守るべきもの 4
橘乃の姉たちを愛するふたりの男性が、もっぱら彼女たちのために冬樹からの茅蜩館への嫌がらせを野放しにしておくと決めた頃。当の茅蜩館は、来客の対応に追われていた。
もっとも茅蜩館はホテルであるかして、訪れる客が多いのは、当然である。橘乃が聞きかじった限り、武里グループ系列下のホテルセレスティアルが一斉に値下げを敢行した影響は、茅蜩館東京の客足にほとんど影響を与えていない。八重によれば、帝都ホテルが本館を建て直した時や、大阪万国博覧会で客足が全体に西に流れた時のほうが、ずっと危機感があったという。
「第一、秋彦さんは、茅蜩館を潰したくて値下げしたわけじゃないだろうからねえ」
竹里秋彦が宿泊料の値下げに踏み切ったのは、冬樹が起こした誘拐未遂がきっかけで発生したホテルセレスティアルへの風評被害を払しょくするためである。料金を下げない限り人が来ないと判断したからこその値下げだ。影響を受けるのは茅蜩館ではなく、値下げ後のホテルセレスティアルの宿泊料と同等の宿泊料を客からいただいているホテルであろうという要の予測は大当たりしたようで、『○○ホテルや○○結婚式場は、かなり苦労しているらしいよ』と、八重が具体的にホテルや結婚式場の名前を挙げて教えてくれた。
その竹里秋彦であるが、彼は、値下げを決めてまもなく、今回の一連の騒ぎの責任を取らされる形で社長の任を解かれてしまったのだそうだ。閑職に回された秋彦の代わりに武里リゾートの社長からホテルセレスティアルグループへの社長へと昇格したのは、こともあろうに騒ぎの張本人である冬樹だという。
「どうしてそうなっちゃうんですか?」
「こっちが訊きたいぐらいよ」
憤懣やるかたない気持ちを八重に聞いてもらいたくてやってきた輝美が、ふくれっ面で橘乃に言い返す。もっとも、彼女は、誰かにたずねなくても、夫が更迭された本当の理由をわかっていた。
「冬樹のお母さんは、冬樹が大好きすぎるせいで、義理の息子たちが邪魔でしょうがないから」
だからこそ、冬樹の母親は、義理の息子たちを追い払うためであれば息子の不祥事だろうとなんだろうと利用してのけるのだという。とんだ恥知らずだが、有力者の家から嫁いできた彼女は、周りが遠慮していることをいいことにやりたい放題。道理や理屈など、彼女の気持ちひとつでどうにでも曲げられてしまう。今回は前妻の末っ子の秋彦が犠牲になった。次は次男、そして長男と、義理母は着実に邪魔者を片づけていくつもりだろうと、輝美は確信していた。
「でもね。秋彦さんみたいな誠実な人を、あんな無体なやり方で追い出すような会社は、絶対に長生きしないんだから! もうすぐ滅びちゃうんだから!」と涙目で八重に訴える輝美は、橘乃の目にはとても好ましく思えた。冬樹が仕掛けている嫌がらせを苦にして、わざわざ茅蜩館に謝りにきてくれる秋彦も、とても善い人だと橘乃は思う。
秋彦だけではない。今月に入ってから八重を訪ねてくる人は、みんな善い人だ。おかげで、冬樹の嫌がらせが始まって以来、八重の居間を含めたホテルの裏側は、大賑わいである。
9月の初めの頃から増え始めた居間への訪問者は、最初のうちは、茅蜩館の各部署の責任者が多かった。彼らは一様に、自分の配下が急に辞めたがっていることに慌てたり嘆いたりしていた。今月中に辞めるという条件と高額の報酬とを引き換えにした武里の強引な引き抜きに憤っている者も多かった。人は減っても、お客さまに不満を抱かせるようなヘマは絶対にしない。残った者たちで頑張るから、安心してほしい。彼らは自分たちの決意を八重に語っては、仕事に戻っていった。
残されるスタッフの心意気はありがたいが、根性論だけではどうにもならないことがあることも知っている八重は、その日から、退職を希望している人々との面談を始めた。八重との話し合いで辞めることを思いとどまってくれた者もいたし、すでに直属の上司たちに説得されて、辞めないことを八重に報告しにきた者もいた。だが、心変わりをしたのは極々少数だ。いったん辞めると決めた者たちのほどんどの気持ちは変わらないままだった。
「あちらに望まれていくのだし、うちは、そこまでのお手当ては出せないからねえ」
諦め顔の八重に、辞めるのは給料の高さではなく自分の故郷にできたセレスティアルリゾートホテルへの配属を約束してもらったからだと説明した者もいた。「あっちで頑張りたいんです。地元に出来たリゾートを一時的な流行りにしたくないんです」と熱心に語る者は、ひとりやふたりではなかった。故郷に帰ることを希望している者については、八重は快く送り出すことにしたようだった。
人事関係の面接がひと段落すると、今度は、外からの訪問者が増えた。
冬樹は茅蜩館のスタッフのみならず、備品や食材の仕入れ先なども奪おうとしていた。茅蜩館はホテルのランクこそセレスティアルよりも高いが、規模的にはセレスティアルのほうがずっと大きい。『武里と取引する代わりに、茅蜩館との取引を止めろ』と言われれば、茅蜩館を切り捨てるほうが得である。肉や魚、酒や野菜や花といった日々消費されていくものから、食器や紙ナプキン、タオルやシーツといった備品に至るまで、冬樹が徹底的に横槍を入れまくって茅蜩館を干上がらせようとしていると知らされた時、八重も貴子も要も青ざめ、現場のスタッフは、情報の確認と必要によっては新しい取引先を確保するべく走り回ることになった。
なったのだが……
だが、そんな恐ろしげな情報が入ってきてから間もなく、まずは築地の方から、日の明るいうちに一日の仕事を終えた見るからに粋でいなせな男たちが、八重の元にやってきた。
「武里の奴にな、『金輪際、うちの魚は一匹たりとも売らねえ。性根が腐っている奴に新鮮な魚を売ったところで、すぐに傷んじまうからな』って言ってやったぜ」
「うちもだ。『人参の尻尾の切れ端だって売ってやるもんか』って言ってやった。他の奴らにも、声かけておいたから」
魚屋と八百屋――といっても卸売の市場なので街のそれとは違うのだろうが――は、競い合うようにして、『自分たちが、いかにして武里からの横暴な申し入れを退けたか』を自慢げに八重に語って聞かせた。 後からやってきた海苔問屋やら乾物問屋の主人たちも、彼らの話に嬉々として加わった。高い所から見下すようなやり口には徹底抗戦をも辞さない江戸っ子らしい意地の張り合いを、八重はありがたがるやら申し訳なく思うやらであったようだが、貴子は大歓迎していた。貴子に喜ばれた市場のオジサンたちは、ますます気炎を吐いた。どうやら、貴子は彼らにとってのアイドルもしくはマドンナであるらしい。秋彦と謝りにきた後も毎日のように八重に愚痴りにきている輝美によれば、「昔からよ」とのこと。ちなみに輝美も、昔からの彼らの共通の妹のような、マスコットのような存在であったようだ。輝美が暴露した冬樹の悪行の数々は、かつての兄さんたちの正義感と庇護欲を大いに刺激した。秋彦が冬樹から奪われた地位に復帰するまで、冬樹と武里グループは、彼らの憎むべき共通の敵に昇格した。そして、橘乃も、八重と貴子が『《冬樹さんに剣突を喰らわせて》要のお嫁さんになってくれることになった六条さんの娘さん』だと紹介してくれたおかげで、たちまち人気者になってしまった。
また、オジサンたちが居間で盛り上がっている頃に茅蜩館の敷地の隅っこで植栽の手入れを淡々とこなしていた植木屋の親子は、たまたま通りかかった要に、今回から手間賃はいらないと申し出たそうだ。セレスティアルホテルが、彼らに破格の手間賃で仕事を回してくれたからだという。仕事を回す代わりに茅蜩館との取引を止めろとも言われた植木屋親子は、『取引するなということは、金銭のやり取りしなければいいのだ』と解釈することにしたそうだ。武里が茅蜩館の分まで多めに払ってくれるので、両方引き受けてもお釣りくるのだと、彼らは笑っていたという。
「まあ、よかったですね!」
「よかったと言えば、よかったんですが……」
橘乃は喜んだが、なぜか要は浮かない顔をしていた。
翌日になると、茅蜩館との取引を断ってきたはずの洋食器会社の元社長が現社長(つまり、彼の息子である)の耳を引っ張るようにして、わざわざ上京してくれた。
「うちの息子が、本当に申し訳のないことをしでかしまして」
元社長が息子の頭を畳に押さえつけながら、八重に向かって頭を下げた。この会社の製品は国内ではよく知られ、海外でもなかなかの評価を受けているブランドである。
「それもこれも、茅蜩館さんとの息の長いお付き合いがあったからこそなのに」
明治の時代に最初の注文を受けて以来、茅蜩館からの難しい要望に応えるために技術を磨いてきたからこそ良い製品を作り上げることができた。茅蜩館が使い続けてくれたことで、ホテルを訪れる客が自分たちの製品に興味をもってくれた。海外へ輸出へのきっかけとなる人物と引き合わせてくれたのも茅蜩館だったと、元社長が言う。
「そのご恩も忘れ、この馬鹿が目先の利益に目を奪われおって……」
元社長が憎々しげに隣で萎れている息子を睨みつける。父親から散々説教されてきたらしい現社長は、反省しきった様子で茅蜩館との取引継続を申し出てくれた。《おいしい話》を持ち込まれるなり、自慢のワイングラスに入れた水を武里の社員の顔にかけて追い払ったというガラス食器会社の会長も、心配して茅蜩館の様子を見にきてくれた。カトラリーの納入業者も頭を下げにきてくれた。
頭を下げにきたといえば、とある洋酒系の酒造会社の社長の頭の下げっぷりがすごかった。
茅蜩館のバーを仕切っている寡黙な支配人(久助が外でもうけた子供のひとりで輝美の弟である)から問い合わせを受けた社長は、自分の会社の営業担当者が自分の知らないところで茅蜩館との取引を打ち切ろうとしていたことを知って、慌てて飛んできたという。
「良い酒が揃っている茅蜩館のバーから、うちのウィスキーが消えたなんて評判が立ったら、うちは終わりですよ」
茅蜩館のバーは、うちの会社の商品にとって欠くことのできないショーウィンドウのようなものだ。そんなこともわからない営業担当者など会社においておいても害悪にしかならないからクビにすると、社長は息巻いた。担当者だけでは気が済まぬから営業部長も辞めさせるとも言った。「そんなことされたら、それこそ申し訳なくて、こちらの方から、そちらとの取引をご遠慮しなくちゃなりません」と八重に取り成されて、社長はようやく落ち着いた。だが、ただで許してもらうのは気が引けるからと、彼は向こう半年間の自社製品の大幅割引を茅蜩館に約束してくれた。
「なに、ご婚約の祝儀も兼ねてですよ」
橘乃に気持ちのよい笑顔を向けながら、社長が八重の遠慮を退ける。「それから、打算もあります。六条社長への印象も良くしておきたいし、ライバル会社が茅蜩館でのシェアを広げるのも阻止したい」
ちなみに、彼の言うところのライバル会社の営業部隊は、彼が帰ってから数時間後に菓子折りと新商品を携えてやってきた。酒造会社だけではない。それから数日間、茅蜩館への新規参入を狙う業者が引っ切り無しに訪ねてきた。それらの出入りがひと段落すると、今度は、昔茅蜩館で世話になったという料理人や板前が八重の居間に押しかけた。『人手が足りないなら、自分を使ってくれ』と、彼らは口々に言った。独立して店を持つために茅蜩館を離れた彼らの多くが、先日やってきた魚屋や八百屋が集まっている市場を通して食材を仕入れている。肉や魚と一緒に茅蜩館が大変だという噂もを仕入れてしまった彼らは、彼らなりに茅蜩館の役に立ちたいと考えたようだ。
「使ってくれって…… あんたたち、自分の店は、どうするんだい?」
自分の店を持つために茅蜩館を辞めた彼らは、それだけ腕の良い料理人だということだ。繁盛している店も多く、どの店長も暇を持て余しているわけではない。彼らの中には、橘乃の知っている顔もあった。姉の明子の前夫の浮気相手だった女性を、たまたま自分の店のウェイトレスとして雇っていた洋食店の店長だ。彼の店は青山の方にある。当時、浮気相手の行状を探る過程で店に入ったことがある兄と葛笠によれば、料理はとても美味しく、店の中は沢山の客で賑わっていたそうだ。その店長が、八重に向かって、なんのためらいもなく「休みます」と宣言する。
「茅蜩館の危機に、俺が何もしないなんて、ありえないですよ」
茅蜩館の危機は、自分が敬愛してやまない師匠(茅蜩館の洋食レストランのコック長のことであるらしい)の危機である。だからこそ、自分が手伝わなくてはならないのだと、店長は力説した。話の中で彼は「恩返しをしたいのだ」と繰り返した。10代の頃、早々に人生に見切りをつけて手の付けられない不良になっていた彼を、どういう酔狂だか拾い上げて一人前にしてくれたのが、茅蜩館のコック長と八重だったと彼は言う。そして、そういう人間は、彼ひとりではないようだった。
「気持ちは嬉しいよ。でもねえ」
『どうする?』と、問いかけるように、八重が要と貴子に視線を向けた。あらかじめ話し合ったことがあったのか、要と貴子は顔を見合わせると神妙な表情を浮かべてうなずき合った。八重に向かって先に口を開いたのは、要だった。
「こうなった以上、休ませたほうがいいと思います」
ただし、休むのは茅蜩館の方だと言った途端、居間に押しかけた店長たちから一斉に抗議の声が上がった。八重だけは、要が言いそうなことを察していたらしく、さしたる動揺も見せずに茶をすすっている。
「お気持ちは嬉しいです! でも、冷静になってください。うちの建て替えが始まるまで、まだ半年以上あるんです」
立ち上がった要が声を張り上げた。
「冬樹さんはかなりの粘着気質ですから、嫌がらせは、その頃まで続く可能性があります。そんなに長い間、大事な自分の店とお客さまたちを放っぽって、うちを助けてくれるつもりですか? あなたたちにとって、自分の店は、そんなに軽い存在じゃないでしょう?」
ひとりひとりの顔を見るようにしながら、要がたずねると、店長たちは、不満げな顔をしながらも、それなりにおとなしくなった。
「それに、足りないのは、料理をする人だけじゃないんです。ウェイターも部屋係もルームサービスも電話の交換手も、誰も彼も足りないんです。臨時で誰かを雇うにせよ手伝ってもらうにせよ、限界があると思うんです。新しく入ってきてくれた人に教えると言っても、ここのやり方に慣れるまでに時間がかかると思うんです」
「要するに、『茅蜩館は、助っ人や臨時で雇った新人だらけで回せるほど安い商売しているの? 違うでしょう?』……ってことよ」
貴子が、要が言わんとしたことを簡潔にまとめた。
冬樹の嫌がらせは誠に腹立たしい。だけども、ここで下手に無理をして提供するサービスの質が落ちることがあれば、かえって客が遠のくかもしれない。貴子たちは、それを心配していた。一度落ちた評判を取り返す困難に比べたら、冬樹の圧力に屈した方がまだましだと貴子は言い切った。
「休みといっても、もちろん、全部じゃないわよ。客室のうち別館の2フロアを閉鎖して、宴会等の予約の受け付けを縮小しようと思っています。ずっと前から入っている結婚式の予約とかは、もう動かせないから、そっちを優先する形で、レストランを和風と洋風それぞれ一か所ずつ減らせば、なんとかなるんじゃないか……って思うのよ、ね?」
貴子が確認を取るように要を振り仰いだ。シェフたちや主要部署のスタッフとは既に話合ったと要が説明し、「それでも手が足りない時には、お力をお借りすることもあるかもしれません。その時には、よろしくお願いします」と、貴子共々集まった店長たちに頭を下げた。横浜と鎌倉の総支配人には八重の許しを得しだい知らせるつもりだが、彼らも反対はしないだろうと、貴子が言った。
「うちとの取引を優先してくださった方にも、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないしねえ」
話がまとまりかけた頃合いを見計らって、八重が自分の意向らしきものを述べる。茅蜩館が痛手をこうむっていると分かれば、冬樹も少しは溜飲が下がることだろう。そうすれば、茅蜩館と武里の板挟みになって困っている人々を更に困らせるような真似はするまい。
「長い付き合いがある人たちだからこそ、甘えきってしまうわけにはいかないからね」
「じゃあ、決まりね?」
八重の意向を確認した貴子が居合わせた人々に向かって宣言する。
「9月末をもって、茅蜩館東京は大幅に業務を縮小します」
茅蜩館ホテル東京総支配人としての貴子の決定だった。




