第3章③
自宅アパートへ帰ると、リビングの電気をつけるなり、テーブルにガムを広げ、それらを一粒一粒、等間隔で綺麗に並べていく。
「十三、十四……十五……これで全部か……」
十月の公式戦は週一で行われる四試合。トーナメントの天皇杯は負けたから、シーズン終盤のリーグ戦だけに集中できる格好だ。チームの順位は、序盤の出遅れもあって12位と振るっていないが、だからといって、残りの試合を無駄にも出来ない。どんな状況であれ、一試合一試合のパフォーマンスが最終的な個人の評価に繋がる。特に最終契約年の成績は、非常に重要だと言われる。より良いオファーを提示されることもあれば、真逆のクビもありえる……そういう意味では、今年が勝負の年とも言えるわけだ。
蛍光灯の白い光が、やや狭い部屋を静かに照らす中、浅川は胡座をかいて腕を組むと、テーブルの上に並べたそれらを俯瞰するようにじっと見つめる。
ドリーム・ガムは、一粒四千円に値上がりしていた。老婆の言い分としては、需要が高くなったから――つまり、浅川が多く買うようになったため、供給が追いつかず、値上げせざるを得ないとのことだったが、正直これも怪しいものだ。しかし、それでも買わないわけにはいかないのが現状であるため、言われるがままに支払った。
その結果として、出費は十五粒×四千円で、実に六万円。生活費などもろもろを考えると、今はこれぐらいが精一杯だった。
十月に予定されている公式戦四試合全てに出場した場合、一試合で使えるガムは平均四粒。一粒で5分間戦えるとすると、効き目は各試合20分くらいしか持たないことになるだろう。
――たったそれだけか……。一試合フルで使えたら、無敵は間違いなしなんだが……。
今の限界が突きつけられた気がして、どこか惨めな気分になってくる。
もし仮に、一試合、全ての時間でガムの効果を持続させるなら、果たしてどのくらいの量が必要になるのだろうか。
そんな妄想をしたところで、机上の空論、絵に描いた餅でしかないのは分かっていたが、上手くやれば、将来的には実現出来ないこともない話だ。ならばいつかのために考えておくのもいいだろうと思った浅川は、ゴミ箱に捨てられていたチラシを一枚取ると、裏面に計算式を書きはじめた。
サッカーの試合は90分+ロスタイム。ガム一粒=5分とすると、単純計算90分で十八粒が必要になる。そこに、前後半のロスタイム分も考慮した場合、状況にもよるが、おそらく二十粒くらいは用意しなければならないだろう。
そうなると、金額は、四千円×二十粒だから……一試合で八万円! J2のリーグ戦、全42試合で使えば、年間で八百四十粒、三百三十六万円も必要になるわけだ。
具体的な数値が出ると、その大きさに思わず絶句してしまった。
しかもこれはガムの値段が据え置きだった場合の計算である。あの老婆のことだ。値下げは無くとも値上がりする可能性は充分に考えられる。もしも、一粒五千円になれば、二十粒で十万円、年間では、四百二十万円だ。たった千円の値上がりでも、出費はこれだけ莫大なものになるのだから、考えるだけでもゾッとする。
結果を出すためにはガムが必要不可欠だが、そのガムを買うためには大金が必要になってくるという現実。この縛りは浅川にとって非常にもどかしいものだった。
これまで特段の趣味も無く、彼女もおらず、ギャンブルにもはまっていなかったため、金で悩むことはあまりなかった。決して順風満帆な生活とは言えなかったが、それでも、サッカーを生業に出来ていることだけで充分だったし、満足していたのだ。
しかし、思うような成績が出せず、残り契約年数が少なくなっていくにつれて、先の事に対する怖さが増し、そのことが、自分をどこか消極的にさせていたのかもしれない。
今は、それを払拭出来る最大のチャンスが来ているのだと、浅川は感じていた。
ゆくゆくは最高のプレーヤーになって、最高の環境でサッカーがしたいという願望は、妄想を強く膨らませた。
欲望が湧き出してくると、それを実現するための現実的な具体案が頭をもたげる。
キックオフから試合終了の笛が鳴るまでの時間を、手持ちのガムでどうやりくりし、最大限の結果を残していくか……。その課題に、浅川は頭を悩ませ続けた。
やがて脳が疲れてガムでも噛みたい気分になったが、まさか目の前のそれを食べるわけにもいかないと苦笑する。見た目はただのガムでも、浅川にとって、これは嗜好品ではない。もはや重要な武器である。
その大切な品を一粒も無くさないよう、大事に巾着袋へ仕舞うと、冷蔵庫からビールを取り出し、気分を変えるように、ぐいと呷る。
窓をガラリと開けると、外はすっかり暗くなっていて、ベランダからは、心地よい秋の夜風と共に、鈴虫の鳴き声がサッカーのホイッスルのように聞こえていた。




