守るべきもの 7
本館改装前のパーティーは、ほとんど内輪受けの記念イベント。自分たちの結婚披露は、そのパーティーにおける、ちょっとした余興のようなもの。
そんな要の想定は、なんというか、いろいろ甘かったらしい。
この会の発案者である葉月や八重が《心あたり》の数人に声をかけるかかけないかのうちに、茅蜩館で行われる仮面舞踏会または仮装パーティーの噂は、あっという間に巷に広がった。
正式に告知するまでもなく、参加希望者の数は日に日に膨れ上がり、要たちは、パーティー会場を予定していたフレンチレストランから本館のロビーまで広げることを、早々に検討することになった。また、時間が経つにつれ長くなる一方の参加者リストに名を連ねた人々の社会的な重要度を鑑みて……というよりも正直怖ろしくなって、もよりの警視庁関係者(先日、どちらが主賓でどちらが乾杯の音頭をとるかで揉めて担当の浩平を困らせていた桜井さんと畑山さんのことだ)に相談したところ、その日の業務の終了後、彼らと彼らの知り合いの警察官及びOBをパーティーに参加させてくれることになった。ちなみに、そのほとんどが、柔剣道の有段者だそうだ。長年要人警護を担当してきた者もいるという。
一方、要と橘乃の結婚に向けての準備も予想外なところで盛り上がっていた。どういうわけだか、仲人希望者が次々に現れるのだ。それも、『あわよくば大金持ちの六条さんと繋がりになりたい』という下心丸出しの申し出ではない。言ってくる誰もが、今さら源一郎と懇意にする必要のない大物ばかりである。しかも、その誰もが、要と橘乃の将来を考えてくれていて、『これから茅蜩館を背負っていくのなら、気軽に相談できる大人がひとりでもいたほうがいいだろう。それなら是非とも自分を頼ってほしい』と言ってくれている。
要にしてみれば、実にありがたい話である。だが、彼は感謝すると同時に困ってもいた。なぜなら、非常識なほどの人見知りであると宣伝しているとはいえ、仲人を引き受けてくれるとなれば、その人物に橘乃の母親……ボタンを引き合わせないわけにはいかなくなるだろうからだ。過去の事情にも通じている茅蜩館の常連でもある人物に橘乃の母親の正体を打ち明けることは、すなわち、橘乃本人さえ知らない彼女の出生の秘密をも教えてしまうことになる。
「それを考えると、おいそれと『お願いします』とは言えませんし……」
「だけど、頑なに仲人を拒み続けるのも不自然だと思うんですよ」
「……だよな」
要と八重から相談された源一郎がうめく。彼のところにも、数人から仲人の打診がきているという。
「橘乃さんも、不審に思い始めています。『せっかく言ってくださっているのに、片端からお断りするのも失礼なんじゃないか』って」
「こうなったら、ボタンの正体を知らせても大丈夫そうな仲人さんを、こちらで立てちまったほうがいいと思うんですよ」
仲人さえ決まってしまえば、その人物を押しのけてまで仲人に立候補しようとする者は出てくるまい。八重の提案を受けて源一郎が白羽の矢を立てたのは、源一郎とも歳が近い篠塚という外交官であった。客としてでしかないものの、要とも幼い頃から面識がある。
「あいつなら『久志と親交があったから』っていう理屈も通せるし、そこそこ地位の高い外交官だから仲人を断られた方もプライドが傷つかないだろう。若い頃には俺以上に桐生のオッサンに振り回されてたから、今さら俺のすることに驚かないだろうし、もとより、なにがあっても動じないタイプだ。しかも、夫婦そろって口が堅い」
でも、だからって、地球の裏側に近い場所にある赴任先から呼びつけるのは、どうなんだろう?
……と、要は思ったものの、橘乃のためだと思って、その疑問は口にしないことにした。
そして、迎えたパーティー当日。
夜になるのを待ちかねたように茅蜩館に集まってきた客人たち……特に女性たちは、『古き良き時代の茅蜩館を偲んで』というこのパーティーの趣向を徹底的に楽しみ尽くすつもりでいることは疑いようがなかった。
例えば、この会を提案してくれた葉月や橘乃の母親たちは、いかにも鹿鳴館風といったスカートの腰の後ろをバッスルで膨らませた昔風のドレスで、その身を飾っていた。身に着けている仮面も、どれもが凝った装飾が施された美しいもので、目の周りだけを覆う蝶のような形のものもあれば、イタリアのカーニバルで用いられるような顔全体を覆うタイプのものもあった。ちなみに、橘乃の母親……ボタンは、当然のように顔全体を覆うタイプの仮面をつけていた。そちらのほうが声も誤魔化せるので、都合がよいらしい。
一方、和装姿の女性たちも、ドレス以上の贅沢な装いを楽しんでいた。
振袖を着てきた年配の女性たちによれば、娘時代に誂えたとっておきの振袖というのは豪奢な分だけ着る機会が少なく、『もっと着ておけばよかった』という悔いが残りやすいものであるそうだ。彼女たちは、『二度と着られない』と思っていた愛着のある着物に再び袖を通せたことを喜んでいた。しかしながら、『振袖は若い娘が着る物』という常識も捨てきれないらしく、気恥ずかしさを払しょくするために、小物や帯の合わせ方にお洒落に精通した大人の女性ならではの大胆な《遊び》を取り入れていた。おかげで、要のエスコートで客に挨拶して回っている橘乃は、感嘆の声を上げっぱなしである。目にする女性という女性を徹底的に誉めちぎる橘乃に、要は内心呆れていた。それは、誉められっぱなしの人々にしても同じだったようだ。『私たちにも、少しは私たちにもあなたを誉めさせて頂戴』と、女たちが気持ちの良い笑い声をあげながら橘乃を叱る。
実際、今日の橘乃は、どれだけ誉めても足りないほど綺麗だ。きらびやかな色合いのドレスで飾った女たちと黒を基調とした礼服を身につけた男たちで溢れかえる夜会において、鶴や菊の刺繍が入った白打掛を仕立て直したドレスを身につけている彼女は、会場のどこにいても目立った。生地の豪華さを生かすために極力シンプルにしたドレスのデザインも、橘乃の無邪気な愛らしさを際だたせている。彼女が綺麗すぎるためか、それとも、このパーティーを成功させ本館を休館させた後まで……つまり三日後まで結婚式がお預けになっているせいか、要は、いまだに彼女が自分の妻だと実感しきれていない。
「可愛くて面白い子だね。『面白い』といっても、『興味深い』とか『珍しい』という意味だけど」
ご婦人方に請われるままにその場でクルリと回ってからスカートを摘んでお辞儀をする橘乃を見やって眦を緩ませている要に、仲人の篠塚が話しかけてくる。穏やかな物腰の割に目つきが鋭いこの紳士は、源一郎の求めに応じて本当に世界の裏側からやってきてくれた。空港から直接茅蜩館に寄った篠塚は、要と顔を合わせるなり、「だいたいの話は六条から聞いた。だが、正式に仲人を引き受ける前に、ひとつだけ君に確認させてほしい。君は自分が知るべきことを知っていると思っていて、全てを納得した上で自分の行動を決めたんだね?」と訊ね、要が「はい」と答えると、「わかった。では、私も君たちの秘密と嘘に最後まで付き合おう。橘乃さんにも他の人にも、私から秘密が漏れることはないと信用してくれていいし、この件で困ったことがあったら遠慮なく頼りなさい」と言ってくれた。源一郎が頼りにするだけあって、その後の彼の嘘のつきっぷりは堂にいっていて、『ボタンのことを知っているけれども、橘乃の母親とは初対面』だという設定に基づいた仲人の役割を演じてくれている。
「橘乃さんが『珍しい』……ですか?」
「うん。とても好い子だと思うけど、品性方向という意味での良い子でもないよね。はっきり言って、おしゃべりだし。ちょっと口も悪いし、噂話に躊躇なく食いつくし、やっかみも虚栄心も素直に口にする。でも、彼女が何をしても言っても、不思議なぐらいに厭味がない」
「確かに」
それは、要も感じていたことだ。
「たぶん、橘乃さんは、人のことがとても好きなんだと思います」
彼女の態度には、常に相手への好奇心と敬意が感じられる。そして、いい意味で彼女は鈍感だ。相手が悪感情を向けてきても、それを上機嫌で受け止めてしまうようなところがある。珍しく彼女が不機嫌そうに見えたのは、冬樹に要が馬鹿にされた時ぐらいだった。
「橘乃さん本人がよくしゃべるのでわかりづらいですけど、彼女は、自分以上に相手に話させようとしますしね」
自分に興味を持ってくれる相手に、人は敵意を向けづらいものだ。
「確かに、彼女は相手に話させるのが上手いね。先日は、うちの妻が、橘乃さんに私らの馴れ初めを語らされてしまったようだし」
篠塚が心なしか赤くなる。
兄と同年の幼馴染みであったことから、篠塚の妻にとっての彼は小さい頃から憧れの的であったのだそうだ。一方の篠塚も、自分に懐いてくれる友人の妹を大切に思っていたらしい。……というようなことを、橘乃は、知り合いになって間もない篠塚の妻から、ちゃっかりと聞き出していた。
「左遷覚悟で、極上の縁談を蹴とばされたそうですね」
ちなみに縁談の舞台は、まさにこの場所。茅蜩館のフレンチレストランだったという。『自分には、心に決めた人がおります』と宣言して席を立った篠塚は颯爽として実に素敵だった…… と、このあたりは、貴子が語ってくれた思い出話である。なんでも、当時は語り草になっていたらしい。
「だから、その話はいいって!」
篠塚が、ますます赤くなり、「ともかく」と咳払いしながら、強引に話を戻す。
「茅蜩館の次の女主人として、彼女ほど相応しい子は、そうはいないんじゃないかな。……というより、そうなるように、六条たちが彼女を一生懸命育てたんだろう」
『だから、私にまでこの件を秘密にしていた六条には、まだまだ言い足りないこともあるが、不問にしてやることにした』と篠塚が笑う。
「それに、どういう訳だか、責任の一端は、私にあるらしいし」
「へ?」
呆けた顔で聞き返した要に、篠塚が決まりが悪そうに目を逸らしながら、『ふたりも3人も同じだと、私が貴子ちゃんに言ったらしいんだよ』と、打ち明けた。
「ふたりって、浩平と隆文が茅蜩館に連れて来られた時のことですか?」
「うん。『ふたりがそんなに気に入らないなら、貴子ちゃんも、どこかから3人目の隠し子を連れてきたらいいじゃないか』って」
話の流れからして、その『3人目の隠し子』とは、要のことだろう。
「言ったんですか?」
「……らしいんだけど、本当に覚えていないんだ。申し訳ない」
「いえ、ありがとうございます」
苦笑まじりに要は頭を下げた。今の話を源一郎が聞いたら、きっとまた『久志の仕業』だと言うに違いない。
「なあに。どうしたの?」
たまには背後に佇む男ふたりの相手もしなくてはいけないと思い出したのか、振り向いた橘乃がたずねた。
「なんでもないよ」
要が微笑みながら首を振った。『夫婦なんだから、これからは橘乃さんに対してもっと砕けた話し方をするように』と、要は、多くの客に注意されている。これを機会に直そうと彼も努力しているのだが、まだ全然慣れない。おかげで、彼女に向かって口を開く度に、彼は気恥ずかしい思いでいっぱいになる。
「そうそう、『平和な光景だね』って要くんと話していただけさ」
『例えば』と誰かを探すように会場を見渡しながら、篠塚がさりげなく話題を他にもっていく。さすが外交官。要は、心の中で感心した。
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例えば、「『アメリカ』っていったら、これでしょう」と、映画『風と共に去りぬ』の主人公のようなドレスを着てきてくれたの女性をエスコートしている男性は、戦後の一時期、接収されていた茅蜩館で寝起きしていたそうだ。
例えば、アールヌーボー風のドレスを着ている英国女性の祖父は、いよいよ戦争となって国外退去を命じられるまで日本に留まり続けたという。
例えば、その女性と楽しげに話している30半ばほどのイタリア人女性は、父親と一緒に、箱根の収容施設で終戦を迎えた。そして、そもそも外国人の避暑のためのホテルであったその施設では、働くことを条件に空襲を恐れた篠塚の妻と母親が身を寄せていた。東京出身の篠塚が租界先のアテを持たないことを知った桐生が、茅蜩館を通して口をきいてくれたのだという。桐生がいなかったら、そして茅蜩館がなかったら、篠塚の大切な人は空襲で死んでいたかもしれない。そんな篠塚は、『戦争前は戦争にならないように、戦争前期は敵を欺くために、そして戦争末期は戦争を終わらせるために桐生さんに便利に使われ、戦後は桐生さんと占領軍と政府の通訳を兼ねた使いっ走りだった』という。
「それから、あそこにいる袖口の広いゆったりとした絹の服を来た冗談の上手な男性は、国交が回復して間もない中国からいらしたし、いま、八重さんと話しているのは香港の方だ。それから、むこうにいる社長さんは台湾出身の人だよ」
同じ日本人にせよ、ここに集まっている人々の戦時中の立場はバラバラだった。
元財閥だった人、軍人だった人、皇族ゆかりの人、憲兵だった人、その憲兵に目を付けられていた人、終戦直前の広島にいた人、空襲で独りぼっちになってしまった人、旧満州で終戦を迎えた人……
バラバラだった人々が、今、同じ場所で、笑い合っている。
「ずっとこうだといいですね」
橘乃は篠塚に言った。
もう二度と、互いに憎みあい殺し合うようなことがないように。過去を赦し合い、お互いの幸せを願いながら、共に未来に向かって共に歩んでいける関係をでいられることを喜び合える。これからの茅蜩館が、そういう場所であり続けていられるように。空襲や戦争とは無縁の場所であり続けられるように。
心から、そう願わずにはいられない。
……などと、橘乃が、殊勝な気持ちで、平和な世の中の有難さを噛みしめていたのも束の間のこと。
「やあやあ、みんな、パーティーを楽しんでいるかい?」
主役の登場だと言わんばかりに、出席の予定のない竹里冬樹が、彼がボタンの実子だと主張しているマリアを従えながら会場を斜めに突っ切って、こちらに向かってくるのが見えた。しかも、またしても、ステージ衣装ばりの派手なスーツを身に着けている。目立ち加減からいって、これでは、まるで、橘乃と冬樹が結婚するカップルみたいではないか。誤解されるだけでもごめんなので、橘乃は要の腕にきつくしがみついた 要は、橘乃を守るように彼女の腰に腕を回しながら、篠塚に冬樹のことを手短に説明していた。飲み込みの早い篠塚は、「つまり、偽の隠し子を、いまさら3人から4人にしようとしている人なんだね」と納得した。
「御所望の証拠を持ってきたよ。 ここにいるマリアが、ボタンの娘……すなわち恵庭久志の娘だという証拠だ」
ふたりの真正面に立つなり冬樹が要に言った。
ところで、冬樹の後ろで申し訳なさそうに下を向いているマリアは、白いモヘアのセーターとロングスカートという可愛いけれども普通に街を歩ける服装をしている。「もしかして、彼のあの恰好って仮装じゃないの?」と、誰かが困惑気味に呟くのが聞こえた。
「君は、ボタンさんとマリアの続き柄がわかる戸籍謄本で充分だと言ったが、それでは説得力がないと思ったんでね。それは、やめた」
やめるもなにも、用意できなかったくせに。橘乃は、心の中でつぶやいた。
マリアはボタンの娘などではない。橘乃には、そこまでの確信はないが、八重や要は、始めからマリアのことを偽者だと疑っている。冬樹にしても、マリアの素性など本当はどうでもいいに違いない。彼はただ茅蜩館に難癖をつけただけ。人目につくところで無用な騒ぎを起こし、諍いの種を蒔いて、茅蜩館の評判を落としたいだけだ。品格や居心地の良さをサービスの売りにした茅蜩館は、それだけで大きなダメージを受けることを、この男は知っている。そして、社会的に地位の高い人が多く参加しているこのパーティーほど、彼が悪巧みを行うのに打ってつけの機会はない。
「だから、もっといい証拠を用意した。久志さんから、愛の証にとボタンさんに渡されたものだ」
「新しい証拠ですか?」
要が微かに眉を上げた。興味はあるが、動揺はしていない。そんな微妙な感情を、彼は周囲に上手に伝えていた。
「紛失している『レジスターブック』といえば、わかるかい?」
「たしかに、当ホテルには、過去、宿泊記録が失われている時期がございますが」
「この子がもっていたんだ。1940年から41年の分だよ。確認してもらえるかい?」
勿体ぶった笑みを浮かべながら、冬樹がマリアから受け取った黒い表紙の冊子を要に差し出した。
「拝見します」
そういって冬樹から冊子を受け取った要は、なぜだろうか、橘乃の目には少し楽しそうに見えた




