六条さまの持参金 6
3日後。橘乃は、再び父に呼ばれて茅蜩館に赴くことになった。
「橘乃姉さまばっかり、ずるい!」と、出かけ間際の妹たちは羨ましがったが、学生である彼女たちには行くべき学校がある。片や、今年の春に卒業した橘乃は、完全に自由の身。今の彼女は、いつ何時でも父の誘いに乗れるほど、実は暇を持て余している。
(……ということは、もしかして?)
源一郎が頻繁に橘乃を誘ってくれるのは、『日がな一日家でプラプラしていないで、働くなり自分から学ぶなり、あるいは趣味を見つけるなりして、自分で時間を有効に使う算段をつけろ』という彼の遠回しな圧力か何かだったりするのだろうか?
「そんなわけないわね」
クロゼットの中で着替えを吟味しながら、橘乃は、クスリと笑った。彼女の父親が、そんな面倒くさいことをするわけがない。誰かにしてほしいことがあったら、その場で直接的な表現で頼む。さもなくば、腕づくで自分の意のままに従わせる。それが六条源一郎という男だ。
とはいえ、良い機会だ。明日からはもう少し実のある暮らしをするように心がけようと、橘乃は決めた。
「英語でも勉強し直そうかしら。それともボランティア?」
いずれにせよ『ひとりでコツコツ』より、『大勢でワイワイ』できることがいい。新しい知り合いが増えるようなことのほうが橘乃としては楽しいし、長続きもするだろう。
新しい思いつきに気を良くした橘乃は、上機嫌なまま茅蜩館ホテルに向かった。だが、ほぼ約束の時間ピッタリに到着した彼女を茅蜩館の玄関で迎えてくれたのは、父ではなく秘書の葛笠だった。
「お父さま、来られなくなっちゃったの?」
車から降りるなり、橘乃は隻眼の秘書に問いかけた。源一郎は、娘との約束を間際ですっぽかすことになった償いにと、下手をすると彼自身よりも忙しい葛笠を代理に寄越してくれたのだろうか? 橘乃と一緒にお茶を飲ませるために?
「葛笠さんが一緒にお茶してくれるなら嬉しいけれども、後で紅子に恨まれちゃうわね?」
片足を軽く引きずるようにして歩く葛笠と並んで歩きながら、橘乃はからかった。橘乃のすぐ下の妹が葛笠に恋をしていることは、源一郎を除く六条家のほぼ全員が知っている。葛笠の紅子への気持ちは、今のところ不明である。この手のことには鈍い人なので、紅子の気持ちに気が付いているかどうかさえ怪しい。彼が紅子を嫌ってはいないことは確かだが、妹程度にしか思っていない可能性のほうが高いというのが、おおかたの見方である。
「どうして、そこで紅子さまの名前が出てくるんです?」
早とちり気味の橘乃の冷やかしに、葛笠が照れているような困っているような顔をする。今の彼の反応を見る限り、恋愛対象として、彼の眼中に紅子が全く入っていないというわけでもなさそうだ。
(後で、紅子に話してあげなくちゃね。きっと喜ぶわ)
彼女のことだから、喜ぶというより、きっと顔を真っ赤にしてうろたえることだろう。紅子の大げさな反応を思い浮かべながらほくそ笑む橘乃に警戒するような視線を向けながら、葛笠が「社長は2階の小宴会場でお待ちです」と教えてくれた。葛笠によると、その宴会場には、茅蜩館ホテルの関係者が集まっているそうだ。リニューアル後のホテルや建築計画等々について、父と六条建設の担当者からの説明を受けている最中だという。
「そこに私を連れて行ってくれるの?」
橘乃は意外に思った。確かに橘乃は茅蜩館ホテルが大好きだ。ホテルがどのように新しく変わるのかについても、人並み以上に関心がある。だけども、関係者ばかりが集まる席に源一郎が娘を同席させることは、公私混同になりはしだろうか?
「いいの?」
「社長が『いい』というなら、いいのでしょう。それより、なんだかおかしなことになっていましてね」
「おかしなこと?」
「ええ。どうやら茅蜩館ホテルを社長がもらうことになりそう……」
「お父さまが、茅蜩館を乗っ取ったっていうの?!」
葛笠の声を遮る橘乃の声が跳ね上がる。その声の大きさに気圧されながらも、葛笠が、「いいえ、今回は違うようです」と否定した。
「今回は、あちらからくださるとおっしゃっているんです」
「くれるっていうの? どうして?」
橘乃は、困惑した。だが、もっとわからないことがある。
「そんな席に、どうして私が呼ばれるの?」
しかしながら、葛笠にも心当たりがないようだ。「お嬢さまも、社長から何も聞いていませんか?」と、逆に訊き返しながら、彼が、橘乃のために宴会場の大きな扉を開けてくれた。
橘乃が通されたのは、《マートルの間》と呼ばれている小さな宴会場だった。
そこは、紫乃の披露宴が行われた時に、極めて病弱な義兄が宴の合い間に少しでも休憩が取れるようにと、ホテル側が控え室として用意してくれた部屋でもあった。橘乃が宴会場の名前まで覚えていたのは、梅宮が、『マートルは、花嫁の木ともいうんですよ』と教えてくれたからである。あの折は梅宮が宿泊用のベッドまで持ち込んで義兄を寛がせてくれたものだが、今日の《マートルの間》には奇妙な緊張感が漂っていた。
橘乃は、おしゃべりをやめると、屈めなくてもよい腰をかがめながら、部屋の中に滑り込んだ。壁際に置かれた椅子に葛笠と並んで腰を下ろし、会場全体をざっと見渡す。部屋に集っているのは、30人ばかりだった。男性と中高年が多いようだが、女性もいるし、橘乃と同じぐらいの年恰好の者もちらほらと見られる。子供の姿はない。
人々は、8つばかり置かれた宴会用の丸テーブルに4,5人ずつでまとまって座っていた。橘乃からだと左側――宴会場の後方の出口に近いテーブルには梅宮の姿もあった。
梅宮は、橘乃が入ってきたことに気がついており、小さく頭を下げると前方に視線を戻した。彼の視線の先、すなわち、結婚式ならば花嫁と花婿の席が設けられる場所には、このホテルのオーナーで梅宮たちの祖母でもある和服姿の老女と橘乃の父親である六条源一郎が並んでいた。
(なんで、八重さんは、お父さまにホテルを譲るなんて言うのかしら? 梅宮さんみたいな立派なお孫さんがいらっしゃるのに?)
困惑しながら、橘乃は梅宮と源一郎と見比べた。だが、橘乃の疑問に答えてくれる者のいないまま、大きくもない八重の声が、「もう決めたんだよ」と、マイクを通じて集まった面々に語りかけた。
「要と隆文と浩平。私は、3人のうちの誰にホテルを譲ってもかまわないと思っている。だけども、私が、この中の誰を選んだとしても、あんたたちの3分の2は、その決定を認める気がないんだろう? それどころか、なんとかして新オーナーの足を引っ張ってやろうっていう腹積もりだ。ホテルに限らず内部がゴタゴタしていると、その影響は表にも出てくるもんだよ。そんなホテルで、どうやって、お客さまが寛げるね? だから、私は、恩人でもある六条さまに、このホテルを譲ることに決めた。六条さまは、あたしなんかより経営能力にも長けてらっしゃるし、人を見る目も確かだからね。だから、六条さまにオーナーを引き受けていただいて、然る後に、彼がホテルを任せるのに相応しいと思う人物を……社長なり総支配人なりを、選んでもらうことにした。六条さんがホテルを永く存続させるために、客観的な視点で選んだ人物であるながらば、あんたたちだって文句は言えまい? 3人には、それで承知してもらった」
八重が、後方のテーブルにつく3人の若者……梅宮とかわいらしい顔をした男性と眼鏡をかけた生真面目そうな顔をした男性に微笑みかけた。彼女の動きにつられるように、聴衆が3人を振り返る。彼らの中には、かなり怖い顔で3人を睨みつけている者もいたが、3人は、そういった者たちに脅えたり反抗したりする様子もみせずに、視線を八重に固定したまま、しっかりとうなずいた。
3人が意思表示をすると、張り詰めていた空気が一気に澱むように弛緩した。人々はテーブルごとに顔を寄せ合って話を始めた。騒がしい状態がしばらく続いた後、真ん中あたりのテーブルから手が挙がった。どこからか回ってきたマイクを手に立ち上がったのは、波打つロマンスグレーが印象的な年配の男性だった。
「六条さんに大きな借りがあること。六条さんならば、適確な人選をもって茅蜩館がこの先も発展していくように導いてくれるということ。だから、六条さんにホテルを譲りたいということ。八重さんの言いたいことは、わかった。だけども、六条さんにホテルを譲ったとして、彼が、そこの3人の中からこのホテルの舵取りをする人間を選んでくれるとは限らないと思うのは、私に何らかの思い違いがあるからだろうか? それどころか、ここで働くただの従業員の中から選ぶとか、あるいは、このホテルの外から適任者を見つけ出してくるということもあるんじゃないかと思うんだが?」
「思い違いじゃないね。充分に、ありうることだよ」
ロマンスグレーの男に、八重があっけらかんとした表情でうなずく。
「ま、そうなったら、そうなっただ」
「『そうなったら、そうなっただ』……って、あんた……」
ロマンスグレーが黙り込んだのと同時に、会場のそこかしこから「そんな無茶苦茶な!」「ふざけるな」等々の罵声が上がった。
「八重さん! あんた、このホテルをなんだと思っているんだ!」
「私のホテルだと思っているよ」
誰かの罵声に、すかさず八重が答える。
「私と私の息子の久志が、先代から預かったんだ。あんたたちの好きにさせないためにね」
「なんですって!」「言ってくれるじゃないですか!」
挑発的な八重の発言に、ますます騒ぎが大きくなる。次期オーナーにと目されていたらしい梅宮たち3人といえば、沈黙を守っていた。いっこうに静まろうとしない人々を黙らせたのは、橘乃の父だった。
彼は、いかにも面倒くさそうに立ち上がると、いつにも増して低い声で「八重さんから、次期オーナーに指名されました六条です」と、自身を紹介した。六条源一郎の悪名は、ここに集った人々にも、ある程度は知られているのだろう。会場は再び沈黙を取り戻した。
「実は私も、この話に、あまり乗り気じゃないんですけどね。っていうか、私も、ホテルを餌に八重さんに良いように利用されているだけのような気がしてならないんです」
源一郎が八重に苦笑を向けた。
「なにより、私も桐生も、30年後にホテルを手に入れるために新館の建設に協力したわけじゃない。借金も桐生が勝手に馬鹿をやっただけですし、馬鹿だから格好つけずにいられなかっただけです。他にもあれこれ馬鹿やっているので、八重さんだけが責任を感じる必要も皆無です。ゆえに、このホテルをいただく理由など、私にはありはしないのです。もしも、私が、ここで下手な欲を出してみっともない真似をしようものなら、桐生が化けて出るかもしれない」
源一郎はここで人々を笑わせようとしたようだが、誰一人ニコリとさえしなかった。彼は、咳払いをしながら顔つきを改めると、「然るに、私は、ホテルを恒久的に六条家のものにするつもりはありません」と宣言した。
「特に桐生の血を引くうちの息子……六条和臣には相続させません。そんなことしたら、桐生が墓から這い出してでも、私と八重さんに文句を言いにくるでしょうから」
「ということは……」
「ですから」
わかりやすく期待に顔を輝かせる人々を無視して、源一郎が壁際の橘乃に手招きした。
「え? 私?」
訳がわからぬまま、橘乃は源一郎に近づいた。
目の前に立った娘を笑顔で迎えた源一郎は、手を添えて彼女を聴衆のほうに振り向かせた。
「うちの3女です。名前は橘乃。今年短大を卒業した21歳です。と~っても可愛いでしょう? 現在、お婿さんを絶賛募集中~~!」
おどけたような父の紹介に促されるように、橘乃も聴衆に向かって微笑んでみせた。だが、状況的にウケるはずがない。人々は、梅宮でさえ、白けた顔で橘乃たちを見つめるばかりである。
「……な、わけですが、これからいただくことになるホテルを、私はこの子に譲ろうと考えております」
聴衆のノリの悪さにため息をつくと、源一郎が言った。
怪訝な顔をしながら源一郎の話を聞いていた人々は、一瞬、彼が何を言い出したのか理解できなかったようだ。しばらくポカ~ンとした顔をした後、「は?」と、源一郎の発言を聞き返した。
「ですから、この子が茅蜩館ホテルの次期オーナーです」
「え? ちょっと? お父さま?」
橘乃は慌てた。彼女にとっても、そんな話は初耳である。そういえば3日前に、『橘乃は、このホテルを好きかい?』と、父から訊かれた覚えはある。だからといって、橘乃は、ホテルが『欲しい』と父にねだった覚えもなければ、ホテルを貰えると思ったことだって一度もない。
(それを、なんだって、こんな唐突に?)
橘乃は慌てて父を問い質そうとした。しかしながら、源一郎が彼女の肩をしっかりと押さえているので、身動きが取れない。
「つまり持参金のようなものですな。だが、あくまでも、ホテルは彼女のもの。彼女が愛する男が、彼女が許す限り茅蜩館ホテルのオーナーと同様の権利を行使し、利益を得ることができる。そして、この子が男に愛想を尽かすなりして婚姻関係が失われた場合、男は、彼女と同時にホテルも失うことになる。それで、どうでしょう?」
突っ立っていることしかできない橘乃の後で、源一郎は、どんどん話を進めていった。