誕生日には歌を 6
※話中に、死に至る自傷行為、また、合意のない性交渉を匂わせる表現があります。 苦手な方は、「冬樹には、恨まれて当然の理由があった」ということにして、読み飛ばしてしまってくださいませ。
「ホワイトヘブンの開発の話が持ち込まれたのは、私が中学生の時です」
マリアの話が本題に差し掛かったとみるや八重が向けてきた視線を受けて、橘乃は、静かに座をはずした。普段であれば、誰がいつ訪ねてきてもいいようにと開け放しにしている入り口の鍵を閉めるためだ。ピンク色の餡が入った大福の話ならばいざ知らず、ここから先は、うかつに誰かに聞かれてもよい話ではないだろう。
「姉の杏奈は、大学生でした。冬樹さんと同じ大学に行っていました」
マリアが、東京にあるミッション系の大学の名前をあげる。繁華街に近い立地と付属校から上がってくる者の中に冬樹のような若者がいるせいで、軟派なイメージで語られやすい学校だ。だが、実は真面目で勉強熱心な生徒が多いのだと、橘乃は、同大学の卒業生でもある友人の兄から力説されたことがある。
その頃、武里リゾートの前身であった武里建設は、最初のリゾートをオープンさせたばかりだった。冬樹は大学生であったけれども、将来的に武里リゾートを背負って立つ者として自覚的に行動していた。『要するに、冬樹が大学生であっても社会人であっても、それどころか冬樹がいなくても武里リゾートという会社は回していけるってことだね』と、橘乃の兄ならば皮肉を込めて言うところだ。多くの人が言っているように、竹里冬樹には、武里リゾートにとって見栄えの良い看板以上の役割はないのだろう。ゆえに、当時の冬樹も、多くの人に武里リゾートを知ってもらうべく、運動神経の良さや交友関係の広さを活かして、デモンストレーションを兼ねた武里リゾートの広報活動のようなことをしていた。平たく言えば、友達を大勢引き連れて武里が開発したスキー場やゴルフ場で遊んでいた。
「それが、今から、8年ほど前です。姉は冬樹さんに憧れていました。といっても、その時は姉が一方的に知っているだけでした」
『街で目にしたことがある芸能人のようなものです』と、マリアは言った。雲の上の存在だと思っていた人物を実際に目にすることで、彼を通して自分も雲の上に近づけたような気分になれてしまう。マリアの姉にとって、冬樹はそういう特別な存在であったようだ。
「冬樹さんは、何をやっても目立つ人ですし、映画に出たり雑誌で取り上げられることもあったので、キャンパスでは有名人だったそうです。姉にしてみれば、彼は東京っていう都会の象徴みたいな存在だったのでしょう。私は、全然そうは思いませんが」
「……よかった」
橘乃は安堵の息を吐いた。東京以外の場所に住む人々のすべてが、東京の人間の典型を冬樹に重ねているのだとしたら、誤解も甚だしい。東京が可哀そうだ。「浮かれた都会人の代表ではあるんだろうけどね」と、八重が苦笑いを浮かべる。
ともあれ、マリアの姉にとって身近であるけれども雲の上にも近いところにいる人物が推進している《リゾート開発》という案件が、夏休みに彼女が帰郷している最中に、彼女の村にやってきた。
「最初のうち、父も含めた村の人たちは乗り気じゃなかったんです。こんな不便な場所にでっかい遊び場を作ったところで客なんかくるわけなかろうって言ってました。もう一つの候補地――後になって武里リゾートができることになる場所ですけど――そちらのほうが交通の便もいいですし、スキー場向きの斜面を備えた山もあるって、大人たちは言ってました」
しかしながら、マリアの姉は、全面的にこの計画を応援した。彼女の名誉のために言っておくならば、彼女は、この計画に賛成することで冬樹に取り入ろうと考えていたわけではない。
「姉は、冬樹さんという存在と、冬樹さんの会社がうちの村に示してくれた《未来》が、とても眩しくて素敵なものに思えてしまったのだと思います」
だからこそ、彼女は、リゾート誘致のために反対派を熱心に説得して回った。リゾート開発こそが、この地区に最良の未来をもたらしてくれるのだと、彼女は信じて疑わなかった。彼女の言葉を最初に受け入れたのは、マリア姉妹の父親だった。地域の有力者でもあった彼が賛成に回ったことで、その地域の世論は急速に変わっていった。やがて、マリアの姉の活動は、冬樹の知るところになった。女性と知り合いになることに一瞬の躊躇もない冬樹は、夏休みを終えて東京のキャンパスに戻ってきた彼女に声をかけたという。
「それで、恋人として付き合うようになったんですね」
「姉は、そう思っていたようなんですけど」
実際、中学生だったマリアは、姉から惚気話のようなものを聞かされたことがあったという。
「冬樹さんに、何処其処のお店に連れて行ってもらったとか、キスしたとか、それ以上のこともしたとかしないとか、そういう……」
言葉を濁しつつ、まりあが顔を赤らめる。
「でも、冬樹さんは違ったみたいで……」
「そうだろうねえ」
八重が、湯呑みの底に目を落としながらため息をついた。
「なにしろ、うちは武里と仲がいいんだか悪いんだかって周りから言われるぐらい武里と縁があるからね」
茅蜩館を裏切って武里に嫁に行ったと思われていた輝美にせよ、浩平の様子を見がてら、度々八重を訪ねてきていた。輝美にとっての冬樹は、夫の後釜を狙っている不届き者だ。冬樹についての情報は、悪口を中心に嫌でも八重の耳に入ってくる。
「話半分に聞いたとしても、冬樹さんは、年じゅう彼女ととっかえひっかえしていたのは間違いなさそうだったね」
浮いた噂に事欠かなかった冬樹が、マリアの姉に限って、長く誠実な交際を続けていたとは考えづらい。
「ええ、ですから、付き合ったことがあったとしても、本当に短い間だけだったと思うんです。どんなに長くても、姉よりも2歳年上だった冬樹さんが大学を卒業するまでだったのだろうと、今は思っています。でも、昔の私は、卒業後に、姉が東京で就職したこともあって、ふたりの付き合いが続いていると思い込んでいました。離れて暮らしていたので、姉の嘘に気が付けなかったんです」
「お姉さんは、冬樹さんと付き合っていたって、ずっと嘘をつき続けていたの?」
「3年ぐらい前に訊いた時には、さすがに『もう別れた』って言ってましたけど」
だが、その頃には、ホワイトヘブンも開業していた。
「オープン当時のままホワイトヘブンが繁盛していれば、きっと何の問題もなかったでしょう。でも、流行っていたのは最初の2年程度で、3年目からは、お客さんの数がガクンと減りました。その翌年には、近くに新しい武里リゾートができたので、こちらは、開店休業みたいなことになってしまいました」
このままでは、ホワイトヘブンは潰れるしかない。開発地に暮らす人々の中には、親戚の反対を押し切って先祖代々の土地を手放した者もいれば、ホワイトヘブンで働いている者もいる。観光客目当の事業を始めるために借金をした者もいる。
「そういった人たちの不満とか不満が溜りにたまって……」
「怒りの矛先が、お姉さんに向いたんだね? お姉さんだけじゃなくて、マリアさんにもお家の方にも?」
八重の問いかけに、マリアは「いいえ」と首を振る。
「厭味ったらしいことを言う人はいるにはいましたし、よくわからない団体さんに家の前で抗議行動をされたり、近所にうちを中傷するビラみたいなものを配られたことはあったんです。だけど、昔からの知り合いで面と向かって文句を言ってくる人は、あまりいませんでした。『騙されたのは、みんな同じなんだから』って。でも、悪口じゃないかもしれませんけど、裏でいろいろ言われていることは空気でわかってしまうというか、どこにいても距離を置かれているというか居づらいというか、『あんたたちだけのせいじゃないよ』とか『お姉さんが悪いんじゃないよ』って言ってもらえるたびに、『あんたちのせいだ』『お宅のお姉さんが悪いんだ』って言われている気がして辛い時もありました。我ながら被害妄想だとも思うし、自業自得だから仕方がないかな……と思うんですけどね」
しかしながら、なによりもマリアが辛かったのは、ホワイトヘブンが潰れることで、生活が成り立たなくなることに怯えている人々に何もしてあげられなかったことだそうだ。
「特に、姉は責任を感じていたのでしょうね。少しでもお客さんを増やそうとして、東京での仕事を辞めて県内の観光関係の仕事についたりしてたんですけど、ホワイトヘブンの業績が悪化するのに合わせるようにノイローゼみたいになっちゃって、家から出なくなってしまって…… それで、武里リゾートがホワイトヘブンから手を引くっていう話が現実味を帯びてきた頃、姉は、自分を責めて…… いいえ、そうじゃない。違う!」
マリアが、吐き出しかけた言葉を強い言葉で否定し、うつむいてしまう。
「マリアさん?」
「私…… 私が、いけないんです。他の誰かじゃない。私がお姉ちゃんを追い詰めた。私が、『お姉ちゃんさえ、リゾートの話に夢中にならなければ、こんなことにならなったのに!』って。そう言ってお姉ちゃんを責めたから。私が、お姉ちゃんを殺したんです」
泣き出してしまったマリアを慰める言葉が見つからず、橘乃は、彼女の背中をさすってやることしかできなかった。
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同じ頃。 浩平もまた、要たちに向かって自身の後悔を語っていた。
「僕たちは、随分前からホワイトヘブンが潰れそうになっているのを知っていた。知っていて、喜んでいた。仕事の中身すらロクに知らないくせに《今、最も注目されている青年実業家》って呼ばれて好い気になっている冬樹の――武里リゾートの事業が、初めて誰にでもわかる形で失敗するわけだから。だから、思いっきり派手に失敗すればいい。どうしようもない額の負債を背負って、新聞やテレビニュースを見た人たちを呆れさせて、冬樹が大恥かけばいい。それこそ、居酒屋の愚痴レベルのノリで優希耶と話して笑っていたし、早く潰れちゃえばいいのにって思ってた。ホワイトヘブンが潰れることで、命を絶つことになるまで追い詰められる人がいるかもしれないなんて、考えもしなかった」
自分たちも、結局のところ冬樹と同じだった。自分たちのことで精一杯で、周りが見えてなかった。自分たちの無責任が、自分たちの無知と無邪気さが、マリアの姉を死なせてしまった。
そう、浩平は言った。
「そうかもしれない。でもさ。死んだ人に鞭打つようで悪いけど、浩平が自分のことしか考えていなかったとか周りが見えてなかったとかって言うのなら、マリアさんのお姉さんだって、そうだよね? 冬樹さんがやっていることなら間違いないって、疑うことなく賛成して、自分から積極的にリゾートを誘致したんでしょう? 村の人たちだってそうだよ。反対していた人もいたのかもしれないけれども、結局、お姉さんの言葉に納得したから、大勢の人が賛成に回ったんでしょう?」
「浩平が責任を感じる気持ちもわかるけどね」
だけども、要も、浩平が責任を痛感する前に反省すべき人間は他に大勢いるだろうと思わずにはいられない。
「別に冬樹さんの肩を持つわけじゃないけど、マリアさんのお姉さんの死について、冬樹さんだけを悪者にするのも、どうかと思うよ。武里リゾートのやり方は確かに腹立たしいけれども、リゾート開発には、冬樹さんが知らないであろう利権とかしがらみが沢山絡まり合っている」
ホワイトヘブンの開発について、美味い汁だけを吸った悪い奴が少なからずいることは、確実だろう。ならば、冬樹ひとりのせいにするのは無理があるのではなかろうか?
「それに、もしもリゾートが成功していたら、誰も、お姉さんのことを恨んだりしなかったよね」
むしろ、人々は、誘致に力を尽くしたマリアの姉のことなど忘れ果てていただろう。
「僕には、リゾートが失敗したからこそ、恨みの矛先としての彼女の存在が大きくなったのだけのようにも思えるよ。その彼女がいなくなったから、今度は冬樹さんを恨みが向いた。それどころか、彼を殺そうとしたっていうのは、いくらなんでも、やりすぎだと思うんだけど」
「ごめん、僕の説明の仕方が悪かった。マリアは、いきなり冬樹を殺そうと思ったわけじゃないんだよ」
兄たちの誤解に気が付いた浩平が、言葉を足す。
そもそも、マリアは、姉の死を冬樹に知らせようとしただけだったのだそうだ。冬樹が姉に対して自分が悪かったとまでは言ってくれなくても、彼女の死を悼んでくれれば、それだけでよしとするつもりだったらしい。だから、初対面の冬樹に対して、彼女は本名を名乗った。
「そうだったね」
夫婦探偵が作ってくれた報告書を読んだ時に、要も意外に思ったものだ。
マリアの本名は、進藤真理亜という。源一郎であれば『これも、久志の差し金だ』と言いかねないが、ボタンと同じ名字だったのは全くの偶然である。ともあれ、始めから冬樹を罠にかけるつもりでいたのであればマリアは本名を名乗らなかったはずだという浩平の言い分は、それなりに説得力があった。
「だけどさ、冬樹は、マリアが『進藤杏奈の妹です』って名乗っても、わからなかった」
「知らないって言ったのか?!」
要と隆文が声を揃えて憤慨する。責任逃れもをするにしても、もう少しやりようがあるだろうに。
「いや、『知らない』て、しらばっくれたんじゃないんだ」
珍しく怒りを露わにしている兄たちに、浩平が苦笑いのようなものを浮かべる。
「その場に居合わせた優希耶によれば、冬樹は、『ああ! 進藤杏奈ね! 覚えているよ。忘れるわけないじゃないか』って、調子よくマリアに話を合わせていたけど、全然違う女性のことだと思い込んでいたか、それとも、彼の女友達の中でも一番多いタイプ――つまり、明るくて可愛くてちょっと軽薄な女の子のうちの……『ええと、誰だったかなあ?』と思いながら話していたようにしか見えなかったって」
「……。本当に覚えてなかったのか?」
「……。女の敵である前に、男の敵だね」
要たちが唖然とする。
冬樹がそんな調子だったから、その日のマリアは、ほどんと何も言うことができなかったそうだ。姉の死もホワイトヘブンのことも話せないまま帰っていったという。
「話せなかったというよりも、話さない方がいいと思ったらしい。マリアは、冬樹の彼女だったというのが実は姉の作り話だったのではないかと、一応疑ってみることにしてみたんだ」
冬樹は、姉の妄想彼氏にすぎないのかもしれないし、そうではないのかもしれない。それを確かめるべく、翌日からのマリアは、姉の東京の知り合いを訪ねて回ったそうだ。彼らの証言によると、「2回か3回、冬樹とデートしたのは確かだ」「交際相手というよりも取り巻きの一人みたいなものだった」とのことだった。また、後に優希耶がホワイトヘブンに関わりのあった武里リゾートの同僚らにさりげなく確認してみたところ、あの当時、冬樹がマリアの姉に《手をつけた》ことは、彼らの間では事実として語られていたこともわかった。浩平も、期待せずに輝美に話をしてみたところ、彼女は「ホワイトヘブンの開発を有利に進めるためならば、冬樹は、地元の有力者の女の子をたらしこむことまでする」という噂があったことを覚えていた。
「とりあえず、全く知らない仲ではなかったんだな」
「デートしたことがある女の子だもんね。顔や名前を忘れるなんてことないよね? 変だよね?」
小学生の頃から香織一筋だったらしい隆文は、もはやパニック状態だ。
「でも、まあ、冬樹は顔が売れている分だけ、交友範囲も広いだろうし、近づきになりがたる女性も多いだろうしね。しかも、あの性格のせいで、どの子とも長く続かないのも事実だからねえ」
短期間だけ仲良くしていた女性のことなど覚えていられないのかもしれない、珍しく浩平が冬樹の肩を持つ。
「だから、冬樹を責めても仕方のないのかもしれないと、マリアも思い切ることにしたんだ。だけど……」
冬樹がマリアを決定的に怒らせたのは、この後。二週間ほどかけて姉の知り合いと訪ねて回ったマリアが、帰郷する前日に、姉が生前に『冬樹と行った』と話してくれていたバーを訪れた時であった。
「東京での思い出作りと、お姉さんの供養を兼ねて、そこで、ヤケ酒飲もうとしていたらしいんだけどね」
マリアにとって、バーなどという、いかにも大人びた場所に行くのは、この時が初めてだったという。場違いな奴だと思われないように、洋服も大人っぽいものを選んだし、化粧も念入りにしたそうだ。
「そうしたら、そこに冬樹が客として友人たちとやってきて、独りで飲んでいたマリアをナンパしたんだってさ」
「…………。は?」
「ほら、『あちらのお客様からの奢りです』っていうの、あるよね? 『君の瞳に乾杯』とか」
「……。あるな」
「……。あるね」
『君の瞳に乾杯』はともかく、気になる女性と話すきっかけを求めて男性が酒を奢るという場面ならば、茅蜩館のバーにおいて、要も隆文も実際に見たことがある。
「しかも、冬樹は、マリアが今回も本名を名乗ったのに、彼女と初対面だっていう態で話してきて……」
「どれだけ忘れっぽいんだよ?」
「馬鹿なの? それとも記憶に障害でもあるの?」
「それどころか、その奢ったカクテルっていうのが、バーバラで」
「おいっ!」
そのカクテルは、いわゆるレディーキラーとしても知られている。チョコレート風味のウオッカベースのカクテルで、量は少なめだが、アルコール度数は25度ぐらいあり、酒に弱い者が飲めば、簡単に足を取られることになる。茅蜩館の主任バーテンダーの時男であれば、『あちらのお客様』のオーダーを受けるだけ受けておきながら、女性にはしれっとした顔で思い切り水で薄めた《なんちゃってバーバラ》を供するところだ。時男は、男の風上にもおけない奴の犯罪に加担したりはしないのだ。
「マリアさんって、お酒強いの?」
「コップ一杯のビールで寝落ちする」
客室係のチーフの小菅並みの弱さである。当然、甘い味に油断して冬樹に勧められたカクテルを飲み干したマリアは、あっという間に酔いつぶれた。
「足腰の立たなくなったマリアを、冬樹はお持ち帰りした。いつもの、赤坂セレスティアルのスイートにね」
あとは、推して知るべしである。
「……。なんか、冬樹さんは殺されちゃっても仕方がないような気がしてきた。ってか、殺す」
「殺すのは、さすがにあれだけど…… 浩平たちが、赤坂セレスティアルのスイートをぶっ壊さずにはいられなくなった気持ちは、よくわかった」
要と隆文は理解した。
竹里冬樹は、男の敵である。




