名前を探す猫の旅
吾輩は猫である。名前は、在ったのだが思い出すことはできない。
吾輩の名前を口にすることなど久しく無く、燃え尽きたロウソクのように跡形もない。
吾輩は長く生き、そして長くは生きられないだろう。
やりたいことは多からず行い、やりたくないことは少なからず行った。後はあの世の心配を残すのみとなり、今になって名前のことを思い出したのだ。今のままでは既に先立った者にその名を呼ばれたとしても、吾輩はそれに答えることができない。
吾輩は名前を探す旅に出る。かつて吾輩と共に歩んだ者を順に辿るのだ。
始めに出会ったのは犬であった。彼は吾輩よりも年上で、つまるところ吾輩よりも先は短い。
突然訪ねた吾輩を犬は歓迎してくれたが、名前の話になると犬は顔をしかめて首を振った。長く、それは長く言葉も沈黙も交わしてきたが、名前の話などしたこともない、と。
吾輩は一言礼を述べると、先を急ぐと断りを入れ旅に戻った。犬の顔を見なくとも、吾輩同様、名前を失くしていることは手に取るように分かった。
次に出会ったのはネズミであった。彼女は吾輩と年は変わらず、何度も議論を重ねた仲だった。交わした言葉は犬より多く、犬より軽いものばかりだ。
ネズミにも犬同様に名前のことを尋ねた。吾輩は名前の話をしたことがあっただろうかと。ネズミは少し笑みを浮かべて、名前の話になると貴方は恥ずかしそうにはぐらかしたわ、と答えた。
吾輩は一言礼を述べると、先を急ぐと断りを入れ旅に戻った。ネズミの顔を見なくとも、吾輩同様、自らの名前を思い出そうとしていることは手に取るように分かった。
次に出会ったのは猿であった。彼と吾輩は幼馴染で、幾度となく遊び、幾度となく喧嘩をした仲だった。交わした言葉は単調で、単純なものが多かったはずだ。
吾輩は猿に名前のことを尋ねると、猿は面白そうに手を叩き様々な名前を口にした。宇宙、黄金、英雄など。次から次へと出される名前に、吾輩は面食らい列挙を遮った。
いったいどれが吾輩の名前であるかと猿に尋ねると、猿はまたしても笑いながら、どれも猫が名乗ったものだと答えた。
吾輩は猫である。名前は、多くあったようだ。一つではなく。
吾輩は多くの名前を名乗り、そして遂に何一つ残ることはなかった。
どれか一つでも名乗っていれば、変わったことがあったかもしれない。
が、それはもはや過去の話である。
吾輩は猫である。あの世でなく今名乗る名前を、必要とすべきだったのだろうか。