六条さまの持参金 8
「お父さまは、なにを考えていらっしゃるの? 橘乃は、釣りの餌でもゲームの景品ではないのよ! あなた、きっぱり拒否したんでしょうね?」
「今回ばかりは、お父さまも悪ふざけがすぎると思うわ。橘乃も、なんでも『はいはい』って笑って言うこときいていないで、嫌なら『嫌だ』って、お父さまに逆らってもいいのよ」
父親に抗議すべく、それぞれの嫁ぎ先から2階の書斎に直行しようとしていた紫乃と明子は、3階の踊り場からふたりに挨拶した橘乃を見つけるなり駆け寄ってきた。
「まあまあ、姉さんも明子も落ち着いて」
首を絞めるような勢いで橘乃に詰め寄る女たちふたりを、兄の和臣が引き離す。
「少しばかり来るのが遅かったようですよ。書斎は既に満員です」
「満員?」
「ええ。僕も、今回の父さんのやり方には首を捻らざるをえなかったので、ひと言意見させていただこうと思っていたのですが、お母さんたちがね」
怪訝な顔をする紫乃たちに説明しながら、和臣がひとつ下の階にある書斎の方向に顔を向けた。
源一郎の愛人たち(といっても、今回は6人全員ではなく上から4番目までの娘の母親たちだが)は、和臣のように、源一郎に意見するにあたって彼の帰宅を待つようなことはしなかった。彼女たちは、「できるだけ早く帰ってくるように」と、仕事中の源一郎を電話で呼びつけると、電話越しでさえ伝わってくる女たちの圧力に恐れをなして帰宅した源一郎の「せめて夕食ぐらい食べさせてくれ」という懇願を無視して、彼を書斎に連れて行った。それからずっと、彼らは書斎に籠もりきりである。
「お母さまたちが、そこまで率先して強引なことをするなんて」
「腰が重いあの人たちにしては、珍しく対応が早いわね」
驚く明子の隣で、紫乃が嬉しそうに微笑む。姉たちの言うとおり、これまでの源一郎の愛人たちは、自分の娘の結婚の時でさえ、どこか他人事のように距離を置いて事の成り行きを見守っているようなところがあった。娘たちと源一郎が事態を散々掻き回しきった後、その後始末するために手を貸してくれることはあっても、縁談が決まった途端に徒党を組んで源一郎に意見するようなことは、おそらくこれが初めてである。
「ともかく、私たちと意見が同じようなら、丁度いいわ」
好戦的な六条家の長女は即座に母たちに加勢することに決めると、次女を連れて父の書斎へと向かった。姉たちの姿を追いかけるようにして、橘乃が階段の手すりから身を乗り出すと、父の書斎がある2階の廊下の奥の方から、姉たちと誰かが押し問答をしている声が聞こえてきた。やがて、紫乃が床を踏み鳴らすようにして、姉妹の集会所と化している3階の部屋に戻ってきた。
「入れてくれなかったでしょう?」
「タキさんが書斎の扉の前から動いてくれないの。『しばらく誰も入れるな、と申し付かっております』ですって」
膨れっ面の姉に代わって、明子が和臣に教えた。
半世紀近く4女紅子の母の世話係をしてきた老女タキにとって、主の命令は絶対である。『入れるな』と命ぜられた以上、一命に変えてでも書斎の入り口を守り抜くつもりであるに違いない。いくら紫乃が喧嘩っ早くても、力ずくで老女を排除することもできなかったのだろう。
「見張りまで立てるなんて信じられない。そうまでして私たちを入れたくない理由でもあるの?」
「もう3時間ばかり、怖いぐらいに静まり返っているのよ」
忌々しげに呟く紫乃に、これまで何度も書斎の前まで様子を探りにいっている末の妹の月子が報告する。
「お母さまたち、本当にお父さまを叱ってくださっているのかしら?」
「抗議なんて、別に、いいのに」
「橘乃?」
橘乃の小さな呟きを紫乃が聞きとがめた。
「……。だって」
橘乃は、口を尖らせると、上目遣いに紫乃を見た。ソファーの上でクッションを抱えて体育座りをする彼女を、姉が不思議そうに見下ろしている。
「だって、大丈夫だもの。選ぶ権利は、私にあるもの」
子供が駄々をこねるような舌足らずな言葉遣いで、橘乃は紫乃に訴えた。
「そう考えれば、姉さまたちよりも私のほうが自由があると思うのよ」
「また、あなたは……」
紫乃が呆れたように額に手を当てた。
「いつでも、なんでも、自分にとって良いように良いように解釈しすぎなのだから」
「どっちもどっちだとしか思えないけどね。君に求婚してくる人は、君が好きだから言い寄ってくるわけじゃない。そんな人と結婚したところで幸せになれないと思うよ」
いつもは紫乃に逆らってばかりの和臣も、噛んで含めるように橘乃に言い聞かせる。忙しいのだろうに、彼は、なんとかして橘乃の気を変えさせようと、もう何時間も説得を続けていた。
遺産がらみで揉めているホテルの後継者に選ばれるなんて迷惑なことでしかない。面倒に巻き込まれる前に自分から断ったほうがいい。橘乃が嫌だとさえ言えば、自分が父親を説得してみせる。そう、和臣は言ってくれた。言葉だけではない。橘乃に向ける視線や表情からも、彼女を心配する兄の気持ちは、充分に伝わってくる。姉たちにしても、自分を心配してくれているからこそ、こんな夜遅くに実家に駆けつけてくれたのだろう。
みんなの気持ちは、とても嬉しい。だけども、今日の橘乃は、自分でも信じられないほど頑なだった。
「……。でも、幸せになれるかもしれないでしょう?」
「なれっこないって!」
妹たちが声を揃えた。
「みんな、姉さまについてくるホテルが目当てなのよ。いくら甘い愛の言葉をささやいてくれても、それはホテルが欲しくて言ってるだけ。誰も、姉さまのことなんて見てない! 姉さまなんて、ただのオマケでしかないんだから! 人の良いところばっかり見ようとして、なんでも素直に信じちゃう姉さまなんて、みんなにチヤホヤされて好い気になって、挙句の果てにロクでもない男と一緒になるのが関の山よ! 欲深な男たちにしてみれば、姉さまなんて、ホテルを背負ったカモよ! カモ!!」
すぐ下の妹の紅子の忠告は、橘乃の弱点を正しく指摘していた。ただ、正しいがゆえに辛らつすぎた。紫乃でさえ、「紅子。今のは、ちょっと言いすぎだと思うわよ」と、苦笑しながら妹をたしなめた。
「だけど、みんながみんな悪い人じゃないかもしれないじゃない? 素敵な人だっているかもしれないでしょう? 今、断ってしまったら、せっかくの出会いのチャンスを、自らふいにするようなものかもしれない。だから、もったいないな……なんて……」
「姉さま!!」
恐る恐る反論する橘乃に、紅子が眉を吊り上げる。順番でいけば橘乃の次に嫁ぐことになるのは紅子だから、彼女は、橘乃が置かれた立場を自分の身に置き換えて考えずにはいられないのだろう。それゆえに、紅子の怒りっぷりは尋常ではなかった。また、もともと、彼女は感情表現が豊かな子でもある。紅子の笑った顔は格別に愛らしいが、怒った顔もまた格別で、長姉を凌ぐ恐ろしさがある。あんまり怖いので、橘乃は膝の上のクッションを持ち上げると、紅子の剣幕から身を守るように頭から被った。橘乃のそんな仕草は、紅子を更に怒らせた。
「姉さま! ふざけるのもいい加減にしてよ! ちゃんと私の話を聞いてちょうだい!」
「ちょっと待って。紅子」
橘乃の頭からクッションを剥ぎ取ろうと突進してきた紅子を、次女の明子が手を伸ばして優しく引き留めた。
「ねえ、橘乃。あなた、もしかして……」
怒れる紅子のおかっぱ頭を撫でながら、明子が橘乃に問いかけた。
「もしかして、求婚者になりそうな人の中に気になる人がいるの? だから、この話を断る気になれないの?」
「気になるっていうか……」
頭から顔の前に移動させたクッションに向かって、橘乃はボソボソと呟いた。
「え? 誰?」
「だ、誰だって、いいじゃないっ! っていうか、そんな人、いないもの」
「いるのね。気になる人」
顔を真っ赤にしながらブンブンと首を振る橘乃の顔を見て、紫乃が断定する。
「で、でも! 恋とか? そういうのじゃないと思うのよ! 絶対違うと思うの!」
「ふ~ん。違うんだ?」
クッションを放り投げて、必死で否定する橘乃に、姉妹プラス兄がニヤニヤと笑う。ますますムキになった橘乃は、その場で立ち上がるなり、「だって、このまま放っておくのは良くないと思うのだもの! 気になるんだもの!」と、叫んだ。
「で、誰?」
「……。 だから違うってば。だた、このまま放っておけないような気がするだけなの」
橘乃は、姉妹に背を向けた。うつむく彼女の脳裏に、《マートルの間》で親戚たちから邪魔者のような目で見られていた梅宮の姿と、その時に彼が垣間見せた悲しそうな表情が浮かんだ。
(梅宮さんは、いつだって、誰にだって優しく接してくれるのに……)
茅蜩館ホテルに行くと、梅宮は、いつでも橘乃に対して親切に振舞ってくれる。橘乃にだけではない。紫乃の結婚式の時だって、彼は誰に対しても、自分ができる精一杯のもてなしをしようとしてくれているように見える。もちろん、仕事だから仕方なしに愛想良くしてくれているところもあるだろう。けれども、仕事だからこそ腹の立つことだって沢山あるはずだ。それに、表では愛想を振りまいていても裏で悪口を言っているような人は、見ていればわかるものだ。梅宮には、そうした陰りがない。自分のような苦労知らずで能天気な娘ならばいざ知らず、ああいう仕事をしながら年中機嫌良く人にサービスできる彼は尊敬に値する人物だ。本当に好い人なのだろうと、橘乃は思う。
そんな好い人が、近しい人から酷く疎まれている。しかも、今日聞かされた会話の端々から推測する限り、かなり理不尽な憎まれ方をされているような気がする。
梅宮はオーナーの孫で、オーナーの八重は彼を可愛がっているように見えるのに、親戚の人たちは、どうして彼を邪魔にするのだろう? オーナーの息子の死が事故ではないかもしれないということに、関係しているのだろうか? そういえば、オーナーが『恵庭』という苗字なのに、彼女の息子の子が『梅宮』と名乗っているのも不自然だ。以前に梅宮と話したときに、彼が祖母や父親の話をするときに、わざわざ『一応』と前置きしていたことも、今更ながら彼女は気になってきた。なにより、憎まれていることを梅宮本人が諦めているように見えたのが、橘乃には歯がゆい。もっと言い返してやればいいのに……と思う。父の源一郎も、きっとそう思っているに違いない。だから、彼は八重がホテルをくれると言ってくれたのをいいことに、こんな馬鹿げたやり方で茅蜩館ホテルの内々の問題に介入することにしたのではないのだろうか?
(恋とかそんなのじゃないと思うのだけど、ただの好奇心でしかなかったら、本当に申し訳ないんだけど……)
婿選びなど馬鹿馬鹿しいことだと、橘乃だって承知している。これから言い寄ってくるだろう男たちが、本当は橘乃のことなどどうでもいいと思っているだろうことも、充分察しがついている。姉や兄の言うとおり、深入りする前に手を引くことが賢い選択だとも思う。
だけど、気になる。
このままにしておけないと、このままにしておくのは良くないと、思う。
ホテルを愛する仕事熱心な梅宮のためにも、あの気さくなオーナーのお婆さんのためにも、橘乃にできることがあるのならば、力を貸してあげたい。そのために、父が自分を利用すると決めたのであれば、それも悪くない。むしろ、橘乃を見込んでの策略ならば、嬉しい限りだ。
(そうよ。私さえ、しっかりしていればいいんだから)
「ねえ、誰? 誰が気になっているの?」
「誰だっていいよ。今はね」
独り考えに耽っている間も橘乃をしつこく追及する姉妹を、和臣がたしなめる。
「うっかり白状したら、今度は姉さんが、その人と橘乃の仲を取り持とうと全力で応援しかねないからね」
『それはそれで面倒だ』と笑う和臣に、「失礼ね。 そんなことはしないわよ」と、紫乃が言い返した。
「全力で応援するなら、橘乃がその人のことを見極めて、それでも好きだって思うようになってからにするわ。それに、もしかしたらだけど、その人よりも素敵な、橘乃の好みにピッタリな求婚者が現れないとも限らないしね」
「そうよね? もしかしたら、すっごく素敵な人がいるかもしれないわよね~~」
橘乃の声が弾む。
ハンサムなスポーツマンで、頭が良くて仕事ができて、クールだけども多くの部下に慕われていて、高尚な趣味を持っていて、話していると楽しくて、時に大胆で時に繊細で、優しいけれども時にその強引さに困惑してしまうほど自分だけを激しく愛してくれる、思慮深くて颯爽とした、少年のような心を忘れない大人の男性が、本来の橘乃の好みである。
残念ながら、梅宮では、ちょっとばかり…… 否、かなり、もの足りないような気がする。
「いないかしらね~、そんな素敵な人」
「そんな人がいたら、かえって気持ちが悪いわよ」
「いたとしても、そんな男とは、僕は友達になりたくない」
「完璧に見える人に限って、実はとんでもない人だった。 ……ってこともあるものよ」
頬を染めながらはしゃいだ声を上げる橘乃を見て、姉たちと兄はゲンナリとした顔をし、「橘乃姉さまは、やっぱり能天気すぎる」と、妹たちがため息をついた。