プロローグ ー渇望ー
無様だった。
かつては天下の頂まで轟いた剣客であった。
剣とともに生きる人生であった。
剣を振るうことが己の存在意義であり、生を受けている証だった。
たくさんの血溜まりを作ってきた。たくさんの命を奪ってきた。
剣とともに死ぬことも覚悟できていた。
だのに。
なんと無様な格好だろうか。
肺腑からせり上がる黒い塊。胸の中を抉るように暴れる黒は外へ出ようと必死になる。
堪らず吐き出した。
白い布団が吐瀉物に塗れる。
黒の奔流は止まらない。何度も何度も胸を殴打し、吐き出される。衣服にも床にも飛び散り、異臭すら漂う有り様であった。
「……」
荒い息を吐きながら、濁った目を上げる。
畳の向こうには、緩やかな弧を描く黒漆の鞘。鈍い光を放つそれに腕を伸ばす。骨と皮だけの五本の指、血が通っているのかと疑いたくなるような、真っ白な皮膚。
もはや剣を持つような腕力も無い。
それでも、必死に手を伸ばす。
ずるずると芋虫のように布団から這い出、震える手で刀を乱暴に掴み取った。勢いで刀掛け台が倒れ、脇差も畳に転がった。
「私、は……っ」
赤色の涎が唇を伝う。一歩でも動いたらバラバラになりそうな五体。今にも折れそうな脚を無理に立たせ、四つん這いのまま、痩せこけた顔を巡らせた。
青く高い空。白い雲。輝く太陽。
今の己には忌々しく感じるぐらい、美しい景色であった。
「くそ……っ」
何故、かような所にいるのか。
何故、己が蝕まなければならないのか。
何故、天は己を戦場で死なせてくれないのか。
血が滲むぐらいに唇を噛み、刀の柄を強く握り込む。
起き上がれない己が本当に惨めで、言うことを利かない身体が歯がゆく、悔しくて……。
叫ぶ気力も無い。そんなことはとっくの昔にやった。いろんなモノに当たった、たくさん傷つけた。
だが、何も変わらない。
己は床の上で死に行く運命なのだ。
「何故だ……ッ」
そしてまた、激しく咳き込む。
板張りの廊下が赤く染まっていく。その嘔吐の量はもう長くないことを明瞭に示していた。
風前の灯火とはこういうことを言うのだろうか。
凛、と音がした。
ばっと顔を上げる。
庭にあったのは、毛並みの良い真っ白な猫。大人しく庭の真ん中に座っていた。青々しく、硝子玉のような瞳がこちらを凝視していた。
不意に刀を持つ手に力が籠もった。
ゆっくりと鯉口を切る。
喉の奥が痙攣する。低い笑い声が口から零れた。
目の前にあるのはただの猫だ。そう、猫だからこそやらねばならない。
生きたいのだ。
いや、こんなところで死にたくない。
我は剣客である。
剣とともに生き、剣とともに死ぬ。
己の道はそれだけしかない。他の道などあるわけも無い、あるはずも無い。あり得ない。
そう、私はまだ戦える。剣を振るうことができる。
床に転がっていた脇差を腰帯に強引に差し込み、大刀を杖に立ち上がる。
荒い息、震える手足、痛む五体、霞む視界……。
それがどうしたと言う。何の問題があるだろう。
天下を取った剣を甘く見ては困る。
白猫は動かない。不気味な笑みを浮かべるこちらがそんなに不思議か、滑稽か。ゆらりと尻尾を揺らして未だにこちらを見つめていた。
庭に下りる。
血の混じった痰を吐き出し、刀を抜き放った。肉厚の刀身が陽光を反射させ、波打つ刃文が美しい輝きを見せた。
鞘走りの音に猫がぴくりと耳を動かす。
「獣は、何度か斬ったことがある……猫は初めてだが」
狂っている、己でもそう感じた。
今は、剣を振るうこと、目の前の猫を斬ること、ただそれだけしか頭の中にない。これではどちらが獣かわからない。
再び乾いた一笑すると途端に白猫が逃げ出した。
舌打ちをし、刀を握り締めて庭に飛び降りた。
悲鳴を上げる四肢を黙らせ、白く明滅する目をこれでもかと見開き、白猫を追いかけた。
白猫が首を回す。
再び、碧い瞳とぶつかった。怜悧なそれはこちらを振り返り何を思うのだろうか。憐れみか、哀しみか、蔑みか……。
なんだっていい。どうだっていい。
そんな視線は慣れている。剣客がそのようなことで怖気づいてどうするというのだ。
心を律し、敵を制し、そして克つ。それこそが剣客の行く道、闘争の道から逃れられることなどできはしない。そもそも、己は逃げることなどしないが。
「ふはっ」
笑みが零れる。
懐かしい。戦場を駆けていたあの頃が。
風を切り走りながら思う。
もう一度……、一度だけでいい。
白猫が足を止めた。
重たい切っ先を持ち上げ、刀を振り上げる。同時に喉が焼けるように熱くなり、口内に血の味が広がった。もう、時は無い。
願わくば、来世は――。
そのとき、何かにぶつかった。
衝撃に足がもつれる。目を右に下ろすと四角い木の箱――庭にある井戸だった。
つま先が井戸の前にある段差に引っかかっている。勢い余った身は井戸に向かって傾いていた。
「あ……」
吐息が血とともに漏れる。斜めになる視界、ふわりと浮遊感に満たされる五体……。
落ちる。
妙に晴れた頭でそれを理解した。
その最中、白猫はこちらを見つめていた。地面に四足を付き、何を動じることなく声も上げず、ただじっと……。まるでこの時を待ち望んでいたかのように。
剣客はその瑞々しい碧い瞳を見返し、薄く嗤った。
「……策士であるな」
柔らかな表情をした若き剣客は、奈落へと沈んだ――。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
建物と建物の間から青い空が広がっていた。
重たい瞼を上げる。
明るい光が目に差し込み、眉をひそめた。
「ここは……」
鈍く痛む頭を押さえつつ、首を捻る。どうやら地面に尻をついている。冷たい石の床に手をついたとき、気づいた。右手にあるのは愛刀。いつも枕元に置いてある大切な代物である。わずかに目を見開き、思い出す。
猫を追いかけたあと、自分は井戸に落ちたのだ。
「つまりここは……あの世か?」
それにしても明るい。
薄暗い狭い道だが空を仰げば青く、気温も心地よい。吹く風も柔らかく暖かかった。
地獄とはこのような所か。もしくは極楽か。いや、己が極楽に参るわけもない。剣を振るい、命を奪ってきた身。修羅道へ堕ち、彷徨い続けるのがもっとも似つかわしい。むしろそのほうがいつまでも戦いに明け暮れていられ、剣客として地獄でも楽しくやっていけそうである。
剣客は頬を緩ませた。
「ならば一先ず閻魔に挨拶をしよう。む? 私はいつの間に河を渡ったのだろう……?」
ふむと、呑気に頷いて腰を上げようとしたとき、何かを感じ取った。
目を細めて振り返ると、狭い道の向こうに男が三人いた。彼らはこちらに気づき、下卑た笑みを浮かべ近づいてきた。
「こんなところで何やってんだぁ?」「見たことねえ顔だな」「髪の毛、黒いぜ」
堪らず眉間にしわを寄せる。
男たちは見たこともない格好をしていた。薄汚れた衣服は腕や脚にぴっちりとくっついていて、面妖な格好していた。そして思い出す。いつの日か、お師匠様に教わったことだ。遠い海の向こうに住まう異国人は変わった格好をしていると。それが目の前にいる男たちと合っているのかわからないが、体格も顔立ちも、祖国では見られなかった。
自然と刀の柄に力が籠もる。難しい顔をしていると、男たちはこちらの全身を舐め回すように眺めてから、手の中にある刀を見やった。
「中々の上物だな……金になりそうだ」
先頭にいる髭面の男が呟く。ニヤリと口を吊り上げる髭面に応えるように、後ろの二人が前へ出た。彼らもまた、顔に笑みを貼りつけている。
「……下衆なものだな」
嘆息する。
地獄も浮世とまったく変わらない。閻魔に会う前にこんな卑俗な者どもと出会うとはまったくもって災難なことである。
まずは刀を収めよう。そう思い、ゆっくりと立ち上がったとき、違和を感じた。
身体が、異様に軽いのだ。
「……」
息を飲む。
思えば、今まで咳のひとつも無かった。頭痛もしない、視界も鮮明、胸が詰まるような思いもない。手足も震えていない。
何より――。
ふつふつと沸き起こる高揚感。心臓が力強く脈打ち、全身へと血が通っていくのが理解できた。
ますます笑みは深まっていき、肩が揺れる。
急に笑い出したため男たちは怪訝そうにこちらを眺めていた。
「おまえ、何が可笑しいんだ。とっととこっちに来やがれ」
「ああ、滑稽だ。実に面白い。ここは極楽やもしれぬな」
「あん……?」
わけがわからないと言った風に男たちは顔を見合わせた。
そんな彼らを意に介さず、納刀を果たし、脇差も丁寧に位置を整えた。着物は相変わらず赤黒く変色していて汚らしいが、今は詮無きことだ。
「私はまだ、戦える。それがとてつもなく嬉しいのだ」
いつかのように、刀の柄に手を添える。
右足を前へ出し、左手で鯉口を切り、右手は柄を握り込む。そして唇を弧に描き、男たちを睥睨した。
「さて。其の方らが害を為すというならば、某もそれ相応に応じなければならぬが……。おぬしたちのような下衆に我が剣を魅せるのは少々もったいない」
すっと刀を鞘ごと引き抜く。ぶんと風を切る鞘。鐺を男たちに突きつけた。
「閻魔に会う前の肩慣らしだ。加減してやろう。むしろ閻魔のところまで案内願いたいものだな」
「な、何言ってんだおまえ? やるって言うのか!」
「……何?」
そのとき気づいた。
言葉がわからないのだ。
まさか本当に毛唐の類であるのだろうか。あの世という所は海の向こうまで繋がっているのか。
困惑していると、男たちは腰から刃物を取り出した。真っ直ぐの刀身に分厚い両刃が備わっている代物だ。
「大人しく言うこと訊けよ、悪いようにはしねぇさ」
「……はぁ、まったく。ぎらぎらと殺気を漂わせて情けない。少しは落ち着き――」
「ガタガタうるせぇッ」
「――遅い」
飛び出した男は瞬く間に地に沈んだ。
何が起こったのか、理解できた者はこの場にいない。地に伏し、白目を剥く仲間を見て、他のふたりもあんぐりと口を開けて固まっていた。
「やはり……」
驚愕するふたりを気にせず、剣客は熱い息を零す。まじまじと両の手を見つめ、柄を握る感触を深く味わった。
「これは夢ではないのか。本当に……私は……」
歓喜に震えた。
こんなに嬉しいことは他に無い。剣を振るうことがすべてだった。それが生きている証であり、生を受けているという実感があった。
今だけは、神や仏を信じ拝んでもよかった。
今にも零れそうな水滴を唇を噛みしめて耐え、鞘を構え直し、呆ける男たちに向かって不敵に笑ってみせた。
「相手してやろう。鈍った身を取り戻すにはまったくもって足りぬが」
「チッ、調子に乗りやがって、こむ」
「――何をしてるのあなたたち!」
凛とした声が狭い道に響き渡った。
ばっと振り返る。その先は狭い道の入り口。明るい光が差し込み、その光を背に人が立っていた。
「白昼の中、このような路地で刃傷沙汰ですか……」
靴音が近づいて来る。コツコツと規則正しく地面を鳴らすそれは苛立ちを露骨に表していた。
現れたのは端麗な少女だった。
背に流れる銀色の髪は陽光に輝き、きりっと凛々しく気の強そうな碧眼、筋の通った鼻梁、引き結ばれた瑞々しい口元は生真面目な印象を与えた。
「……」
突然の闖入者に言葉を失うこちらを目にやり、少女は嫌悪に顔を歪めて男たちを睨みつけた。
「寄って集って……。安心してください。私がお助けいたします」
柔らかな微笑を浮かべ、少女は左腰に手を当てた。その動作に今更ながらに気づいた。彼女は刀剣を帯びているのだ。
――かの者も、剣客であるか。
直線的な形をした刀剣だ。異国の刀はああいう類が多いと聞いたことがある。刀身は分厚く、両刃。祖国のそれと違い、「引き斬る」という動作には向かず「圧し斬る」ことに適している。以前、唐土の軽業師と剣を交えたときにそれを経験した。彼女が持つ刀剣は、唐人の得物と異なるようであるが。
「あ、オイ、あの家紋、ウォルフォードのヤツじゃねーかっ?」
思考を巡らせていると、ひとりが素っ頓狂な声を上げた。
男が指差すのは少女の着る外套。繊細で豪奢な飾りがあるその胸元にはひときわ大きな徽章があった。
確認した男たちはますます泡を食う。
「ってことは、『白銀の飛燕』かっ!?」
「……あっ、その渾名好きじゃないんだけど」
「くそ! 引き上げるぞ、覚えてやがれ」
昏倒する仲間に肩を貸し、男たちは脱兎の如く逃げて去った。
あたりは一気に静かになった。
臆病者め。たかが少女がひとり加わっただけで逃走を図るとは、男児としてどうなのだろうか。諦観のため息を吐き、腰帯に大刀を戻す。するとこほんと咳払いが聞こえた。
「お怪我はありませんか? ええっ!? 服が真っ赤ですよ!? どうしたんですかぁ!?」
「ん? あぁー……」
少女は目を丸くして慌てふためく。
何度も言うが、異国の言葉はわからない。心配してくれているように見えるが、別に何ら問題は無い。それはどのように伝えればいいのか。ともかく口を開いてみる。
「う、うむ、心配ご無用。これは、私の血ゆえ……」
「……えっ?」
少女はきょとんと小首を傾げる。ぱちぱちと大きな碧い瞳を瞬かせる姿は、可愛らしく映った。
「言葉が通じない? ……もしかして、外地の方でしょうか」
「うむ……?」
すっきりとした輪郭を描く顎に手を当て、少女は考えている。そんな真剣に考えなくてはならないことだろうか。言葉など二の次、論は嫌いだ。やはり剣客である以上、剣で語らわねば。それはそうと、この少女も剣客なのか。
「ともかく。そんな薄い格好で出歩いてはダメですね。あと少し臭いが……」
若干眉をひそめてこちらに言うと、数歩離れてひょいひょいと手招きをした。ついて来い、と言う意味合いか。戸惑いながらも一歩踏み出すと、少女は嬉しそうにはにかんで、前へ進もうとしたとき。
「姫様ぁーっ!!」
別の声が前方から聞こえた。それを耳にした瞬間、少女は小気味よく手を打った。
「ちょうどいいわ。レベッカ、こっちよ!」
少女と同じ方向から現れたのは、またしも女性であった。
白と黒のひらひらとした衣装を身につけ、両手いっぱいに紙袋を抱えている。色鮮やかな果実が詰まる大きな紙袋の後ろから、小さな顔を覗かせて頬を膨らませた。
「こんなところで何をなさってるのですか! もう、目を離したらすぐ勝手に……」
しかしすぐに顔を引きつらせた。目に映るのは紛れもなく、小汚い格好をした不審者だった。
レベッカと呼ばれた少女は、ぐるんと首を回して銀髪の少女へと向き直った。唖然とする彼女を尻目に銀髪はにこやかに話しかける。
「レベッカ。実はこの方、どうやら外地の方らしい。言葉が通じなくて困ってるんだ」
「はぁ、外地……じゃなくてっ、まったく意味がわかりません!」
「ともかく、会話ができなければ何も始まらない。君の“魔術”の力を借りたい」
「なっ、何を申しますか! わたくしの魔術は私的使用できませんよ」
「君のお父上には後で私が言っておくから。……お願い」
「むぅー……」
両手を合わせて懇願する銀髪の少女。レベッカはたじろぎながら、ちらちらと睨むようにこちらを見つめてくる。よくわからないが、とにかく目を合わせてみた。すると彼女は盛大にため息を吐き、紙袋を銀髪に差し出す。銀髪は快く紙袋を受け取った。
「はぁー。人助けなんですね」
「無論だ」
「姫様は一度これだと決めたらテコでも動きませんから」
「苦労を掛ける」
「本当に、もう……」
両手の空いた彼女は茶色の髪を耳に掛け、こちらの片手を掴み、自分の両手と重ねた。ぴくりと震えるこちらにぶっきらぼうに伝える。
「少しチクッとするかもしれませんが我慢してくださいね」
言うが早いか、彼女の周囲に緑色の粒子が浮かび始めた。
「な、なんとっ……」
「じっとしてください」
上擦った情けない声を上げて身じろぎするが、彼女は力いっぱいに手を握って拘束を解くことはない。淡く光る緑色の粒子は彼女の周囲を漂い、彼女はぼそぼそと何かを呟く。摩訶不思議な現象に動揺するも、彼女から放たれる温かな雰囲気に心が穏やかになっていくように感じた。
やがて、粒子は跡形もなく宙に描き消えた。
「ふぅ、終わりました。これで姫様と、わたくしとも会話ができるでしょう」
「うむ、さすがレベッカだ」
耳を疑った。
銀髪と茶髪の少女の言葉が聞き取れる。それも馴染んだ言葉だ。
「そなたらの言葉が理解できる?」
「ええ。レベッカは、というかレベッカの家は言葉を操る“魔術”に精通してるんです。通訳は私のレベッカ・バーナードに任せておけば何の心配はいらないわ」
「私のだなんて……姫様……」
茶髪の少女、レベッカ・バーナードはぽっと頬を赤く染めてたいそう嬉しそうであった。
そんな彼女に紙袋を返し、銀髪の少女は名乗る。
「改めて。私はアステリア王国騎士団、第一騎兵中隊所属ステラ・ウォルフォード。階級は少尉よ。あなたは?」
「あり……、きし? す、すてら……おるほーど……?」
「ふふ、ステラって言うの。呼べるかしら」
ステラ・ウォルフォードはくすりと笑って訊ねる。よくわからない単語の羅列に戸惑うが、ともかく相手が名乗ったのだから返さねばならない。
剣客は居ずまいを正し、胸を張って名乗った。
「某、牧一刀斎義龍春愛と申す」
「ま、マキ……イッサイ、ヨシタツ? 難しいわね……マキと呼んで良いかしら?」
「構わぬ。では某も、ステラ殿と呼ばせていただきたい」
「ええ。もちろん」
銀髪の剣士、ステラ・ウォルフォードは美しい微笑みを称えた。
* * *
果たして。
剣客、牧一刀斎義龍春愛は畳の上の生き地獄から生を取り戻した。