える丁度良い距離で素直に良い景色だと感じた。しかし、同じような景色はこの土地に来るまでの鉄道の旅で飽きるほど眺めており、今は目の前の山々によってここが山脈と山脈に挟まれた陸の孤島のような土地であることを実感させられてしまった。おまけにその山々の威容には人を寄せ付けない神々しさと表現するべきか、或いは未開の地に息づく人外の気配とでも表現すべきか、なんとも名状し難い人の身に余る雰囲気があり、どことなく不吉な予感が感じられた。
ともあれ、気持を切り替えた私は早速予約していたビジネスホテルの部屋に荷物を放り込み、フィールドワーク用のリュックサックを引っ掛けると探索に出掛けた。
駅の東側の一段低くなっている土地には小規模な商店街があったが閑散としており、中には昼間からシャッターが閉まっている店もある。また、この商店街を通っている道が幹線道路のようだが人通りは少ない。そのままの商店街に沿って北に歩いていくと10分程度でスーパーマーケットに着いたが、この間全く歩行者に出会わなかったどころか自動車の通行も無かった。普段大都市で暮らしている人からすれば、商業地区にこれほど人気が無いというのは不気味に感じるかもしれない。普段から辺境と呼べるような場所に出掛けては何日も滞在して調査を行っている私でさえ、静まり返った商店街はゴーストタウンのように感じられ、居心地が悪かった。それだけでなく街全体が薄暗く澱んだ雰囲気を纏っており、建物が密集している所為で昼間にも関わらずあちこちに在る暗がりについつい神経を尖らせてしまうことが歩いてみて分かった。それは商店街の先で見つけたスーパーマーケットも例外ではなく入り口から覗いた店内は営業しているようだったが、物を売る気があるのか怪しい程薄暗かった。しかし、これまでのところ悪魔信仰に直接関わる物どころか、怪しい点も全く見つからなかった。気味の悪い雰囲気にしても、今まで日本各地で見てきた衰退する地方都市の末路を見た程度にしか思わず、地方都市の衰退もここまで来たら絶望的だと感じただけだった。
ところで、図らずもスーパーマーケットを見つけたことで私は自分が昼食を摂っていないことに気付いた。しかし、目の前の薄気味悪いスーパーマーケットには入る気にならなかった私は駅前に喫茶店があったことを思い出しそこまで戻り遅い昼食を摂った。この喫茶店も薄暗く澱んだ雰囲気に包まれてはいたが、落ち着いた雰囲気の喫茶店だと考えれば幾分か気が楽だった。ところで、当然、私はこの店で初めてこの土地の人間に遭遇したわけで、この店唯一のウェイターである幸薄そうな青年に幾つか質問をしてみようと声をかけたのだった。ところが、こちらが驚くほどに態度が悪く、最初の質問にたった一言「知りません」と返答してからは、この土地の事に関して何を尋ねても返答してくれることは無かった。
私はこの結果を受けて行動方針を変えて住宅地を見て回ることにした。そもそも田舎では街の中心部の人が多そうな場所を無闇に歩き回って手当たり次第に話を訊くよりも、住宅地に行って昼間でも比較的家に居て暇を持て余していることが多い高齢の方に話を聞いた方が、興味深い話を聴ける可能性が高いのだ。
駅の前を横切る道に出て辺りをゆっくり眺めてみると、その道沿いには目視できる範囲にも何軒か家があることが分かり、調査するならばこの道沿いが適当かと思われた。しかし、そのこと以上に私の興味を引いたものは、丁度駅前を横切る道と駅前で直角にぶつかっている上りの坂道、その両脇に建つ2本の石柱だった。その立ち位置から神社の鳥居のようにそこが入り口であることを示しているのではと考え石柱を間近で見たくなった私は、道を渡ってその石柱の片方に近付くとそれに彫られている絵を入念に調べ始めた。すると、石柱の下から1m程には跪いて頭を下げた態勢の人が繰り返し描かれており、その上の1m程には私が知っているものから全く知らないもの、果てはこの世には存在しないであろうものまで様々な種類の陸の動物や果実か描かれていたが、それら動物や果実は全て隣に描かれた人の立ち姿から延びる蛇のような生物に食べられているようだった。また、近付いたことで、どうやらこの絵が彫られている部分が台座にあたり、その上に人のような形の彫像が載っていることが分かったが、風化がひどくどのような人物の彫像かまでは分からなかった。これら、全く意図が分からない絵や正体不明の彫像は不気味だったが、それらが彫られている石がどうにも普通の石とは思えない独特の光沢を放っていることが余計に不気味さを増幅させていた。また、2本の石柱の中間に立って駅の方を見ると到着した時にホームから見たものと同じ景色が見え、胸の内で抑え込んでいた不安をさらに煽った。
しかし、ひとしきり2本の石柱を観察して記録を採った私は、そのままの坂道を登ってみようと考えた。やはり彫像の立ち位置が神社の鳥居を思わせ、そこが何かの入り口であることを表しているのではないかと思えてならなかったからだ。坂道はある程度整備された林の中を突き抜けていたが、わりと道幅が広いせいか木漏れ日が道路を照らして明るかった。下から見上げた限りでは登った先に家があるかは分からなかったが、しばらく進むと分かれ道がありその一方には先程と同じように石柱が建てられていた。その石柱には見たことのない象形文字のような模様が書かれていたが、坂の下の彫像で見たような分かりやすい動物や人の絵は見当たらなかった。この先の道はどうやら支道らしく今まで登って来た道よりも道幅が狭く昼でも薄暗い道だった。果たしてこの先にまともな民家があるのかと少し不安になってきたあたりで少しずつ視界が開け、その心配は杞憂だったと分かった。
1、2軒でもあればいいと考えていたが思ったよりも家が多くある程度密集していたためちょっとした集落に辿り着いたのではないかと考え、ここで何軒か声を掛けて話を訊いてみることにした。そこで、手始めにざっと見回して日本家屋風の家が多い中で洋風の大きな家、それも洋館と表現できる程のとりわけ目立つ家に行った。その洋館の外観はお世辞にも手入れが行き届いているとは言えず、しかも、何度か呼び鈴を鳴らしたが誰も出て来なかったため、いきなり不発かと舌打ちしたい気分になりながらも何気なくドアに手をかけて引いてみた。すると驚いたことにドアには鍵がかかっておらずあっさり開いてしまった。そこで、今度は何度か声に出して呼びかけてみたが、やはり住人は留守のようで洋館の中は静まり返っていた。今度こそ諦めて次の家に向かおうと思いドアを閉じかけたところでその洋館の中から何かが焦げるような匂いがすることに気付いた。私は、その匂いの原因について様々な可能性を考えたが、もし火事だとしたら見逃せないという結論に至り家主に悪いと思いながらも洋館の中に足を踏み込んだ。洋館の中は外観とは比べ物ならない程、綺麗に掃除されており生活感もあることから、空き家ではない事が容易に推測できた。しかし、どうやらこの洋館の主人は絶望的な程センスが悪いらしく、壁紙や絨毯は赤黒い色で統一されており、家具や調度品は人型の生き物を模した暗く不吉なデザインの物ばかりだった。中でも一際不気味だった物が私の身の丈程もあろうかという大きな古い絵で、そこには、生理的な嫌悪を掻き立てるような顔を持つ一家が写真と見紛う程リアルに描かれていた。
とにかく、そのような悪趣味な内装に背筋が凍る思いをしながらも、何部屋か見て回ったところでどうやら匂いの原因は地下室であろうということが分かった。地下に続く階段を降りていくと下には1枚の鉄製の扉があり、閉まりかけになった扉の隙間から匂いが漏れていることが分かった。また、近付くとその隙間からは灯りと人の気配も漏れ出ていることが分かり、そっと隙間から中を覗くと老人を中心に数十人の人間が扉に背を向けて跪き、一斉に何かを呟きながら礼拝のような行動をしていることが分かった。予想外の光景に声を上げそうになったが、それを押し殺してさらによく見ると部屋の中は若干煙たく、何かを焚いているようだった。また、人々の祈りは最奥に置かれた2メートル程の怪物の像に向けられていることが分かった。
いや、厳密にはその像は時折頭を動かしており、呼吸に合わせて胸も動いているようだった。つまり、それは像などではなかった。このことを理解した瞬間よく叫び声を上げなかったものだと思う。
その怪物は人間とそっくりの2本の足で立ち、体は鍛えた男のようにがっしりとしていた。そのくせ肌は異様に青白く、頭は禿げ上がりその肌が露出していた。また、切れ込みのような目、鼻、口が人間のように配置された顔は、凹凸が少なくのっぺりとしていた。さらに、最も人間離れしていてグロテスクな部分は不気味なほど皺の寄った腕だった。肩から伸びる太い腕は先端に行くほど太さを増していき、通常の人間であれば手に当たる部分に至っては手の代わりにその怪物の胴体ほどもある円筒状の肉塊がくっついているような有様だった。その上、その肉塊がべたりと地面に付くほど異常な長さをもつ腕だった。
その怪物は突然、何かに気付いたように頭を動かし私が隠れている方をじっと見つめてきたようだった。なにしろ距離があったのでその怪物の切れ長の目が開いているのか閉じているのか、瞳はどこに向けられているのか分からなかった。しかし、怪物の顔がこちらに向けられた瞬間から私は蛇に睨まれた蛙のごとく恐怖のあまり微動だにできなくなってしまったのだった。住人たちは怪物の様子の変化に気付かず儀式を続けていたが、怪物が私の方に1歩足を踏み出したことでようやく異変に気付き、さながら葦の海の奇跡のように一瞬で人垣が割れ私と怪物を一直線に結ぶ道ができた。こうなると私の存在を怪物に気取られた事は明らかで、わき目も振らずに逃げたかったが私の体は恐怖のあまりいうことをきかず、目を見開きゆっくりと近づいてくる怪物を扉の隙間から見つめることしかできなかった。その場にいる人間は誰一人として言葉を発せず息を詰めて事態の推移を見守っており、肉塊がゆっくりと引き摺られる音だけが響く張りつめた時空を私は永遠のように感じた。
私との距離を半ばまで詰めた怪物はおもむろに右腕を持ち上げ私の方にまっすぐ向けた。すると、だらりと垂れ下がっていた先端の肉塊が私に狙いを定める様に動いた。それは人が意識的に手を動かす様子というよりは蛇が獲物に狙いを定めるような動きに見えた。その腕が若干縮むような動きを見せた後、先端の肉塊に横向きの赤い裂け目が入ったかと思うとそのままの上下に赤い花弁が開いたように見えた。実際には肉を容易く切り裂くであろう鋭い歯が並んだそれは、まさしく肉食生物の口だった。私がそう認識した瞬間、その口が私の肉を食い千切らんとばかりに突進してきた。先程の見た腕の長さでは距離的に私まで届かない筈だったが、防衛本能が恐怖を上回ったのか口が突進して来ると同時に私は一目散に逃げ出しており、背後から聞こえてきた破砕音から察するにその行動は正しかったと思われる。しかし、背後で繰り広げられたであろう破壊を目の当たりにする勇気がなかった私は一切振り向かず、とにかく必死で家から飛び出し、転がり落ちるように街灯のない林の中の真っ暗な坂道を駆け下り、あっという間に駅に辿り着いていた。時間帯によっては電車が1時間に1本も運行されないこのような地域において、私が駅に辿り着いた丁度その時電車が停車していたことは全くもって僥倖という他なく、私の人生においてこの時ほど神に感謝の祈りを捧げた事は無いだろう。
あの洋館の中で過ごした時間は思っていたよりもずっと長かったらしく、電車の中で腕時計を確認してようやくかなり遅い時間であることに気付いた。さらに、この電車が終電であることを知ってもう一度神に感謝の祈りを捧げた。
幸い財布は持っており、コンビニで現金をおろして隣町のホテルで一泊できることになったが、私の荷物のほとんどは那崎のビジネスホテルに置いて来ている。しかし、悪魔信仰をつついて怪物が出てくるような土地では流石に調査を続ける気にはなれず、明日の始発で那崎のビジネスホテルに戻り荷物をまとめて帰る事にした。本当はすぐにでも家に帰りたかったが、まだ0時前にもかかわらず電車は言うに及ばず高速バスも最終便が出ており、この辺りのタクシー会社にも片端から電話を掛けたが営業時間外らしかった。昼に働き夜は休む、労働環境としては結構なことだが今日ばかりはそんなことさえも恨めしく思える。それに、那崎のビジネスホテルにある荷物の中には手放せない物もある。そもそも、現実的に考えてあんな怪物が昼間から街を徘徊する筈ないのだから、さっさと行って荷物を回収するくらいのことはできる筈だ。
とにかく、明日の始発で那崎に向かうためにも早めに寝ておきたいのだが、あんな怪物を見たせいか先程から部屋の暗がりや、他の宿泊客の足音等、とにかく色々な事が気になってしまって眠れないのだ。今も風が木々を揺らす音が何かを引き摺る音に聞こえて……いや、そんな……まさか!