第2章⑧、対水戸スパイダーウォーリアーズ、その四
前半5分。
相手ゴールキックのセカンドボールを拾った味方選手から、浅川に縦パスが入ると、早速前を向き、ドリブルで中央への強行突破を試みる。ただ、逆三角形のスタイルをとっている相手の中盤に単独で侵入するというのは、自ら囲まれに行くようなもので、予想通り、難しい選択だった。
シザースフェイントから、相手ボランチの一人を往なしたところまでは良かったが、ボールタッチがやや大きくなってしまったところを、詰めてきたアンカーの小金井にスライディングでカットされてしまう。
このプレーは、浅川にしては久々のミスとなった。やはりドリブルは一朝一夕にはいかないかと唇を噛んだ一方で、何か、別の違和感も覚え始めていた。
薄ぼんやりと浮かんだ疑問……それがなんなのか、気づいたのはほどなくのことだ。
前半7分。
相手陣内メインスタンド側でのショートカウンターから、浅川にボールが渡ると、再びドリブルで切り込みを図る。それを阻むべく、立ち塞がってきたのは小金井だ。早々の失点が切っ掛けになったのか、浅川に対しての徹底マークを意識しているようだった。
通常、一般的なディフェンダーの守り方というと、一定の距離を保ちながら、相手に動きを合わせるディレイ守備型か、間合いを一気につめてボールを奪いに来るプレス型だ。
しかし、小金井はそのどちらとも言えないプレイヤーだった。
ボールホルダーである選手、つまり、浅川に対し、一定の間合いをキープしながらも、小柄な体格を生かした細かい足捌きを混ぜてくるのだ。それは相手を誘い出すけん制であり、隙を窺うフェイントでもある。
動きはさながらドリブラーのようで、ともすると、攻撃を仕掛ける側が、逆に守備を強いられているかのような感覚にも陥ってしまいそうになる。
俗に言う、魅せる守備……流石はJ1の強豪が目をかけた選手だ。
――とはいえ、今の俺にはこの『目』がある。落ち着いて隙を窺えば、どうってことは……。
左右の瞳に意識を集中し、相手の動きを注視する。だが、その瞬間、浅川の表情が俄かに曇った。
――……おかしい……。
本来であれば、相手の一挙手一投足がコマ送りのように映るはずなのに、どうしたことか、肝心なその『目』が機能していないのだ。小金井の動きが全く捉えられない。
想像だにしなかったアクシデント。動悸が不安定になり、氷のように冷たい嫌な汗が、首筋に滲む。
――どういうことだっ……!? なぜ見えない?
すると、動揺している心を読んだかのように、相手の足先が蛇の頭のごとく伸びてきて、浅川はたちまちボールを奪われてしまった。
本来ならば、すぐに取り返すべきところだが……今はそれどころではなかった。
――いったい……どうして……。
試合そっちのけでその場に立ち尽くし、自分の目を必死に擦った。そして、
「……あっ!」
瞼を開けたところで、再び重大な事実に気づき、愕然とした。
それは、視界の『色』である。
スローモーションに見えていたときは、全体がモノクロのようであったのに、今はその『色』が、いつの間にかすっかりと元に戻っていたのだ。
慌ててガムを噛むが、『色』は変化せず、スローモーションにもならない。それどころか、周りの動きがやけに速く感じた。自分だけがゆっくりになってしまっているかのような、そんな感覚とでも表現するべきだろうか……。
ピッチは地平線の向こう側まであるかのように広く見え、視界は上手く定まらない。混乱で頭がぐらつき、意味の分からない気持ち悪さに、思わずかぶりを振った。
味方の選手や監督が何かを指示しているようだったが、もはや、そんなものは全く耳に入らなかった。
こうなると、ポジショニングはもうめちゃくちゃだ。コンビネーションもままならず、たとえパスが来ても、心理状態のおぼついていない浅川はトラップをミスり、ボールを失ってしまう。
勝負事には流れという概念が存在するが、それはサッカーにおいても決して例外ではない。
それまで相手を寄せ付けず、多くのチャンスを作っていても、少しの油断やイージーなミスでリズムが狂い、いつの間にかゲームの風向きはガラリと変わるものだ。
押し込まれる時間が目に見えて増え始めた、前半22分。
またも小金井の攻撃的ディフェンスによって浅川が自陣でボールを簡単に奪われてしまうと、それをつなげられ、ついには相手フォワードの佐竹に、クロスからのヘディングシュートで豪快にネットを揺らされてしまった。
1対1の同点……。
サポーターの発する落胆の息遣いが、かき乱された浅川の脳裏にいっそうの靄をかける。試合開始直後の余裕は、すでに跡形も無くなっていた。
――く、くそっ……! どうなってやがるっ! 話がちがうじゃねえかっ。
その後も浅川は、自身を襲った動揺を全く消し去ることが出来ず、ゲームに絡めないまま、前半終了後のハーフタイムで、屈辱の交代を命じられることとなった……。
ベンチに下がった後の試合は、後半に両チームがPKで1点ずつ奪いあう形となり、マッドスターズは2対2の引き分けで、半ば消化不良気味に、ホーム二連戦の終わりを迎えたのだった。




