第4章①
十一月にもなると、赤や黄色に熟した果実のごとく、すっかりと紅葉した木々が鮮やかにその葉を揺らし、川沿いから吹く風が、時折の肌寒さを持って身体を撫でる。
ドーピング検査から二週間以上が経過していた。
この間にはリーグ戦二試合が行われ、浅川はそのどちらにも先発で出場していた。しかし、チームは一敗一分け。ドーピング検査のことばかりに気がいってしまい、ガムを使っても上手く活かせず、個人として全く活躍を見せることが出来ていなかった。
もし検査結果に何かあれば、クラブのほうに連絡が入るはずだが、現状その気配はない。これはどういうことなのだろうかと考えた。もしかしたら、採取した尿におかしなところが見つかって、より詳しく調べているのかもしれないし、逆に全く問題がなかったから、そのままスルーされたのかもしれない。あるいはそのどちらでもなく、まだ検査器に掛けていない段階なのかもしれない。
とにかく、毎日が、気が気でない日々だった。
練習でもプレーがおざなりで、コーチや監督に喝を入れられることが何度もあった。あと一点で自身初の二桁得点に乗るというのに、今は決められる自信がなくなっていた。
全体練習が終わった後、浅川は一人居残ってシュート練習をしていた。身体を動かしていなければ、余計なことを考えてしまう時間が多くなるから……。 ペナルティエリアの手前からドリブルを仕掛け、見えないディフェンスを一人かわすと、右足を振りかぶってシュートを放つ。
ゴールの隅を狙って蹴ったボールはポストに弾かれて、横へ外れる。周辺には沢山のボールが転がっていたが、ゴールの枠に入っているものより、外に外れているもののほうが多かった。
そんな練習を二時間近く続けた後、片付けを済ませてクラブハウスを出ると、横からタオルが飛んできた。
「お疲れさん」
壁に寄りかかっていたのは、高村である。
「ゴウさん……どもッス」
「メシでも行かねえか。奢ってやるぞ」
最近の浅川の顔色が酷く芳しくなかったのを気にしたのだろう。けれど楽しく食事をする気分ではなかった。事情は複雑だし、先輩だからといって、そこで相談出来るものでもない。
「すんません……今日はちょっと」
そう言って目線を下げたとき、高村の右手首につけられた、プラスチックの黄色いブレスレットが目にとまった。彼がつけているにしては、珍しい色だったのだ。
高村もその視線に気づいて、
「ん? ああ、これか? この間、デパートのおもちゃ売り場に行ったんだが、そこで娘の若葉が選んでくれたんだ」
と嬉しそうに笑う。
「娘さんって……一歳くらいッスよね?」
「うん。一歳半。だから選んだっつっても、ベビーカーに乗った状態で手近な棚に陳列されていたものを掴んで、ただ俺に渡しただけなんだがな。でもなんかいいなと思って、家族でお揃いのものを買ったんだ」
「そうなんスか」
微笑ましい話だ。
ドーピングに引っ掛かるか否かで日々を悩んでいる自分とは、無縁の世界に生きているように思えて、嫉妬にも似たイラだちを覚えてしまった。
「今度、ウチに遊びに来いよ。コンビニとかばっかだと、いざというときに力が出ねえぞ」
「――あざッス」
浅川は機嫌の悪さを悟られぬように背中を丸め、小さく頭を下げて、高村と別れた。
クラブハウスを後にした浅川は、その足で街へ繰り出した。ガムを買うためである。車を有料駐車場に停め、徒歩で裏通りに入る。陽の落ちはすっかり早くなったが、建物同士の高い壁で挟まれた細い路地も、すでに勝手を覚えていて、すいすいと進んでいく。
スナックの一番客として一杯ひっかけてから、ゴミ置き場に行くと、そこには相変わらず、暗闇と同化してしまうんじゃないかと思うくらいの気配と居住まいをした老婆がいた。
「買えるだけガムをくれ」
浅川は肩を小さくしながら老婆の前に立つと、財布の中に入っている一万円札を全て取り出した。淡白なやり取りは、この場を誰にも見られたくないという思いからだ。
「お買い上げ、ありがとうございます」
老婆はいつもどおり、不敵な笑みを浮かべながら金を受け取ると、懐から大量のガムを目の前に差し出す。それをそそくさと手に取ろうとしたところで、浅川はぴたりと動きを止めた。そして呟く。
「これは本当に大丈夫、なんだよな?」
こちらが視線を向けても、老婆は目を合わせようとしない。うつむき加減で表情を隠し、口元を怪しく吊り上げるだけである。
「……やっぱり、なんでもない」
浅川は抑揚なく言ってからガムを巾着袋へ入れると、その場を足早に離れた。
たとえそこで老婆に大丈夫だと念を押されたとしても、気休めにもならないことは分かっていたから……。それでもつい口に出たのは、訊ねずにはいられなかったからだ。
怖じ気づいていた反面、使うことをやめるわけにもいかないという心境は、至極複雑なものであった。




