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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
61/86

遠い約束 10

 逸子が久志の死に関わってるのではないか? 

 要がそう考えるようになったのは、彼女のことを橘乃に話していた時に感じた違和感のせいだった。

 

 逸子は、かなり若い頃から弟の久助……すなわち久志の父親よりも自分のほうがよほど茅蜩館の跡取りに相応しいと思っていたようだ。

 しかしながら、彼女の両親は、跡を継ぐのは久助かその息子と頑なに決めていたので、弟の代わりに彼女を茅蜩館のオーナーにしようとか、彼女に婿を取って茅蜩館を継がせようと言い出してはくれなかった。それどころか、息子を勘当し孫を跡取りと定めた時点で、父親は、逸子を厄介払いするかのように、鎌倉でホテル業を営む分家筋に嫁がせた。後の茅蜩館ホテル鎌倉である。


 不満を抱えたまま鎌倉の茅蜩館の女主人として働き始めた逸子だが、いかんせん、鎌倉のホテルは東京のそれに比べると規模が小さく、周囲からも注目されることが少なかった。一度は納得して嫁いだものの、彼女の心の中に少しずつ溜まっていった鬱屈は、久志が20代の若さでホテルを継いだことをきっかけに表面化する。『若い久志に茅蜩館の本城ともいえる東京のホテルを任せっぱなしにしておくのは不安だ』と、逸子が頻繁に東京に通うようになったのだ。


 逸子のその《親切》は、始めの頃こそ、久志にとってもありがたいものだったようだ。だが、久志が経験を積み、茅蜩館のオーナーとしても総支配人としても高い評価を得るようになると、逸子の親切は、もはやいらぬお世話でしかない。それでも、久志も八重も、逸子の親切心を無下にすることはしなかった。『逸子さんは、いつになったら、私を大人として認めてくれるんだろうねえ』とボヤキながらも、久志は常に逸子を立てていたという。


 だからこそ、跡継ぎを残さぬまま久志が亡くなった時に、彼女は次こそは自分の番だと勘違いしてしまったのかもしれない。しかしながら、事態は、またしても彼女の思惑通りにはならなかった。親族たちが、偽りの久志の隠し子を仕立て上げて、相続の権利を主張し始めたからだ。


 自分のこれまでの働きを完全に無視され、始めからそこにいないかのように扱われたことでプライドを著しく傷つけられた逸子は、その頃から情緒不安定になっていった。彼女の症状は年々悪化し、病んだ心は彼女の記憶や認識を狂わせた。 


 いつの頃からか、逸子は、要のことをボタンの子供だと思い込むようになった。逸子はボタンが大嫌いだった。理由は明確。茅蜩館で働くようになる以前のボタンが、占領軍相手に体を売る商売をしていたからだ。逸子は、久志がボタンに騙されていると信じていた。『あのふしだらな女は、久志を色香で騙して茅蜩館のオーナー夫人になろうとしている。そんなことは私が絶対に許さない』と、彼女は公言していた。それほどに嫌っていたから、ボタンの子供だと誤認している要のことも、逸子は当然のように嫌っている。


「僕は、今まで当たり前のように、この話を事実として受け入れていました。でも、よくよく思い出してみると、腑に落ちない点が幾つも出てくるんです」


 まず、要は、『自分こそが茅蜩館の跡取りに相応しい』と考えていた逸子を知らない。

「人から話を聞いただけで『知っている』と思い込んでいることばかりだったんです。例えば、僕が噂で聞いていたように、もしも、逸子さんが『自分が跡取りになるべきだ』と考えていたならば、久志さんが亡くなってすぐの頃にも、そういった言動をしていたはずだと思うんです。でも、僕には覚えがないんですよ」

 もっとも、要は久志の葬式その他が終わってから茅蜩館に入ったので、彼が知らないだけかもしれない。そう考えた要は、それとなく当時を知る者たちにそれとなく確認してみた。だが、久志の葬儀の場などで、逸子が次期オーナーの座を狙うような発言をするようなことはなかったという。誰もが、現在の逸子の病状と久志が亡くなるまでの彼女の態度から、『彼女が、そういう不満を抱えていたに違いない』と、勝手に推測していただけだったのだ。


「それに、そこまでボタンのことを嫌っていた女性であったなら、素性の知れない僕たちが久志さんの隠し子として茅蜩館に連れて来られた時にも大騒ぎしていないとおかしいですよね? 少なくとも、逸子さん以外の人は、それぞれの立場から僕たちを家に入れることに反対しました」

 当時の反対者の顔ぶれを、要は、なんとなくではあるが覚えている。今と前の横浜の総支配人もいたし、逸子の夫であった前の鎌倉の総支配人もいた。逸子の従妹に当たる女性もいた。だけども、その群れの中に、逸子の顔があった記憶がない。


「本当に覚えていないんです。でも、最初に彼女が僕をボタンの息子だと言い出した時のことは思い出したんです」


 それは、彼が小学生の高学年の時だった。 

「あの時、僕は、確かに『この人誰だろう?』と思ったんです」

 昔の逸子は、要にとって、それほど印象の薄い女性だったようなのだ。


「逸子さんの印象が薄い……とな?」

 源一郎が、ありえないものでも見るような目でこちらに顔を向ける。

「はあ。でも、実際は全然違っていましたね」

 それから数年後に逸子が実際に要に突っかかってくるようになってから、彼の記憶は自身の経験と多くの証言者によって正しく上書きされることになった。印象が薄いなんてとんでもない。今も昔も、病んでいようとなかろうと、彼女は自己主張の塊だった。


「でも、その強烈な個性をお持ちの逸子さんが、久志さんが亡くなった途端に、僕が覚えていられなくなるほど東京の茅蜩館に寄り付かなくなったんです」

 茅蜩館ホテル東京の屋台骨ともいえる久志が亡くなったのだ。久志よりも頼りない八重や要たちしか残っていないのだから、それまで以上に逸子が口を出してもよさそうなものである。だが、どういうわけだが、久志の死の直後から、彼女は東京から遠ざかった。にわかに寄り付きたくない理由でもできたのだろうか? 久志が亡くなるまでは足繁く通っていたというのに、急に来なくなるだなんて、おかしいではないか?


 おかしいといえば、要をボタンの息子だど彼女が思い込んでいることからして、変だ。


 茅蜩館に連れて来られた時の要は5歳だった。要が孤児であることも、ボタンが茅蜩館で勤め始めると同時に久志と男女の関係を持たない限り要が彼女から生まれようがないことも、皆が承知していた。要がボタンを母とする久志の隠し子でないことを、逸子も知っていたはずなのだ。たとえ、逸子が心を病んでいたとしても、『違う』とわかり切っていることを核にして妄想を膨らませることなどできるのだろうか?

「だけども、逸子さんがボタンの妊娠を知っていたのであれば話は違ってくるかなと思ったんです」

 久志とボタンの間に生まれた子供の橘乃と、久志とボタンが子供のように可愛がっていた要。両者に共通する『久志とボタンの子』という言葉を軸にして認識が混線した結果、逸子が『要が、ボタンと久志の子』だと思い違いするようになったと考えたほうが、理屈が通るのではなかろうか?


「だけど……」

「そうだな。そんなふうに考えていくと、おまえとしては、八重さんや貴子が知らないボタンの妊娠を、逸子さんだけが『いつ?』『どうやって?』知ったのかということが気になってくるよな?」 

「ええ。もちろん、僕が今話していることは想像でしかないので、全然見当違いなのかもしれないんですけど……」


「久志は、知っていたよ」

 だしぬけに源一郎が言った。

「失踪していたボタンを、俺が見つけた。茅蜩館には戻らないと言い張ったので、ひとまず綾女の家に連れて行った」

 夫婦仲がよろしくなかったと噂されている本妻がいた自宅ではなく、紫乃の母親の家に連れて行くところが源一郎らしい。


「それほど腹は目立ってなかったと思うが、綾女は、ボタンが身籠っていることにすぐに気がついたな。電話で久志を呼びつけた時に、そのことを話したどうかは、残念ながらはっきり覚えていない。ともあれ、久志は、すぐに飛んできて、あらためてボタンに結婚を申し込んだ」


 『生まれてくる子と一緒に、幸せになろう。要も引き取って、4人で家族になろう』と、久志は熱心にボタンを口説いたらしい。


「僕……も?」

「そう、おまえ一緒にだ。もっとも、要をダシにして、頑固なボタンに『うん』と言わせようとしたムキもないではないんだが……」

 唖然とする要に、源一郎が申し訳なさそうな苦笑を向ける。『気にしないでください』というように、要も苦笑を返した。


「それでも、ボタンは承知してくれなくてな」

 だから久志は、一度茅蜩館に戻ることにした。帰り際、彼は八重たちにボタンが見つかったことを告げ、ボタンの結婚に反対する親戚たちを片っ端から説得するつもりだと意気込んでいたそうだ。


「そして、それきりだ。久志は帰ってこなかった。八重さんも貴子も、ボタンが見つかったことさえ知らない」

 源一郎が唇を噛む。 

「ここからは、俺の想像だ。夜中に茅蜩館に戻った久志が最初に出会ったのが逸子さんだったんじゃないかと、俺は思っている。彼女は、俺から呼び出された久志が仕事を放りだして出かけたことに腹を立てて、説教するつもりだったのかもしれないな。あるいは、俺が久志に連絡を入れた時に偶々居合わせ、久志を問い詰めようと帰りを待っていたのかもしれない。ともあれ、久志は、あのオバサンさえ説得できれば、他の親戚を説得することは容易いだろうと考えた。だけども、久志がボタンとの結婚の意志を固めたこと、そしてボタンが妊娠していることを知った逸子さんは怒り狂った。ふたりは言い争いになり、なにかの弾みで逸子さんが久志を階段から突き落としてしまった」


 久志を殺してしまったことに怯えた逸子は鎌倉に逃げ帰った。久志の死は事故死とされたため、彼女が捕まることはなかったが、だからといって、彼女の罪が帳消しになるわけではない。彼女は怯え、自分と久志の死を結び付けられることを恐れて、鎌倉に引きこもった。だが、他人が久志殺しの犯人を見つけられなくても、逸子だけは、誰が久志を死に至らしめたか知っている。 


「逸子さんは、久志を死なせてしまった後悔やら罪悪感に押しつぶされて心を壊したんじゃないかな。 記憶と一緒に自分を壊して自分の罪から……現実から逃げ出したんだ。それでも、壊れたはずの心や記憶が、何かの拍子に戻ることもある。なあ? 久志の13回忌の時、逸子さんがおまえに襲い掛かってきたことがあっただろう。覚えているか?」

「ええ」

 要は、高校生だった。久志の友人だった源一郎も、列席していた。その日の法事のスケジュールが全て終了した頃、正気を失っているとしか思えない様相の逸子が、何かを叫びながら要に掴み掛かってきた。

「そういえば、あそこって……」

「そうだ。久志が落とされた所だった」

 東京の茅蜩館ホテルの本館ロビーのメイン階段である。


 襲い掛かられてバランスを崩しかけた要を受け止めてくれたのは、今の鎌倉の総支配人だった。他の親戚の男性たちも、老年の女性とは思えない勢いで暴れる逸子を要から引きはがしてくれた。あの時の要は、乱暴されたことに呆然としながらも普段自分を邪険にしている親戚たちが彼を守ってくれたことに奇妙な感動を覚えていた。

「あの時、逸子さんが、何て言いながらおまえに近づいてきたか、覚えているか?」

「いつもどおりだったと思います。『パンパンの息子に茅蜩館はやらない』とかなんとか……」

「いいや、あの時の彼女は、こう言ったんだ。『パンパンとの結婚なんて、絶対に許すもんですか。お腹に子供がいる? それがなんだっていうの?!』」

「それは……」

 それは、ボタンとの結婚を望んでいることや彼女のお腹に子供がいることを久志から打ち明けられた逸子が、いかにも久志に言い返しそうな台詞だった。


「あの時の逸子さんは、いつものように要と久志さんとボタンの息子だと思い込んでいたんじゃない。彼女は、成長したおまえの姿を久志に重ねていたんだ。その久志の幻に向かって、『ボタンが久志の子供を身ごもっていようとも、ふたりの結婚は許さない』と言ったんだ」 

 そして、そのことに気がついたのは源一郎だけではなかったらしい。 

「たぶん、鎌倉の総支配人……逸子さんの息子も気が付いただろうな。もっとも、あの人は、それ以前から薄々気がついていたかもしれない」

「そうかもしれませんね」

 言われてみれば、鎌倉の総支配人は、あの日を境に病気を理由にして逸子を表に出さなくなった。彼が相続争いにから一歩引いて部外者のような態度をとるようになったのも、要に対して優しくなったような気がし始めたのも、そういえば、この頃からだ。自分の母親が彼女にとって孫世代にあたる要に襲い掛かったことを恥ずかしく思っているのかもしれないと、要はなんとなく思っていたのだが、あの時から鎌倉の総支配人は心中にもっと複雑なものを抱え込むことになってしまったのかもしれない。


「まあ、今言ったことは、状況証拠みたいなものばかりだ。逸子さんを殺人犯と決めつけるだけの決定的な証拠にはなりえない。それに、なんといっても、今の逸子さんでは、本人が自白したところで、その証言に信憑性がない。だから、こちらからは手の出しようがない」

「そうですね。時効も過ぎてますし」

 今となっては、逸子を殺人犯として警察に突き出すこともできない。


「そういうことだ。着いたぞ」

 話が一段落するタイミングに合せるように、車が停止した。



 ***



 ふたりが車を降りた場所は、住宅街だった。だいぶ日暮れているので、細かいところまでは見えないが、見通しの良い緩やかな坂道に沿って並んでいる家々は、建売住宅が行儀よく並ぶ都心の新興住宅地に比べると、隣り合う家同士の間隔がゆったりとしている。要たちがこれから訪ねようとしている家にしても、都心に近い場所にある家にしては大きく、庭も広くとってあった。しかしながら、六條家や中村家ほどの大邸宅というわけでもない。そこそこ大きな会社の経営者かそれに準ずるような立場にある者の住居といったところだろうと、職業病ともいえる悪い癖で要は家主を値踏みした。


「でも、ここは……?」

 どうして源一郎は自分をここに連れてきたのだろうと、要が不審に思っていると、呼び鈴の音に応じてひとりの女性が家から出てきた。 


 じじら織風のモノトーンのワンピースに淡水真珠のネックレス。20余年会わなかったはずなのに、レースとフリルだらけという印象をきれいさっぱり取り払ったボタンは、呆れるほど変わっていなかった。たが、たった一か所だけ、昔に比べて大きく違っているところがある。


「どうして、そんな髪型にしたの? まっすぐで綺麗だったのに」

 何を言おうか散々悩んでいたくせに、やっと出会えたボタンに向かって要が最初に言った台詞が、それだった。間の抜けた台詞に、緊張で強張っていたボタンの顔も和んだ。

「だって、姉妹の中で橘乃だけが真っ直ぐな髪じゃなかったんだもの。自分だけ仲間外れだって思わせたくなかったのよ」

「橘乃さんが、自分の出生に疑問を持ったら困るから?」

 来訪者を案内して家に向かうボタンの背中を、要が追いかける。


「橘乃さんの本当のお父さんが、総支配人だって知られたら困るから? あんな派手な恰好までして? 引きこもりを理由にして世間から逃げまくって? 娘に嘘ついて? そこまで、隠さなくちゃいけないなら、どうして――」

「『どうして、橘乃を産んだのか?』って訊きたいの? それとも、『どうして橘乃を身ごもったのか?』って訊きたいの? 『なんで、そんな無責任なことしたんだ?』って、そう言いたいの?」

 振り返ったボタンが要を見上げた。別れた時は、要が彼女を見上げていたのに、今は彼のほうがずっと背が高い。

 

「それは、あの人が好きだったからよ。あの人と一回セックスしたぐらいで子供なんかできるわけないって、私がどこかで安心していたからよ。だって、それまで誰と何回やっても、妊娠なんかしなかったんだもの! それが、一回きりでいきなり妊娠するなんて思うわけがないじゃない。そうよ! パンパンだった時の私は、誰彼かまわず何回だってやったわよ! 罪悪感なんてなかった。逸子さんが蔑まずにはいられないような、そういうフシダラな女だったのよ、私は! 逸子さんが反対しなくたって、立派な久志さんのお嫁さんなんかになれるわけないの! 格式ある茅蜩館に傷をつけるわけにはいかなかったのよ! だから、逃げたの! 二度目のプロポーズだって、断った! それなのに…… そのせいで、久志さんが死んじゃった! 全部あたしのせい! 逸子さんじゃない! あたしが久志さんを殺したようなものなのよ!」

 ボタンが、堰を切ったように、自分を罵り始めた。それは、要がボタンに言いかけた言葉よりも遥かに辛辣で、容赦がなかった。彼女はきっと、ずっと、こんなふうに自分を責め続けてきたのだろう。誰が発するよりも厳しい言葉で、自分を傷つけてきたのだ。そう思った途端、感情的になりかけていた要の心は凪いだ。だが、冷静になったからこそ、聞き捨てにできないこともある。


「『なんで橘乃さんを産んだりしたんだ?』って僕が思っていると思われているなら、かなり心外なんだけど」

「要?」

「そんなことを言いたかったんじゃないよ。違う」

 涙目のボタンを見下ろしつつ、要は、ゆっくりと首を振った。

「ボタンが総支配人のことをどう思っていたかは、僕が一番よく知っているよ」


 ふたりが周囲の目を気にせずにいられた場所に、幼かった要だけが居合わせた。ふたりが本当に好き合っていたことを、要は知っている。だから、要は、久志への想いを遂げたボタンが橘乃を身ごもったことを非難するつもりは毛頭ない。愛し合っていたふたりが当たり前のことをした結果だとしか思っていない。

「僕が赦せないのは――― ボタンの言い分はわかったし、あなたの立場だったら、そういう選択をしてもしかたがないと思うけれども ―――ボタンが総支配人から逃げたことだよ」

 ボタンがどんなに過去の自分の職業を許せなかったにせよ、久志のことをもっと信じてあげればよかったのに……と要は思う。久志ならば、どんな困難だって乗り越えただろう。ボタンのことも産まれてきた橘乃のことも、絶対に幸せにしてくれたはずだ。 


「でもね。それ以上に許せないのは、ボタンが橘乃さんと一緒に死のうとしたことだよ」

 橘乃は、これから要と家族となる大切な人だ。 

 育ての祖母とか、戸籍上の家族とか、苗字が違う弟たちとか、仲は良いけれども歪な家族関係の中で暮らしてきた要が初めて持つことができる家族だ。それほどに希少な人を、どうして『生まれなければよかったのに』と思えようか?


「橘乃さんは、『僕がいい』って言ってくれたんだ。彼女は、あなたと僕とが実は知り合いだったことも、自分が久志さんの娘さんであることも知らない。それでも、彼女は、僕を選んでくれたんだ。僕は、それが嬉しかった」

 要は、他人から向けられる好意に対して臆病なところがある。だから、これらのことを橘乃が事前に知っていたら、彼女が自分に向けてくれる想いを一生疑うことになってしまったかもしれない。それでは、橘乃に失礼だ。


「だから、本音を言えば、橘乃さんが何も知らなかったことにホッとしていたりもするんだ。だけどね、すごく怒ってもいるんだよ」

 要はボタンに対して、厳しい顔をしてみせた。

「お祖母さま……八重さんだって貴子さんだって、ずっと、あなたのことを心配していた」

 妊娠のことはともかく、ボタンが久志から離れて行った理由に心当たりがあったからこそ、八重も貴子もボタンを見つけられなかったことに……否、気合を入れて探そうとしなかったことに罪悪感を覚えていたし、自分たちがボタンを追い出したようにも感じていたようだ。その反面、彼女たちはボタンのことが好きで、心からボタンの身を案じていた。身元不明の女性の死亡記事を新聞で見つけ、『ボタンではないか』と心配した八重が警察に照会したことも一度や二度のことではない。

「みんな心配していたんだ。お祖母さまや貴子さんだけじゃなくて、増井さんや三上さんや小菅さんも。 僕だって――」

 要の声が、おかしな具合にひしゃげた。まるで喉の奥にひっかかっているかのように、声が出てこない。

「――もしかしたら、ボタンは、もう死んじゃってるんじゃないかって…… ま、待ってても、無駄なんじゃないかって……とっくに死んでしまったんじゃないかって……」

 それでも、ずっと、ずっと、彼は待っていた。茅蜩館にいれば、いつかボタンがひょっこり戻ってくるかもしれない。一生懸命働いたご褒美にと、いつか、神さまのような存在が要をボタンに会わせてくれるかもしれない。そんな子供っぽい望みにすがりながら頑張っていた時期だってあった。


「ずっと、そう思ってて…… ずっと待って…… それなのにボタンは来ないし、橘乃さんまで道連れにしようとして……」

 死んだ久志を追って、ボタンだけでなく橘乃までもが、要をおいて逝こうとした。もしかしたら、橘乃にさえ会えなくなるところだった。要は、本当に独りぼっちにされるところだったのだ。

「ひどいよ。ボタン」

 冷静になれたと思ったのは、完全に要の勘違いだったようだ。しゃくりあげている自分が情けなくて、要はボタンから顔を背けるように、うつむいた。

「うん。ひどかったね。ごめん」

 要の頭をボタンが両手で引き寄せた。いい大人が、まるで子供みたいに慰められている様子は見られたものではなかっただろうが、要は彼女の手をふりほどけなかった。


「ごめんね、要。私、要に一番ひどい事をしたね」

「……。もう、いい」

 ボタンに頭を撫でられながら、要はゆっくりと首を振った。

「生きていてくれたから。だから、もういいよ」

 20年以上かかったけれども、彼女は戻ってきてくれた。久志と……彼の忘れ形見の橘乃と一緒に、要に会いにきてくれた。要が予想していた再会の形とはだいぶ違っていたけれども、約束は果たされた。


 だからもう、ボタンが彼に詫びる必要もない。



「あー…… おふたりさん。そろそろ、中に入らないか?」

 ふたりの横で所在なさげにしていた源一郎が、玄関のほうからこちらを伺っている人影を気にしながら声をかけた。かなり年配の男性のようである。

「そうね。行きましょうか?」

「うん」

 ふたりは照れくさそうに顔を見合わせて笑い合うと、家の中に入って行った。



 



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