彼女の痕跡
「よかった、何かあったのかと思ったわよ?無事に来てくれて嬉しいわ」
「ご心配おかけして申し訳ありません。兄には久しぶりにあったものですから」
謁見の間には既に紅茶片手にソファで寛ぐフリッグの姿があった。自分は寛いでフレイをパシリに使うなど、世界広しといえどもフリッグ以外にはいないだろう。最高神オーディンでもフレイをパシリにすることは不可能だ。
そんなフリッグは幼い身体なのにも関わらずスタイルがいい。そんな長い足を組んで優雅に紅茶を飲む様は、フレイが甘んじてパシリを受け入れるのも頷けるほどの何かがあった。それは幼い姿には似つかわしくないほどの貫禄だろうか。
「ふふ、そんなに見ないで。照れるでしょ?」
そう言ってフリッグはかつて九世界にある生物無生物問わず全てのモノを魅了した微笑みを見せる。幼くなっても変わらぬ美しさに息を飲んだ。
「申し訳ありません」
一応、深く頭を下げる。麗麟はフリッグがこの程度のことを気にする訳がないのは知っているが。
「構わないわよ。遅刻のことも、今のこともね」
案の定、フリッグはさらりと麗麟の今までの行動を許した。やはり、母性愛に満ちた優しいーー
「まあ、フレイやオーディンがしたなら呪ってるんだけどね」
人なのは、どうやらフレイアや麗麟たちが相手の場合だけらしい。フレイは苦笑いをしていた。
「それで、私への話って何かしら?」
余裕な笑みを見ながら麗麟は少し顔と気持ちを引き締める。兄との会話で少しは落ち着いたが、やはり自分の愛する主があんな目にあったのだ。機嫌が悪いのも仕方ないだろう。
「はい、莉八のことです」
「ん?莉八?あの子が何かしたかしら?」
私には何の報告もないけれど、とフリッグは思案する。しかし、どうやら麗麟はかなり不機嫌な様子。ソファにすら座ろうとしないほど正常な判断は出来ていないようだ。
麗麟はゆっくりと首を振って、冷たい声で言う。
「いいえ、何もしなかったんです。それが問題だと言っています」
「何もしなかった?それのどこが……」
そう言っているとき、フリッグはある一つの答えにたどり着いた。やはり頭がいい、と麗麟は感嘆する思いだ。
「今、フレイアちゃんは?」
思わずソファから降り、前のめりになって聞く。となりのフレイも話はわからないはずなのにフレイアの身に何かあったのかと心配気な顔をする。麗麟はそれらを見てから軽くため息をつき、口を開いた。
「今は少し身体機能が使えなくなっているだけで、命に別条はございません」
そう聞くとほっと2人が息をつく。しかし、身体機能がどのくらい使えないのか、なぜそうなったのかを細かく聞く必要があるかとまた姿勢を正して続く言葉を待った。
「身体機能の低下は歩くこと、立つことは愚か座ることすら一人で満足にできないほどのものです。ことの始まりはどうやら、主上がソロでシャーベルトに挑んだことのようですね。詳しいことはわかりませんが、たまたま会った少女と共闘を組み、何とか討伐できたようです。しかし、主上は大変な怪我を負いました」
「「……」」
重い沈黙が流れる。フレイとフリッグにとって最優先で守るべきもの。それが今、そんな状況になっているとは思っても見なかった。今の今までそれを知らなかったことも悔しいが、ピアスがあるのにも関わらず連絡をしてくれなかったことを悔しく思った。
「シャーベルト…なら、毒はどうした?」
フレイが苦しげに尋ねてくる。しかし、モンスターの知識が少ない麗麟は首を傾げた。
「…毒?」
「あなたが解毒して治療してくれたんでしょう?違うの?」
フリッグが願うような目で見つめてくる。麗麟は混乱してなかなか返事をしない。
「シャーベルトには毒があるんですか?か、解毒…けど、そんな色は…」
「していないのか?シャーベルトの毒は死に至るんだぞ!?い、今、あいつの周りに回復役は…?!」
麗麟は首を横に振る。もしかしたらリコなら、高レベル支援魔導師であるリコなら何とかなるかもしれない。そう思うが解毒は間違いなく治療魔術の範囲内だ。期待していいものか判断できない。ゆえに、2人に伝えるわけにはいかない。
いないという返答を得たフレイとフリッグは絶句した。
「…どのくらい経ったんだ?」
フレイアがその毒を受けてから、という意味で尋ねる。あれに即効性はない。その上不死の女神であるフレイアならまだ大丈夫かもしれない、そんな希望的観測だった。
しかし、フレイの台詞にフリッグが首を振る。
「ここに麗麟ちゃんが来れるくらいの時間が経っているのよ?もう…」
またしても重い沈黙。誰も何も言えない中で誰もが気づいた。麗麟は報告してこなかった莉八に怒ってここへ来たのだと。しかし、今それがわかっても、莉八を責めても何も状況は変わらない。
そんなとき、不意にフレイが少し明るい声を出した。
「ん?そんな色はなかった?」
フレイがさっき麗麟が言った台詞の一部を繰り返した。この中では1番モンスターに詳しいのは彼だ。2人はフレイが言わんとしていることがわからず、キョトンとする。
「はい。主上は怪我こそしていましたが、毒が入っているような色はしておられませんでした。寧ろ、主上の血の匂い以外はしなかったほど清潔で…」
言ってて自分でもどこかおかしいことに気づいたのか麗麟は言葉を止める。血の匂いに関しては麒麟の言うことは正しいはず。全ての生き物の中で最も敏感なのだから。ならば、怪我をする少し前までモンスターを狩りまくっていたであろうフレイアの身体から、なぜフレイア以外の血の匂いはしなかったのか。
「……血の匂いが取れて、解毒も出来る。そんな魔法って…あったかしら?」
さっきとは別種の沈黙。皆、差し込んで来た希望の光に縋り、推測を重ねている。本当はフレイアにピアスで連絡を取れば彼女の体調に問題がないことくらいすぐにわかるのだが、ここにいるものはそれに気づいていない。そんな沈黙を破ったのもまたフレイだった。しかし、今回は麗麟も同時だ。
「「あ、浄化の光」」
言った2人は顔を見合わせてかつてフレイアが気に行って使っていた攻撃魔法の名を言う。フリッグは知らないらしく首を傾げていた。
「フレイアの得意魔法の一つにそんな名前のやつがあるんだよ。もちろんオリジナルだけどな。解毒効果、浄化効果があるって聞けば治療魔術か支援魔法だと思うかもしれないけど本当のところは攻撃魔法だ。闇属性のやつにしか効かないがな。昔、一緒に行った邪神討伐であいつがそれ一発で倒していたのを見たことがある。かなり強力なやつなんだ」
フレイの説明を聞いてフリッグは納得するとともにフレイアを尊敬する思いがあった。フレイアの魔法の才は魔力量だけじゃないとわかってはいたがまさかそんな魔法まで作っていたとは。闇属性の呪いが専売特許の自分の前では使わせないように気をつけようと心に誓うフリッグだった。
「確かに、主上の魔力は底をつきかけていました。そんな魔法を使ったのなら…いや、無理ではないでしょうか?主上が自分でって言うのは…」
麗麟曰く、そんな時間的体力的余裕があったとは思えないという。フレイとフリッグはまたも首を捻ることとなった。
「他の人が浄化の光と同じ効果の魔法を使ったのでしょうか?」
麗麟が首を捻る。フリッグも黙って考え込んでしまった。しかし、フレイには思い当たる節がある。おずおずと口を開いた。
「実は、俺からも話がある」
2人の視線が集まった。フレイはそれを見返し、自分の背後に影のように控えていた麗麒を指差す。
「先日、麗麒がヘルヘイムで天空操作の魔法陣が使用されたのを確認した」
「…ヘルヘイム?」
フリッグはそれを疑問に感じつつも話の続きを促した。フレイは麗麒に話をするように促す。
「…実は、その使用された魔法陣は私が先生に、卒業祝い、と言って伝授して頂いたものなのです」
もう随分遠い昔に、麗麟と共にそれぞれの魔法を習っていた麗麒はある日、フレイアに満面の笑みで言われたのだ。
「私が教えることはおしまいだよ!卒業、おめでとう!!」
人間たちが学校で教わる分を終えるとする卒業というものを冗談半分で言って、一つの陣を託してくれたのだ。
「これは私のオリジナル。けど、麗麒、あなたが作ったオリジナルも混ぜたから合同魔法だね」
麗麒が授業の一環で作った魔法陣のことだ。しかし、それは確か、陣の上に雲を作れる程度だったように記憶していた。
「これなら、世界の天候を思いのままに操れる。きっと、これからあなたの役に立てるから…」
そう言って、もう一度フレイアは笑った。
「卒業祝い。おめでとう、我が愛する一番弟子!」
そのときの笑みが麗麒は忘れられない。
あの美しい笑みは麗麒の長い人生の中であの一度だけとなった。
最後に見た笑みは、弱々し過ぎて、見ていられなかった。
見ている方が、辛くなる笑顔だった。
「…つまり、この魔法陣は私と先生にしか使えません。先生は、私との合同魔法陣だと言ってくださいました。だから、私に断りなく誰かに教えたとも思えません」
ほとんど全て、先生が作ったものですが、と麗麒は辛い表情で言った。美しく、幸せな思い出は最後の笑みで悲しみに変わる。先生にもう一度会えたなら、自分は何を言うだろう?救えなかったことを、謝るのだろうか。麗麒はそんなことを考えて、黙り込んでしまった。
それに気づいているのか、3人は黙る麗麒に気遣わし気な目を向けただけで何も言わなかった。
「…それは、今回の件に似ているわね」
フリッグが落ち着きを取り戻し、再びソファで足を組みながらそう言った。確かに、他人には使えるはずのない魔法が使える者以外の人物によって使用されている。それはとても似ている現象だったが、そこから導き出せる結論を軽々しく口にすることは躊躇われた。それは、皆が望んでいる結論だから、余計に言い難い。
「…それだけではないぞ」
どのくらい経っただろうか。かなりの時間、その部屋を包んでいた沈黙をこの部屋にいた四人以外の人物が破った。
「…オーディン」
誰が言ったのか、現れたその人物の名を告げる声が静かな部屋に流れる。
「それだけではないって、どういうことだ?」
フレイが厳しい顔で問いかける。
「麗麟、人間界から来たのだろう。人間界では噂にはなっていないのか?」
「…何がですか?」
オーディンの台詞の意味がわからず問いかける。何か聞いただろうか、変化があっただろうか、と自問した。
「あそこには結界を張っているな?フレイアが最後にした仕事だ」
「ああ、フレイアオリジナルの最強の結界だろ?あれの兄弟版がここ、アスガルドにも張ってある」
フレイアは最後に結界を強化して行くといってここと人間界に張って言った。それはフリッグやオーディンでも破ることができない結界として未だに最強だと言われている。
「それがどうかしたの?…まさか、だよね?」
フリッグが恐れるように、それでいて、期待するように問う。オーディンはゆっくりと首を縦に振った。
「そのまさかだ。人間界の結界が破られた」
オーディンちょっとしか出ませんでしたね…




