六条さまの持参金 5
同じ頃。
「あれ? ばあちゃんは?」
「もしかして、出掛けている?」
「うん。今、新館のラウンジに行ってる」
不在の主を捜すようにキョロキョロしながら八重の居間に上がり込んできた浩平と隆文に、要は答えていた。
橘乃から言付かった誕生日の祝いの言葉を要が伝えるやいなや、「お礼を言わねば」と言いながら八重がいそいそと出かけてしまったのは、今から30分ほど前のことであった。六条親子であれば1階のティーラウンジで見つけられるだろうし、八重のことだから相手に邪魔に思われない程度に話をして戻ってくるだけだろう。途中で寄り道したとしても、彼女が何時間も戻ってこないということはないはずである。
「そろそろ戻ってくると思うから、準備だけしておこうか?」
年齢的に兄貴分である要の提案に、浩平と隆文がうなずく。
3人は、要が買ってきた羊羹を切らないまま皿に乗せると、額を寄せあうようにして羊羹の飾り付けを始めた。まずは、隆文によって、羊羹の上面に小さなキャンドルが等間隔に差し込まれていく。彼が持ってきたキャンドルの数は、7本。祖母の年齢が年齢なので、1の位は端折って10位の数の分だけの灯を灯す事にしている。
「ほとんど80歳なんだから、8本のほうがよかったかな?」
「79歳なんだから7本でいいんだよ。8本は失礼だ」
「そうそう。女性の歳なんだから、基本的に1の位を切捨てていいんだよ」
要は直方体の羊羹の側面下部に金平糖を行儀よく並べながら、浩平は表面が7色にコーティングされたマーブルチョコレートを上面に敷き詰めながら、女心の機微に疎い隆文に教えてやる。
祖母の誕生日を祝うために自分たちで用意した羊羹に飾りつけをほどこすことは、要たちが幼い頃に始めて、いまだにやめられずにいる慣例だった。子供の頃の彼らの小遣いで買えた羊羹は、スーパーのパン売場の近くに置いてあるような手頃な値段のものがせいぜいだったが、今の彼らの目の前にあるのは、日本橋《初音や》謹製の最高級の練り羊羹である。
「《初音や》の職人さんたち、僕たちが羊羹にこんなことしているって知ったら、きっと泣くよね」
「そうだな」
口では浩平に同意しつつも、要は、黙々と金平糖を並べ続けた。「《初音や》さんには申し訳ないけど、僕は、お祖母ちゃんの喜ぶ顔のほうが大事だよ」という隆文と同じ気持ちだからだ。浩平にしても、しおらしいことを言っているわりには、上品に黒光りする羊羹の上にピンクや水色に着色された小粒のチョコレートを並べる手を休めようとしない。
まもなく出来上がった誕生日ケーキもどきは、子供の工作の域は出ないものの、それなりに美しいと言えないこともないものに仕上がった。「よし完成」と、浩一が嬉しそうな笑顔で作業の終了を宣言すると同時に、祖母の八重が戻ってくる気配がした。すぐさま隆文がカーテンを引くために立ち上がり、要が7本のキャンドルに火をつけた。浩平が、飾り付けにつかったチョコの空き箱や羊羹の包みを片づけつつ、「せーのっ!」と音頭を取る。
「ハッピーバースディートゥーユー ハッピーバースディートゥーユー 」
「まあまあ、ありがとうね」
孫たちの歌声を聞きつけた八重が、はしゃいだ声を上げながら、こちらに近づいてくる。急ぎ足になっている八重がつまずかないようと、隆文が彼女に手を貸すために、いったん居間を出た。隆文に手を添えられた八重が座卓の前に腰を落ち着けローソクを吹き消すまで、3人は同じメロディーを3回繰り返して歌った。
「今年も、面白いもんができたねえ」
八重が彼らの力作を笑いながら褒めそやした後、羊羹はきっちり5等分された。そのうちのひと皿を仏壇に手向けてから、食べ始める。チョコと金平糖を一緒に口に入れなければ、《初音や》の羊羹は絶品だった。
「それより、おばあちゃん。 要が帰ってきたんだから」
口の中に入れるつもりで投げたにも関わらず、メガネにぶつかったせいで、あらぬ方向に飛んでいったチョコを追いかけながら、隆文が八重をせっついた。
「ああ、そうだね」
「なに?」
「新しい新館の完成予定図だよ。要が研修から帰ってきて、3人揃ってからでないと見せられないって、ばあちゃんが頑固でさ」
口いっぱいの金平糖をガリガリと噛み砕きながら浩平が要に説明した。
「僕を待たなくてもよかったのに」
「そういうわけにはいかないよ。それに、六条さんの予定がずれて、持ってきてくださるのが今日になってしまったから、どちらにしても見せようがなかったんだけどね」
座卓の下から大型の封筒を引っ張り出しながら、八重が笑う。
「内容的には、前から話していたとおり、特に変わったところはないよ」と祖母は言ったが、今まで言葉のやりとりだけで作られてきた計画の完成予想を頭で想像するのと、計画に基づいて描き起こした完成予想図を見るのとでは、全く違っていた。
「これが外観。こっちがツインの客室で、こっちがジュニアスイート。それでもって、こっちが新設される2階のレストラン」
「おおっ!」「すごい」
次々に示される完成予想図に、祖母の周りに群がった3人が歓声をあげた。「まるで、よそのホテルみたいだ」と、浩平が口走るほど、イラストで示された新しい建物は新しく、整然とした美しさを有していた。改装に改装を重ねた新館のように客室の窓が中途半端な位置についているということもなければ、客室の中が奇妙に曲がりくねっているということもない。ほふく前進しなければ…… あるいは梯子の上で飛び上がらなければ手が届かないリネン収納庫なんてものも、イラストを見る限り存在しないようである。イラストの中の新しいホテルは、なにもかもが、客にとっても従業員にとっても、実に機能的で理に適った造りになっているようだ。
だけども、この新しい建物が茅蜩館らしくないかといえば、そんなことはなかった。六条建設は、最近の新しいホテルにありがちな、訪れる者に豪華さを見せ付けるようなけばけばしい演出や、流行の最先端を先取りするような奇抜な内装を極力控えてくれていた。あくまでも気品高く、そして、そして滞在する者に最大限の居心地の良さを提供することをコンセプトの中心に据えた部屋づくりは、長年このホテルの客として関わってきてくれた六条源一郎が率いる会社だからこその提案であるように、要には思えた。
彼はまた、ホテルの安全面や防災面についても、念入りに考えてくれていた。建材のみならず、カーペットやカーテン、壁紙なども、今ある中では最も火災に強いものを入れてくれるつもりでいるらしい。それらは、ここのところ各業界から注目されている素材メーカーである喜多嶋ケミカルが開発した、新製品なのだそうだ。
「喜多嶋って、六条さんの2番目の娘さんの嫁ぎ先だよね?」
「うん。次女の明子さん。そのうえ、長女の紫乃さんは、中村物産グループを有する旧中村財閥本家の御曹司の奥さんだっていうんだから、すごいよね。六条さんのことだから、他の娘さんたちも、きっとすごいところに嫁がせるんだろうな」
隆文と浩平が、羊羹を咀嚼しながら他人事のような顔で話し始める。ついさっきまで当の六条家の未婚の3女と話していた要は、なんとも複雑な気分になった。あの陽気で人を疑うことを全く知らなそうな橘乃嬢に大家の奥さまが務まるのだろうか? 一族間での力関係や、将来残されるであろう財産を巡る争いの中で、彼女が今の彼女らしさを失っていくとしたら、とても寂しいことである。
(なんて、余計なお世話だな)
要は首を振ると、感傷的な気分から完全に抜け出すために、「ところで、費用のことですが」と、極めて現実的な話題に話を転じた。
「それなら大丈夫……なんだけどね」
「3人に、聞いてほしいことがあるんだよ」と八重が顔つきを改めた。なにやら大切な話を聞かされることになるらしいと、3人の孫は、背筋を伸ばして祖母に向き直った。
「なんどか話したことがあったと思うんだけどね。これから取り壊すことになる今の新館ね。あれを建てる時に、桐生さまには、お礼の言いようもないほどお世話になったんだよ」
「桐生さんって、六条さまの本妻さんのお父さんだよね?」
隆文が確認し、他の3人がうなずいた。
「確か、建築の許可を取るのに奔走してくださったんでしたよね?」
「それだけじゃないんだよ」
工事のための建材や機材の調達してくれたのも、人足を掻き集めてくれたのも、建築資金を立て替えてくれたのも桐生喬久だったと祖母が言う。
「へえ。 至れり尽くせりだったんだね」
「というより、桐生さんが建ててくれたようなものじゃん」
「そうなんだよ」
茶で口を湿らせると、祖母が深くうなずいた。
「なにからなにまで世話になっちまった。でも、桐生さまは、『ホテルを必要としているのは、結局のところ僕たちだから』と笑ってらした。だから、長い間気がつけなかった」
「何に、ですか?」
後悔を顔ににじませる八重に、梅宮がたずねる。
「あの新館が、私らが建設費として桐生さまにお返しした額の、おそらく10倍以上はかかっているってことにさ」
「じゅ…… 10倍っ?!」
「そうなんだよ」
羊羹を喉に引っ掛けたような顔をしている3人の孫に、八重がゆっくりとうなずく。
「あの新館、そんなに安く売ってもらったの?」
「工事費を前払いで持ち逃げされたとか? 六条さんが建築会社を持ったのは桐生さんが亡くなった後だから、新館を建てたのは別の会社だよね?」
「10倍もの金、どこにかかったっていうんですか?」
最初のショックから立ち直るやいなや、孫たちが一斉に八重に質問をぶつけた。
「いいや。当時としては、妥当な値段だったと思うよ」
3人の中では一番年下の浩平に、八重がまず答えてやる。彼女は、3人に向けて新しいホテルの完成予想イラストを示すと、「当時とは物価が違うけど、この建物の建設費として六条さんが提示してきた金額に対して、あんたたちが感じているのと同じぐらいだったと思ってもらえればいいかね」と言った。
つまり、茅蜩館ホテルにしてみれば相当高い買い物であったのだと、要は理解した。
ついで、八重は、黒縁眼鏡の奥の目を神経質そうに瞬いている隆文に、「桐生さんが詐欺にあうなんてありえないよ」と返答しながら微笑みかけた。
「詐欺っていうのはさ、相手の行動が読めないとできない犯罪じゃないか」
しかしながら、変人で知られた桐生喬久の行動は、常に予測不能。ゆえに、あの男に詐欺をしかけようと考えること自体馬鹿げているし、そんな馬鹿が考えた姑息な罠に、頭だけは良かった桐生氏が引っかかるわけがない。よって、彼が詐欺に合うわけがないと、祖母は断言した。
「じゃあ、いったい……」
「あの頃は、なにもかも不足していたからね」
八重が、要に弱々しい笑みを向けた。「だけども、なにもかも足りないくせに、大金を積みさえすれば、案外なんでも手には入ってしまうところもあった」
だから、桐生喬久は、新館を建てるのに必要とされる質のよい建築資材や建築機材、そして多くの腕の良い人足を掻き集めるために、茅蜩館には伏したまま莫大な私財を投じてくれたというのだ。しかも、その手の無償に近い援助は、このホテルに限ったことではなかったらしい。
「例えば、身よりのない子の施設とか、そういう子がある程度大きくなってから、学校に通いながら働ける工場とか、地味だけども金のかかるところに、また、そういう志を持った人に、桐生さまは惜しみなく援助しなすったわけだよ」
桐生氏は、やるべきだと思ったことに躊躇のない人だったという。それでいて、人から感謝されることが大の苦手で、自分の善行を一切吹聴することがなかったという。
「さすが、金持ちは違う」
「そうじゃないよ」
八重が隆文に厳しい視線を向けた。
「桐生さまはね、私財を投げ打って、それでも全然足りなくて、莫大な借金をしてたんだ」
しかも、とんでもない高利で借りたらしい。そのことに後から気がついた八重と先代のオーナーであった八重の息子の久志は、桐生氏が新館の代金として立て替えてくれた以上の金額を返すべきだと思ったし、実際に「返したい」と申し出たそうだ。
「でも、桐生さまは、ご自分が言った値段より1銭だって多く受け取るつもりはないと言い張った」
桐生氏は昭和27年に急逝したが、彼の書生で、彼の借金を全額肩代わりするハメになった六条源一郎もまた、桐生氏並に頑固だった。八重は何度となく返済額の上積みを源一郎に申し出たが、彼は「桐生の意地を通させてやってくださいよ」と笑って取り合わなかったという。
「六条さまの会社は、裏で何やっているんだかわからない悪徳企業のように世間から言われているけどね。桐生さまの死後、六条さんが、なりふり構わずに稼がなければならなかったのは、うちのせいでもあるんだよ」
だから、世間がなんと言って六条氏を蔑もうと、自分たちまでもが一緒になって彼を悪く言うようなことはあってはならないと、八重が孫たちに言い含めた。
「なるほど。これまで建て替えの話が出る度に、お祖母さまが良い顔をしなかったのは、そういう事情があったからですか?」
「ああ。そうまでして建ててもらったものだから、壊してしまうのは、なんだか申し訳なくてね」
八重が、寂しそうに微笑む。
「だけど、六条さんが『壊して建て替えろ』っておっしゃるんだから、もう諦め時だね。でもさ。このまま恩を受けっぱなしでいるっていうのも、私としては、どうかと思うんだよ。だからさ―――」
八重は、孫たちひとりひとり見つめてから、言った。
「新しくした茅蜩館を、そっくりそのまま、六条さんに差し上げようと思うんだ」
「それは、つまり、オーナーの権利を六条さまに譲るってこと?」
「そういうことになるね」
浩平に八重がうなずく。
「そうしたほうが、あんたたちにとってもいいと思ったんだ。いくら考えたって、あんたたちのひとりだけを選ぶなんて、私にはできないし、したくない。だから、これで勘弁しておくれ」
「あたしゃ、もう疲れたよ」と八重が吐息と共に吐いた言葉は、小さいながらも悲鳴のように、要には聞こえた。