第2章④
結局、それから一時間ほど滞在したが、店を出るまでに新たな客は一人もやって来ることはなかった。
頃合を見て会計を済ませ、ママと別れると、浅川は再びあのゴミ置き場へ歩を進める。
スナックからゴミ置き場までの距離は百メートルも無いはずなのに、とてつもなく長いものに思えた。気持ちばかりが先行しているせいか、急いでいるつもりなのに、足が中々前に進まない。
ワクワク感と焦燥感がない交ぜになったような、なんともいえない気分だった。
その感覚は、幼い頃、発売を待ちわびていたゲームソフトを購入しようと急ぐときのような気持ちに近いと言えた。早く手に入れて、誰よりも先にプレイしたいという欲望と、売り切れていて、もう無いのではないかという不安……。
大人になり、求めるものが変わった今でも、そんな心境にさせられるとは……いやむしろ、今のほうが重要性は大きいと言えるだろう。なにしろ、あのガムを手に入れられなければ、がっかりするだけでは済まない。それこそ、文字通りの死活問題になりかねないのだ。
夕暮れの中、路地の角を曲がると、開けたゴミ置き場がすぐに見えてくる。
祈るような思いで歩を進めていくと、視界の左奥、――高い壁と壁が交差した最も薄暗いその一角に、ぼんやりとした何か……人影のようなものが?
――あれは!
その瞬間、心臓がけたたましいほどの早鐘を打った。
それは、忘れようも無いシチュエーション。黒いフードを被り、虚無的な佇まいで小机を前に座っている。捜し求めていた人物がそこに居た。
呼吸が荒くなり、ワインの残り香が心をより高ぶらせる。
ともすると、蜃気楼のように消えてしまうのではないかという危惧感から、浅川はほとんど無意識的な駆け足で老婆のもとへ近寄った。
「あ、あの……!」
「いらっしゃいませ」
浅川が何か言うより早く、老婆は抑揚無く応えた。
相変わらずの俯き加減で、縮れた長い白髪が、風雨に曝された白いビニール紐のように垂れ下がる不気味な容姿。
浅川は唾をごくりと飲み込むと、他に誰もいないことを確認してから、意を決して老婆に話しかける。
「……あのガムは、まだあるんですか?」
その瞬間、老婆がフードの下で薄笑みを湛えた気がした。
「ええ、ございますよ」
懐から小さいガラスビンを取り出すと、それを机に置く。ビンの中には銀紙に包まれた粒状のガムが大量に入っていた。
――こんなに!
思わず浅川の喉が鳴る。これが全て自分のものになれば、一体、どれだけの結果を残すことが出来るだろうかと思った。
とはいえ、一抹の不安もある。まずはそれを解消しなければいけない。浅川は弛みかけた表情を直し、押し殺した声で再び訊ねる。
「このガムは、いったいなんなんです?」
「少し変わったガム、としか申しあげることは出来ません」
「す、少しって……視界がスローモーションになるなんて、普通のガムじゃありえないでしょう。いったい、これは、どうやって作られ――」
「その点に関しましては、お答え出来ません」
浅川の疑問は、途中でぴしゃりと撥ね除けられた。
「答えられない? って……まさか、やましい部分があるんじゃないでしょうね」
「企業が自社商品の秘密を隠しているのと同じことです。何もおかしなことは無いでしょう?」
探りを入れようにも、こう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
しかし浅川としても、購入する前にどうしても確かめなければいけないことがあったのだ。
それは、このガムに何か、『違法性のある成分』が多分に入っているのではないか、という点だ。
大概、どのプロスポーツでもそうだろうが、とりわけサッカー、Jリーグでは、必ず試合後に『ドーピング検査』というものがある。
この始まりは細かく言うと諸説あるのだが、明確に行われるようになったのは、1968年のグルノーブル冬季オリンピックと、メキシコ夏季オリンピックだ。
※現在は二年ごとの間隔が空いているオリンピックだが、当時は冬季、夏季共に同じ年に行われていた。
それまでスポーツの世界では、覚せい剤や興奮剤の使用が当たり前のように行われていたのだが、死者が出たことなどから問題視されるようになり、1960年のローマオリンピックにて、覚せい剤を摂取した自転車選手が試合後に亡くなったことを契機に、その検査が義務付けられるようになった。
この分野において、一昔前まで日本は海外に遅れを取っていたが、近年はさまざまな国内スポーツにおいても、その検査の裾野は広がっている。
中でもサッカーは、勝敗やゴール数を当てる『サッカーくじ』の結果も関わってくるため、他の競技以上に罰則が厳格だったりする。
例えば、うっかり摂取した市販のサプリメントやのど飴、塗り薬などに、ほんの僅かな量の禁止成分が入っているだけでも引っ掛かってしまうし、実際、過去にはそれによって一時的に出場を制限させられたり、試合記録の一部が取り消しになったケースもある。
因みにJリーグの場合、検査の対象は、試合終了後、スタメン・ベンチ入りした選手の中から、両チーム各二名が抽選で選ばれる仕組みだ。そして、該当選手は、そのドーピング検査に協力しなければならない。
だから決して全員が行うというわけではないし、浅川も前節は当該選手に選ばれなかったため、この検査を受けずに済んだのだが、公式戦に出続ければ、必ずその機会は訪れる。
そこでもし、あのガムの成分が何らかの禁止薬物として引っ掛かってしまったら、長期間の出場停止は免れない、というわけだ。
いや、それどころか、禁止薬物と知っていながら、故意にその物質を摂取していたとなれば、汚名と共に、サッカー界から追放される可能性だってあるのだ。そんなことになれば、戦力外を受けて戦いのカテゴリーを落とすどころか、プレイすら許されない、最悪の状況が現実となってしまう。
いまだ嘗て、国内リーグにおいて、薬物使用で永久追放された現役サッカー選手はいないはずだ。自分がその第一号になるなんて、絶対にゴメンだと思った。
だからこそ、浅川はガムの正体を確認する必要があったのだ。
「頼むから、せめて成分だけでも教えてくれ。もし違法な物が入っているなら、俺はこれを買うわけにはいかなくなるんだ」
浅川が懇願するように言うと、老婆はしゃがれた声で言葉を返した。
「それでしたらご安心下さい。少なくとも、法律上の違法性はありません。もちろん、あらゆる検査に引っ掛かることも」
「じゃあ、食べても特に問題はない、と?」
「ええ。罰せられることは絶対にありません」
「…………」
そんなふうに念を押されても、明確な証拠を提示してくれないのでは、浅川の中から不安要素が消えることは無い。けれど、これ以上押し問答をしたところで、この問題が納得のいく解決を迎える気配もなさそうだった。
――どうする?
これは、一種のギャンブルだ。老婆の言葉を信じてガムを買うか、あるいはここで身を引くか……。
本来であれば、ハイリスクな選択は避けるべきだろう。……けれど、プロスポーツ選手というのは、どこか勝負師でもあるのだ。伸るか反るかは、もう初めから決まっていたのかもしれない。
浅川は財布を取り出すと、決して多くはない現金に手をつける。
「ガムをくれ。確か、値段は一粒、千え――」
「三千円でございます」
「……三千円? 前は確か一粒千円だったはずでは?」
「あれは特別価格ですので」
千円でも高いと思ったのに、それが特別価格とは……。
しかしここで引くほど、浅川の決断も弱いものではなかった。
財布の中を確認すると、今の手持ちは、一万七千円弱。酒を飲んでしまったため、帰りの足のことなども考えると、ある程度の金額は残しておきたい。こんなことになるなら、もう少し用意しておくべきだったかと思わないでもないが、致し方ない。
浅川は悩んだのち、一万二千円を老婆に支払い、ひとまず、そのガムを四粒、手に入れることに成功したのだった。




