守るべきもの 11
ニュース画面から突然切り替わったアニメ番組は、この国の人間であれば誰もが知っているロボットの少年が活躍するものだった。
「あ、この話、知っている」
「俺も、このエピソード好きだったんだよな」
「私も、これ見て泣きましたよ」
原作は長期連載されていた少年向けの人気漫画である。それゆえか、かなり年配の男性までもが、番組を突然打ち切ったテレビ局への不満を漏らすこともなく、好奇心が勝った眼差しで画面に見入っている。
「でも、どうして、急にニュース番組が終わってしまったの?」
橘乃は、彼女の周りに集まっていた姉や妹に問いかけた。『天変地異が起きようと、世界が終わりになろうと、このテレビ局だけは、最後の最後まで番組表のとおりに放送し続ける』というのは、この地域で暮らす人間であれば誰でも知っている都市伝説のようなものだ。つまり、今まさに、非常に珍しいことが起っているということ。可愛いキャラクターが活躍するアニメを観ながら心を和ませている場合ではないのではなかろうか。
紫乃が、「どうしてなのかしらねえ」と応じてくれたが、聡明な彼女であっても理由までは思いつかないようだ。
「問題があるとすれば、冬樹さんの記者会見よね。でも、あれの何がいけなかったんだろう?」
なんでも知っていそうな月子でさえ、首をひねっている。双子のように寄り添っている紅子と夕紀は、疑問すら持たずにアニメに夢中になっていた。
「でも、男の人たちは、事情がわかっているみたい」
明子が、テレビの前に陣取っている自分の夫たちに目を向けた。「あの人たち、懐かしい番組に夢中になっているというよりも、どうしてこうなったかわかり切っているから、余裕綽々なんじゃないかしら?」
結論からいえば、明子の洞察が正しかったようだ。エンディングテーマ曲が終わった時、真っ先に笑い出したのは彼女たちの父親だった。
「あ~あ、やっちまったな。しかし、あそこまで馬鹿だったとは」と、源一郎はお腹を抱えて笑っていた。要も和臣と笑顔で話している。明子と紫乃の夫は帰り支度を始めていた。
「あれは、建たないね」
「品のない建物だとは思うけど、見ようによってはカッコいいし、近未来的なんだろうけどねえ」
「でも、『ここ』で『あれ』は、いかんだろう」
「いかんな」
「ああ、いかんいかん」
他の男たちも、訳知り顔で「いかん、いかん」を連発しながら、三々五々解散していく。
「菱屋さんも人の悪い」と、同情を込めた声で八重が呟くのが聞こえた。
------------------------------------------------------------
披露宴なしの結婚式であったので、橘乃が白塗りの化粧を落として普段着に戻った頃には、列席者は全て帰宅した後だった。
「結局、『あれ』のどこがどうまずいのか、よくわからなかったんですけど」
居間に戻った橘乃は、思い切って八重に訊ねてみた。
「実際に目で確認しないと、ピンとこないだろうからね」
さもありなんという顔で八重がうなずき、手を伸ばして電話を引き寄せた。
「もしもし、そこに要はいるかい? 書庫? じゃあ、今日の仕事は切りあげて、居間に来てくれるように言ってくれるかい? そうなんだよ。結婚式だったんだから、今日ぐらい…… ねえ? そうだよねえ。今日の要は、休み扱いになっているはすだろ? ええ、ありがとう。じゃあ、頼みましたよ」
事務所の職員とひとしきり話してから受話器を置くと、八重は、「普通の新婚夫婦ならば旅行に出かけているところなんだから」と遠慮を口にしかけた橘乃を安心させるように微笑んだ。
「だいだい、あの子も、自分のことになると愚図すぎるんだよ。新居だって、ギリギリになるまで決めないし」
「本館の休館までずっと忙しかったですから」
橘乃は誤魔化し笑いを浮かべながら要をかばった。本館の休館や披露宴も兼ねたパーティーの準備に力を入れ過ぎて新生活の準備をなおざりにしていたのは、橘乃も同じだ。周りに急かされるようにして……というより、この近所に店を構える八重の茶飲み友達から、『新居も決めてない? なら、当面の間は、うちの(店も入っている自社ビル上部にある賃貸)マンションに住んだらどうだ? ここから近いから、歩いて通えるよ』と勧められるまま引っ越した部屋では、未開封の段ボールが山積みになっている。
「そうはいってもねえ」
もう少しどうにかならなかったのかと八重が悪態をつく。
「すみません」
橘乃は要の分まで謝った。とはいえ、ふたりの新居が結婚式直前まで決まらなかったことには、愚図である以外にも理由がある。なんとなくではあるものの、引っ越すのが嫌だったのだ。
「あの、私たち、いずれ、ここに戻ってきてもいいですか?」
「え?」
「八重さんと暮らしたいんです」
少し前に、橘乃と要のどちらともなく言い出したことだ。
「鎌倉の総支配人が、隆文さんを欲しがっているって聞きました」
茅蜩館の建て直しが始まったことや要が橘乃の夫になったことで、ホテルは次世代に向かって動き始めている。
ゆくゆくは隆文を鎌倉の茅蜩館の総支配人に……と、多くの人が望んでいるとも聞いている。隆文も、総支配人はさておくとしても、鎌倉のホテルに興味はあるようだ。婚約者の香織には、小規模な鎌倉のホテルのほうが自分には向いているかもしれないと話しているともいう。ちなみに香織は、隆文の鎌倉行きに賛成している。花屋でもある彼女は、鎌倉のホテルの庭をイングリッシュガーデン風に仕立ててみたいらしい。「みんなが言うとおり、隆文みたいに細かいことに気が向きがちな子のほうが、あそこを仕切るのに適しているとも思うんだよ」と、八重も言っている。
「だから……」
「いいね。その提案」
いつの間にか居間にきていた浩平が、いきなり話に加わった。
「実は、僕もそろそろ、ここから出ていこうと思っていたんだ。だから、橘乃ちゃんと要が、お祖母ちゃんの面倒を見てくれると安心だな」
「面倒なんて見てもらわなくても、あたしゃ、まだまだ大丈夫だよ」
ムッとしながら八重が孫に言い返す。
「それより、浩平。ここから出ていくって、どういうことだい?」
「前に言っただろう。やりたいことがあるって」
浩平が八重に思い出させる。橘乃が知らないことではあったが、時期的には、橘乃が冬樹に誘われて食事をした頃のことであるそうだ。
「その目途が立ちそうなんだ。だからね」
茅蜩館も辞めるつもりだという。
「僕がいなくなっても大丈夫だよね?」
「大丈夫だとは言い難いね。だけど、前から言っているように、やりたいことがあるのならば止めるつもりはないよ。ところで、何をするつもりなんだい?」
「それは、もうしばらく内緒だよ。もう少し具体的になったら話すね」
秘密めかして浩平が笑う。
「そういうわけだから、この居住スペースはじきにがら空きになるよ。それに、要は忙しくなるとこの部屋に戻ってくることさえ億劫がるような奴だから、ここに住んだほうがいいと思うんだ」
そうでなければ、橘乃が新しい住処で放ったらかしにされるかもしれないと、浩平が脅かす。
「そこは、そういう要の性格のほうをどうにかすべきなんじゃないかねえ。それはともかく、おまえと隆文がいなくなっちまうからって、橘乃ちゃんが犠牲になって、この婆の面倒をみることないと思うんだよ」
「犠牲だなんて思っていませんよ。わたし、八重さんが好きですもん」
橘乃が熱心に言った。次期オーナーとして橘乃が八重から教わることも沢山あるはずだ。幸いなことに、八重は傍にいて苦痛になるような人物ではない。 むしろ居心地が好い人だ。そして、茅蜩館のオーナーとなる橘乃が八重から引き継がなければならないのは、そうした八重の在り方そのものではないかとも思うのだ。ならば、四六時中八重に張り付いているほうがいいだろう。それに、八重が気を悪くするかもしれないから言葉には出さないが、彼女ももう歳である。独りにしてしまうのは、やはり心配だ。しかも、「本館の工事が本格的に始まったら、ここもしばらく使えなくなるはずですから、その時も、私たちと暮らしましょう」と橘乃が言ったら、きょとんとした顔をしながら、「そうか、私もしばらく引っ越さなくちゃいけないんだね」と笑い出してしまった。さすが、要の育ての親だけのことはある。八重も、他のことにかまけて、自分のことを失念しすぎだ。
「それに、要さんも今のままでいいです」
自分のために彼に変わってほしいと、橘乃は考えていない。この先、変わってほしいと思うことがあったとしても、実際に不満や不都合が生じてから話し合っても充分間に合うと思えるぐらいには、橘乃は要を信頼している。
「だから、いいですよね?」
「そりゃあ…… 茅蜩館は帝都さんとは違ってこじんまりしたホテルだから、なんにでも対応できる要みたいなのが住み込みでいてくれるほうが、うちとしては助かるし、私も死ぬまで現役でいたいから、橘乃ちゃんが助けてくれるのであれば、本当にありがたいのだけどね」
「よし、決まりだね」
浩平が嬉しそうに手を打ち合わせたところで、要が居間に戻ってきた。仕事に戻っているとばかり思っていたが、普段着であるところをみると、八重に言われるまでもなく、早々に仕事を切り上げて帰るつもりでいたようだ。
「橘乃さんの着替えが終わった頃には戻ってくるつもりだったんですけど、調べものに時間がかかっちゃって。ところで、何の話をしてたの?」
「橘乃さんが好い子すぎて、要にはもったいないって話をしてたんだよ」
浩平が、つい今しがた決定したことを、決定事項として要に伝えた。
「すみません。僕から言うべきことでした。橘乃さんも、ごめん」
大事な話を橘乃に任せきりにしてしまったことを反省した要が謝った。
「そうだね。いくら橘乃ちゃんが頼りになるからって、甘えっぱなしはいけないね」
だから、今日は帰って新居の荷物を片づけろ。ついでだから、帰りしなに《百尺ルール》を橘乃に説明してやれと八重が要に命じる。
「ほら、さっさとお行き」
ほとんど追い出されるようにして、要と橘乃は外に出た。
------------------------------------------------------------
有楽町や銀座ほどではないが、12月に入ってから、ビジネス街であるこの地区もクリスマスを意識した飾り付けが増えてきた。茅蜩館の本館の前にも、ドアマンの代わりに、長期休業を知らせるボードをぶら下げたサンタクロースの置物が、立ち入りを制限する役割も兼ねたクリスマスツリーやポインセチアの鉢植えと共に飾られている。外壁工事のために周りをシートで囲ってしまうことになる正月明けまで、茅蜩館としては、季節感のある飾りを通行者に楽しんでもらうつもりでいる。
「ところで、百尺って?」
要と並んで歩きながら、橘乃はたずねた。
そういえば、笑いながら帰っていった男性たちの中にも、そんなことを言っていた人がいた。
「この場合は、31メートルになるんだけど…… この通りよりも、そっちの通りに出てからのほう説明しやすいと思うから」
要が皇居前を通る国道一号線と平行に走っている横道から、皇居と東京駅を結ぶ通りと平行に走る幅の広い道路に橘乃を連れていく。この通りからだと、歴史的な建造物としても見ごたえのある本館とそっけないほど飾り気のない新館を一度に観ることができる。
「あらためてみると、この二つの建物って対照的よね」
「建て替え後は、もう少し統一感が出るけどね」
完成予想図によれば、建て替えられるホテルは、現代的ではあるものの本館の色合いや雰囲気に近づけたデザインになっている。
「さて、今のところ外観に全く統一感がないといっても過言ではない本館と新館だけど、二点ほど意識的に揃えているところがあるんだ。どこだか、わかる?」
「同じに見えるところ?」
橘乃はふたつの建物をじっくりと見比べた。
「同じといっても、高さぐらいしか……」
「そう。高さ」
「でも、それを言うなら、他のビルだって同じじゃない」
橘乃は通り全体に目を走らせた。茅蜩館に限らず、この辺りのビルは、どれもだいたい同じ高さに見える。
「そうだね。そして、二点目のこれも、日本に限らずビジネス街や繁華街では、そうなっているところのほうが多いんだけど」
要が歩道のすぐ脇にある建物に手で触れた。
「通りに対して建物が出っ張ったり引っ込んだりしていない。 歩道の脇に、すぐに建物がある」
「あ、本当だ」
あらためて見れば、通り沿いの全ての建物が一本の線に沿うように横一列に並んでいる。
「でも、それが二つ目?」
「そうだよ。たいしたことなくて、ガッカリした?」
そんな顔をしていたのだろう。橘乃を見て笑いながら、要が皇居がある方向に歩き出す。
「百尺ルールっていうのは、いわゆるビルの高さ制限のことだよ。今でいうところの建築基準法みたいなものだったんだ」
百尺というのは、建築技術が今ほど発達していなかった頃、それ以上の構造物を建てるのは危険であるとされた高さであったそうだ。同じような決まりは、欧米にもあったという。
「もっとも、あちらでは、尺ではなくてヤードだったりするけれどね」
しかしながら、それ以上の高さが技術的に建てられるようになってくると、この種の高さ制限は、街並の保全あるいは景観保護のためのものとなっていく。
「もっとも、この地域に限って言えば、出来始めの頃から、西洋的な街並みを参考に、景観を重視した街づくりをしてきたといえる。理由は、この街が……東京駅から皇居に到るこの辺りが、明治維新を経て新しくなった、この国の《顔》だったから」
「他の国に対して威信を示すために?」
帝都ホテルの総支配人も、以前そのようなことを言っていた。
「国内向けでもあったんだろうね。それまでのこの国では見られなかったような、新しくなるこの国の《新しさ》の象徴となるような、誰にでも誇れるようなカッコいい街にしたい……みたいな」
だからこそ、この地区には、道幅や街路樹にいたるまで、細かい決まりが幾つもある。
「だから、今でも高さ制限が残っているというわけね」
「残っているけれども、昔ほどは厳しくないんだよ」
実際、建て替え後の新館は、百尺よりもずっと高くなる予定である。
「今の建て替え後の高さの基準の一つはね。簡単に言ってしまえば、その建物の真横に立って顔を上げた時に、今までと変わらない空が見えるかどうか、あるいは、それまでの高さ基準を意識したデザインを行っているかどうかってことなんだけどね」
具体的にいえば、基準となる31メートルから上の建物の幅を狭めるなどして視覚的な威圧感を軽減するなどの工夫が求められるそうだ。そう言われて、あらためて空を見上げれば、なるほど、威風堂々とした建物の上にデザインが異なる細めのビルを乗せているところが幾つかある。
「へえ……」
「それから、もう一つ大事な条件があるんだ。だけど、これが、何がダメで何がいいのか、判断が難しくてね」
感心している橘乃を半ばおいていくようにして、要が国道に出る。
「あそこなんだけど」
要が道路の向こうにある、地所を示す。そこにビルはなく、広大な緑が広がっている。
「皇居?」
「なにせ、このあたりは、あそこがあるからこそ、気張って作った街でもあるわけだから」
『失礼があってはいけません』と、要がわざと茶化した言い方をして微笑んだ。
「冗談はさておき、セキュリティーの面から考えても、あちらを覗き見ることができたり、ライフルで狙えちゃったりする高層の建物が近くにあったら、なにかと問題だろう?」
「問題どころか、この地区だけの問題ではなくなっちゃうわね」
ただでさえ注目されがちな方々である。日常的に高い場所から双眼鏡で覗かれたり、命を狙われる危険にさらされたりするのでは、たまったものではないだろう。中の方々が狙われるのも問題だが、外国の要人などが頻繁に訪れる場所でもある。万が一のことがあってはならない。
「そう。この地区だけの問題じゃない。だからこそ、ひと口に『失礼にあたらないように』といっても、それを判定するのは、中の人ばかりとは限らないよね?」
「あちらに対して親しみや敬いの気持ちを持っている人ってことね?」
そういう人は大勢いる。一般参賀には毎回沢山の人が訪れるし、そこまでのファンでなくとも皇族の結婚式等があれば、当たり前のように祝福を口にし、テレビ中継を楽しみにする人がほどんどだ。
「そうだ、テレビ……」
「そう。今日のテレビ番組でも、冬樹さんが建てたがっているホテルの完成予想図が出てきたよね。この辺りの風景も掻き込んであったやつだけど、覚えている?」
顔色が変わり始めた橘乃に、要がたずねた。
「出てきたことは覚えているけど」
だが、画面に出てきた途端に番組が中断したので、細かいところまでは覚えていない。
「じゃあ、想像してみてほしいんだけど。まず、冬樹さんがホテルを建てようとしているのが、あそこ」
要が、新居のある日本橋方面に背を向け、50メートルほど先にある帝都劇場の前まで橘乃を連れていく。通りひとつ引っ込んだ茅蜩館と違い、ここからは皇居の緑が真っ直ぐに見える。しかも二重橋と呼ばれている正門により近い。
「二重橋近辺は、一般の人が最も集まりやすい場所だよね。 そんなところに、冬樹さんがあのホテルを建てれば、あそこを訪れた人の目に否が応でも入ってくる。しかも、ビルのデザインについて、彼は、こんなことも言っていた」
「『見返り美人』?」
「そうだったね。そして、橘乃さんがその『見返り美人』なホテルだと仮定して、ここで同じポーズをしてみようか?」
要が、橘乃の肩に手を添えて、皇居に対して背中を向けさせる。
「その状態で、腰を突き出して、こっち向いてみて」
「絶対にいや!」
手を添えて手伝ってくれようとする要に対して、橘乃は全力で抵抗した。そんな恥ずかしい恰好を、引っ切り無しに車が行き交う、こんなに見通しの良い場所でできるわけがない。
「それに、あっちにお尻を突き出すのは、ちょっと……」
皇居の話をしていたからかもしれない。 否、向ける先が皇居でなかったとしても、誰かが住んでいる所に向かって、そういった行儀の悪い恰好を意識的にするのは、とても失礼な感じがする。
「うん。 橘乃さんが感じているとおり、相手が誰であろうと、誰かに向かって挑発的なポーズをするのは良くないよね」
恥ずかしそうにしている橘乃を解放すると、要が「嫌なことさせて、ごめんね」と言いながら彼女の頭を撫でた。
「でも、冬樹さんは、あの記者会見で、こうも言っていたよね。 『今までのやり方は、もう古い』『伝統と格式なんぞに縛られた、これまでの在り方をぶっ壊す』とかなんとか……って。 冬樹さん的には、うちに向けた言葉だったんだろうけど……」
「そうね。 私にも、冬樹さんが茅蜩館を挑発しているようにしか聞こえなかったわ。でも……」
テレビを観ている人の多くは、橘乃たちほど茅蜩館に思い入れがあるわけではない。それに加えて、冬樹のホテルの建設予定地から道路をひとつ隔てた所には、茅蜩館なんぞ足元にも及ばないほど有名で、どこよりも伝統と格式を重んじてきた場所がある。
「あの番組を観ていた一般の人は、冬樹さんが、あちらを挑発していると思ったかもしれないわよね」
「思っただろうね」
皇居がある方向に顔を向けた橘乃に、疲れた顔で要が応じた。
「……。 怒る人、いますよね?」
『ぶっ壊す』と、冬樹が宣言したのだ。売られた喧嘩は買わねばならぬと、テレビの画面の前でいきり立った人もいるだろう。
「いるね。国粋主義者とか右翼とかいう過激な主張をする人でなくとも、あちらに親しみを感じている人は、それこそ日本全国にいるからね」
あの番組は、東京が拠点のローカル局が作成しているとはいえ、株式相場の午前中の終値を報道しているがゆえに他の地域にも配信されているらしい。今頃は、テレビ局と武里グループにクレームの電話が殺到していることだろうと、要が言う。
「あとは、菱屋さんのところにも」
「菱屋さんは、むしろ冬樹さんに怒っている方ではないの? あのホテルについて、なんの相談も受けてなかったんでしょう?」
菱屋商事は、この地区の開発について最も発言権を持つ。ゆえに、建て替え等を行う際には施主となる者が菱屋に赴き、工事の承認を得る必要があると、橘乃は聞いている。実際、茅蜩館の建て替えにあたって、工事を担当する六条建設側の責任者である兄の和臣は、ホテル側の責任者である要と共に、何度も菱屋商事の都市開発担当係に足を運んでいる。なにかにつけて完璧な和臣が菱屋からの注文に翻弄され、『菱屋が面倒くさい』と珍しくぼやいていたことは、橘乃の記憶に新しい。
「冬樹さんには、もちろん怒っているはずだよ。だって、菱屋さんは、こういう問題を起こさせないための調整役だからね」
「調整役?」
「菱屋さんは、なにも、自分の力を誇示するために、この地区の個別の建て替えに口を出している訳じゃないよ。どこかのビルが建て替えをする度に、みんなで集まって話し合うんじゃ大変だろう? 工事を始めた後になって、あっちこっちから、全く違う苦情や忠告を個別に時間差で言ってこられたりしても面倒だよね?」
だから菱屋が調整役を引き受けてくれている。予め用意してあるガイドラインに基づき、周辺の環境や他の建物との兼ね合いなどを考えつつ、この地区に相応しい建物の在り方を、工事を行おうとしている者たちと一緒になって考えてくれる。
「古臭くて面倒くさいシステムにも思えるかもしれないけど、実は、このやり方が誰にとっても一番楽なんだよ。窓口を菱屋ひとつに絞っているから、要望や提案がある人は菱屋さんに話しにいけばいいし、施主側は菱屋が取りまとめてくれたクレームや要望に対応すればいい。ちなみに、うちの建て替えについての、菱屋さんからのダメ出しなんて……」
「ダメ出しもされてたの?」
「うん。『もっと色気を出してほしい』って」
「色気?」
「茅蜩館はお堅いイメージのオフィス街における紅一点みたいなものなんだから、もっと愛らしくしてほしいって」
これから取り壊す予定の新館がシンプルすぎる外観だったせいで、その手の要望が菱屋に多く寄せられていたのだそうだ。
「うちの場合は、冬樹さんとは逆で、ガイドラインを意識しすぎていたんだね。でも、それでは『おもしろくない』から『もう少し冒険していい』って言われたんだ。とはいえ、『おもしろくしろ』とか『色気だせ』『もっと魅力的になれ』とか、そんな抽象的なことを言われても……ねえ?」
「そうねえ」
具体的ではない分だけ難しい注文だ。兄が悩むわけである。
「菱屋さんは、あの会長さんからしてそうだけど、頭が固いどころか野心的な挑戦が大好きだよ。常に新しいものを求めている」
『見習わなくてはいけないよね』と、要が笑う。
「この地区にしても、これからは休日も人が寄ってくるような魅力のある場所にしていきたいって、担当の人が言ってた。でも、ここは、ビジネス街の性格が強いから、平日の昼休みしか旨味がないって、飲食店や商店から敬遠されがちなんだって」
だからこそ、冬樹のホテルの進出は、菱屋にとっても歓迎すべき案件だったはずだと、要は言う。
「冬樹さんが、既存の概念にとらわれない新しいホテルを作りたいということを話してさえいたら、菱屋さんは面白がってくれただろうし、冬樹さんが納得いくまで協力を惜しまなかったと思う。その結果、出来上がった建物が世間から全く受け入れられなかったとしても、菱屋さんは怒ったりしない。それを承認した自分たちにこそ責任があると、むしろ非難の矢面に立ってくれたはずだ」
「でも、冬樹さんは、始めから無駄だと決めつけて、菱屋さんとの話し合いの作業を怠ったのね」
冬樹は、菱屋という有力な盾を自ら放棄したわけだ。
「だから、菱屋さんは、冬樹さんと武里グループを突き放した」
弘晃の推察によれば、それが、今回のテレビを使った生放送会見であるという。
「『本邦初公開』つまり『誰にも相談していません』ってことを、冬樹さん自ら言い切ってしまったようなものだからね」
そのおかげで、菱屋とテレビ局は『自分たちは知らなかった』という言い逃れることができるだろう。 だが、冬樹と武里グループは、そうはいかない。 孤立無援の状態で、全ての責任とクレームを引き受けることになるだろう。 赤坂の誘拐騒ぎで評判を取り返そうとしたところに、今回の騒ぎだ。 ホテルセレスティアルは、大打撃を受けるに違いない。
「……。なんだか、冬樹さんが気の毒になってきちゃった」
「『気の毒』?」
要が橘乃を非難するような眼差しを向けた。
「だってえ」
橘乃は甘いのかもしれない。 だが、たとえ自業自得でも、冬樹が、大勢の人から非難されることになるのは、やはり気の毒だと思うのだ。 こうなる前に、誰かが彼を止めることはできていたら、こんなことにはなかったはずなのに……。
「誰かが…… うん。 そうだね」
要が、悲しげに微笑む。
「でも、そんな心配をするのは、橘乃さんじゃなくてもいいはずだ。 橘乃さんは優しすぎるよ。 冬樹さんから散々迷惑を掛けられたし怖い思いもした。 もっと怒ってもいいし、『ざまあみろ』って思ってもいいんだよ」
「そうかもしれないけど」
恨みを引きずるのは、もともと苦手なのだ。
「……。じゃあ、もう彼を赦してしまってもいいんだね?」
「うん。 これ以上、何もないならね。 だって、私、今とっても幸せだもの。 恨んでばかりいたら、幸せが逃げちゃうかもしれないでしょう?」
要の腕に両手を絡めて、橘乃が笑う。
過去は、一瞬後でも過去である。 恨んだり悔やんだところで、やり直せるわけではない。 もちろん、反省は必要だ。 だけど、それは二度と同じ間違いをしないためのもの、より良い未来を引き寄せるためのものであるべきだ。
「『だから、向こうが反省しているのなら、されたことは忘れてあげなさい』って、昔、お母さんが紫乃姉さまに言ってたの」
「紫乃さんのお母さん?」
「ううん。 私のお母さん」
姉の紫乃が、中学生の時に酷いイジメを受けた時のことだ。 その後、紫乃は、彼女を一番苛めていた女の子と仲直りして、今は一番の親友になっている。
「……。 そうか。 ボ……いや、お義母さんが、そう言ったんだ」
「うん。 だから、要さんも、冬樹さんのことで、私のために怒ったりしなくてもいいからね」
そんな橘乃の言葉に、要は、どこか悲しそうな、でもホッとしたような顔でうなずくと、なぜか「わかった」ではなく「ありがとう」と言った。




