守るべきもの 6
茅蜩館の本館の改装が早まったことは、それから数日のうちに新聞各紙で報じられた。
『国際空港の開業時期に、できるだけ間に合わせるため』という表向きの言い訳はそれなりの説得力があったようで、世間は、この変更を好意的に受け止めてくれたようだ。おかげで、公表済みの計画の一部を実行間際になってから半年も繰り上げたのだから少なからず非難の言葉を受けることになるだろうと覚悟していた要やスタッフたちは、あまりにも何もなくて……どころか「茅蜩館ホテルもこれぐらいの商売っ気があってもよい」と激励されるばかりで、拍子抜けするほどだった。
「馴染のある場所が変わってしまうことは寂しいですが、私たちが、それだけ歳を取ったということでしょう」
2階のレストランでの昼食を楽しみにきた8人ばかりの女性たちの団体は、そんなことを言っていた。 彼女たちを率いている凛とした老女も、老女たちに付き添っている若い女性も、要はよく知っている。 中村本家に嫁いだ橘乃の姉の紫乃と、中村財閥系の東栄銀行の頭取であった中村氏の夫人の葉月だ。
「葉月おばあさまたちが、2階のレストランが閉まってしまう前に、どうしても行っておきたいとおっしゃったものだから」
挨拶代わりに紫乃が要に説明する。
「あと2週間ほどでお休みになると聞いて、本当に驚きましたよ」
「急なことで、ご迷惑をおかけします」
要は、頭を下げた。
12月1日からの本館の休館に先行して、本館2階にあるフレンチレストランは、9月いっぱいで休業することが決まっている。
実をいえば、急に決まった休業について誰よりも驚いているのは、当のレストランの料理人やスタッフたちであった。入店のためのドレスコードが決まっていることもあって自分たちの持ち場こそが茅蜩館の格調の高さを象徴していると自負している彼らは、人手不足のために手を貸してもらうことはあっても自分たちがフォローに回されることなどありえないと、どこかで高を括っていたし、要たちにしても、『2階のフレンチは特別だ』という思いがあった。
だから、要たちから『一番先に休んでほしい』と言われた時、彼らは、現状を理解しているからこそ二つ返事で了承してくれたものの、自分たちへの扱いの軽さに不満を覚えていたようだった。しかしながら、今では、誰もがレストランが先に休むことになってよかったと思っている。それというのも、一昨日からフレンチの厨房の電気の調子が今ひとつなのだ。照明が突然不安定に揺らいだり、使用中の電気機器がスイッチを入れても稼働しなかったりする。それなのに、メンテナンスのスタッフや業者が調べても原因がわからない。年代物の食器温め器や冷凍庫は新しくした方が効率がいいとはいえ故障は見つからず、配線等のトラブルも今のところ発見されていないため、本気で原因を突き止めるようと思ったら、壁や床板を剥がして調べねばならないらしい。八重や料理長たちは、これらの不具合をハッキリさせぬまま営業を続けることで火事を出しやしないかとか、冷蔵庫が知らぬ間に停止したせいで食材を傷めることになりやしないかとハラハラしているようだ。だからこそ、彼らは、『早く休めることになって良かった』と胸を撫で下ろしている。
一方、要と源一郎、そして茅蜩館の結婚式場を預かる神職の考えは、他の者たちとは、いささか異なっている。例えば、源一郎は、2階の厨房限定の怪現象を『本館の改装を大過なく進めたい久志の幽霊の仕業』だと信じている。橘乃と要の仲を強引に取り持とうとした《前科》がある久志なら、電気の異常ぐらい訳なく引き起こせるはずだというのだ。一応常識的な大人でもある源一郎は、この話を要以外のホテルスタッフにはしていないが、同じ日に、電気機器の専門家でもない神職も、『調べても無駄だし、客に迷惑がかかるようなことにもならないよ』と断言していた。そして、要は、当初は不満タラタラだったフレンチレストランのスタッフが『休業やむなし』と思った途端に照明や器具の具合が本調子に戻ったらしいことに心底ホッとし、仏壇に線香と久志の好物を供えてホテルの休館までつつがなく営業が続けられるように祈った。
とはいえ、レストランの急な休業も厨房の不調も、あくまでもこちら側の事情であって、客への言い訳にはならない。深く頭を下げる要に対して、老女が「茅蜩館さんが謝る必要はありませんよ」と言ってくれる。
「それに、本当は茅蜩館が悪いのではないのでしょう? 武里のクソ餓鬼が改装の予定を早めるきっかけを作ったのだと、紫乃と弘晃から聞きました」
謝罪のために腰を大きく曲げたままの要の頭上で、目の前の品の良い婦人が発したとは思えない俗な単語が聞こえた。《クソ餓鬼》って…… 葉月さまは、意味をご存じなのだろうか?
「ライバルとみなした相手を超えるのではなく、卑劣な手を引き摺り下ろそうとするなんて、いかにも武里がやりそうなことです」
老女が憤懣やるかたない口調でいう。終戦直後、武里グループの創始者である竹里剛毅による大陸での悪事の責任や後始末を押し付けられた中村一族の武里嫌いは有名である。だが、紫乃は、そのことを知らなかったらしい。
「弘晃が、あなたを通して橘乃さんが武里に偏見を持つようになってはいけないからと、皆に口止めしていたのです」
尊敬すべき大叔母を不思議そうに見つめている紫乃に葉月が教える。「でも、橘乃さんが梅宮さんを選んだのだから、もう遠慮はいりませんね。あの子が武里の男など選ばないでくれて安堵しましたよ。紫乃の妹さんだけあって、人を見る目がありますね。あら、わたくしったら、お祝いの言葉を言うのが先でしたね」
葉月が、口元を抑えて恥ずかしそうに笑った。
「今日は、そのことで、八重さんにお話があってきたのですよ」
「そのことというのは?」
「もちろん、あなたと橘乃さんのお披露目ですよ」
戸惑う要を見上げて、葉月が微笑む。
「橘乃さんとあなたは、茅蜩館がお休みに入る前に結婚式をしたいと考えている。けれども、自分たちが主役になるような一般的な披露宴を望んでいないと、この紫乃から聞きました。結婚を機に、お世話になった方や、これからもお付き合いがある方に対して茅蜩館の次期オーナーとしての自分たちを、言葉どおりにお披露目するような機会がほしいのですよね?」
「はい。できれば、ご挨拶させていただける機会を持つことができればいいなと思っております」
その点については、橘乃と話し合った。
要は、橘乃が『自分たちが主役になるような華やかな結婚披露宴』を望んでいるとばかり思っていたから何度も確認したのだが、橘乃は、「そういうのは、やりたくないの。私はこれから茅蜩館の人間になるのよ。人をもてなすはずの自分のホテルに人を呼んで自分が一番チヤホヤされるなんて落ち着かないもの」と言って譲らなかった。
「でも、結婚のお披露目だもの。花嫁さんには、きれいなドレスを着てほしいと思わないこと?」
「ええ、まあ」
誘導尋問めいた老女の言葉と微笑みに警戒しながらも、要がうなずく。源一郎が茅蜩館を持参金にしなかったなら、橘乃も、華やかなドレスをきて皆の注目の的になりたかったに違いない。
「でも、最近忙しすぎて、『こうしたい』までは決めたけれども、具体的なことは何も決まっていないし、していないのよね?」
「はい、情けないことですが」
時折気分転換にロビーに降りてくることはするものの、最近の要は、前倒しになった改装工事のための事前の打ち合わせや調整作業に追われている。橘乃には申し訳ないが、時間的にも気持ち的にも、自分の結婚式の計画まで立てている余裕がない。結婚式の担当者をしていた時の彼は、事前の打ち合わせ等々で忙しいことを理由にして花嫁に協力的でない花婿に憤りを感じていたものだが、今ならば、彼らの気持ちもよくわかる。そして、人生経験が豊富な老女も、要の置かれた状況を理解してくれているようだった。
「よくわかりました。あなたは、お仕事に専念していていいですよ。あとは私たちに任せておきなさい」
葉月は、我が意を得たりと言わんばかりに微笑むと、有無を言わさぬ朗らかな口調で「レストランでお食事していますから、橘乃さんと八重さんにいらしてくださるように伝えてね。もしお時間があるようなら、総支配人にもお話を聞いていただきたいわ」と要に命じて去っていった。そして、紫乃は、要に向かって申し訳なさそうに手を合わせると、「いきなりで、ごめんなさいね。でも、梅宮さんにとっても美和子お母さんにとっても悪い話ではないと思うのよ」と早口で言って、葉月の後を追いかけていった。
自分はともかく美和子……つまりボタンにとってもいいこととは、どういうことだろう? それ以前に、なぜ中村家の女性の中で最も力があると思われている老女が、ボタンのことまで考えてくれるのだろうか?
「よくわからないけど、貴子さんも呼んだほうがいいんだろうな」
要は口の中で呟くと、まずは八重と橘乃を呼びに行った。
それから数時間後。打ち合わせから戻った要は、事務所にいたスタッフから貴子からの伝言を受け取った。 他の仕事はひとまずうっちゃっておいてもいいから、最優先で八重の居間に出頭しろとのことである。
「総支配人命令って……」
「だって、本館閉館に伴うセレモニーのことだもの。重要でしょう?」
慌てて駆け付けた要に、貴子がしれっとした顔で舌を出す。
「セレモニー?」
「そんな仰々しいものじゃないよ。本館の……ええと、なんだっけ?」
「フェアウェルパーティー。つまり、お別れを惜しむ会みたいなものですね」
八重の視線を受けて、橘乃が答えた。
「あのね。本館の2階のレストランが先に休みに入るでしょう? そして、レストランの客席を片づけてしまうとホールになるでしょう?」
本館しかなかった頃の茅蜩館では、そのホールを使って大きなパーティーが開かれることがあったという。大正時代には、舞踏会のような華やかな催しも度々行われたそうだ。
「葉月さまがね。せっかく広く使えるのなら、舞踏会をしましょうって」
「舞踏会……ですか」
「あの頃、巷でも社交ダンスが流行っていたんだよ。私が嫁いできた後にも、何度かあったねえ」
だが、関東大震災以後、そういった贅沢な催しが開かれることはなくなったのだそうだ。
「不謹慎だっていってね。その頃は被災した人が大勢いたのだから、そのとおりなんだけど」
だが、その後の日本は、世界恐慌よる不況、そして戦争と、暗い時代に突入していく。戦時中の新聞や世論は洋風の文化や贅沢を戒め、戦後は戦後で、ジルバやマンボなどのアメリカンスタイルのダンスをもてはやす一方で、戦争の主導的な共犯者であったといって資本家を糾弾した。
「戦争の共犯者だっていうなら、新聞こそ、一番の共犯者なのにね。国威発揚っていうの? 毎日毎日、本当のことを隠しながら、威勢のいいことばかり書いて、あの戦争を後押ししていたんだから。あと《鬼畜米英》とか、英語をしゃべるなとか? とんだ営業妨害だって、兄さんが怒ってたわ」
貴子が亡き久志の思い出を語る。ともあれ、戦後になっても、懐かしの舞踏会など開ける空気ではなかったし、どのみち、茅蜩館の本館はGHQに接収されていたので使えなかった。別館が建てられた時に、ひっそりとダンスパーティーが開かれたこともあった。あれはあれで、素晴らしかったし楽しかったと葉月は言う。だが、あの時はパーティーを楽しみながらも、後ろめたさでいっぱいだったそうだ。 茅蜩館から一歩外に出れば、まだまだ戦後の傷跡が目に見える形で残っていたからだ。
「でも、さすがに、もういいんじゃないかって、葉月さまがね」
まだまだ足りないところはあるかもしれないけれども、この国は、みんなで頑張って立ち直った。昔を懐かしむ人々が、一度だけ在りし日を懐かしむために晴れ着に身を包んで昔風のパーティーを行ったところで、目くじらを立てて騒ぎ立てる人も、あの辛い戦争を思い出して傷つく人ももういるまい。
「だから、一日だけね。《本館との別れを惜しむ会》ってことにすれば、問題にされたりしないだろ」
「っていうか、気にしすぎよ。なにを言われようが、関係ないわ。だいたいうちは、お客様共々戦争の頃に軍部……というか、戦争に前のめりになっていた人たちから目を付けられていたぐらいなんだから。ロクに知らないで文句を言うなら、言う方が悪いんだわ」
「ですよね」
久志の対軍人との密やかな武勇伝であれば、要も、源一郎とボタンから先日聞かされたばかりだ。
「みんなで、好きな服を着て、好きな料理を食べて、好きな音楽をかけて踊る。今は、それが許されて当然の世の中なったの。誰にも文句なんか言わせないわ。おばあちゃんたちだって、一日ぐらい、若やいだドレスではしゃいだっていいじゃない」
「ドレスだけじゃなくて、振袖も既婚未婚に関係なくオーケーってことにしたの」
橘乃が言う。振袖ならば、自分のタンスの中に眠っていることも多い。自分のものがなくても、娘や孫など誰かしら持っているだろうから、新しく誂える必要がない。
「でも、白いドレスと色打掛はだめ。ただし、橘乃ちゃん以外」
「ああ、なるほど」
それならば、橘乃が誰気兼ねなく花嫁の恰好をして、自由に動き回ることができる。
「葉月さまがね。『後悔のないように、精一杯おしゃれしなさい』って言ってくださったの」
「それから、肌の綺麗なピッチピチの若い娘たちと並んでも恥ずかしくないように、仮面やベールの着用も《可》」
いわゆる仮面舞踏会というやつだと貴子が言う。
「仮面やベールって…… ああ、そうか」
「そうなの!」
橘乃が嬉しそうに微笑む。「『沢山の人が顔を隠していれば、人見知りのお母さまも出席しやすいでしょう?』って葉月さまが言ってくださったの」
若い頃の夢を叶えるためだと言いながら、葉月たちは、橘乃のためにいろいろと考えてくれたらしい。
「だから、ね? この企画で、やらせていただきましょう?」
「そうですね」
橘乃が喜んでいるのだから、要に異論はない。どうせ、結婚式における花婿など花嫁の添え物にすぎない。花婿に意見を聞く頃には、だいだい決定済みだろうから、文句を言っても叱られるだけ。なにより、あの紫乃でさえ逆らえない葉月の提案に、要が逆らえるわけがない。
「あ。でも…… もしかして、僕も派手な恰好をしなくてはいけないでしょうか?」
「ああ、要はディナージャケットでいいよ。パーティーだし、夜だし」
つまり、その他大勢の男性と同じでいいということだ。『添え物で、よかった』と要は胸を撫で下ろした。
パーティーの開催は、本館の閉館日の一日前の、11月29日に決まった。
葉月によると、その日は、鹿鳴館が開館した日なのだそうだ。
そして、11月29日、当日。
レストランのホールばかりか1階のロビーも会場として開催されたパーティーには、橘乃と要の結婚披露宴パーティーであったら絶対にありえないほどの人数、そして顔ぶれが集まった。




