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第2章③

 ウェルカムベルの鳴るドアを開けて顔を覗かせると、ちょうどカウンター奥でテーブルを拭いていたママが浅川に気づいた。

「あら、仁ちゃんじゃない。いらっしゃあい」

「今、いっすか?」

「もちろんよ。どうぞ~、座って」

 ママはこぼれんばかりの笑顔で、浅川を快く迎え入れてくれた。

 空調の効いた店内は、仄かな香水の匂いが漂い、外よりも数段快適だ。ただ、他の客は誰も居らず、ひっそりと静まり返っているところから察するに、開店したばかりなのかもしれない。

 浅川は前回来たときと同じカウンター席の椅子に腰を下ろした。

「早い時間にすんません」

「いいのいいの~」

 ママは片手で、見えない何かを叩く仕草をすると、

「そんなことより、昨日の試合は大活躍だったみたいじゃない」

 対面するカウンター越しに、ぐいと身を乗り出して浅川の顔を見る。肩が出たパープルレッドの花柄ドレスの胸元で、ラメが光り、煌びやかなネックレスが眼前で揺れた。

「い、いや、それほどでも……」

 男のさがとでも言うのだろうか……やましい気持ちは無かったのだが、ボリュームのある艶やかな胸が作り出す谷間に、視線が一瞬だけ移りかけた。

 それを誤魔化すようにらせば、ママはこちらの気持ちなどお見通しとでも言わんばかりに悠然と微笑む。そして、カウンター裏の小さな専用冷蔵庫からワインボトルを取り出すと、手慣れた動作でコルク栓を抜いた。

 まだ何も頼んでいないはずだが……?

「これはお祝いね。私からのささやかなプレゼント」

 浅川の疑問を悟ったように、ママがウインクして言う。

「あ、ありがとうございます」

 ワイングラスがことりとカウンターに置かれると、傾けられたボトルから、赤い液体が波打ちながら三分の一ほどまで注がれていく。足に分類される平べったい円形の土台部分。そこから縦に伸びるガラス棒のような持ち手、そして飲み口の広い、丸みを帯びたカップ部分。

 中に注がれた液体の鮮やかさも相まって、ともすると、それはまるで一輪の花のようにも見えた。

 この一風奇妙なグラスの構造は、手の熱を中に注いだワインに伝えないためのものだということを、浅川はどこかで聞いたことがあった。

 まじまじ見ていると、ママはこれがブルゴーニュの何年物だとか補足説明してくれた。浅川は全く分からなかったが、とにかく、中々値の張る代物のようだ。

「せっかくだから、私もいただいちゃっていいかしら?」

「ええ、もちろん!」

 断る理由など無論ない。そもそも、そんな高い物を一人で飲むなんて、味気ない上に気が引ける。

 ママのグラスにも同量のワインが注がれると、

「乾杯しましょう」

 掲げたカップの飲み口を当てて、小気味良い音を店内に響かせた。

 浅川は、人差し指と中指の間で細長い持ち手を挟み直すと、底に当たる平べったい土台部分に、もう一方の手の平を添え、慎重にそのグラスへ口をつける。

 明らかに奇妙な飲み方だったが、なにしろ、ワインを本格的に頂くのは初めて……とにかく、粗相があってはいけないと思ったのだ。

 因みに、この飲み口の広さなども、ワインのタイプや色、種類によって細かく考慮されているようだが、とりわけ嗜みの無い浅川には分からない。

 ただ、初めてワインを飲んだ感想としては、一言「おいしい」と言えた。

 適度な甘酸っぱさと、舌に広がる仄かな苦味。まろやかでありつつも、自然の恵みを凝縮したような深みがあった。それをゆっくり嚥下すれば、発酵した葡萄が生み出す心地よいアルコールの香りが、呼吸と共に、余韻となって心地よく鼻に抜けていく。

 それはまさしく『美酒』というにふさわしい代物……浅川の頭では月並み調の感想しか出て来なかったが、それでも、個人でワインセラーを持つほどの好事家こうずかがいるのも、理解出来る気がした。

 味が消えないうちに、続けざまのもう一口。味蕾みらいという、舌に広がる無数の細かい凹凸の上を赤い液体が流れるたび、感覚神経線維が刺激され、脳内に一時の充足感が花を咲かせる。

「仁ちゃん、おかわりは?」

「……じゃあ、もう一杯」

 空になったグラスに再びワインが注がれると、今度はさっき以上にゆっくりと味わう。

 なんだろう……これに似た甘酸っぱい味、感覚を、自分はどこかで覚えたことがあるような……。

 ふいに浮かんだそんな疑問も、すぐに思い当たる節があった。

 それは、老婆から買ったあのガムだ。『ドリーム・ガム』と称していたあのガムも、葡萄系の味だった。

 そこで奇しくも、浅川は本来の目的を再確認した。

 そう、今日は別に、勝利の祝杯を挙げに来たわけではないのだ。あくまで、老婆が現れる可能性を考慮しての時間つぶし。へべれけに酔うわけにはいかない。あやうくうっかりするところだった。

 ならば酒はここまでにしておこうと、飲みかけのワイングラスを脇へ寄せる。

「あら? もういいの?」

「え、ええ。やっぱり試合も続きますし、それに飲みすぎは前回で懲りましたから……」

「ふふ、それもそうね」

 ママはそのときを思い出したのか、納得した様子で頷く。

 とはいえ、何も頼まないというわけにはいかない。浅川はメニュー表の軽食の欄から、冷凍のピザと枝豆、更に手作りのポテトサラダ、そして飲み物はウーロン茶を注文した。


「――ところで、ママ。ちょっと訊いてもいいっすか?」

「何かしら?」

 料理がテーブルに並んだところで、浅川はそれとなく、老婆に関する質問を投げかけてみることにした。幸い今は二人きり。込み入った話をするにも好都合だと踏んだのだ。

「あのゴミ置き場なんですが、そこで誰か、お店のようなものを開いていたりとかってします?」

「ゴミ置き場?」

「ほら、俺が酔ったときに教えてもらった……」

「ああ、あそこね。って、あんなところにお店なんてあるわけないじゃない。やあねえ」

「……そう、っすよね」

 浅川はポテトサラダをつまみながら、さりげなく笑う。それをウーロン茶で流し込むと、再度訊ねる。

「それじゃあ、あの辺りでお婆さんを見たことは?」

「お婆さん? どんな?」

「全身、フードを被った、白髪の……」

 ママは記憶を掘り返すように顎へ手を当てる。しかし思い当たる節は無いようで、

「さあ……ここにお店を出して十年になるけれど、見たことないわねえ、そんな魔女みたいなお婆さん。――そもそも、あのゴミ置き場って、もうずいぶん使われていないのよ」

「そうなんすか?」

「ええ。自治体のルール変更だなんだで、ゴミの収集場所が変わったから。今は、泥酔したお客さんが体調を整えるために駆け込むくらい。この前のあなたみたいにね」

「…………なるほど」

 先ほどママが言ったとおり、まさしく魔女然としていたあの老婆のインパクトはかなりのものだ。あの姿を一度でも見ていれば、絶対、記憶に残っているはず。十年ここに店をかまえていても見覚えがない、というのが本当にならば、やはり、少なくともこの周辺で暮らしている、ただの老婆ではない、ということだろう。

 まさか、全てが自分の幻覚だった、なんてこともあるまい。あの不思議なガムは確かに存在したし、なにより、昨日の試合結果がそれを証明しているのだから。

「――でも仁ちゃん、今日はまたおかしなことを訊くのね」

「え? あ、すんません……ワインでちょっと酔ったのかも。忘れてください」

 表情を硬くしていた浅川は、怪訝そうなママの目を誤魔化すようにトースターで焼かれたピザを一切れ頬張る。

 そして一言、


「あっちい!」


 上あごに張り付いたチーズの熱さに悶絶した。

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