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第六章 血戦

 第六章 血戦

 

 レギオン。

 それはキリスト教の伝説の中に登場する、死者の群れのことである。レギオンとは、英語で軍団や軍隊、または大勢という意味を持つ名詞なのである。

 昔、哲也は、多数の死体が集まってボール状になった敵キャラクターがでるゲームをしたことがあった。その時のインパクトが忘れられず、今、目の前にあらわれた物体をレギオンとよんだのである。正直、塊魂でもよかったのかもしれない。

 

 眼前のレギオンは人間の死体の集合体ではなかった。これは文明の死体の集合体なのであった。

 ガレキ、電信柱、トラックやセダンなどの自動車、はては電車の車両などによって、このレギオンの体は構成されていたのである。

 膨大な雨水がつくり出す水流に流されからみ合ったこれらは、木々の出すリグニンを糊がわりに合体し、流れを転がりながら次第に巨大化と球形化をしつつ、ここまできた。

 とてつもない重量をもつレギオンは、木々を押し倒して転がる。

 哲也たちにとっては、レギオンそのものも脅威だが、それよりもこれによって倒される巨木の方が、より危険であった。

 

 「先輩、レギオンは一つじゃない!」

 哲也は、倒れた大ガードの向こうから、最初のと同じようなレギオンが三つも転がってくるのを見て叫んだ。大きな声をだすと胸にするどい痛みが走るが、今は悠長に薬を飲んでいる時間などない。

 「ちっ!」

 一つめのレギオンをかわそうとしていた命は、合計で四つに増えたレギオンの群れを見て、方向転換を余儀なくされた。回れ右をして、もと来た道を走りもどる。

 だが彼女は、シラカシの枝を走っていた途中で、とつぜん立ち止まった。

 「あっ!」

 不審に思った哲也が命の視線の先を追うと、そこには両眼から血を流したダンドリオンがいた。

 百獣の王は、復讐のために二人を追跡していた。ただ、目が見えず、鼻も花粉症のため、ちょっと時間がかかってしまったのである。

 「しつっけぇな! このクソライオンが!」

 「先輩、待って!」

 なにも考えずに突っ込もうとしていた命を、哲也が制す。

 こんなに派手に突撃してしまっては、敵の思うつぼである。なにしろ相手は目が見えないのだ。そこにつけこまない手はない。

 「先輩、ここであいつを殺してしまいましょう」

 瞳に殺意が走った。

 今、ダンドリオンを始末できなければ、いつか自分たちが追いつめられる。彼には、そんな確信があった。

 「でも、哲也!」

 命は、後ろからせまるレギオンの群れを気にしていた。

 それらは轟音をたてて近づいて来ている。こんな時にライオンなんかと戦っていていいのか。レギオンのスピードはかなり早く、これではライオンをさけて迂回しているヒマもなさそうだ。 

 彼女には、強行突破いがいの方策は浮かばなかった。

 「大丈夫。ぼくを信じて」

 だが彼の自信に満ちた声は、命から迷いを消す。

 哲也が大丈夫と言うなら、絶対にまちがいなんかない。

 彼女の結論はシンプルであった。

 こうして、心の底から哲也を信じきれることが、さらに自分を彼の忠実な守護者にできることこそが、命の最大の能力なのかもしれなかった。これができたからこそ、数々の危機を乗り越えてこられたのだから。

 哲也は慎重にライオンの様子をうかがいながら、自分から命の背中にしがみついた。この態勢が最も早く動ける。今の二人に必要なのは機動力なのだ。

 ダンドリオンは姿勢を低くして、いつでも飛びかかれる態勢にいる。全身の筋肉がザワザワとうごめき、まるで独立した他の生き物のように見えた。

 巨獣との距離は、およそ十メートル。ライオンにとっては、まさに指顧の間である。

 「先輩、ぼくが合図したら、全力で走り出してください。それまでは、なにもしてはいけません」

 哲也が耳元でささやく。

 ライオンに人の言葉がわかるはずもないが、なんとなく密談調になっていた。

 ぐうううううるうううるるるる・・・。

 獲物がなかなか近づいてこないので、ダンドリオンはじれてきているようであった。体をひねらせながら、うなり声をあげている。

 それでも二人に向かってはこない。やはり目が見えないので、うかつに動けないのであろう。

 一方、レギオンは哲也たちにかなりせまっていた。これに押されたアカメガシワの木が、命のすぐとなりに倒れる。

 哲也はライオンから目をはなさずに、背後のレギオンとの距離をはかる。天才的な剣の使い手である、彼だからこそ可能な芸当であった。

 哲也は、なんとしてもライオンを先に動かしたかった。そうして巨獣自身の力で、百獣の王を滅ぼそうと考えていた。

 だがそのためには、一つ見極めなくてはならないことがある。

 それは、ライオンが跳躍をするか、それとも枝の上を疾走してくるのか、そのどちらでおそってくるのかということであった。それがわからないと、二人が逃げられないのだ。

 大雨の中、ふれれば切れるような緊迫した空気が、ここにいる全員をつつんだ。

 レギオンは後方約七メートル。

 ライオンは動かない。

 レギオンは後方約五メートル。

 ライオンの全身に緊張が走る。

 レギオンは後方約三メートル。

 ライオンがさらに姿勢を低くした。

 今だ!

 「走れ!」

 哲也は命の背中をたたいた。間髪入れずに命が走る。

 その時、ダンドリオンは高く跳躍をしてしまっていた。巨獣の腹の下を、二人が駆け抜ける。

 目が見えないダンドリオンだが、獲物を逃がしてしまったことは感じていた。しかし、体は全力跳躍の直後で動かず、手が出せない。

 「あははは! さすが抜き胴の達人!」

 命が歓声をあげる。

 哲也のタイミングとりは、まさに完璧であった。

 姿勢を低くしたライオンを見て跳躍するとさとり、さらにダンドリオンが飛ぶか飛ばないかのギリギリの瞬間をはかって合図を送ったのである。

 彼はしかし、まだ浮かれていなかった。痛む胸をがまんしてふり返り、敵の姿をさがす。

 思惑通りならば、百獣の王はレギオンと衝突しているはずなのだ。これこそが真のねらいなのである。

 「やった!」

 そして哲也は、自分たちの勝利を確認した。

 ダンドリオンに、ふかぶかと電信柱が突き刺さっている。それはレギオンの体の一部だ。ライオンはレギオンにぬい付けられたまま、これの回転に巻き込まれ、水流の中へと姿を消して行った。

 「先輩、ライオンは死にました! あとはレギオンから逃げるだけです!」

 「わかった! そっちはまかせろ!」

 だがそこで、彼らの目の前にあったマテバシイが倒れた。これはレギオンとは関係のない倒木らしかったが、それだけに命は虚を突かれてしまった。

 「うわっ!」

 あわててバランスをくずす。とっさにシラカシの枝を右足一本でつかんで態勢を立て直すが、背中の哲也は大きくふられてしまった。

 「哲也!」

 ケガ人の彼が、こんな急な動きに対処できるはずもない。命の首にまわしていた腕がはなれてしまい、シラカシのとなりにあったハゼノキの葉を散らせつつ落下する。

 さらに、マテバシイが倒れたのをきっかけに、周辺の木々のドミノ倒し現象もはじまってしまった。チュウリップのような黄色い花を咲かせたユリノキが、緑の葉と白い花をいっしょに付けたオオシマザクラが、つぎつぎと倒れていく。

 倒木の破片が雨のようにふりかかる中、命は哲也を追いかけて走る。しかし、互生したハゼノキの狭卵型の葉が視界をさえぎり、その姿が見えない。

 走るスピードをさらにあげる。枝の先端や、とがった葉などが、ようしゃなく体に当るが、彼女は目すら守ろうとしなかった。

 「いたっ!」

 ついに哲也が見えた。彼は下半身を水にひたしながら、太い枝をつかんで流れにたえている。だがそれと同時に、信じられないものまで発見してしまった。

 哲也の前方にダンドリオンがいる。

 ぼろ雑巾のごとく全身に傷をおった巨獣が、水流の中を体をくねらせつつ、哲也の方へと近づいていたのだ。

 獅子は、両眼、鼻、口、耳など、ありとあらゆるところから血を流し、さらに胴体からはみ出した腸を引きずりながら、なおも強烈な闘志を発している。この勝利への執着や純粋な闘争心は、過去のダンドリオンには見られなかったものだ。

 ここにきてついに、百獣の王は、人間のペットという自分の立場を超えたのである。今のダンドリオンは、誇り高き真の戦士であった。

 哲也もライオンの接近に気がついてはいたが、右手は枝をつかんでいたし、左手はなにかに強く打ちつけてしまって動かせなかった。

 その瞳は力を失っていないが、もはやあらがうことはもちろん、逃れる力も残ってない。

 「哲也―っ!」

 半狂乱と化して突進する命。

 しかし、どう見てもライオンの方が早い。獅子は最後に一声吠えた。それは歓喜の声であった。

 「うわああーっ!」

 ドーン。

 命の悲鳴に重なるように、落雷のような銃声がとどろいた。

 「無事か? 青年」

 頭を完全に破壊され、くずれ落ちるダンドリオンの背後に、硝煙をあげる銃を手にした石館義男が立っていた。

 

 「よっと」

 義男は哲也をハゼノキの上に引っぱり上げた。

 「た、助けていただいて、あ、ありがとう、ございま・・・す・・・」

 「いやいや、礼にはおよばんよ。それより、まだ安心はしていられんのじゃないかな」

 息もたえだえに礼を言った哲也に対し、義男は軽く手を振って答えた。

 たしかに義男の言う通り、ライオンの脅威は去ったが、レギオンの群れが消えたわけではない。

 彼らの危機は、いまだ続行中なのであった。

 「哲也! そこからはなれろ!」

 そこへ命が空からふってきた。

 彼女は哲也を自分の背に隠すように着地し、義男と対峙する。

 「先輩?」

 哲也は、彼女は発する不穏な空気に驚いた。

 一見したところ、義男はおだやかな雰囲気をもった人物であったし、なによりも彼によって哲也が救われたことを、命も見ているはずなのだ。なぜ、彼女がこんな態度をとるのかわからない。自分の裸体を隠そうともしなかった。

 「こりゃまた、背の高いお嬢さんだな」

 命を見つめ、瞳を光らせる義男。彼女のヌードに反応したものでないことは、動きのないその顔にあらわれていた。

 「・・・もしかすると、君の連れなのかね?」

 哲也から目線をはずし、少しうつむき加減に問う。

 「ああ、はい、この人は、ぼくの大切な・・・」

 なんで、こんな会話をしているのかと、哲也はいぶかしんだ。

 さっき義男自身が言ったように、レギオンはすぐそこまで迫っているのである。それなのに義男は、命を見てから移動する意思をなくしたかのようであった。

 「・・・ほう・・・」

 一方、哲也の返事を聞いた義男の声には、怒りがやどっていた。

 表情は最初から変わらないのに、その両眼に、そして声音に、隠しようのない狂気がこめられていく。

 「女連れってわけか。俺の娘は死んだというのに、お前は、俺の娘以外の女と・・・」

 「え? あ?」

 義男の妖気にあてられて、哲也はうまく口がまわらなかった。ケガだらけでボロボロの体も動かせない。

 「先に逝って、あの子にわびてこい」

 言葉だけ残し、義男が消えた。

 一瞬の間に数メートルも移動した彼は、水流に倒れ込みながら哲也に銃を向ける。そして、なんの躊躇もなく引き金をひいた。

 「させるか」

 だが鉄火がまたたく寸前、いきなり銃身がはじかれ、弾はあさっての方向に飛んで行ってしまった。

 いつの間にか義男のとなりに立っていた命が、思い切り銃を蹴りつけたのである。そのまま足で銃をつかんで奪おうとするが、義男はとっさに登山ナイフを投げてそれを防いだ。

 流れ弾にあたったハナカイドウが、二人の戦場に赤白色の花びらを散らす。雨にぬれたその花が地面に落ちるよりも早く、命と義男は走っていた。

 いったん離れ、サカキの木を盾にした命に、義男は少しでも有利な位置取りをすべく動く。コクサギをのぼって中腹の枝に陣取った彼は、慣れた手つきで素早く弾ごめし、銃をサカキに向けた。しかし、すでにそこに命はいない。

 「トロくせぇんだよ。おっさん」

 信じられないことに、彼女の声は背後から聞こえてきた。

 声とともに伸びてきた左腕が、背後から義男の首に巻きつく。銃を向けようにも、右腕で押さえられてそれができない。彼の両足が宙に浮く。けた違いの膂力であった。

 首の骨が異様な音をたててきしむ。大蛇アナコンダにからみつかれたら、こういう感じなのかもしれないと、妙な想像が頭に浮かんだ。抵抗どころか声も出せず、義男は死の入り口に立っていた。

 だがそこで、いきなり命の腕がはずれた。

 腕がゆるんだと見た義男は、咳き込むのもガマンして逃げだす。じゅうぶんはなれてからふり返ると、敵の姿はどこにもなかった。

 なぜ、殺さなかったのか。

 生命どころか銃をうばうことも忘れてしまうほどあわてていたとなると、その理由は一つしかない。哲也という、彼女が守っている青年に危険がせまったのだ。たぶん、彼らがレギオンと呼んでいる、あの巨大な球体が近づいてきたのであろう。

 なんという化け物か。

 命が人間だとは、とても思えない。あんな怪物がくっついているのでは、哲也を殺すのはむずかしい。彼女は最初から義男を敵と見ており、しかも人を殺すことにためらいがない。身体能力に目が行きがちだが、真に恐ろしいのはその心であった。

 だが、それでも・・・。

 義男は銃を握りなおした。この銃は二連発である。弾は他に四発あるが、あの化け物相手では装填しているヒマなどない。この二発で決着をつけるしかない。

 あの巨人に俺は勝てない。だが、アレにも弱みはある。

 それは哲也だ。彼女があんなに冷酷で残酷なのも、守るべき存在がある強さと言うべきなのであろうが、それは同時に彼女のアキレス腱でもある。

 自分の生命より大切ななにか。それを奪われた時の苦しみ、お前にも思い知らせてやる。

 義男の憎悪が燃えたぎる。

 なににたいして、そして誰を、こんなに憎んでいるのか。それは義男にもわからない。ただ憎い。そして悔しい。なにかを、そして誰かを、メチャクチャに壊さずにはいられない。

 必ずアイツをお前のもとに送ってやるからな。美代子。浮気者と、向こうで一発ひっぱたいてやるといい。

 彼はこんなことを言うが、事実として、哲也と美代子は付き合っていたわけではない。ただ写真にうつっていただけだ。それも他のクラスメート数人といっしょに。

 もしかしたら美代子は哲也に片思いしていたのかもしれないが、哲也の方では、ただの知り合い以外の何者でもなかったのである。

 つまり義男の怒りとは、自分が怒りたいがための怒りであって、他人が聞けばひどい言いがかりでしかないものなのであった。

 

 義男が想像した通り、命と哲也の二人は、レギオンから逃れるべく移動していた。

 ハゼノキの上で横たわっていた哲也に、レギオンがぶつかりそうになったのである。超人的な聴力で彼が呼ぶ声を聞いた命は、戦いを忘れて駆けつけたのであった。

 腕も足も痛み、さらに肋骨の骨折で呼吸もままならない哲也は、自力で動けない。だが、命が背負ったり肩にかついだりも胸にひびくので、これまたできない。ハイジアビルから脱出した時はしたが、あれは他の手段もなかったのと、短時間だったからできたことだったのである。

 しかたないので、命は哲也を体の前で横抱きにして走っていた。男女の役割が逆だが、いわゆるお姫様抱っこである。

 とは言え、さすがの命でも、この姿勢は無理が大きい。それに哲也の体調が早く走ることを許さなかった。気ばかりあせるが速度はだせない。

 しのつく雨が視界を邪魔し、何体ものレギオンが転がったりぶつかり合ったりする、倒木だらけの暗い森を、二人は必死に歩いていた。

 「あの人は、どうしました?」

 力ない声で哲也が問う。

 「あのアホオヤジか? ありゃ、ちょっとおどかしといたから、どっか逃げたろうよ」

 答える命。

 ちょっとおどかすどころか、相手に地獄の一丁目を見せつけていたのだが。彼女的には、少々のニュアンスの違いにすぎないのかもしれない。

 「その程度で、いなくなってくれるのかどうか・・・」

 哲也には、義男の言葉が耳に残っていた。

 義男は「俺の娘は死んだというのに、お前は」と言っていた。彼の娘とは誰なのか、哲也は知らない。ああいう風に言うのなら知人の一人なのだろうが、それが誰をあらわすのかわからない。まちがいがないのは、義男とは初対面だということだけだった。

 だけど、あの目つきは・・・。

 相手は確実に哲也を知っていた。人違いなどしていない。哲也のことを知った上で、彼に強烈な憎しみ、恨みをぶつけてきたのだ。

 なぜだ・・・?

 意味がわからない。この異変が起こるまで、できるだけ他人とかかわらない生き方を送ってきたのである。憎まれたり恨まれたりするいわれなどない。それなのになぜ、あの男はあんな目で自分をにらんできたのか。

 「そう言えば先輩は、最初からあの人とケンカ腰でしたね。なんであんなに乱暴な態度だったのですか?」

 まさか彼女の態度に腹をたてて哲也を殺そうとしたわけでもないだろうに、彼は少し詰問調で聞いた。わからないことだらけな上に体も動かせず、イライラしてしまう。

 「そんなの一目見たらわかんだろ。アイツ、マトモじゃなかったじゃん!」

 それでわかれば苦労はないんだが。でも、この人にはわかっちゃうんだろうなぁ。

 少しうらやましく思った。

 「あんま考えこむなよ。つまり奴は、今、生き残っている全部の人間を殺したいってだけさ。なにがあったか知らんけど、八つ当たりできる相手を探しているだけのクズだ」

 さとすように言う命。

 実のところ、彼女のカンから出た言葉は、かなり真実に近いものだった。だが、単純な発想からきているものだけに、物事を難しく考えがちな哲也には納得できない。

 「とにかく今はレギオンだろ! あのオヤジのこた、後だ! 後!」

 まだなにか言いたそうな彼を一喝し、命は全神経をまわりに向けた。

 

 「ここで休もう」

 命が足を止めた。

 そこは大ガードから東にかなり進んだ、靖国通りぞいの森の中であった。緑の向こうに見えるのは新宿区役所であろうか。いくつもの倒木に下で傾いた、大きな建物があった。

 ここはレギオンの通過コースからはずれていた。雨はまだやんでいないが、それによる水流もない。

 命はそっと哲也を地面に寝かす。彼の体力は限界であった。熱もある。これ以上はとても動かせない。

 「哲也、ちょっと待ってろ。熱さましとかさがしてきてやるからな」

 苦しそうにうなずく彼にそっとキスし、森の奥へと走り去る。

 早く決着つけて、ホントに薬を取ってきてやらんとな。

 走りながら考えた。

 口では、どっか逃げた、などと言っていたが、命は義男が自分たちを追ってきているとわかっていた。理屈ではなく、彼女のもつ感覚が、敵の追走を知らせていたのである。

 ふと思いつき、走りながら適当な木の枝を見つけては手に取る。槍のように先がとがった枝をいくつも抱え、命は義男の気配をさぐった。

 今は相手も足をとめている。彼女の接近に気づき、待ち構えているのだ。どちらかの死によってしか、この戦いを終わらせることはできないと、お互いが確信していた。

 「来たな」

 義男の声がする。暗闇に目をこらすと、イトスギの枝に立つ彼が見えた。

 彼を確認したとたん、問答無用で枝を投げつける。枝は、途中の木々や葉を散らしつつ、敵に向かって一直線に飛ぶ。

 昔、古代ローマの兵士が使っていた投槍は、空に向かって投げられていた。放物線を描き、敵の頭上から襲うものだったからである。そういうスタイルの方が、距離も威力もかせげるものなのだ。

 だが今、命が投げている枝は、レーザービームのごとくまっすぐ飛び、なおかつ途中の障害物を蹴散らすパワーをも秘めている。もはや人力のミサイルとでも表現すべきものであった。

 雨を切り裂き、うなりをあげる枝。必死にさけようとした義男の目に、二本目、三本目の枝がうつった。枝は扇状に投げられてきており、逃げ場がない。

 ドウン!

 義男の銃が火を吹く。

 このままでは串刺しをまぬがれないとさとった彼は、銃撃で枝を粉砕した。

 さらに銃口を命に向ける。だが、彼女を見失ってしまっていた。

 いかん!

 あわてて首をふった。早く敵を発見しなければとあせる。前回とまったく同じパターンにおちいってしまっていた。

 「小手ぇぇぇっ!」

 今度の命の声は、背後からではなく、頭上からした。

 彼が、声を聞いた、と思った瞬間には、自分の右手がなくなっていた。

 ほとんど目では追えないスピードで動く命が、一瞬だけ見えた。その手には鉄パイプのような棒が握られており、その一撃で、彼の右ひじから先が切り離されてしまったのである。

 木から落ちる義男。それでも落下中に銃を左手でつかみ、逃走をはかる。

 今さら逃げるか!

 命は、その背を追う。

 戦いが自分有利に進んでいるという高揚感が、彼女から深追いは禁物という勝負の鉄則を忘れさせていた。さらに、なぜ義男が、戦いの前にわざわざ声をかけてきたのかという疑問も頭に浮かばない。

 「アイツ・・・哲也は、この先に、いるよな」

 またたく間に義男に追いつき、あと半秒もあればその息の根を止められるという瞬間、苦しげにもれた彼の言葉が、命の動きを止めた。

 「俺は、知ってるのさ・・・。哲也のいる場所を。・・・だから、そこに罠をはった・・・。アイツを生かすも殺すも・・・今は俺の手の内なんだ・・・」

 義男も足を止め、ゆっくりふり返った。右半身を自らの血で真っ赤に染めた姿で、ニタリと笑う。

 ハッタリだ! コイツはウソをついている!

 命の直感が叫ぶ。

 義男は罠をはった、などと言ってはいるが、その罠がどんな種類のものなのか言わないし、だいたい哲也の周囲をゴソゴソ動き回られて、彼女が気づかないはずがない。

 だけど・・・。

 だが、同時に迷いも生まれていた。

 なぜ、この男は、哲也のいる場所を知っているのか。さっき彼は、哲也はこの先にいるよな、と言ったのである。

 そしてそれは正しいのだ。たしかに哲也は、義男の背中の先、命の正面の一キロほど向こうにいるのであった。

 「そうだ・・・俺たちの直線上さ。アイツは・・・、哲也は、そこにいる」

 義男には美代子の幻影が見えている。彼の娘は、木々に視界をさえぎられた森の中でも浮かび上がり、じっと一点を見つめている。その視線の先に哲也がいると、義男は確信していた。それにもとづいて、敵にゆさぶりをかけただけだったのである。

 だが、美代子の姿など見えない命は、見事なくらいに動揺してしまっていた。

 ウソをばれなくするには、少しだけ事実を混ぜればよい。まだ十九の女の子では、酸いも甘いも踏み分けてきた中年男に、こういう面でかなうわけがなかった。

 「さて・・・、そろそろ・・・殺しち・・・まうかな・・・」

 とどめの一言に、命の理性はキレた。義男を突き倒し、まっすぐ走り出す。

 哲也はこの先にいる、という敵の言葉を、自ら証明してしまう行動だったが、彼の無事を確認しないではいられなかった。

 かかった!

 内心で歓喜を爆発させる義男。

 彼の眼前で、全力疾走の態勢になった命が、いきなりつんのめった。ぶざまに頭から転んでしまう。

 水? 水が!

 彼女の足に、やわらかい粘土のような泥水がまとい付いていた。泥の池は深く、底なし沼のように命を飲みこんでいく。

 なんでこんな!

 パニックが彼女をおそう。もちろん走ることなどできない。

 この沼は、義男が見つけ、今までは大量の枯葉を浮かべて隠していたものであった。ふだんの彼女ならかかるはずもないトラップだが、心の平衡を失っている今は別だ。

 動けない命に銃口が向く。

 それでも彼女は、銃でどうにかなる相手ではなかった。腹筋と背筋の爆発力のみでムリヤリ体を浮かせ、ジャイアントセコイアらしき手近な倒木の上に飛んでいく。

 よし、予想通りだ。

 ほくそ笑む義男。

 底なし沼の上に、ななめに倒れていたジャイアントセコイアは、くさってボロボロの状態であった。そこになんとか着地した命だったが、その巨体をささえきれず、木はベキベキとへし折れていく。このままでは、底なし沼に逆戻りしてしまうだけであった。

 だから、ヤツは木の先へはしる。俺のいる側にはこない。

 いまだ命に突き飛ばされた格好のまま、立ち上がれずにいた義男だったが、その視線だけは目標からはずさずにいた。

 命は哲也の身が心配でならないはずだ。ならば、自分の安全よりも、彼のいる場所へむかうことを優先させるだろう。それも最短コースで。

 そして実際その通りになった。彼女は義男のことなど忘れたかのように、いつ足を踏み外すかわからない倒木の上を走って遠ざかって行く。すでに底なし沼のエリアは超えていた。

 「さて、ここまではうまくいったが。最後は、どうなるかな・・・」

 つぶやき、銃口をジャイアントセコイアに向ける。

 銃から赤い火花がまたたき、散弾が命の方へ殺到する。しかし、命はその場で高くジャンプし、背後からの銃弾すらよけてしまった。

 ところが次の瞬間、ドオンという音とともに、彼女の真下で爆発が起こった。

 ジャイアントセコイアや、さらにその下にあった倒木、まわりにあった巨木ともども、爆発によっていっきに崩れていく。まるで蟻地獄のごとく、命を中心にしたすべてのものが、地中に吸い込まれていった。

 穴に落ちていく!

 今、なにが起こっているのか命は気づいたが、もはや遅い。

 森の底には、暗く深いたて穴が、まっ黒な口を開いていたのである。

 なんで、あの時、私は小手なんかを狙ってしまったのか・・・!

 落ちながら、命の脳裏に浮かんだのは、自分が死ぬかもしれないという恐怖ではなかった。義男に一撃をくらわした時、なぜ面を狙わず、小手にしてしまったのかという後悔であった。

 あの瞬間、敵の頭を砕いていれば、今のようなことにならなかったはずなのである。そして、この後、確実におとずれるであろう、哲也の危機もなかったのだ。

 私がバカだったんだ! だから、哲也に危険が迫っちまう!

 涙があふれた。

 最後の最後で、人を殺したくないと思ったのである。その、普通の人間なら感じて当然のためらいが、彼女の甘さとなった。

 「哲也ぁああああっ!」

 絶叫が闇に吸い込まれていく。

 サブナードの地下駐車場につながっていると思われるたて穴は、命の白い裸身や多くの倒木を飲みこみ、かわりに大量のホコリを舞い上げた。


 右手を押さえつつ立ち上がった義男は、自分の引き起こした結果に驚いていた。

 倒壊の余波で生まれた煙によって、敵がどうなったかわからない。だが一瞬、赤髪のポニーテールが地中に飲みこまれていくのが見えた。あれなら、さすがの巨人女も無事ではすまないであろう。

 底なし沼の真横に巨大な穴がある。この無秩序さ脈絡のなさこそが、巨木の森と化した東京の恐ろしさというものであった。人工物と天然物がめちゃくちゃに混在した結果、こんな状況が生まれてしまったのである。

 哲也たちを追いつつ、この場所を見つけた義男は、ここに命を追い込むと決めた。底なし沼に枯葉を浮かべ、たて穴をふさぐジャイアントセコイアの下に、残りの弾丸をほぐして作った火薬をしかけておいたのである。

 「あんな少量で、こんな破壊ができるとはな」

 この巨木の森は、見た目ばかりが重厚で、その実質は驚くほどもろい。急速成長した植物は、中身がスカスカなのである。それらが危ういバランスで立っているのが真相なのだ。

 だから、義男がしかけた火薬くらいのショックでも、いきなり崩壊が始まってしまう。

 「さて、行かなくては・・・」

 全身を引きずるようにして歩き出す。右半身が軽くなってしまった関係でバランスがとれない。血も滝のように流れ出しており、一歩ごとに視界が暗くなっていくようであった。

 「グズグズしていては・・・、また木が巨大化する・・・」

 崩壊によって空間にすき間ができた以上、またすぐ植物たちの急速成長がはじまってしまうと、義男は恐れた。

 実のところ、今は雨によって日の光がさえぎられているので、植物の噴出はおこらない。しかし、哲也は気づいたその法則を、義男は見つけられていなかった。

 ふらふらしつつも、確実に哲也に近づく義男。このケガでは助からない。植物の急速成長がなくとも、彼に時間がないことでは同じであった。

 

 大量の血を失って青ざめた義男が、幽鬼のごとく立っていた。

 彼の眼前には、無防備に横たわる哲也がいる。

 哲也は苦しげな呼吸ながら、目をつむって動かない。眠っているのかわからないが、意識が遠くなっているのはまちがいなさそうだ。

 「これで、美代子も、喜ぶ・・・」

 だがそこで、彼は困ってしまった。

 どうすれば自分は、この青年を殺せるのか。すでに銃はなく、持っていた登山ナイフも失った。それどころか、右腕すらうばわれたのである。

 周囲を見回すと、とがった枝や、コンクリ片などがあった。しかし、もともと右利きのため左手の握力は弱い。さらに衰弱した今の体で、それらを使ってなにかできるとも思えなかった。

 「・・・ここまできて・・・」

 疲れ果て、その場にくずれるように腰を落とした。

 「お父さん」

 その時、彼はその声を聞いた。

 はっとして顔をあげると、うすいピンクのワンピースに同色のパンプスという、最後に見た姿そのままの美代子がいた。

 「お父さん」

 美代子が近寄ってくる。彼女には、今までの幻影とは違う、たしかな存在感があった。

 「もうじゅうぶんだよ。これ以上は、私、のぞまない」

 「なんだって? だってお前・・・」

 「いいんだ。お父さんが私のためにがんばってるところ見られて、満足だったし」

 美代子が義男の前にきた。その細い腕を彼の体にまわし、やさしく抱きしめる。

 「さ、いっしょに行くよ。お母さんもまってる」

 「そうか、しかたないな。なら、そうするか、な・・・」

 口ではおっくうそうに、しかし心底から晴れやかな笑顔で、義男は死んだ。

 

 そこに誰かいるのか? 先輩か?

 痛みと熱でもうろうとしていた哲也が、目を開けた。

 たしかにそこには、見慣れた巨大な背中があった。彼女は体の正面になにかを両手でかかえ、プロレス技のベアハッグのようにしめつけているようだった。

 「先輩・・・?」

 声をかけても、彼女はふり向かない。トレードマークのようになっていたポニーテールがはずれ、長く赤い髪が呼吸とともに荒く波打っていた。

 ボキ、ベキ、バキ・・・。

 その大きな体で隠され、向こう側になにがあるのかわからない。だが、やけに不吉な音が漏れ聞こえてくる。

 よく見ると、命はやけに汚れていた。今までどんなサバイバルをこなしても輝きを失わなかった白い肌が、泥やホコリでまだらに染まっている。

 どさっ。

 なにか重たいものが、彼女の腕から落とされた。足もとに赤い水たまりができあがっている。

 ここまできて、頭のいい哲也は、すべてをさとっていた。

 彼はゆっくり立ち上がり、先のとがったガレキを手にすると、命をおしのけて立つ。

 「哲也・・・?」

 いぶかしむ命には答えず、倒れているものを見る。思った通りの人物が、そこで死んでいた。

 いきなりガレキを、その死体の胸に打ち付ける。ガレキは骨にあたって跳ねかえったが、何度も何度も打った。

 「おい、やめろ! キズにさわる!」

 あわてて命が止めにはいるが、それを制してさらに打った。

 「この人は、ぼくの、敵でした。だから、ぼくが、殺す。先輩だけ、手を、汚させるわけには、いきません」

 左腕で胸をおさえつつ、しかしはっきりした言葉で強い意志をしめす。

 ゴツッという固い手ごたえがして、思わず哲也はガレキを落とした。それでもまたひろい、さらに振り上げた。

 彼には、死者にムチ打つ気などない。だが、敵をしめ上げていた命の異様な気配に、殺人という重みを彼女一人に背負わせてはいけないと、強く思ったのである。あのままでは人間でなくなる、そんな気がしてならなかった。

 「やめろよ!」

 そんな哲也を、命が羽交い絞めする。力を入れないように気をつけてはいたが、全身がワナワナとふるえていた。

 「もうやめろよ! 哲也はそんなことしないでよ! 私が、私がいるんだから! だから、そんなことは・・・!」

 泣きながら命はしりもちをついた。それに引きずられる形で、哲也も彼女のヒザの上に座る。

 「私が、私がバカだったからさ、こいつにあっさりやられちゃって・・・。でも、落ちた穴は、あんまり深くなくて、だから、急いで登って、だから・・・」

 事情がわからない哲也には意味不明な言葉であった。だが、ぺたんと座りこみ、めそめそ泣く彼女に、これ以上の説明を求めることもできない。

 それでも、命の表情や言葉に、いつもの雰囲気がもどってきている。哲也がしたことで、いくらか彼女の心の救いになれたようであった。

 「ところで先輩。ぶっちゃけ、ぼくは限界です。先輩の助けがないと死んじゃうかもしれません」

 精神の救済をなせたのはよかったが、今度は、あおーんあおーんと、盛大に鳴きわめく命を持て余し気味になってしまった。ならいっそと、いきなり脅しにかかる。

 「え・・・!」

 これにはすぐさま反応する命。ぴたっと泣き止んだ。

 「だ・・・大丈夫? わ、私、どうしよう・・・?」

 さきほどまでの泣き顔とは打って変わって、今度は情けない表情でオロオロしはじめる。

 ぼくにとっては、かわいい人だ。

 苦笑しつつ、哲也は思った。

 ただそれは、他人にたいしては発揮されないかわいさにすぎないと、ぼろ雑巾のような義男の死体が主張しているように感じた。


 薬や包帯をさがして移動する前に、哲也は義男の身体検査をしたいと言い出した。

 「なんでそんなことを」と怒る命に哲也は、「せめて、この人の名前くらいは知っておきたいんです」と答えた。

 もはや、その真意はわからないにしても、あれだけの敵意を向けてきた相手の正体に、少しでも近づいておきたい。そう哲也は考えたのであった。

 そして彼らは、義男の運転免許証を発見した。

 「石館義男・・・石館?」

 命は、どっかで聞いたことあるな〜、とつぶやく。ほとんど初対面だったので、美代子の名字を記憶していなかったのだ。

 「石館美代子さんの、お父さんですよ」

 だが、クラスメートだった哲也はちがう。それに石館という名字は、ちょっと珍しい。義男の年齢的にも、彼女の父親だと確信した。

 哲也の脳裏に、白い花のようだった美代子の手がよみがえる。

 「え? コイツが・・・?」

 絶句する命。

 しばらくの間、二人とも言葉なく義男を見つめた。

 「ねえ」

 沈黙に耐えかねたように、命が口を開く。

 「なんでコイツ、私たちをおそったんだろう?」

 「さあ、わかりません。美代子さんの死が関係しているんじゃないかとしか・・・」

 「彼女が死んじゃっているのを、確実にコイツは知ってたよね? でも、どうやってなんだろ?」

 義男は、「俺の娘は死んだのに」と言っていた。だから彼が美代子の死を知っていたのはまちがいない。しかし、伊勢丹で事故死した彼女の事情を、どうやって義男が知ったというのか。警察も消防も機能しておらず、当然メディアだってない状態なのである。 

 もしかして、あの時、そばにいたのか?

 これも非現実的だ。あのデパートの、あのフロアーから脱出できた人間など、自分たちしかいない。

 哲也は空を見上げた。目にうつるものは巨木とその枝くらいしかない。

 この世はわからないものばかりだ。

 そう思った。

 植物の狂った理由がわからない。

 自分たちの行く末がわからない。

 人の心がわからない。

 だが義男の顔は、凄絶な死に方にしてはおだやかに見える。それだけが救いであった。

 「先輩」

 哲也が呼ぶと、命は「ん?」とこちらを見た。

 「この人を、石館義男さんを、埋葬してください」

 「ああ?」

 「先輩、お願いします。ぼくもお手伝いしますから。でもぼくは、こんな体ですから、あまり働けません。先輩が石館さんをうめてあげないと」

 彼は真剣だった。

 だが、命としては、これも納得いかない。なぜ自分たちに危害を加えようとした人間を、わざわざ葬ってやらなくてはならないのか。だいたい、自分で殺して自分でうめてなど、シャレにもならない。

 「先輩、先輩の気持ちはわかります。でも、やっぱりここは石館さんを弔ってあげるべきです。

 偶然とは言え、ぼくらは彼ら親子の死にかかわりました。美代子さんは埋葬してあげられなかったけど、せめてお父さんの方くらいは、なんとかしてあげて下さい。

 それが、二人の死を見た、ぼくらの責任だとも思うんです」

 哲也は、だまったままの命を説得した。

 この異変の中で、数多くの死に遭遇した。そのすべてを弔うことは不可能だが、やれることもやらずにいては、いつか死に慣れすぎて、人として大切ななにかを失ってしまうだろうと思った。

 「・・・うん、わかった。やるよ」

 命が答えてきた。

 「ありがとう。先輩」

 「でも、言っとくよ! 私がコイツをうめてやるのは、哲也がそれを望んでいるからだぞ! コイツのためなんかじゃねぇ!」

 「ええ。それでかまいません」

 命は土掘りに使えそうな板をさがしだすと、無言で穴を掘り始めた。

 ただでさえ土の部分が少なかった都会で、今はさらに木々の根がからみあっており、さらに雨はまだやまない。こういう場所で穴を掘るなど、たとえ命でもかんたんではない。自分が言いだしたので手伝いたい哲也だったが、この状況で彼にやれることなどなかった。 

「さて、こんなもんでしょ」

 もともと汚れていたが、さらに土だらけになった命が、自分が掘った穴からでてきた。

彼女は義男をかつぎ上げ、穴の底に横たえる。哲也は義男の目を閉じてやり、静かに合掌した。

「この人、美代子さんに会えたかな」

 義男の体に土をかけていた命がつぶやいた。敵だった男にたいする呼称が、コイツからこの人に変わっている。

 哲也は答えかねて、視線を彼女に向けた。

 命の赤い髪が風にゆれている。そして地上には、義男の流した大量の血があった。

 生と死の赤。

 なんとなく、命という名前の意味を見たような、そんな気になってくる。

 あわい光さえもとどかない死の森の底で、彼女だけは確実に生きていると言える存在であった。

 そうだ。ぼくには先輩がついている。

 にわかに自信がわいてきた。

 「あえましたよ。絶対に」

 力強く答えた。

 「わかる時がきますよ。すべて。いつの日か、きっと」

 「うん。そうだね」

 最高の笑顔を見せる命であった。

 

 その後、キャンプ地をさがして哲也の手当ても終えると、彼はすぐに深い眠りについた。

 命は哲也の寝顔を見ていると、不思議な安心感が自分をつつむのを感じていた。

 この暗い森も、自分が化け物じみた存在になっていることも、人間をその手で殺してしまったことすらも、彼の寝顔をながめているだけで忘れられる。

 きっと、この人は天使なんだ。私を、私だけを助けにきてくれた、神様の使いなんだ。

 やけにファンタジーな妄想に身をゆだね、幸せをかみしめる。

 だが心の奥では、理性が不審がってもいた。

 なぜ自分は、哲也にここまで心奪われてしまっているのか。自分の気持ちは、もはや愛や恋などという生やさしいものではないと、どこかで感じはじめている。

 今や彼こそが、命の生きるすべてであった。

 哲也を自分から遠ざけようとする者は、それがたとえ幼児であろうと、あるいは自分の恩人や家族であろうとも、殺してしまうかもしれない。

 さすがにそんな自分に恐怖をおぼえ、それをごまかすため、ファンタジーな妄想に逃げ込んだのである。

 もちろん、それは事実と違う。

 真実は、彼女の想像などはるかにおよばないものであった。

 幸せなことに、それを命は一生知らないですんだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幕間 その六


 地球をながめている『それ』は、変化をつづける人間たちの中に、特異な存在を見つけていた。

 ただでさえ個人差の大きい人類の自己進化だが、それでもその彼のような例は他にない。

 「もっとも恐ろしい能力だ」

 その力を知った『それ』は、思わずつぶやいていた。

 この人間こそは、全人類にとって最凶最悪の存在となるかもしれない。

 「あるいは絶対的な支配者か」

 彼は極東の島国に住み、今は必死に生き残る為にたたかっている。いまだ自分の持つ力には気づいていない。

 

 だが本人も知らぬ間に、彼と接している者は、確実に心をむしばまれていた。

 この人間の能力とは、圧倒的とも言える魅力をもっていることであった。ウィルス進化の影響なのか、彼は人を狂わすほどのカリスマを、その身にまとっているのだ。

 人の脳が、興奮したり快感をえている際に分泌される、エンドルフィンやアドレナリンなどの快感物質。それを彼といるものは、なかば強制的に全力解放されてしまう。

 その結果、彼が近くにいる時は、ふだんより力は強くなり、疲れることがなく、知覚、聴覚、嗅覚など、ありとあらゆる感覚も増大する。その上、強い幸福感をえられるため、自己肯定感も高まるのであった。

 ところが、いったん彼が遠ざかってしまうと、異常なほどの倦怠感や疲れ、そして重い絶望感を感じさせられてしまう。その状況は、重度の薬物依存患者に等しい。彼を失ったと思わされた時は、自律神経の嵐と呼ばれる、激烈な禁断症状を味わう。

 まさに彼は、人間覚せい剤と呼ぶべき存在なのであった。

 普通人なら、彼の影響から逃れることはできない。対抗できるとすれば、すでに心の平衡を失ったものだけだろう。

 

 彼を見つけて以来は、『それ』も地球をながめるたびにその姿をさがしてしまっている。彼が動くたびに、彼が天をながめるたびに、その彼の瞳を見るたびに、『それ』の心ははずんでしまうのだ。

 この人間は、その魅力によって、遠く一億四千九百六十万キロはなれた所にいる『それ』をすら魅了しているのであった。

 「神野・・・哲也・・・」

 彼の名前だ。

 脳も快感物質も関係ない『それ』ですらも、逃れられない魔力。はじめて知った恋の味に、『それ』はとまどうばかりだった。

 「神野哲也」

 『それ』の中を、この名がこだまする。

 「神野哲也」

 こだまはなかなか止んでくれなかった。

 


































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