誕生日には歌を 1
結婚式を終え、ふたりで生活を始めて、初めてわかったことがある。
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
まだ日も明けきらぬ早朝。 黒く焦げた円盤のようなものが乗った皿を手に、母親からのプレゼントであるらしいフリル過多のエプロンを身に着けた橘乃を要は慰めた。
実家の六条家には、専用の料理人どころか、腹違いの姉妹が5人と彼女たちの母親が5人もいる。それだけの数の女性がいれば、料理を趣味とする者も少なからずいるだろう。自分からやろうと思わない限り、橘乃がフライパンを握る機会はない。それに、要の調理スキルは、橘乃に輪をかけて酷いものだ。橘乃の代わりに頑張ってみたものの、彼もまた彼女の失敗作の上に漆黒の円盤を重ねることしかできなかった。言い訳をさせてもらえるのであれば、茅蜩館で暮らしていた頃は、居住スペースで料理の腕をふるうことよりも火事を出さないことの方が大事であった。ガスを使うのは、コーヒーや茶を淹れる湯を沸かすためにやかんに火をかけるか、レストランの厨房から流れてきた野菜や肉で鍋でも囲もうかという時に限定されており、普段の食事は、各自でホテルの従業員の食堂で食べたり、八重の居間に誰かが届けてくれたまかないや試食品やお土産といったものを適当につまむことで間に合わせていた。
「自分で料理しなくても、ホテルには、なにかしら食べ物がありますものね」
しょげる要を橘乃が慰めてくれる。「要さんがオールマイティでなくて、むしろホッとしたわ」と、優しい言葉もかけてくれた。
「橘乃さんこそ、六条家のお嬢さまだものね」
要が橘乃に笑い返す。気取らない性格のせいで忘れがちだが、彼の妻は、多くの使用人にかしずかれて育った筋金入りの御令嬢であった。初めて自炊を試みた結果がこれなら、むしろ上出来ではなかろうか?
「掃除は、ふたりとも得意なんだけどね」
どちらともなく言いながら顔を見合わせ、笑い合う。ちなみに、部屋を占拠していた段ボール入りの荷物は、昨夜のうちに全て片づけられていた。
「もったいないけど、この卵は食べないほうがいいね。いかにも体に悪そうだ」
『ごめんよ』と食材に手を合わせつつ、要はふたつのオムレツの残骸を流しの生ごみ受けに捨てた。幸いなことに、トーストを焼くことやコーヒーも淹れることは得意であったし、引っ越し荷物の中には結婚祝いにともらった茅蜩館特製のジャムもあったので、それらで朝食をすまして、ふたりは家を出た。
「ところで、このあたりの街づくりも菱屋さんの担当なの?」
通勤途中、日本橋の商店街を通り抜けながら、橘乃が空を見上げる。賑やかな日中に比べて早朝の商店街は車の往来も人通りも少なく鳥の声や早起きの店主が箒を使う音が大きく聞こえるほど静かだ。橘乃の高めの甘い声は、冷たく澄んだ朝の空気によく響いいた。
「だって、ほら。建物の高さがきれいにそろっているように見えるから」
「いや、ここは菱屋さんじゃなくて――」
「ここは中村さんの担当だよ、お嬢さん。いや、もう奥さんだったね」
通りすがりに要が朝の挨拶しようとしていた和装の初老の男性が掃除の手を休めて、橘乃に教えた。彼は、時々茅蜩館に顔を出してくれる客のひとりで、八重とも旧知の仲である。
「おはようございます、伊藤さん。ところで、中村って……」
「おや、覚えていてくれたとは嬉しいね」
箒に寄りかかるようにして立つ男性が垂れ気味の目尻をさらに下げた。
「そうだよ。このあたりの街づくりの取りまとめをしてくれているのは中村さんだよ。そういえば、中村の本家は、あんたの姉さんの嫁ぎ先だったね」
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それから一週間ほど後。その中村本家では、紫乃と夫の弘晃が、この朝と同じことを話題にしていた。
「ところで、中村の本社のビルは、どちらの担当になるんですの?」
橘乃の新居の見学も兼ねて姉妹同士でのおしゃべりを楽しんできた紫乃が、その報告がてら弘晃にたずねると、「菱屋だよ」という返事だった。中村の本社ビルも皇居を臨む場所にあるのだが、ビジネス街だと認識されているエリアの中では一番の端で、背後は官庁街という微妙な場所に位置している。
「もっとも、あのビルの場合は、菱屋さんに言われるまでもなく、いろいろ配慮しなくてはならない点が多々あるのだけどね。聞いたことない?」
『塚があるんだ』と弘晃が言う。
「あ、知ってます。なんでも、祟り――」
「そういうオドロオドロシイ都市伝説でもって面白おかしく語るものではないよ。それこそ、礼を失していることになる」
厳しい表情で、弘晃が紫乃が言いかけたことを断ち切る。めったなことで妻を諌める夫ではない。「すみません」と、紫乃は神妙な顔で謝った。
「江戸の守護神ともいわれている方だし、お寺さんによるご供養も神社によるお祀りも、きちんきちんとされてきた場所だからね。こちらから失礼なことをしない限り、無闇に怖がらなくても大丈夫だから」
そうはいっても、お隣さんである。本社ビルの建設にあたっては、塚に対して背中を向けない、見下ろすような位置に窓は設けない等々の配慮があったそうだ。当然のように周辺のビルも同じような配慮をしている。菱屋が煩く言わなくても自主的にやる。それほどに、あの塚は、畏敬の念を持たれている。距離的には充分離れている茅蜩館でさえ、非常に気にする客がいるという理由から、ベッドで横になった時に足を向けることになったり、披露宴会場で新郎新婦が尻を向けたりすることがないようにと気をつけているらしい。
「だから、本来、あのエリアで向きが問題になるのは、皇居に対してではなかったはずなんだ」
「菱屋さんも茅蜩館も大変ですね。それから、中村も?」
「いや、日本橋から向こうが、いわゆる《中村の担当》だということにはなっているみたいだけど、菱屋さんほどの影響力は発揮していないし、それほど大変でもないそうだよ」
影響範囲は、せいぜい室町周辺であるという。
「あの界隈については、歴史のある建造物を守ることや、それらの建造物を中心に据えた統一感のある美観を保持することを目的に、中村が世話役のようなことをさせていただいているわけだけど、なにしろ同じ場所で百年以上商売を続けているところも多いからね」
街並みに関していえば、逸脱することよりも守る意識が強い者が多く集まっているそうだ。「だから、うちは、どちらかといえば規制する係じゃなくて焚き付ける係」だと、弘晃が言う。
「普段は、他の店主と一緒になって、『どうやったら魅力的な街になるか』とか『どうやってイベントを盛り上げようか』という話題で和気あいあいとやっているようだよ。あと、うちなら必要な時に人手も出せるから、そういう意味でも重宝にされてもいるようだね」
『それと比べると、菱屋さんは、本当に大変だ』と、弘晃が苦笑しながら手元の資料に目を落とす。 資料といっても、彼が見ているのは、スポーツ新聞やゴシップ満載の週刊誌といったものばかりだ。資料と呼ぶには信憑性に欠けているとしか思えないし、悪意に満ちた人の噂話などまで平気で載せられている本など、弘晃の体調を損ねる原因になりかねないのではないかとも心配になる。しがしながら彼女がそれらの悪徳紙を「こんなもの」呼ばわりして夫から取り上げないのは、そこに先週の竹里冬樹による新設ホテル発表記者会見の後日談や冬樹や武里グループに関する記述が見られるからだ。
先日の記者発表を、新聞もテレビも、ほとんど取り上げなかった。紫乃が確認できた限りでは、日刊の経済新聞が『帝都劇場が武里グループとの提携を白紙の状態に戻した』と、事実だけを短く報じていただけである。主要なマスコミで取り上げるほどの話題ではないのかもしれない。だけど、あの放送と唐突すぎる中断を実際に目にしている紫乃には、彼らの沈黙が不自然な気がしてしかたなない。
「やはり、場所が場所だけに、遠慮のようなものがあるのでしょうか? 自主規制とか?」
「それはないと思うよ。立ち消えになりそうな新設ホテルの話なんて、新聞社にしてみれば、取り上げるほどの価値がないと判断するほうが妥当だろうからね。テレビについては、話のネタとしては面白いけれども、話題的に面倒くさいから取り上げないってところじゃないかな」
「面倒くさい? 遠慮じゃなくて?」
「面倒くさいんだと思うよ」
小首を傾げる柴乃に、弘晃が苦笑を返す。「君が言うとおり、冬樹くんと彼のホテルが無自覚に喧嘩を売ってしまった場所が場所だからね。しかも、冬樹さんの批判をしても味方をしても、右寄りだ左寄りだの、あるいは軍国主義の復活だのアカだのと、自分の主張にすり替えてヒステリックに叫ぶ者が必ず現れるし、実際に、そういう現象が起きている」
「そうらしいですね」
武里グループの本社前では街宣車の上から《不敬》だ《天誅》だ《非国民》だと叫ぶ血の気の多い輩が、そして菱屋の前では《表現の自由の弾圧》だの《財閥特権を許すな!》だのと書かれた大きなプラカードを掲げた人々がシェプレヒコールを叫んでいるということだ。そういえば、冬樹が建てようとしたホテルのどこがとう問題とされているかも説明せずに、『新しい挑戦を阻む、国家主義的な旧態依然のシステム』を批判していた新聞と雑誌ならばあった。
しかしながら、この一件は、そもそも、そういう取り上げられ方をされるような問題だっただろうか?
自分たちの街の美観をいかに保持していくか。周囲とどうやって調和させていくか。街の代表としての菱屋が重視していたのは、そういうことであったはずだし、それはあの界隈で仕事をする人々の気持ちを反映したものであったはずではないか。そんな人々の気持ちを無視して、自分の主張したいことを補強するためだけに今回の事を利用している人々や団体がいる。彼らの声だけが目立っている。右とか左とかの区別があるのかもしれないが、自分の主張だけが大事な目立ちたがり屋だという点で、どちらも同じだろうし、そういう意味では、彼らは冬樹と同じだろうと、紫乃は思わずにいられない。どちらも声ばかりが大きくて目立っているけれども、あの地域を守ってきた人々への敬意がまるで感じられない。「浅ましい」という感想が、紫乃の口からこぼれ落ちた。
「そうだね。集会やデモの自由を非難するつもりはないけれど、こういう騒ぎにしたくないからこそ、菱屋さんが目を光らせていたわけだから」
『それを財閥特権のように言われてもねえ』と、弘晃がため息をつく。
「ともあれ、誰かが報道規制をかけているということもなければ、誰かが遠慮しているということもないと思う。少なくとも、ゴシップ系の新聞や週刊誌は、冬樹くんの所業がおもしろすぎて、大盛り上がりしているようだしね」
積み上げた週刊誌の山の上をトントンと指で叩きながら、弘晃が笑う。
「それどころか、皮肉なことに、スキャンダルを追うことに熱心すぎて思い込みで書くことさえちゅうちょしないこれらの報道機関が、一番核心を突く報道をしてしまっているという……」
「核心?」
「ここのところの騒ぎは、結局のところ、武里剛毅が亡くなって以来地味に続いている武里グループ創業家の内輪揉め……後継者争いにすぎないってことだよ」
弘晃は、手元の週刊誌を取り上げ、『リゾート開発の闇 ―― 武里のゴットマザー、愛息のためになりふり構わず ―― 』という記事のページを開いて、紫乃の目の前にかざした。
「後継者争いって…… 武里でもやっていたんですか?」
「やっていないよ」
弘晃が、ついさっき言ったばかりの言葉を、自ら否定するようなことを言う。
「既に他界している武里グループの創業者、竹里剛毅は、一世代で大きくなりすぎた事業を4人の息子たちに託すべく、生前から役割分担を決めていた」
長男には、代表者としてのグループ全体の取りまとめと、鉄道事業を。
次男には、デパートを主力にした販売業を。
三男には、ホテル業を。
「そして、四男の冬樹さんにも、ホテル業ですか?」
「いいや、当時はまだ子供だった冬樹さんが受け継ぐ予定だったのは、ホテル業じゃなくて建設業だった」
「そうなの? リゾート開発業じゃないの?」
「紫乃さん。この国で、リゾート開発って概念がもてはやされるようになってきたのは、ごく最近だよ」
紫乃の勘違いを弘晃が笑う。剛毅が冬樹に託したのは、昔の名称でいうところの武里建設……後の武里リゾートだそうだ。『ホテルセレスティアルリゾート』という名称を使っているので、ホテルセレスティアルの子会社だと勘違いされがちだが、もともとは全くの別組織。三男の竹里秋彦氏が引き継いだホテル事業とは関係のないものであるという。
「そういえば、橘乃も『よくわからないけど、冬樹さんのリゾートホテルは、秋彦さんのホテルセレスティアルとは全然関係ないらしい』って言ってましたわ」
「そう。そして、冬樹さんの母親は、自分の息子の取り分が建築業であることも、剛毅と先妻の間に生まれた三人の兄に比べて見劣りがすることも、気に入らなかった。 ……と、この記事には書いてあります」
至極真面目な顔で、弘晃が記事を指さす。
「……。弘晃さん。ただのゴシップを鵜呑みにするのは……」
「まあまあ。冬樹さんのお母さまの心情はともかく、お兄さんたちが引き継いだ三つの事業に比べると、武里建築の業績がいまいちだったことは、客観的な事実だよ」
その原因は六条建設にもあると、弘晃が言う。
「え? また、お父さまが何か……」
「ほら。そうやって、すぐ身構える」
よほど情けない顔をしているのだろう。痛々しいものでも見るように、弘晃が柴乃に対して哀しげな笑みを浮かべ、「前から気になっていたから、一度ちゃんと話をしようと思っていたんだけど」と、居住まいを正して紫乃に向き合った。
「紫乃さん。 あなたのお父さんは、確かに、社会の裏事情に誰よりも通じていて、それを利用して狡いことも、不当なお金儲けもしていた」
『もっとも、そうやって稼いだお金のほとんどは、桐生喬久さんの借金返済に消えちゃったみたいだけどね』と弘晃が笑う。
「仕事の受け方にも、その…… 過去にも時々問題があったようではある。でも、表の仕事でも不正ばかりしていたら、たとえ裏でどんなに便利に動いてくれたところで、六条建設に大事な仕事を任せようとは思わないよ。少なくとも、二度目はない。なにより、いくら源一郎さんと仲良しでも、要求の厳しい茅蜩館が、六条建設に仕事を頼むはずがない」
「あ」
確かに、そうかもしれない。
「中村にしても、そうだ。六条建設の仕事が信用できなかったら、たとえ『紫乃さんと引き換えだ』って言われても建築関係の業務を六条建設に移したりはしない。うちの大事なお客さまにご迷惑がかかるからね」
はっとしたように顔をあげた紫乃の頭に弘晃が手を置く。紫乃との婚約の際、中村家は、源一郎が裏の仕事から手を引きやすいように、資金洗浄のためだけにあったダミー会社の多くを中村側に吸収するという形で片づけてくれた。それどころか、建築や物流といった源一郎が得意としている事業に、中村系列の同系統の事業を移譲してくれた。
「あの時、それこそ中村家の総力を挙げて六条さんの事業を調べたよ。そのうえで、あの小難しい分家のおじさんたちが積極的に『GO』サインを出した。大丈夫。建設会社としての六条建設は誠実だ。中村家が保証する」
「……。うん」
「……なんて、実は、ずっと前から建設会社だけは、ちゃんとしているって僕たちにもわかってたんだけどね。なにせ、うちの本社ビルの建設にも六条建設が加わっていたから」
「そうなの?」
「うん。六条建設はいいよ。余計なものは作らせないし、取るべきお金はしっかり取る」
「それのどこが、いいんですか?」
「外からは見えなくても必要なところにには手間も金も材料も惜しんでいないから、適切なメンテナンスさえ怠らなければ、かなり長持ちする。しかも、始めからメンテナンスがしやすいような構造になっている。余計なものを作ってないから、メンテナンスの際の費用も割安で済む」
げんなりした顔になった紫乃に、弘晃が本社ビルの利点を数え上げていく。
「手前味噌になるけど、あのビルは、長く使えば使うほど、良さを実感できるビルだよ。出来上がった当時は、『お祖父さまが、また、とんでもない無駄遣いをしている』と呆れたものだけど。長期的な目線で見ると、かえって安上がりになるという実に良い買い物だった」
おかげで、うっかり祖父を見直してしまったではないかと、弘晃がしかめ面を作ってみせた。
「六条さんはね。表の仕事では、誰にでも誇れる仕事をしてきているよ。胸をはって和臣くんが引き継ぐことができるような仕事をね。だからこそ、大学を卒業した彼に真っ先に六条建設の仕事を覚えさせようとしたのだろうし、最初の大きな仕事として茅蜩館の仕事を任せようと思ったんだと思う」
「……」
「だから、紫乃さんも、お父さんの話を出されるたびに身構えなくてもいいんだよ。君のお父さんは、やるときには、ちゃんとしたことをやってる。誇っていいんだ」
「うん」
「だけども、武里建設は、そうじゃなかった」
弱々しいながらも笑みをみせた紫乃に満足そうに微笑みかけると、弘晃が急に話を切り替えた。
武里と六条も、戦後の復興のための建設ラッシュに乗っかる形で会社を大きくしたところまでは同じであるそうだ。
「武里建設も別に悪い会社ではないんだよ。特に戦後は、『雑な作りでもいいから、とにかく住める家が欲しい。安いなら安いほどいい』というニーズも大きかった。武里さんは、そのニーズに応えただけだ。だけど、だんだん生活の質が上がってくると、『どうせ建てるなら、長く愛着の持てるものを』というコンセプトでやっている六条建設が建てるものの方が、世間が当たり前に求める平均的な品質になっていった。六条さんだけじゃなくて、他の大手の建設会社も、そういう時代がくることを見越して、人材の育成や建設技術の開発に勤しんできたし、次の注文に繋がるようなものを作ってきた」
竹里剛毅が亡くなったのは、そんな頃だった。気が付けば、武里建設のシェアは小さくなっていた。慌てて軌道修正した時には流れに乗り遅れていたようで、ライバル視していた六条建設との差は、年々開く一方であった。
「政略結婚で二十歳近く年上の男性に無理やり嫁がされた後妻の息子に残されたのは、あまり評判のよくない、他の三事業の下請けみたいな仕事しかない建築会社。となれば、冬樹さんのお母さんとしては、面白くないよね?」
『そして、この週刊誌によると、国会議員でもある彼女のお兄さんの方から声をかけていることになっているけど』と、弘晃がまたしてもゴシップ記事を取り出す。
武里建設はリゾート開発に重点を置き始めた。
「この記事に書いてあるような、某派閥との関係や怪しげな資金の流れについては、ひとまず横に置いておくとしておいて、武里リゾートというのは、とにかく大規模な工事をしたがるらしい。大衆に施設の充実ぶりをアピールすることはできるけれども、本当に必要かどうかもわからない施設を沢山作ってしまう。大掛かりなほうが誘致した自治体も土地の人も――あんまり経営とかに詳しくないのだろうし他人を疑う人も少ないのかもしれないけど――喜ぶ。それどころか、その施設に便乗して地域の活性化を図ろうと、自分たちで更にいらないものまで作ってしまう。それらの工事も武里が引き受ける。破格の価格でね。開発範囲を広げれば、それだけインフラの整備も大規模なものになる。その結果、どうなると思う?」
「メンテナンスが大変になるってことですよね。莫大な維持費もかかる?」
先刻の中村物産の本社ビルの話を思い出しながら、ためらいがちに紫乃がたずねると、「敷地も広大だから、うちの本社ビルの比じゃないはずだよ。手が回りきらなくて、あちらこちらでガタが出始めているようだ」と、週刊誌を見ながら弘晃が言う。
「しかも、武里リゾートは、自分たちで作ったものを自分たちで運営している。だから、近いうちに確実に維持しきれなくなる。事実上の切り捨ても始まっているみたいだね。撤退することを前提に、うらぶれるに任せて放置されているリゾートがいくつかあるらしい。ずいぶん悲惨なことになっているようだね。ええと、こっちの週刊誌に、涙なしには読めない記事があったんだけど……」
「弘晃さん! いい加減にしてくださいな」
たまらず紫乃は弘晃が手に仕掛けた週刊誌を取り上げた。
「こんな記事、まともに信じたらだめでしょう!」
旧中村財閥の事実上のトップだと思われている人が、こんな胡散臭い記事を真に受けるなど、あっていいはずがない。
「わかっているよ。だから、今、事実確認をしてもらってる」
怒れる紫乃を眩しそうに見上げながら、弘晃が微笑んだ。
「はい?」
「というより、梅宮さんの調査に便乗させてもらうつもりってだけなんだけどね」
「え?」
紫乃は、妹の夫になったばかりの、愛想が良くて所作の綺麗な青年を思い浮かべた。
「明子ちゃんの結婚式の時に和臣くんに協力してくれた夫婦の探偵さんがいただろう?」
梅宮は、和臣を介して、そのふたりに内密に調査を依頼しているらしい。
「でも、なんで、そんなことを? 橘乃や八重さんは、そのことを知っているの?」
冬樹に多大な迷惑をかけられているとはいえ、茅蜩館ホテルのことしか興味がなさそうな梅宮が、なぜ地方の失敗しつつあるリゾートに興味を持ったりしたのか? だが、梅宮よりも気になるのは、弘晃だ。
「どうして、弘晃さんが梅宮さんの内緒の調査をご存じなの?」
しかも、なぜ、梅宮の調査に便乗するつもりなのか? だが、「それは、内緒」と、弘晃が『内緒』に『内緒』を重ねて、紫乃の質問をはぐらかそうとする。
「弘晃さん!」
「ええとね。ちょっとした企画というか投資のようなものを森沢さんと考えているんだよ。梅宮さんの調査の結果次第では、その方向性が変わってくるかと思っただけなんだけど」
しかも、明子の夫まで、関わっているらしい。
「でも、そこまで欲張れないかな。菱屋さんも狙っているみたいだから」
それどころか菱屋まで絡んでくるらしい。「梅宮さんも、その企画とやらに関わっているの?」と問えば、梅宮は知らぬことだと弘晃が答える。全く訳がわからない。
「なにを思って梅宮さんが探偵に調査を依頼したのか、はっきりしたことは全然わからないけどね」
そう弘晃は言う。『だけど、全然わからないのだったら、あなたは嬉々としてゴシップだらけの週刊誌を積み上げたりはしていないはずだ』『それより、弘晃さんのことだから、要の調査待ちと言いながら自分たちでも調査していないはずがない』と、彼女は、心の中で夫に突っ込みをいれた。でも、「もう少し、詳しくわかったら、紫乃さんには話すよ」という約束と「要くんが困ったことになるかもしれないから、橘乃ちゃんには、とりあえず内緒にしていてくださいね」という彼からのお願いに嘘がないことはわかる。それ以前に、弘晃が紫乃を悲しまるようなことをしないと信じているし、森沢が明子を泣かせることなどできやしないことも知っているし、梅宮についての橘乃の惚気を浴びるほど聞かされて帰ってきたばかりの今、彼もまた橘乃を大事にしてくれていることも疑いようがない。
だから、この件は、男たちに任せておけばいいのだろう。
でも、紫乃としては、なんとなく面白くない。
「じゃあ、わたくしも、はっきりしたことがわかるまで、弘晃さんには教えてあげません」
腹部に両手を添えながら、紫乃は、きっぱりと宣言した。
「え? なにを?」
「だから、内緒です」
「え~!! もったいぶってないで教えてよ」
「だめ、内緒」
「紫乃さん?」
「今度ね」
訊きたそうな素振りをしている弘晃を見て、紫乃はとりあえず満足してやることにした。




