六条さまの持参金 7
「『それで、どうでしょう?』と言われても……」
「だーかーらー、ホテルをそっちに返すチャンスを、あんたたちに平等に与えてやろうって言ってんだよ」
いまだに事情が飲み込めずに互いに顔を見合わすだけの人々に焦れたように、源一郎の言葉が荒っぽくなった。
「要するにだ。あんたたちは、自分たちがホテルの相続人として認められていないことが、悔しくてしかたがねえんだろう? 不公平だと思い続けている。その不公平感が解消されない限り、あんたちの腹は収まらない。いつまでたっても、グチグチネチネチと八重さんや次のオーナーになる人間に文句を言い続けることになるんだろう。そういう不毛なことを、俺がホテルをもらった後にも続けられたんじゃ、たまらないんだよ。だから、一度だけ、この橘乃を介して、あんたたちにホテルを奪い戻す機会を平等に与えてやる。ただし、同じ条件で戦って敗れた後は、もう恨みっこなしだ。勝った者の自由にさせること。二度とこのホテルと新しいオーナーに口出ししないこと。それだけは約束してもらう」
源一郎の提案は、八重にとっても初耳だったようだ。
「六条さん、私は……」
「八重さんも、黙っていてください」
抗議しかけた八重を制して、源一郎が人々をけしかける。
「次のオーナーに選ばれる条件は、『橘乃の夫になれるか否か』。その一点のみとします。これならば、少なくとも全ての独身男性に対して平等な条件といえましょう。あなた方の息子さんも、八重さんが手塩にかけて育てた3人の男の子たちと同じ土俵で戦えるはずです」
「でも、もし、橘乃さんが、誰も気に入らなかったら?」
「その時は、ホテルとも橘乃とも、ご縁がなかった……ってことで」
丸顔の男に、源一郎がしれっとした顔で答えた。
「ご縁がなかったじゃ、困るんです!」
きれいだけれども気が強そうな顔をした中年女性が立ち上がった。
「その時には、支配人や社長だけじゃなくて、ホテルそのものが、私たちと全く縁もゆかりもない人に持っていかれちゃうってことなんじゃないの?!」
「そうなりますね。輝美さん」
源一郎が甘ったるい笑顔を女に向けた。
「とはいえ、いきなり大量の求婚者が押し掛けてきても橘乃がさばききれないでしょうから、彼女がお婿さんを募集中であることや持参金にホテルがついてくることなどは、しばらくの間は、『ここだけの話』ってことにしておきますよ。その間に、せいぜいお身内を頑張らせることです」
「でも…… やっぱり、そんなの、おかしいわ!」
輝美と呼ばれた女性が、激しく首を横に振った。
「いくら八重さんが指名した人でも、こんなの許されるはずがありません! 無茶苦茶です!」
「ですが、輝美さん。そもそも、あなたが、このホテルを継ぐ権利をいまだに頑強に主張していることこそ、私にしてみれば無茶もいいところなのです」
「どうしてよ! 私の父が継ぐはずだったホテルよ! それを、この女が父を追い出して! 独り占めにして!」
輝美の骨ばった腕が、八重を真っ直ぐに指差した。
「違います」
冷めた声で、源一郎が訂正した。
「大昔にあなたのお父さんを勘当したのは、先々代のオーナー……すなわち、あなたのお父さんのお父さんです。八重さんじゃない」
「でも……、お兄さんは……八重さんの息子は死んじゃったわ」
「ええ。死にました。22年前に、39歳の若さで、ホテルの大階段から落ちてね。でも……」
源一郎は、いったん言葉を切ると、輝美と不満げな顔で彼の話に耳を傾けている人々に静かに問いかけた。
「あれは、本当に事故だったんでしょうか?」
「え?」
虚をつかれたように輝美が黙る。
「お父さま?」
驚いた橘乃も、出来る限り首を回して真後ろにいる源一郎を振り返った。間近で見た父は、ひどく悲しそうにも、必死で怒りを堪えているようにも見えた。
「当時のオーナーの久志さんは、暗闇でも走れるほど茅蜩館のことを隅から隅まで知り尽くしていた」
呼びかける娘に目をくれることなく聴衆を見据えたまま、源一郎が続ける。
「だから、あんな所でコケて死ぬなんて、まったく彼らしくないな……と、彼のことをよく知っていた私などは、ついつい考えてしまうわけですよ。八重さんだって、同じだ。そうでしょう?」
源一郎が、首を伸ばして彼の左後方にいる老女に問いかける。八重は、顔を強張らせてはいるものの、無表情を貫こうとしているようだった。だからこそ、彼女が源一郎と同じ疑いを持っているだろうことは、橘乃にも察しがついた。
「……なによ?」
八重を見る輝美の声が上ずる。
「まさか、私たちが彼を殺したと思っているの? そうなんですか、八重さん?!」
「もちろん、証拠はありません。誰が殺したという確証もないし、いまさら犯人探しをするつもりもない。あれは事故だったのだろう。事故だったに違いない。だけども、もしかしたら、事故ではなかったのかもしれない。そんな疑いだけが、何年も何年も胸にわだかまっている」
八重に向かって叫ぶ輝美に、源一郎が悲しそうに微笑んだ。
「あなたが、八重さんの仕打ち――というほどのことではないと私は思うがね――に、腹を立て続けているように、八重さんも、あなたたちへの疑いを拭いきれずにいるんだよ。あんたたちがホテルを欲しがれば欲しがるほど、その疑いは強くなる一方だ。そして、あんたたちがあいつらを連れてきた時、その疑いは、八重さんにとって動かしがたいものになってしまった。だから、八重さんは、あいつらを手元に置くことにした。久志が死んだ直後に、あんたたちに直接ホテルを渡すよりも、成長したあいつらに託すほうが、ずっとマシだと思ったから。でも、彼女は、最後の最後に決められなくなってしまった。3人は可愛い。だけど、次期オーナーの決定によって得する者の中に息子を害したものがいるかもしれない。そう思ったら、彼女は、冷静な判断などできなくなってしまった」
源一郎が顔を上げて、梅宮たち3人の若者を見る。同じ方に目を向けて、「だって、それは……」と言いかけたきり、輝美も押し黙った。
「八重さんを追い詰めたのは、あんたたちだよ。ゴネればゴネるほど、八重さんは頑なになる。それは、結果的にあんたたちのためにもならないと思うんだがね。だから、このへんで妥協しておきなさい」
源一郎が、思いがけないほど優しい声で輝美を諭した。輝美が言い返さないことを確認した源一郎は、「おい、松竹梅! お前らもいいな?」と、梅宮たちに呼びかけた。
父が言うところの《松竹梅》のうち、《梅》は梅宮のことだろうと、橘乃は推測した。
(となると残りのふたりが《松》と《竹》なのかしら?)
橘乃は思ったが、今は、そんな呑気なことを聞ける雰囲気ではない。
(だけど……)
自分は、このまま父の言うなりになっていていいものなのだろうか? 今すぐに、父の意向など無視して、「こんなややこしそうなことに、私を巻き込まないで!」と声を上げて立ち去ったほうが、自分のためではないだろうか?
(でも……)
橘乃は、源一郎に呼びかけられた梅宮に目を向けた。
梅宮は、父からの提案にかなり困惑しているようだった。彼は、困惑した顔のまま立ち上がると、自分の両側に座る青年たちの意思を確認するように顔を左右に動かし、それから、しっかりとした声と顔つきで、「私たちに、異存はありません」と、源一郎に答えた。
「ですが。私たちの争いに六条さまの大切なお嬢さまを巻き込むのは、非常に心苦しいのですが……。 なにより、こんなことに巻き込まれる橘乃さまが、お気の毒です」
梅宮が、申し訳なさそうに橘乃を見る。それまで自分の意思などお構いなしに話が進んでいただけに、橘乃には、彼が彼女の気持ちを考えてくれたことが意外だったし、嬉しくも思った。梅宮を見返す橘乃の頬が、心なしか熱を帯びた。
しかしながら、ここに集っている多くの者にとっては、梅宮の発言は癪に障るものであったようだ。橘乃の立っている場所からは、梅宮を横目で見ながら不愉快そうに顔を歪める者が幾人も見えた。「優等生ぶりやがって」「点数を稼ぐのだけは上手いよな」という声も聞こえた。
(まあぁぁぁあっ! なんなの? この人たち!)
梅宮と同じような気遣いを橘乃に見せてくれる暇なら、彼女がここでボーっと突っ立っている間に、いくらでもあったはずだ。そにもかかわらず梅宮を責めるなんて、なんて身勝手な人々なのだろう。もしかしたら、この中に人殺しが……梅宮の父親を亡き者にした者が混ざっているのかもしれないと思うだけに、橘乃は余計に腹が立った。
「私は、かまいませんよ」
ほとんど衝動的に、橘乃は、梅宮に答えていた。
「大丈夫です。私は、自分の嫌いな方とお付き合いする気も、結婚する気もありませんから」
今のところ彼女を心配してくれているとわかる唯一の人に聞き取ってもらえるように、彼女は声を張り上げた。
(そうよ。大丈夫)
源一郎も、『あくまでも選ぶのは橘乃である』と言っていたではないか。選択権は、橘乃自身にある。そういう意味では、あらかじめ嫁入り先を決められていた姉たちよりも、橘乃のほうが、ずっと自由かもしれない。いやらしい男や欲深な男が言い寄ってきたら、思いっきり蹴飛ばしてやればいいのだ。
彼女の考えを保証するように、源一郎が彼女の肩を支えながら「心配は無用だよ」と梅宮に笑いかけた。
「橘乃もこう言っている。それに、私は、ロクでもない男を娘の夫として認めるつもりもない。人並み以下はもちろん人並みでも絶対に結婚なんか許さない」
「ちょっと待ってくださいっ! あなたは、『夫を選ぶのは、あくまでの橘乃さんだ』とおっしゃったじゃないですか!」
いきなり橘乃獲得のハードルを上げた源一郎に対して、会場中から一斉に抗議の声が上がった。
だが、源一郎は全く動じない。それどころか「ええ、選ぶのは橘乃です。だが、彼女が選んできた男との結婚を許すか許さないかを決めるのは、親である私の務めです」と、うそぶいた。
「しかしながら、私の2番目の娘は、私が選んだ男と離婚した挙句、自分の好きな男と親の反対を押し切って結婚してしまいましたしね」
源一郎が、肩をすくませて、居合わせた人々に橘乃の姉の明子が半年ほど前に引き起こしたスキャンダルを思い出させる。
「ですから、駆け落ちしてでも結婚したいと橘乃が思いつめるほどの男であれば、あなたがたの息子がどれ程のロクデナシだとしても、このホテルを手に入れるチャンスはありますよ」
『できるものなら、やってみろ』と言わんばかりの口調で、源一郎がけしかけた。
帰宅してからの橘乃は、彼女にしては珍しく、極めて寡黙に過ごした。
誰とも話したくなかった訳ではない。むしろ、話したいことは、いつも以上に沢山あった。だが、話すことがありすぎて、まずは、彼女の中で自分の気持ちと手に入れたばかりの情報を整理する必要があると思ったのだ。
(それに……)
今日聞かされた話の中には、大っぴらにしてはいけないだろうことも、多々含まれていた。橘乃が、いつもの調子で誰彼構わずに今日あったことを話したりしたら、傷つく人も出てくるだろう。そう思うと、自然に舌も重くなる。
帰宅後に部屋に直行した橘乃が話をしたのは、ふさいでいるようにも見えた彼女を心配して話しかけてきた母親の美和子だけ。それも、「なんだか、おかしなことになっちゃった。茅蜩館のホテルのオーナーが、お父さまにホテルをくれるっていうの。それで、お父さまが、ホテルを私の持参金にするって言い出したのね。だから、私と、私の旦那さまになる人が次期オーナーってことになるみたい?」と、ほぼ一方的な橘乃のつぶやきだけで終わった。にもかかわらず、夕方に橘乃が部屋を出てきた時には、屋敷中の者が、橘乃が婿選びをすることになったことを知っていた。
それどころか、8時を過ぎた頃には、他家に嫁に行った姉ふたりまでもが帰ってきた。