遠い約束 4
茅蜩館のドアマンは、ホテルを訪れたすべての客の顔を覚えている、という噂がある。
もちろん、ただの噂にすぎない。だが、このホテルのドアマンが非常に多くの客の顔と名前を記憶していることは事実である。ドアマンのチーフともなると、『生ける顧客名簿』といっても過言ではない。
現在のドアマンのチーフである三上も、また然り。日に焼けた顔と頭髪にかなり白いものが混じってきたという特徴を抜かしたら、どこにでもいる平均的な日本人男性という枠組みの中にすんなり溶け込んでしまうであろう極々平均的な体型と容姿をしているこの男は、数年ぶりに訪れた男性客がすっかり老け込んでいようと、午前中に出かけたおとなしそうな印象の女性宿泊客が午後になってから髪の毛を七色に染めて戻ってこようと、いつでも愛想よく客の名前を呼んで出迎えるという偉業を日々当たり前のようにやってのけている。
その三上も、橘乃の姉の結婚式の日には、ドアマンとして正面玄関に詰めていた。彼は、かつてのボタンの同僚でもあり、ホテルに勤める以前の彼女のことも知っている。パンパンだった頃の彼女が客を求めてしばしば茅蜩館前に現れたことも、しかしながら、このあたりでの街娼の《営業》は禁じられていたので、久志に見つかっては注意されていたことなどを要に話してくれたのも、三上だ。
橘乃を送りがてら要が正面玄関に行くと、あいにく三上の姿はなかった。
休みでないならば……と、要が詰め所へ行ってみると、探していた人物は、そこで着替えの最中だった。夏の盛りでも制服を着込んで表で立ちっぱなしでいることを強いられるドアマンは、汗まみれの姿をさらして客に不快感を与えないために、この時期は一日に何度も着替える必要がある。
「今日も暑いから、大変だね」
「要!」
要の声に振り返った三上は、はめかけていた白い手袋を放り投げると、日に焼けた顔を皺くちゃにしながら要に抱きついてきた。
「婚約おめでとう! お前が選ばれるだろうって思ってたよ。とはいえ、昨日は大変だったんだってなあ。熱は? 下がったのか?」
昨日は顔を合わせてなかった三上は、要に話したいことが貯まっていたのだろう。激励するように要の背中をパタパタと叩きながら、三上がまくし立てた。
「あれ? でも、あんまり嬉しそうじゃない……のかな?」
いまひとつ元気のない要に、三上が気がついた。
「もしかして、もうマリッジ・ブルーなのか? でも、橘乃さんは、とても良い子だと思うよ。いささか賑やかすぎるところがあるが、仕事を離れた途端に引っ込み思案になる要には、むしろ、あれぐらい煩いほうがいいんじゃないかな」
「橘乃さんは、そんなに煩くないよ」
彼女は周りの気を引き立てようと頑張りすぎる傾向があるだけだ。それに、橘乃は、自分が話をする以上に人に話させるのが上手い。だから、彼女の周りが賑やかになる。それだけのことだ。
「そこまで彼女をわかっているのなら、やっぱりお似合いなんだよ」
橘乃を庇う要を、三上が微笑ましげに見つめた。
「じゃあ、なんで浮かない顔をしてるんだい?」
「あのさ、橘乃さんのお母さんのことなんだけど、中村さんと六条さんの結婚式の時に……」
「ああ、そのことか」
要が最後まで言い切らないうちに三上がため息を吐いた。
「ここじゃなんだし、勤務中だから、後でゆっくり話そう」
思いつめた表情で続く言葉を待つ要に、三上が待ち合わせの時間を告げた。
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そして、本日中番の三上の勤務が明けた6時半。
事務所に現れた彼は、『飲みに行こう』と要を誘った。
連れて行かれた有楽町の居酒屋には、すでに知った顔がふたりいた。
どうやら、始めから落ち合う予定であったらしい。宴会担当のチーフの中でも古株の沖田が要たちを手招きし、客室係のチーフの小菅が、通りがかりの店員にふたり分のビールをジョッキで注文した。そういえば、このふたりも茅蜩館にいた頃のボタンを知っている。特に小菅はボタンと仲良が良かったと、要は聞かされていた。
「ところで、要は、どうして気がついたんだ?」
要の婚約を祝って乾杯し、彼を肴に『あの小さかった要が結婚するような歳になったとは、自分たちが歳を取るわけだ』『この幸せ者!』と、ひとしきり盛り上がった後、三上がいきなり本題に入った。質問には 『何に(どうして気がついたのか)』という目的語が抜けていたが、ボタンと橘乃の母親のことだと、要には容易に察しがついた。
「昨日。橘乃さんがさらわれたってわかった時に、遠くからだったけど橘乃さんの家で彼女のお母さんに僕の名前を呼ばれたんだ。その声が……」
「なるほど、声だけは、化粧や衣装では隠せないものね」
小菅がうなずく。
「顔は、確認した?」
「他のお母さんの陰に隠れてたし、遠くからだったから、ハッキリとはわからなかった」
要が首を振ると、3人は残念そうに声を上げた。
「三上さんは?」
紫乃の結婚式の時、ボタンは三上が受け持つ正面玄関を通ったと思われる。
「確認できなかった。直接顔を合わせることができていたなら、わかったんだろうが、なにしろ、1000人超の招待客が一斉に来たからねえ」
三上が申し訳なさそうに、テーブルの端を両手で掴みながら、頭を下げた。橘乃の母親たちは、彼が他の客の相手をしている間に、今年からドアマンに配属された若手の迎えを受けて会場入りしてしまったそうだ。
ならば、どうやって、三上は、ボタンと橘乃の母親を結びつけたのだろうか? 要の疑問に答えるように、最近頭髪がめっきり寂しくなってきた宴会係の沖田が小さく上げた手をヒラヒラさせる。
「披露宴には、美女と名高い六条さんの愛人が勢ぞろい。……と聞けば、誰だって気になるじゃないか」
しかも、披露宴当日の沖田は、会場責任者のひとりとして宴会場全体を見回す義務があった。ちなみに、その日の要も責任者のひとりではあったが、彼は、なにかと心配な新郎の弘晃のほぼ専属の担当であった。
「当初の予定では、六条さんは、紫乃さんのお母さん以外の奥さんを、出席させないつもりだったんだよね?」
「娘の結婚式に愛人6人ってのは、さすがにまずいと、六条さんも思ったのだろうね」
だが、うがった見方をすれば、橘乃の母親を茅蜩館に近づかせないための源一郎の方便であったとも考えられる。
「だけども、中村家のご当主が、愛人さんたちをまとめて招待してくれちゃったのよね?」
『他の奥さんも紫乃さんの育ての親に違いないのだから、是非とも彼女の花嫁姿を見てあげてほしい』というのが、弘晃の父親が彼女らを招待した理由だった。
親族だけども客扱い、だけども日陰の身という微妙な立場を反映して、彼女たちのテーブルは、中村家側の後ろ半分真ん中より外寄りという、なんとも中途半端な位置にあった。要するに、担当の給仕以外は注意の向きづらい場所である。それにもかかわらず、沖田は、給仕たちの仕事ぶりを監督するついでに、六条源一郎の秘蔵の愛人たちを見てやろうという気になった。『それこそが、この仕事の役得というものだ』と、誰が責めているわけでもないのに、沖田が強く主張する。
「期待していた以上に、皆さん美人だったぞ。だけど、橘乃さんのお母さんの顔だけは確認できなかった。というのも、俺が、彼女たちのテーブルに近づこうとすると、なぜか向こうが警戒するんだよ」
「警戒?」
「そう。こんな感じで、橘乃さんのお母さんの両隣に座っていたふたりがね」
沖田が、隣に座る三上を、要から庇うように手を広げてみせる。
「……と、ここまで、あからさまではないけれども、自分の体を盾にして、彼女を俺に見せまいとするんだよ」
「その間、橘乃さんのお母さんは?」
「ずっと下を向いていた。だから、かえって気になった」
沖田は、橘乃の母親に直接声をかけてみようと思ったそうだ。
「下を向きっぱなしだったのでね。『何か、落とされましたか?』と、たずねてみたんだ」
すると、『いえいえ、何も落ちてやいません!』『落ちてないです! 私が言うのだから間違いありません!』と、またしても両側の奥さまたちから全力で否定されたという。
「じゃあ、結局、沖田さんも顔を見なかったんだね?」
「その時は、見られなかった。でも……」
「でも?」
「新郎に付き従うようにして要が会場に入ってきた時にな。あの人、顔を上げたんだ」
沖田が橘乃の母親の顔を見るのを諦めて、別の場所に移動した後だったという。
「お前のことを目で追ってた」
「橘乃さんのお母さんが、僕を?」
見ていた?
「ああ」
スポットライトの当たっていた花婿と花嫁を見送った後、扉の脇でひっそりと待機していた要のことを、橘乃の母親が、ずっと見ていたのだそうだ。沖田の目には、彼女が微笑んでいるようにも見えたという。
「ボタンかもしれないと俺が思ったのは、その時だ。でも、昔のボタンからは想像のできない恰好していたし、俺は顔覚えが悪い方だし、暗かったし、離れてたから……」
その後の沖田は、自分の仕事のほうが立て込んできたせいで、再び橘乃の母親に近づくことができなかったという。
「でも三上さんなら見ているに違いないと思って、式の後に確認しにいったんだ。でも、この人、帰りも見損ねててさあ」
「先に言ってくれれば、私だって意識して彼女を探しただろうけどね」
責める沖田を横目で睨みながら、三上が程よく焦げ目のついた焼き鳥を歯でむしり取った。
「私がいたらねえ。 絶対に見分けられたのに」と悔しがる小菅にいたっては、客室係という役目柄、披露宴には全く関わっていない。ボタンがいる頃から茅蜩館東京にいるスタッフは他にもいるが、そのいずれも、あの日は、それぞれの持ち場に釘付け状態だったそうだ。
「ボタンにしてやられたって感じよね」
「だから、まだボタンだと決まったわけではないって」
沖田が小菅の勇み足をたしなめる。だが、彼女は、ボタンは橘乃の母親であると確信しているようだ。
「だって、間違いないと思えるんだもの。しかも、橘乃さんを見ていると、なおさら怪しく思えてくるのよね」
「そういえば、小菅さんは、八重さんと橘乃さんが似ているって言ってたよね?」
「それもあるわ。なにしろ、あの子もくせっ毛でしょう。他にも、ケチのつけようがないところだとか……」
「ケチ?」
「ルームメイク。ほら、彼女、手伝ってくれてたじゃない?」
掃除機のかけ方からシーツの折り込み方に至るまで、橘乃は、仕事慣れした客室係のように完璧だったらしい。
「私はてっきり、彼女と一緒に組んでいた子がしっかり教えてくれたからだとばかり思っていたのよ。 それで、その子を誉めたのね」
すると、彼女は、ひどく恐縮してしまったのだという。
「『自分は手順を簡単に説明しただけで、なにも教えてない』って、その子は言うのよ」
彼女は小菅に誉められたことで逆に恐縮し、橘乃よりも雑な自分の仕事ぶりを猛省していたという。
「じゃあ?」
「橘乃さんは、お母さんから教えてもらったっていってたわ」
小菅が言った。
「それは、たまたま……」
「……ってことはあるかもしれない。でも、うちの掃除のやり方って、ちょっと独特じゃない?」
茅蜩館の掃除は客を意識してのものだ。部屋を使う人間が毎日変わることを前提としているので、徹底した掃除を心掛けている。雑巾のかけ方ひとつとっても、動かし方が決まっている。
「髪の毛一本落ちてないように仕上げる……なんて、普通の人はしないし、そうそうできることじゃないわよ。でも、私もボタンも、八重さん直々に厳しく仕込まれたわ。一度体に叩き込んだ技術は忘れないものよ。特に私たちは、ここから人生をやり直すつもりだったから必死だった」
「私たち?」
「そうよ。『私たち』。だって、私もボタンと同業だったから」
「同業っていうと…… ええっ?!」
思いがけない小菅の告白に、要はのけぞらんばかりに驚いた。ボタンと同業なら、彼女もパンパンだったことになる。
要は小菅をまじまじと見つめた。確かに、彼女は、質素な制服を身に着けている時でさえ色っぽい雰囲気を醸し出している。魅力的な女性であるからして、男性の気を引くことで成り立つ商売をしていた過去があっても不思議ではない……かもしれない。
だが、要が知っている小菅という人物は、そういう職業とは無縁に生きてきたとしか思えぬほど潔癖だ。『夜遊びは程々にしろ』『露出度の高い服は着るな』と、仕事のことはもちろん生活面においても何かと厳しく口うるさい彼女は、配下の女の子たちから母親のように頼りにされている反面、時々煙たがれている。
「まさか、本当に初耳だった? 八重さんから、聞いてない?」
開いたままになっている要の口に、小菅がしめ鯖を放り込もうとする。それを素直にいただいて、要は、『うん』とうなずいた。八重は、基本的に他人の打ち明け話は自分の胸の中にしまったままにしておく人だ。事情を話さないことには、その人の安全が守れないなどの特別な事情がない限り、誰にも言わない。
「でも、小菅さんも、そうだったなんて……」
「イメージに合わない? 私もそう思う」
ビールジョッキを片手にフフフと小菅が笑う。
「でも、そういう人もいたのよ。私は、『占領軍から女子を守るため、性の防波堤にならん!』っていう国の呼びかけを大真面目に受け止めて意気込んで、家出同然でRAAに自分から飛び込んじゃった」
「アール……なに?」
「特殊慰安施設。戦後の一時期にそういうのがあったのよ。半年ぐらいで解散になったけれども、春を売る女たちだけが、この界隈に残っちゃったってわけ。私も、家に帰らなかった。他に働く場所があるわけじゃないし、実際稼げたからね。辞めよう辞めようと思いながら、八重さんが手を差し伸べてくれるまで、3年間ぐらい続けちゃった。だから、私の場合は自業自得」
戦争中にせよ終戦後にせよ、あの頃には今の時代を生きる人の感覚では理解できないような不道徳なことや残酷なことが、どこにでもあった。そして、それをみんなが当たり前のことだと思っていたのだと、ビールの入ったジョッキにチビチビと口をつけながら小菅が語る。
「国もおかしければ、私もおかしかった。だから、私がしたことは私の責任。誰に強制されたわけでもないのだから同情の余地もないし、誰かを恨むこともしない」
『だけども、ボタンは違う』と、小菅が語気を強めた。
「あの子は花街生まれで、そこから抜け出すことを許されなかった。もう少し歳がいっていれば、同じ花街にいた他の女たちと一緒に戦地に行かされていただろうとも言ってたわ。戦後、あの世界に身を投じたのも、それしか生きる道がなかったから。いいえ、違うわね。知り合った頃のボタンは、そういう生き方しか知らなかったし、他の生き方を望んだとしてもできない状態だった。あの子は自分の未来を選びようがなかったの。自分の商売が恥かしいとか、罪深いことかもしれないとか、あの子が、そういうことを考え始めたのは、久志さんに会ってからのことよ。久志さんと八重さんが、あの子を変えたの」
久志は、ボタンを金づるにしようとしていた男たち(彼女が育った置屋の関係者らしい)と話をつけ、彼女を茅蜩館に引き抜き、生きる術を与えた。
「ボタンは、久志や八重さんのことを命の恩人みたいに思ってた。だから、久志さんとの結婚話が具体的になり始めたところで怯えて逃げ出してしまったボタンの気持ちも、私は、なんとなく理解できた。でも、まさか、妊娠していたなんて……」
『なぜ自分に相談してくれなかったんだ』と、小菅が唇を噛む。
「私にまで隠しておくなんて水臭いったらありゃしない。あの子にとって、私はその程度の友だちだったの? ひどい! あんまりよ!」」
「だから、まだ橘乃さんのお母さんがボタンだと決まったわけじゃないって」という沖田の指摘を無視して、小菅が派手な泣き声を上げながらテーブルに突っ伏した。
「しかも、なんで、20年も経った今になって現れるわけ? 出てくるなら、もっと早く出てきてやればいいじゃないよぉ! ずっと心配してたんだから! 八重さんだって、要だって、そうよ!」
小菅の呂律は、既に回っていない。
「あ~あ、始まっちゃったよ。今日は、やけに早かったな」
「それより、沖田。なんで彼女がビールを注文するのを見過ごしにしたんだ?」
「小菅ちゃんが『お祝いだから』って言い張るし、生ビールの中ジョッキぐらいなら大丈夫だと思ったんですよ」
三上に謝りながら、沖田が小菅のためにジンジャーエールを注文する。
小菅は、酒にかなり弱い。要が彼女と水商売を結びつけられなかった理由のひとつでもある。もっとも、彼女の場合、酔うのが早い分、冷めるのも早い。これ以上飲ませなければじきに元に戻ることは経験的にわかっているので、3人は話を続けることにした。
「ボタンが今更出てきたのは、八重さんがホテルのオーナーの権利を六条さんに譲ると言い出したからだろうな」
「でも、ボタンのことを我々に知られなくなかったら、橘乃さんをできるだけ茅蜩館を遠ざけておくべきだったんじゃないか? 逆に、ボタンのことを知らせるつもりなら、小菅さんじゃないけど、もっと早くにボタンが八重さんに対して正体を明らかにすれば、よかっただけだ」
「そうだよねえ」
要が三上に同意する。ボタンの……というよりも六条源一郎の意図がわからない。
「こればっかりは、六条さんに訊いてみないとわからないだろうね」
「だから、まだ、橘乃さんのお母さんがボタンだって決まってないって」という沖田の指摘は、またしても無視された。
「ところで、おばあさまは、気がついていると思う?」
「八重さんか? わからん。俺たちは言ってないけど、あの披露宴に出席したお客さまの中にもボタンを知る人がいなかったわけではない」
「いないわけないどこか、あの日の披露宴は、ボタンがいた頃から茅蜩館を贔屓にしている人だらけだったよ」
沖田と三上と要とでボタンを知っていそうな人物をつらつらと上げていけば、あっという間に20人を超えた。そのうちの誰かが彼女に気がついて、八重に話した可能性はある。
ちなみに、現在の総支配人であり要の戸籍上の養母でもある貴子については、『知らない』で意見が一致した。『あのブラコンが知ってたら間違いなくボタンを殴りに行っているだろうから』というのが主な理由だ。ボタンがいなくならなかったら久志は死ななかったはずだと、貴子は信じているフシがある。
「ボタンの情報を仕入れた八重さんが、六条さんに探りを入れるために茅蜩館をエサにして揺さぶりをかけた。 ……ということもありうるか?」
「それは考えすぎなんじゃないかしらぁ」
半分ほど酔いが醒めた小菅が、へらへらした笑いを顔に張り付けながら、会話に加わった。
「八重さんが知ってたら、六条さんに茅蜩館を譲ろうなんて、逆に考えなかったんじゃないの?」
「でも、自分の孫かもしれないんだよ? 八重さんが、橘乃さんに茅蜩館を譲りたいと思っても不思議じゃないんじゃないか?」
「そうね。 普通の人なら思うかもしれない。でもね。八重さんにしてみれば、要や隆文や浩平も、大事な大事な孫なのよ」
小菅が甘えるように要に寄りかかる。
「それなのに、この子たちを出し抜くような形で ――― しかも、他のふたりはともかく、ボタンを知っている要には企みがバレる可能性が高いのによ? ――― 橘乃さんに茅蜩館を譲るような真似を八重さんができると思う?」
「あ……」
「それに、八重さんは『茅蜩館をエサに』したりしない。八重さんにとっての茅蜩館は、そんなに軽い物じゃない」
「……。そうだな。お前さんの言うとおりだ」
「ごめん、小菅ちゃん、俺が考えなしだった」
小菅の指摘に、年長の男たちふたりが、虚を突かれたように黙り込み、ついで謝った。要だけが、心許なげに『そうかな? 血の繋がった孫って特別じゃないかな?』と異議らしきものを口にしたが、その途端に大人たちから大層叱られることになった。
「要! あれだけ八重さんに大事にされておいて、そういうことを言ったらダメだろう!」
「お前ね、謙虚さも、そこまでいくと卑屈だよ! 八重さんは、お前たちのことを本当に大事にしているんだぞ!」
「あんたは、どれだけ自分に自信がないのよ! 馬鹿なの?! 馬鹿なのね!」
「うう……すみません。もう、言いません。僕が浅はかでした」
3人の勢いに押されて、要が謝る。
その後も4人は推理を重ねたが、ボタンが橘乃の母親であるという確たる証拠がない以上、『これ』という結論が出るはずがない。最終的に、『要が、六条さんに直接たずねるしかない』という話に落ち着くしかなかった。
「でもなあ、訊いたところで、六条さんが素直に話してくれるとは思えないんだよな」
要が何をたずねたところで、源一郎は、はぐらかすに決まっている。
気が進まぬまま、ためらうこと数日。脳内で万全なシミュレーションを繰り返した要が、源一郎の会社に電話を入れてみれば、『社長は留守だ』という返事が秘書の葛笠から返ってきた。
「海外出張……ですか」
行先はニューヨークで、帰国は2週間後だそうだ。
「国内にいないんじゃ、仕方がないよね」
……と、問題が先送りになったことを要が密かに喜んでいたのも束の間のこと。
「要さん! 大変!」
9月の最初の日曜日の朝。
橘乃が、新聞を片手に血相を変えて要のところに駆け込んできた。




