第3章⑪
ゴールが決まると同時に、ほとんど横向きのような体勢でピッチへ落ちた浅川は、大村の身体を下敷きにするようにして倒れ込んだ。耳元で鈍いうめき声が漏れる。
「さーせん。……大丈夫っスか?」
素早く起き上がり、大村に手を差し伸べると、
「……おう」
彼はぶっきらぼうに返事をして、浅川の手は借りずに立ち上がり、汚れたパンツの裾を軽く叩きながら踵を返していく。その表情は、明らかに不満そうに見えた。
絶好のチャンスを奪われたのだから、当然といえば当然だろう。でも結局は混戦の中で起きたプレーだし、なにより、ゴールが生まれてしまえば何も文句は言われないものだ。そもそも、大村があのままシュートを打っても、決まったかどうかは分からない。
浅川は差し伸べた手をサッと引っ込めると、肩を竦めながら、大村の背中を見送った。
後ろからのチャージ、足元へのハードなスライディング、スパイクの裏を見せる、足を高く上げる、ユニフォームを激しく引っ張る等々……危険、または悪質なプレーだと判断された場合には、主審がすぐさまホイッスルを鳴らしてプレーを止める。しかし、このルールにはある種、盲点があると言える。それは、味方選手へのファールであれば、ホイッスルは鳴らないという点だ。もちろん、殴り合いに発展するなど、相当に悪質ならば別であろうが、混戦状態の中で起きたものであれば、大半がスルーされる。それもそうだ。まさか、味方選手を故意に邪魔するなんて、八百長でもなければ普通は考えられないことである。
だから、落下点のポジションに入っている選手が味方であれば、多少強引に潰してもファールにはならず、自分のボールにすることも可能というわけで、浅川のプレーはこれを利用したものだった。
あえて味方を潰すことで、自分がシュートを放つ。いわば、完全に横取りといえるプレーだが、フォワードはゴールが全てである。
サポーターや監督にとっては、チームが得点すれば、極端な話、誰がゴールを決めてもいいのだろうけれど……浅川としてはそういうわけにはいかない。得点者という記録には、決定的な違いが出るのだから。勝つことは大前提。それができなくても、せめてゴールは決めなければという思いが根強くあった。たとえどんな形であってもだ。
その二分後、マッドスターズは三枚目のカードを切った。
あらかじめ準備していた選手はフォワードの近藤で、予想通り、運動量の落ちていた浅川との交代だった。
その後、スコアは動かず。結果は一対二の敗戦であったが、自分が結果を出せたことで、ひとまずはホッと胸を撫で下ろした。
一人のチームスタッフが近付いてきたのは、試合終了後、ベンチからロッカールームに引き上げ、着替えようとしていたときである。
「仁。今日はお前がドーピング検査の日だそうだ」
「……え?」
その言葉を聞いた瞬間、浅川の背中にゾクリとした汗が流れ落ちる。
「何キョトンとしてんだ。初めてじゃないだろ?」
スタッフが怪訝そうに肩をポンと叩く。
「え、ええ。それはまあ」
「だったら、要領は分かるだろ? 係員が待ってるから、とっとと検尿して来い」
ガムを使い始めてからドーピング検査を受けるのは、これが初めてのことだ。
いよいよ来たかと思う反面、どこか忘れていた部分もあって、いざ実際に尿を採られるとなると緊張感があった。それまであった試合後のリラックスムードが、まるで、ろうそくの火のように一気に消えてしまう。手が異様に汗ばみ、喉が乾いてくる。
浅川はペットボトルの水を口に含むと、一口、二口、胃に流し込んだ。そして自分に言い聞かせるように呟く。
「大丈夫だ……大丈夫……」
老婆の言うとおりなら、ガムの成分は何も引っ掛かることはないはずだ。
……だが、もし万が一、陽性反応が出てしまったらと思うと、心臓が早鐘を打ち、動悸が不安定になる。けれどそうは言っても拒否することなど出来るわけはない。検査を受けなければ、それこそ疑惑の念をもたれてしまうし、やましいことがあると言っているようなものだ。
ロッカールームを出た浅川は、通路で待機していた係員に誘導され、施設内のトイレに入った。
トイレ内は、タイルの壁と床に蛍光灯の光が反射し、なんとも侘びしい空間が照らし出されている。
三つ並んだ小便用便器。その真ん中に立つと、ハーフパンツと下着を下ろし、検尿容器を股間部に添える。しかし力が入ってしまい中々出ない。
空調の音がやけに煩く聞こえ、耳元を不快にざわつかせる。すぐ真横では、屈み込んだ係員の視線がジッとこちらの下腹部を捉えていて、集中出来ないのだ。
小さく深呼吸をして、なんとか尿を出そうとするが、緊張のせいか下半身が萎縮していて、その気配がない。
スポーツ選手の中には、試合直後の高揚感から尿が出ないということは間々あるが、浅川の場合は少なからずの後ろ暗さから来るものなのだから、時間が解決してくれるものでもない。
「――すいません。ちょっと水を飲んでもいいですか」
一度許可を取って、洗面台の手洗い場で水を飲み、念仏のように『大丈夫』と何度も心の中で言い聞かせ、胸に手を当てて心拍数を落ち着かせる。そしてもう一度、小便用便器の前に立つと、身体の力を、すっと抜いた。
尿を出すだけのことに、ここまで苦労したのは初めてだった。
結局、その作業を終えるまでに一時間近くかかったが、なんとか規定量ギリギリの尿を検尿容器に出して済ませることが出来た。
結果は遅くとも一ヶ月後には出るだろう……もし検体が引っ掛かってしまったらと思うと、顔が青ざめかけたが、今から何かをしても、検査結果は変えられるものではない。
「お疲れ様でした」と言い、採取した尿を持って去っていく係員を見つめながら、浅川はただ祈るしかなかった。




