守るべきもの 5
人手不足に対応するために10月から茅蜩館の営業を縮小するという貴子の言葉に、手伝いに駆け付けた料理人たちの多くは、納得して帰っていった。しかしながら、世の中、単純な人間ばかりではない。
規模を縮小すればサービスの質は守られるかもしれない。だけども、利益までもが守られるわけではない。レストランが急に休業することに不満を覚える客が多ければ、評判も落ちる可能性がある。自分自身を単純な性格だと思っている橘乃でさえ、この程度のことぐらいなら思いつける。ならば、要や貴子は、もっともっと不安材料を抱えているに違いない。それでも、彼らは、 自分の心配を棚上げにしてでも茅蜩館を手伝ってくれるつもりだった人々を守るために、ああ言わざるをえなかったのだ。
橘乃は、仕事に戻るために先に居間から出ていった要を追いかけた。彼は、自分たちの住居となっているエリアを出てすぐのところで、例の青山の洋食レストランの滝沢店長によって、部屋係用の大きなランドリーワゴン置き場の隅に追い詰められていた。男性にしては長めの髪を後ろで束ねた背の高い店長は、目の前に立たれただけで威圧感たっぷりだろう。だが、店長から額を小突かれている要が笑みを浮かべながらうなずいているところをみると、恫喝されているわけではないようである。
「本当に困ったら、遠慮なく言えよ」
近づくにつれ、ふたりの話し声が聞こえてくる。前々から薄々感じていたことだが、店長は、怖ろしげな見た目に反して非常に面倒見の良い人であるようだ。
「ありがとう、滝さん」
「ばーーーか!!! 礼を言うのはこっちだよ。勢いで来ちまったものの、自分の店を休まないですむのは、正直ありがたいからな。他の奴らもそう思ったから食い下がらなかったんだろうさ。まったく、俺たち、カッコ悪いったらねえな」
「そんなことないよ。嬉しかったよ」
「そんなことをサラッと言って笑ってられるおまえは、何気にカッコいいじゃねえか」
滝沢が要の額を指で小突く。
まったくだと、橘乃も思った。流行りの服を着こなし、華やかな事業を立ち上げては周囲にチヤホヤされて好い気になっている冬樹など、要の足元にも及ばない。滝沢店長も、橘乃と同じことを考えたのだろう。「苦労知らずの坊ちゃんなんぞに負けるなよ」と、要に発破をかけている。
「大丈夫。負けない喧嘩の仕方なら、忘れてないよ」
「そうだった。俺が教えたんだった」
不敵な笑みを浮かべてみせる要に向かって、店長が楽しげな笑い声をあげた。
「じゃあな。俺も自分の定休日には勝手に手伝いに行くから、そのつもりでいろよ。手伝いを言い訳にして俺が敬愛してやまない料理長の教えを乞える絶好の機会を邪魔したら、承知しねえからな」
要に言うべきことを言いきると、店長は近づいてきた橘乃を振り返って祝いを述べて、去っていった。
「ところで、我流の護身術って、滝沢さんから教わった喧嘩の仕方だったんですか?」
古巣の厨房に寄ってから帰るという店長をその場で見送りながら、橘乃は要にたずねた。誘拐されかけた橘乃を助けてくれた時に使った体術のようなものは、相続争いから生じた歪な家族の在り方に反抗し、悪い仲間とつるんで危ない場所に入り浸るようになった浩平を連れ戻すために身に着けたのだと、前に要が話していた。
「ええ。喧嘩技以外のことも教えてもらいましたよ。『まず逃げ道を確保しろ。 そして、相手にも逃げ道を残しておいてやれ』とか、『下手に出過ぎると、相手がつけあがるだけだ』とか『はったりも大事』とか……」
「どこまでも実践的ですね」
荒くれ者だったという店長の昔に思いを馳せつつ、橘乃が苦笑する。
「それから、『喧嘩の《勝ち》は、足腰が立たなくなるまで相手をぶちのめすことではなくて、相手の戦意を喪失させること。敵を味方にできれば、なお良し。でも、どうしてもぶちのめさなければならないなら、二度と起き上がらせないぐらいの勢いで叩きまくれ』っていうのは…… あれ? これは六条さんが教えてくれたのだったかな?」
「……」
橘乃は呆れた。お父さまったら、要さんに何を教えているの!
ともあれ、ふたりの喧嘩の達人の言葉を信じるなら、『相手をつけあがらせることなく、戦意を喪失させ』ればいいようだ。そういえば、姉の紫乃から橘乃も同じようなことを言われたことがあった。たしか、中学校に上がった時だ。『いいこと? 私たちが愛人の娘だからという理由で嫌なこと言ってくる子がいても、毅然としていなさい。決して顔を下げてはだめ。こちらに恥ずべきことがなければ、人を侮辱して面白がる相手の愚かさが際立つだけですからね。自分で自分を卑しめている人たちには、いつかきっと、それなりの報いがあるはず。だから、相手にしてやる必要もないわ』 あの時、紫乃は、そう言っていた。
(紫乃姉さまが教えてくれたことも、一種の喧嘩の仕方よね?)
そうであるならば、橘乃も必勝法を伝授されている。大事なのは、嫌がらせをしてくる相手をどうやってやりこめるかに神経をすり減らすことではない。自分がどうやって乗り越えるかだ。そのほうが、後々良いことがあることを、橘乃は経験的に知っていた。
「どんな嫌なことをされても顔を下げずに、空元気でも笑っているのが一番ってことですね」
橘乃は言った。
「むこうが根を上げてくれるまで、頑張りましょうね」
「根を上げてくれればいいんですけどねえ」
「あら? さっきの強気はどこにいったんですか?」
ため息を吐く要を、橘乃がからかった。
「半分以上はったりですよ。皆さんが優しいおかげで今のところはなんとかなっていますけど、問題は山積みですから。しばらくは赤字だし、冬樹さんの新しいホテルのことも気になります。でも、そこに気をとられすぎると肝心なことに気が回らなくなりそうで、僕としては、そちらのほうが怖いんですよ。例えば、新しくなる自分たちのホテルのこととか……」
「あーーーーーーーーーーーーそうですよねえ。そっちのほうが、ずっと大事ですよね」
そういえば、最近の橘乃は、本館改装と新館建て替え後の茅蜩館のことなどほどんど思い出しもしなかった。知らぬ間に、冬樹からの嫌がらせに振り回されるばかりになっていたようだ。
「休んでいる3年間のことも心配ですしね。すみません、愚痴ばかり言って」
「皆の前では、はったりきかせておかなきゃなりませんものね」
心得たように橘乃がうなずく。要が自分にだけ弱音を吐いてくれるなんて、いかにも恋人同士らしくて嬉しいではないか。
「それから、私事であるとはいえ結婚式のことも考えないと……」
「え?」
「だから、僕たちの結婚式」
驚いて目を瞠る橘乃に、要が繰り返す。
「ここで結婚式をするのが小さい頃からの夢だったって言ってたでしょう?」
しかしながら、茅蜩館東京は来春5月の連休明けをもって休館する。新しい新館ができあがるのは、およそ3年後である。
「そ、そういえば、そうでした」
そのことを失念していた自分に、橘乃は少なからずショックを受けた。
「そうなんですよ。それで……ですね。僕としては、3年待つのは長いなあと思うわけでして」
照れているのだろう。要が、明後日の方を向く。
「でも、橘乃さんにしてみれば、『休館までに結婚式を』っていうのは急すぎる話ですよね。準備だっていろいろあるでしょう。 ……となると、やっぱり3年待つ……」
「いや!」
橘乃は反射的に声を上げた。そんなに待ちたくない。待てない。
「3年待つのでなければ、他の場所でやるという手もありますが」
「それもいやです!!」
東京の茅蜩館がいい。他の場所なんて、考えたくもない。
「じゃあ……?」
「結婚しましょう! 今すぐにだって、いいです!」
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「……って、要さんに言っちゃった。そうしたら、要さんがね。『橘乃さんが、それでいいのなら』って!!!」
「なにそれ、惚気?」
「深刻な話かと思って聞いていれば、まさかの惚気オチだなんて……」
家に帰るなり、橘乃が報告すると、妹たちどころか、遊びにきていた姉たちまでもが一様にげんなりした顔をした。
「『今すぐ結婚しましょう』なんて、随分と大胆な提案をしたものだね」
茅蜩館の状況を知りたいばかりに姉妹の話に混じっていた兄の和臣も呆れている。しかしながら、浮かれ気味の橘乃は、周りの空気なんぞ読む気にもなれない。
「それでね。披露宴は仰々しいのはやめて、披露宴にかこつけてみんなが楽しめるようなものにしたいねって、要さんと話していたの。来ていただいた皆さんを私たちがおもてなしできたらいいねって」
「そうねえ。梅宮さん側の出席者はホテル関係者ばかりでしょうから。自分のホテルでもてなされるのも、落ち着かないでしょうしねえ」
「金屏風の前で畏まっているよりも、橘乃らしいかもしれないわね。ところで、青山のレストランの店長さんは、お元気そうだった?」
明子がたずねた。
「元気よ。そういえば、滝沢さんがね、唯さんが私のことを馬鹿にしていたって言ってたわ。武里グループの御曹司よりも孤児のホテルマンを選んじゃう私の気がしれないって」
旧姓香坂唯は、明子の元夫達也の現在の妻である。いろいろあって、今は滝沢のところでアルバイトをしている。
「あの人、まだ、そういうこと言っているんだ」
「その価値観のせいで人生間違えたのにねえ」
妹たちが呆れる。おかしな話だが、明子を不幸にしてまで添い遂げた唯と達也の結婚生活は、始まる前から破たんしていた。達也は、理想の恋人だと信じていた頃には知らなかった唯の打算的な性格にすっかり嫌気がさしていたし、唯は唯で、達也を手に入れるためにしてきた悪行の数々を知っている夫や彼の親戚に囲まれて居心地の悪い毎日を送っている。お互いの顔を見たくないほど嫌い合っているふたりが別れられないのは、離婚させてもらえないからだ。彼らの結婚は懲罰でしかない。この結婚を推し進めた源一郎は、彼らが明子を苦しめたことを、まだ許していない。
「唯さんがそう言うなら、橘乃姉さまが梅宮さんを選んだことは、間違いないんだと思うわ」
「いっそ、唯さんが冬樹さんとくっついちゃえばいいのに」
「それより、あの店長さんって、唯さんのなんなの? 好きなの?」
滝沢店長は、結婚前と同じ条件のまま唯を店で使っている。家に引きこもって達也と喜多嶋家を呪って過ごすよりも働いている方が健全だし、喜多嶋家から逃げ出すなら逃走資金ぐらいは自分で稼くべきだ、『とにかく、暇してんなら、俺の店を手伝え』というのが店長の言い分である。驚いたことに、なんにでも逆らう唯は、文句を言いながらも店長の勧めに従って働いている。働くことが唯の気晴らしになっているのか、彼女に八つ当たりされる達也の生傷は減ったそうだ。
「純粋に店長とバイトの関係らしわよ」
「それにしては、面倒見が良すぎないこと?」
「ああ、それはね――前に、店長さんが俊鷹さんに話してくれたことなのだけど」
明子が控えめに話し始めた。 ちなみに、滝沢の店は、明子の夫の森沢俊鷹と元夫の喜多嶋達也が東京の拠点としている喜多嶋紡績本社に近いことから、滝沢の店を贔屓にしている社員も多いという。森沢も時々食事に行くのだそうだ。
「昔の店長さんって、放っておいたらヤクザになっていただろうって人だったらしいのね。それが、たまたま関わり合いになった茅蜩館の人たちに、『うちで働いたらいい』って言ってもらえて、働くようになってからもいろいろ面倒をかけたのに一人前になるまで見捨てないでくれたのですって」
そんな自分が、『どうしようもない奴だから』という理由だけで、中途半端なところで唯を見捨てるわけにはいかない。彼女を見捨てないことが、茅蜩館への恩返しになると、店長は律儀に信じているらしい。
「だから、店長が唯さんを放っておけないのは茅蜩館のおかげでもあるの。私と俊鷹さん、それから達也さんも、間接的とはいえ茅蜩館には恩があるのよ」
それが理由なのかどうかはわからないが、現在の森沢は、茅蜩館のために、なにやらコソコソと動いているようだと、明子がいう。
「あ、うちの弘晃さんも」
森沢と結託して何かしているようだと、紫乃が言う。
「詳しいことは聞いてないけれども、ふたりとも楽しそうよ」
「そうですか、義兄さんたちが、茅蜩館のために……」
和臣は、始めのうちこそ義兄たちに仲間外れにされたことにむくれているようにも見えた。だが、かしましいばかりの姉妹のおしゃべりに加わることをやめて彼が急に黙り込んでしまったのは、拗ねていたからではなかったらしい。
「お兄さま?」
「うん? 義兄さんたちが茅蜩館のために内緒で動いているなら、僕も何かしてみようかな~……なんてね」
一番心配そうな顔で近づいてきた妹の夕紀に、和臣が優しく笑いかけた。
「何か?」
「先に父さんの許可を得ないと無理なことだけどね。ところで、橘乃は、明日結婚してもいいって言ったけど、本気だと思ってもいいね?」
「え? ええ」
「確かだね?」
戸惑う橘乃に和臣が念を押す。
「和臣? なにをするつもりなの?」
「茅蜩館にとっても悪い話ではないと思うよ。前から腑に落ちなかったことを、この機会に変更してもいいかなと思っているだけ」
悪巧みの予感を感じ取って警戒感を露わにする紫乃の方に、和臣が体の向きを変える。
「腑に落ちなかったこと?」
「だからさ。工事期間が違うのに、どうして本館と新館を同じだけ休ませなくちゃいけないのかな……とか」
「それは、全部新しくして一斉にオープンしたほうが話題になるから……って、あら? 再開時期を合わせたいのなら、閉める時期まで一緒である必要は……ない、の、よね?」
言っているそばから自分の発言に自信が持てなくなってきたらしい紫乃が、自信なさげな顔で和臣に問かける。
「一緒に閉めるのは、主に新館の工事の時に発生する音や微振動のせいだよ。遮音はするけど、無音になるわけじゃないからね。特にうるさいのが、取り壊すときと新しい建物の土台を作るときだね。夜は工事はしないけれども、隣でバキバキやってる本館にいたって、お客さんが寛げないだろう?」
「それも、そうね」
「だからね。新館の工事の中でも特に騒音の激しい期間を過ぎてしまえば、改装を終えた本館だけ先に開けてしまってもかまわないと思うんだ。そして、どのみち開館時期が合わないんだったら、閉める時期だってずれててもかまわないと思わない?」
「和臣兄さま、さっき言っていたことと話が違わないこと?」
「違わないよ。本館と新館を合わせて休ませるべきなのは、新館の工事が特にうるさい時期だ。であるならば、その時期が終わるのに合わせて、本館の改修工事を終わらせてしまえばいい」
話についていけなくなりかけた橘乃に、和臣が丁寧に説明してくれる。もっとも、話についてこられなかったのは、翌日、同じ話を聞かされた茅蜩館の人々も同じであった。話し合いの場をなった小宴会場には横浜や鎌倉からも人がやってきていたが、昨夜のうちに六条家に呼び出された要を除けば、皆キョトンとした顔をしていた。
「本館の開業を早めることができるということは、わかった。話題性なら新館のオープンだけでも充分だ……というより、本館と新館でオープンの時期をずらしたほうが2回話題にしてもらえて、むしろ美味しいな……とも思う」
「でも、この話を今慌ててする必要があるのかい? 確かに、東京の本館だけでも早めに営業できれば利益も出るし、無駄に遊ばせておく人間も減るけどねえ」
「減るもなにも、今の東京は、むしろ人手不足でアップアップしてるんですけど……」
「人手不足だからさ」
不審を隠さない横浜鎌倉の総支配人と泣き言を言う東京の総支配人の貴子に、源一郎が笑いかけた。
「和臣は、だから『人手不足なら、いっそ本館を先に閉めて、やるべきことをやっちまえばいいじゃないか』と言いたいらしい」
「やるべきこと?」
「本館の工事を、できるところから前倒しで始めちまおうぜ」
本館の上層の客室であれば、今からでも取りかかれると源一郎が言う。茅蜩館は、主に新館の方ではあったものの、営業を続けながらの改装工事を過去に何度も経験している。その時々に施工を担当したのも、源一郎たち六条建設であった。
「天井をぶち抜いて2フロアを1フロアにして配管もやり直すような、かなり大がかりな工事もやった。 利用客が不快な思いをしないように、ホテル側と工事担当者の双方が、いろいろと工夫してきたじゃないか」
今回の工事でも、その時の経験が生きてくるはずだと、源一郎が言う。
「客が不快に思わないであろうギリギリのところまで先に工事してから本館を完全に休館にして、その後、新館の取り壊しや基礎工事を進めながら、本館に大々的に手を入れる。そして、新館の基礎工事がいったん落ち着く時期に合わせて、本館を先にオープンする」
「落ち着くのは?」
「工事を始めてから半年……いや、8か月後ぐらいかな」
「でも、8か月もあるのなら」
本館の改装工事だけなら8か月もかからないはずだ。ならば、どうして前倒しにしてまで工事を早く始める必要があるのか? 当初の予定どおりに本館と新館を同時に閉めても、結果は同じではないだろうか。本館は茅蜩館東京の顔である。休館時期を遅らせるメリットはあっても早める必要があるとは思えない。貴子は、そう考えているのだろう。橘乃も始めはそう思ったし、要にしても、昨晩のうちに同じ話を聞かされた時に、同じことを和臣に質問していた。
「来年の5月。つまり、全館休業を予定しているのと同じ時期に、成田空港がオープンするだろう?」
怪訝な顔をしている貴子に、源一郎が悪巧みに誘い込むような顔で笑いかけた。国際線の乗り入れを増やすために成田に大型の空港ができるのと同じ月に休館しなければならないことを一番悔しがっていたのは、ほかならぬ貴子だ。案の定、『成田』という言葉に、貴子は明らかに反応した。
「成田といえば空港、空港と言えば旅行者、旅行者といえばホテルだ!」
こじつけっぽい言い分ではある。だが、そのことを指摘する者はいない。源一郎の話に聴き入っている皆の顔を観察していた橘乃は、自分の父親には詐欺師の才能があるに違いないと確信した。だから、6人もの奥さんを同時に持つことになったんだわ。
「海外からいらしたお客さまを、我が国は、いかにしてもてなすつもりなのか? 遠いところからはるばる来てくれたのに、がっかりさせたらどうしよう? 開業に反対する過激な奴らのせいで不安を感じている国民が多いからな。世間は成田開業にまつわる特に明るい話題に飢えている……かもしれない。そんな時にだよ」
内緒話でもするように、突然声を潜め腰を屈めた源一郎が、聴衆に問いかける。
「すぐにはオープンできないとしても、本館の工事が完璧に終わっていたら、どうだ? 明るい話題に飢えているテレビや新聞が、成田開業の話題と抱き合わせで、美しく生まれ変わった本館の客室とかレストランを紹介したがるんじゃないかな~~というより、紹介させるべく、こちらから関係各所に話を持っていけるんじゃないかな?」
「おおっ!」
横浜と鎌倉の総支配人が身を乗り出した。
「とはいえ、『できあがっているけれども、開業は来年の冬になります』じゃ、ちと間が抜けているからさ。本館の飲食関係だけ、成田開業に合わせてオープンさせちゃわないか? せめて、工事の音が立たない夕方からだけでも」
源一郎が貴子に提案する。
レストランだけの先行開業については、要から『問題ないだろう』という返答をもらっている。
2階のフランス料理店は、本館の入り口が面している道路側にしか窓がない。しかも、交通量の多い国道が近くにあるため、もともと防音仕様の工事が行われることになっている。だから、新館の工事の音や振動は、ほとんど気にならないはずだ。屋上近くに作られることになる飲食店にしても、限りなく地表に近いところで行われている基礎工事の影響を受けるとも思えない。特に夜は作業しないので、夕食を食べに来た者たちは、隣が工事現場であることさえ気がつかないかもしれない。
本館の閉鎖時期についても、要は考えてくれた。客室については問題なし。クリスマス・ディナーの予約は、まだ受け付けていない。クリスマスも含め毎年決まった日に来てくれる客については個別対応が可能。2階のフランス料理店については、人手が足りなくなる10月から休ませても問題はないだろう。本館の宴会場を披露宴会場としているもので招待状が既に発送されている結婚披露宴を予定通りに行うことを前提にして考えれば、本館の外観も含めて花嫁花婿と招待客の目に触れる場所には、11月頃まで手を付けない方がいいだろう。
「遅くても12月の中旬には本館を完全に閉鎖することができるのではないかと思います」
「12月1日からで休館で大丈夫だよ。やろうと思えば、もう半月ぐらい早くもできるよ」
結婚式担当の浩平が要にうなずいてみせる。「本館には中規模の宴会場がふたつあるだけだし、12月から真冬にかけては、もともと結婚式の少ないシーズンだから、新館の宴会場だけで充分に回していける。問題になりそうなのは春休み期間だけど、1年前に予約したきりで、こっちから連絡しても何の反応もないところが3件あるから、何とかなる、と、思う。卒業式の後の謝恩会についても、どれも会場は新館だから、これも大丈夫」
「冬樹さんの新しいホテルがオープンした時にうちのお客さまをごっそり持っていかれたとしても、『あの時、休館さえしていなければ……』なんて言い訳だけはしたくないわよねえ」
「サービスの質だったら、茅蜩館が武里に負けることはないよ」
「……ということは、冬樹さんのホテルのオープンまでに本館だけでも開けておいたほうが、うちにとっては有利だな」
ほとんどその気になりかけている貴子の気持ちを、横浜と鎌倉の総支配人が後押しする。
「せっかく冬樹くんが喧嘩を売ってくださったんだ。せいぜい、高値で買ってやろうじゃないか?」
源一郎も、狂暴な笑みを浮かべて貴子と聴衆を焚き付けた。
「あいつが作り上げた不利な状況を、俺たちの力で存分に活かし切ってやろうぜ。俺たちを敵に回したことを後悔させてやるんだ」




