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第2章⑨、原因と目標

 試合終了後、浅川は老婆を問い詰めるため、夜の街に車をとばした。

 普段であれば身体を休ませなければならないところだが、そうも言ってはいられない。

 ガムの効果がなぜ唐突に無くなったのか……。

 ――一刻も早く原因を突き止めなければ……。

 今の浅川にとっては、それを知ることが何よりも重要で、優先すべき事柄になっていた。


 けれど、その焦りを見透かされたかのように、この日、肝心の老婆を捕まえることは出来なかった。

 逢えたのは翌日の月曜日、いつもの時間だ。

 スナックから出て、ゴミ捨て場で老婆を見つけると、浅川はその人物のもとへ、ずかずかと近寄った。

「いらっしゃいませ」

 抑揚の無い声。変わらぬ調子に、苛立ちが募る。

「ちょっと。あのガム、どうなってるんだ」

「はあ……何か問題でも?」

 浅川は軽く舌打ちをして答える。

「なぜか知らんが、噛んでる途中で効果が無くなったんだ。不良品じゃないか」

 すると老婆は珍しく、ひっひっ、と、小さな、おどろおどろしい笑い声を漏らした。

 これには浅川も虚を突かれ、たじろいだ。

「な……何がおかしい?」

「いえ……ただ、ガムというものは、噛み続ければ味がなくなるものですよ?」

「だ、だからなんだ?」

「ですから、味が無くなればそこにあるモノもまた無くなる、というのは、当然のことじゃありませんか」

「……なん、だと」

 ――つまり、味が無くなると、スローモーションの効果も無くなる……?

 老婆の発言に目を見開いた一方で、思い当たる節も確かにあった。言われてみれば、視界が変化しなくなったあのとき、ガムの味もしなくなっていたように思う。

「あのガムの効き目は、味が無くなるまでって、ことなのか!」

「さようで」

 ――なんてこった……。

 新たな事実に、浅川は思わず絶句した。

 ガムの大きさは、人差し指の第一関節よりも小さいものだ。これでは、味なんてあっという間になくなる。一試合一粒じゃ足りるはずも無い。

「なんでそんな大事なことを隠していたんだ……」

「説明するほどのことでもないかと」

 ――大有りだろう。

 という文句を、浅川は舌打ちに変えた。

 それでも、早い段階で原因が分かったのだから、よしとするべきかと、自分を納得させる。

 すると、

「それで、本日は如何なさいますか?」

 そう言って、老婆は懐からガムの詰め込まれた小瓶を取り出した。

 浅川はその中身に目を落とし、ごくりと唾を飲み込む。

 一粒一粒、銀紙に包まれた小さなガムが、路地裏を照らす残光を瓶越しに反射していた。その輝きはまるで宝石、いや、それ以上に価値のあるものに見えて、心を揺さぶられる。

 だが、ズボンの財布に右手を伸ばしかけたところで思い直し、すっと引いた。

「……今日はやめとく。また今度に」

「おや、そうですか……」

 老婆は興味を無くしたように呟き、小瓶を懐へ戻す。

 浅川としても、欲しくなかったわけではない。ガムの効果がすぐに切れると分かった以上、出来れば大量にストックしておきたいところだったが……いかんせん肝心の金が無かったのだ。

 スナックでの飲食代、帰りのタクシー、そして、ガムの代金……ここ数週間だけで見ても、かなりの額を使った。

 いくら夢のあるサッカー選手といっても、自分は所詮J2、それも中下位クラブで不動のレギュラーすら取れていない立場だ。当然、毎月振り込まれる給料だって多くは無い。

 年俸に関していうと、Jリーグには、A契約・B契約・C契約というものがあるのだが、ルーキー選手は、ほとんどの場合、基本報酬480万円以下というC契約からスタートすることになる。これは、マネーゲーム、つまり、行き過ぎた年俸の高騰や、それによる新人選手の取り合いを抑止するための決まりだ。

 C契約で入った選手は、一定の公式戦出場時間、――J1所属なら5試合相当の450分、J2は10試合相当の900分――を満たすか、C契約のまま三年が経過することで、チームから自由度の高いA契約、もしくは、制限の残るB契約を提示される仕組みになっていて、上のカテゴリであればあるほど、ほとんどの選手がCからAへ移行することになる。ただ、浅川はまだこの条件をどれも満たしていないため、いまだに一番下のランクであるC契約のまま……。だから金銭的な余裕も、あまり無いというわけだ。

 因みにA契約になると、C契約とは対照的に、基本報酬が必ず480万円よりも高く設定されることになり、出場給や勝利給、その他、ゴールやタイトル獲得などの特別給にも、制限がなくなる。ゆえに、そこからが一人前の選手、といっても過言ではないのかもしれない。

 そんなプロの称号とも言えるA契約を勝ち取ることに関しては、ドリーム・ガムがあれば、さして難しくないだろうと考えていた。

 しかし、それを買うための金が壁になるとは、思いもしないところであった。すぐ傍にあるのに、届かないもどかしさ。

 ――いっそのこと、この婆さんを殴り倒して奪うか……? 力なら俺のほうが圧倒的に有利……。

 ふと、そんな野蛮的な思考も浮かびかける。だがすぐに脳内で却下した。

 理由としては、犯罪行為に対する自制心というのももちろんあったが、何より、それによって老婆に会えなくなることのほうが怖かったのだ。

 暴力で一時的に大量のガムを手に入れることが出来ても、結局それが無くなれば、その後の結末は見えているも同然。自分と老婆……その関係は、ある種のビジネスパートナーでなければならない。

 ――今は少ない手持ちでやりくりするしかないか。だが……いつかは……。

 金という絶対的なハードル……それは、浅川の野心に、より大きな火を点けたのだった。

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