遠い約束 2
「紫乃さんの言うとおり、大事なのは、噂の真偽よりも結果だよなあ。なにはともあれ、紫乃さんの妹が梅宮くんを選んでくれてよかったよ」
使用人の呼び出しに応じて紫乃が部屋を出ていくのを見届けると、大叔父が大きく伸びをしながら、本音を漏らした。
「おまえだって、内心では、そう思っているんだろう?」
「ええ、まあ」
大叔父から目を逸らしつつ、弘晃が曖昧に微笑む。
橘乃の夫に相応しい人物が誰かという点については、橘乃自身が決めればいいことだ。
だが、できることならな八重が育てた3人の孫の誰かが茅蜩館のオーナーになってくれればいいと弘晃が思っていたことは本当だ。ついでに言えば、2番目の孫である松雪隆文はいささか頼りなく、彼を跡取りにと推している人々の中に八重を除け者にしてきた者が含まれていることを弘晃が快く思っていなかったことも本当である。
一方、武里グループという巨大なスポンサーを味方につけている3番目の孫の竹里浩平はどうかといえば……
「武里グループの関係者が茅蜩館のオーナーに収まるかもしれないと考えただけで、ぞっとする」
大叔父が、橘乃の婿選びが始まってからというもの弘晃が言うまい考えまいと念じてきたことを代弁する。「おまえだって、そう思うだろう?」と、彼からたずねられて、弘晃は返事に困った。
「いや、その…… もちろん、今の武里グループを悪くいうつもりはありませんよ。 特に、ホテル・セレスティアルの竹里秋彦社長は物堅く公正な人物だと聞いていますし、セレスティアルも素晴らしいホテルだと思っています」
ただ『いいえ』と言えばいいものを、余計な言い訳を並べ立てることからして、弘晃が武里に悪感情を持っていると白状しているようなものだ。
「けれども、武里は大嫌いだろう?」
「……う」
意地の悪い笑顔を向ける大叔父に、弘晃には返す言葉もない。
「ちなみに俺は大嫌いだ」
大叔父が、『大』に力を込めた。『おまえだって、そうだよな?』と水を向けられた父もまた、『う~ん。 好きになるのは難しいですねえ』と、苦笑いする。
紫乃を介して橘乃に余計な先入観をもたせることで中村一族が他人さまの家の揉め事に口出するようなことがあってはならない。そう思ったからこそ、弘晃は、茅蜩館の相続問題に武里グループの創業者である故竹里剛毅が関わっていたと知ると同時に、彼にしては珍しく本家当主(代理)権限を発動して、自らと一族全員に緘口令を布いた。
というのも、中村一族というのは、おしなべて武里グループに対して悪感情を持っている。はっきり言って、大嫌いなのである。
武里グループとは、できる限り関わらない。会合やパーティーなどの会場にホテルを利用する時も、出張などでホテルに泊まる必要がある時も、武里グループのホテルを避けるべし。中村系列の企業では、そんな暗黙のルールさえあるほどである。
なぜそれほどに嫌うのか?
答えは簡単。 中村には武里を毛嫌いする理由が確かにあるからだ。いや、『あった』というのが正しいだろう。諸悪の根源は、武里グループの創業者である故竹里剛毅であった。
剛毅は、傲岸不遜であった弘晃の祖父をして『恥知らずの卑劣漢』と言わしめたほどの人物であった。 この一点だけでも、中村にとって竹里剛毅がどれほど忌まわしい存在であったかわかろうというものだ。
弘晃や社員に対しては圧政を敷いていた祖父ではある。だが、そんな彼でさえ、表に出れば社会的に責任のある人物としての節度も礼儀も常識も、それなりに持ち合わせていた。また、財閥という踏ん反り返っていても向こうから仕事が転がり込んでくる組織のトップだったこともあって、祖父の商売のやり方は《馬鹿》という言葉を頭に付けてもいいほど真っ当でもあった。(戦後潰れそうになったのは、そのせいでもある)。
祖父は、居丈高で強引ではあったが違法な商取引や抜け駆けを好まなかったし、彼が考えられる範囲で取引相手に対してもライバルに対しても公平であった。引き受けた仕事についても、利益を増やすための小細工や意図的な手抜きをするようなことはしなかったし、雇用者に対しても給金をケチるようなセコい真似は(当時の常識の範囲内でしかないものの)巨大財閥の長のプライドに賭けてしなかった。
竹里剛毅は、祖父の逆だった。単独で大陸へ渡って商売を始めた剛毅は、儲けるためなら手段を問わなかった。彼は日本で食い扶持にありつけずに大陸に流れてきたならず者と現地のならずものを集めて詐欺や強盗まがいの行為を繰り返しし、そうやって増やした金を元手に商売を始めると、軍や商人に――しかも敵味方の区別をつけずに――取り入って大きな仕事や利権を手に入れた。そして、雇い入れた者たちを低賃金で扱き使うことで更に私服を肥やし、自分にとって益がないと見切るや、親しい者でも平気で裏切った。
その際、竹里剛毅は中村財閥の名前を大いに無断利用してくれた。
詐欺まがい商売をしていた時には、中村財閥の名を出してカモを信用させ、事業を始めれば、『自分たちは中村財閥の下請けだとか中村財閥の総帥と個人的な知り合いである』と大法螺をかまして契約を取り付けるといった具合である。しまいには中村財閥の総帥代理を勝手に仕立て上げ、現地の大人物と裏でよろしくやっていた……ということもあったらしい。おまけに、戦争に負けそうだとわかるや、剛毅は自分の社員にさえそのことを打ち明けずに大陸で築き上げた財産の多くを金塊や貴金属に替え、それをもって自分だけ本国に引き上げた。俗にいうトンズラである。
剛毅の世渡りが上手かっただけといえば、そうかもしれない。だが、看板が無暗に大きかったせいで知らぬ間に利用されていた中村財閥にしてみれば、いい迷惑であった。
戦争が終わると、武里の濡れ衣まで着せられた中村財閥は、身に覚えのない責めまでを受け、買った覚えのない恨みをぶつけられる羽目になった。見捨てるわけにはいかないので、剛毅が置いて行った彼の社員とその家族の引き上げにも手を貸した。引き際になってから想定していなかった手間も引き受けたことから、故国に引き上げる途中でトラブルに巻き込まれた中村の社員もいた。父の兄の家族も、トラブルに巻き込まれた先で伝染病に罹り、家族全員帰ってこられなかった。今でもなお、中村物産の社員がアジアの各地で肩身の狭い思いをする……ということも少なくはない。
もちろん、『自分たちは無実だ、全て武里が悪かったのだ』と主張するつもりはない。自分たちにも反省すべき点や謝るべき点は多々あった。残酷だった搾取だったと責められれば、『時代がそうだった』程度の反論が精々だ。ささやかではあるが償いもしているし、迷惑をかけた国と関わるときには、社員たちも自分も特に誠意をこめて接してきたつもりだ。
悪かったと思っているのだ。過去を否定するつもりもない。しかしながら、全く知らない罪についてまで名指しで言及されて責められるとなれば、さすがに素直に謝れる気にはなれない。
それに、『武里のしたことだからうちは関係ない』と説明してみたところで、被害を受けた国の者にしてみれば、どちらにせよ過去に戦争を起こし、軍隊と一緒に自国に押し入ってきた日本の企業であることに変わりはない。こちらが何を言おうと責任逃れとしか取られないし、相手を更に傷つけるだけである。 結果、中村の社員が、武里に代わってひたすら頭を下げることになる。特に最近は、ようやく国交が正常化したことで隣国と関わる仕事が増えたこともあり、社員たちが武里の分まで泥をかぶる機会が増えている。「仕方がないですよ」と賢明な社員たちは笑って堪えてくれてはいるが、彼らを統括する立場にある弘晃としては心苦しいばかりである。
一方、国内で武里を訴えようにも、戦後すぐの日本には、当時のことを蒸し返したくないという空気が世間にも中村自身にもあった。財閥という存在そのものが否定された時代でもある。祖父の性格も最悪だったから、自分たちは悪くないと主張してみたところで誰にも信じてもらえないだろうという諦めもあった。なにより、昔のことをいつまでもネチネチと恨んでいても仕方がない。
剛毅が亡くなり彼の息子たちが跡を継いだ後は、中村の者も過去を忘れるようにしていた。どこかの会合で武里の者と出くわしても、笑顔で話せるようにもなった。剛毅を反面教師として育ったとしか思えない三男の秋彦……ホテル・セレスティアルの社長についてのみいえば、中村一族の間では結構人気がある。 分家の長老たちの間では、『彼を《剛毅の被害者友の会》に入れてやってもいい』と冗談のネタになっているほどだ。
武里グループを昔ほどは恨んではいない。赦そうとは思っている。それでも、まだ好きにはなれない。 ましてや、あの茅蜩館が……時代に流されず権力者にも金持ちにも阿ることなく独立不羈を貫いてきたあのホテルが、己の利益のためだけに強い者に媚び弱者を踏みつけにしてきたあの男が作ったホテルに取り込まれるなど、考えたくもない。茅蜩館の相続問題に偽物の相続人をねじ込んできた剛毅のやり方も、いかにも剛毅らしくて虫唾が走る。
「ましてや、武里リゾートの社長が茅蜩館のオーナーになるなんてことになったら……」
「ああ、許せんな」
嫌そうに顔をしかめる弘晃に、大叔父がうなずく。
「俺は、六条さんが重機でホテルをへし折ろうとしたのは、娘を攫われた怒りからだけじゃないと思うぞ」
「同感です」
六条源一郎は、明確な意思表示をする必要を感じたのだろう。
「あるいは、秋彦社長を支援するつもりだったのかもしれませんね」
「え? でも、六条さんが壊そうとしたのは、冬樹さんが社長をしている武里リゾートのホテルじゃないんだよね? それより、武里リゾートもホテル・セレスティアルも同じ武里グループじゃないの?」
「う~ん、あそこを利用するお客さんにしてみれば、あのふたつは同じ系列ホテルのように見えるんですけど、中味は全然違うんですよ」
不思議そうな顔をしている父に、弘晃が微笑みかける。
「武里リゾートというのは、組織としては完全にホテル・セレスティアルから切り離されているそうです。つまり、秋彦社長が口は出すことはできても手は出せないような仕組みになっているらしいんですね」
「どうして、そんなことを?」
「それは、お堅い秋彦社長に関与されては困る仕組みが、武里リゾートにあるからです」
武里リゾートは、とある大物政治家と裏で深く繋がっている。その政治家の妹というのが冬樹の母親――竹里剛毅の後添えだ。武里リゾートは、いわば、その政治家の《打ち出の小槌》なのである。
「竹里冬樹は、いってみれば見栄えのいい看板だな。社長とは名ばかりのお飾りだ」
「ああ、私みたいな」
「お父さん。そこまで自分を卑下するのはやめてください」
弘晃が厳しい口調で父親を咎めた。父は決して無能ではない。父の助けあっての自分だと、弘晃は心から思っている。
「冬樹さんは、おそらく何にも知りませんよ。知っていたとしても、違法とは言い切れませんから、気にしていないかもしれません」
だが、秋彦社長は気になっているはずだ。そして、どうにかしたくても手が出せないのではないだろうか? しかしながら、冬樹のせいで武里グループを代表するホテルが壊されかけたとなれば話は別である。秋彦は、グループ全体の問題として堂々と武里リゾートを糾弾することができる……かもしれない。
「六条さんがそこまで狙ったかどうかはわかりません。……が、いずれにせよ、武里リゾートと茅蜩館の取り合わせだけは、いただけません。最悪だと思います」
源一郎にしても、弘晃以上にそう思っていることだろう。ふたりだけではない、茅蜩館を愛してきた馴染の客の多くが、この取り合わせを嫌うだろう。だからこそ、源一郎は、この両者を引き剥がすために暴挙に出てくれたのかもしれない。公共の秩序を乱すことは許されていいことではない。だが、源一郎がやらなければ、中村一族がホテルをへし折りにいったかもしれない。
「とにかく、やれやれだよ。あとは、梅宮くんが茅蜩館にいる武里派を一掃するか、茅蜩館色に染めてくれることを願うばかりだ。あ、そうそう」
分家の大叔父――すなわち中村造船の前会長から預かった物があるのだと、大叔父が袖畳みにして椅子に掛けてあったジャケットの胸ポケットから四角い封筒のようなものを取り出した。
「あれ? 分家の大おじさんなら、先ほどいらっしゃいましたよね?」
「うん。紫乃がいたから渡しそびれたらしい」
「紫乃さんに見せてはいけないものなんですか? 彼女には、なるべく秘密を持たないようにしようと思っているのですが」
クスクスと笑いながら白い封筒を受け取る。中から出てきたのは、セピア色に変わりつつある白黒写真だった。
そこに写っているのは二人の人物で、手前に写っている黒いスーツ姿の人物は男性であるようだが、レンズに対して後ろを向いているので顔までは確認できない。女性の方はレンズではなく男性に笑顔を向けている。屈託のない彼女の表情といい、窓枠に寄りかかるような自然なポーズといい、彼女は写真を撮られていることに気がついていないのかもしれない。
「隠し撮り……ですか? この窓どこかで……」
「ああ、ここは、茅蜩館の本館の2階の廊下じゃないかな」
弘晃の後ろから写真を見ていた父親が、写真に写っている西洋風の窓の外に見えるビルを指差しながら言った。
「この女の子の服は昔の茅蜩館の制服のようだし、それに、こっちの男性だけども、あの頃の総支配人じゃないかな」
「八重さんの息子さんの久志さんって方ですか? じゃあ、女性のほうは……」
「その子がボタンだよ。この間、分家の爺どもから話を聞いたんだろう? 茅蜩館にいた評判の美人だ」
大叔父が教えてくれる。口元の締りのなさから察するに、彼もまた、わざわざボタンの御尊顔を拝しに茅蜩館に通ったクチなのかもしれない。
「その写真では、わかりづらいかもしれんが、本当に綺麗な人だった」
「そのようですねえ」
弘晃は写真に顔を近づけた。
離れた所から撮られているし、ピントもずれているようなのでわかりづらいが、それでも美人と言い切って間違いないほど整った顔立ちをしていることなら弘晃にもわかる。後ろで一つに束ねている真っ直ぐな髪も、白黒写真であるにも関わらず艶やかさが感じられるほどの光沢を帯びている。
「お人形さんみたいですね」
弘晃は感想を述べた。 人形みたいだといえば、橘乃の母親もそうだったと弘晃は思い出す。 ただし、このボタンという女性が日本人形ならば、彼女は西洋のビスクドールだ。クルクルとカールした髪にフリルとレースで飾ったドレスは、いかにも……
(……って、あれ?)
弘晃は写真を顔に近づけた。
(この人、もしかして……)
「どうした?」
写真を凝視している弘晃に、大叔父が訝しげな視線と向ける。
「……。 いいえ。ところで、この写真、しばらくお借りしていてもいいのですよね?」
「預かった時に『自分が死んだ後で若い女の写真なんぞが出てきたら、それこそ相続で揉めかねんから』とか言っておったから、貰ってしまってもかまわないと思うぞ。しかし、おまえは紫乃さん以外の女性に興味はないのかと思っていたが、意外だな」
「興味ないですよ。少し気になることがあるだけです。とはいえ、彼女に余計な心配を掛けたくはないので、この写真のことは、紫乃さんには言わないでください」
写真を封筒に戻しながら大叔父と父に口止めしたところで、紫乃が部屋に戻ってきた。彼は、とっさに封筒を布団の中に突っ込んだ。
「電話だったんですか? 誰から?」
弘晃の声が、変に上ずった。
「紅子からでした 橘乃が戻ってきたら妹たちが婚約祝いをするつもりだったようで、その誘いの電話だったんですけど、そんな電話をしているそばから、当の橘乃が今日は帰らないと連絡してきたそうで、延期になりました」
梅宮が熱を出したのだそうだ。
「橘乃を救いに行った時に雨に打たれて、その後、父を止めるために濡れた服のまま冷房の効いた赤坂セレスティアルに突入して、冷え切った体のまま茅蜩館で仕事に戻ったらしくて」
「それは、大変でしたね」
弘晃が同じことをしたら、肺炎決定である。
「だから、今日は責任をもって橘乃が看病するのですって。でも、あの子が傍で煩くしていたら、梅宮さんの病状を悪化させるんじゃないかしら」
紫乃は、婚約初日から源一郎に迷惑かけられた梅宮にすっかり同情していた。そして、彼への心配は、そのまま目の前にいる病弱な夫へのそれへと転化する。
「弘晃さんも、ずっとベッドの上にいたとはいえ、ずっと起き上がっていたから、お疲れでしょう? 少し横になったほうがいいですよ」
「ああ、うん。そうだね」
「ゆっくり休め。新しい見舞い客が来るようなら、わしらが応対しておくよ」
あやふやな返事をしながら弘晃が布団の中に潜り込むと、父と大叔父が心得たように部屋を出ていく。 紫乃が、部屋の隅にある小さな灯りひとつを残して部屋を暗くしてくれた。
「でも、よかった」
「うん?」
「橘乃が幸せになれそうで」
枕元に顔を寄せた紫乃が微笑む。
「わたくしね。ずっと橘乃が羨ましかったの」
「紫乃さんが?」
「そうよ。橘乃は、何の苦も無く誰とでもすぐに打ち解けてしまえるでしょう? そういうところが、わたくしとは正反対だから」
「ああ、貴女は、実は引っ込み思案ですものね」
弘晃が笑う。紫乃は、社交的で常に話題の中心にいるようにみえるが、本当は他人への警戒心が強く、相手に気遣い過ぎて疲れてしまうような繊細な神経の持ち主だ。
「あの子みたいに何を言っても笑って許してもらえるような性格だったら……あんなふうに無邪気に誰とでもはしゃげたらいいだろうなって、ずっと思ってましたの」
「確かに、そういうふうに振る舞うことは、簡単そうにみえて難しいよね」
「そうなんです。だから、羨ましいと思うと同時に、あの子にはハラハラしっぱなしでした。いつか誰かが、あの子の考えなしの言動に傷ついたり怒ったりして、あの子が恨まれるんじゃないか、イジメられるんじゃないかって」
六条家の長女として、常に妹たちのことを気に掛けてきた紫乃らしい心配である。
「でも、そうじゃないんですよね。あの子の言葉には毒がないの。誰かを言い負かしてやろうとか、自分の立場をよくしようという下心がない。そういう気持ちって、きっと伝わるんですよ。だから、あの子は何を言っても恨まれないし、争いにはならないんだわ」
橘乃は善意の塊みたいな子なのだと紫乃が言う。人が好くて、人の好い面ばかり見ようとする。
「あの子はすごいと思うんですよ。皆は、私がいるから妹たちが苛められなかったんだって言ってくれるけれども、私は橘乃がいてくれたからこそだと思うの。学校の中に六條家の者に対して良くない感情をもっている人がいても、あの子の裏表のない親しみやすさが、そういう悪感情を和らげてくれていたと思うんです」
「なるほど」
「だからこそ、今回は心配だったんですよ」
紫乃がため息を吐く。
「あの子には、どんな人でも良い人に見ようとしたり、悪いところには目をつぶってしまうようなところもありましたから。そんな調子で、旦那さんを選んでしまったら、どうしようかと……」
「ハラハラしてたんだね?」
「してましたよ。でも、わたくし、明子の時には口出しし過ぎてしまいましたから、今度は、橘乃の人を見る目を信じようと思ったんです」
「信じて正解でしたね」
紫乃の性格を考えると、黙って見守ることは、さぞや苦痛であっただろう。弘晃が手を伸ばして頭を撫でてやると、紫乃がくすぐったそうに身をすくめた。
「梅宮さんなら、橘乃を幸せにしてくれると思います。お客さまをおもてなしするホテルのオーナーという立場も、橘乃にピッタリだと思います。あのふたりなら、きっと同じ方向を向いて頑張っていけると思うの」
「そうだね」
嬉しそうにしている紫乃に微笑みかけながら、弘晃は内心ため息をつく。
妾の子と蔑まれてきた六条家の娘たちを、文字どおりに体を張って守ってきた紫乃。彼女の中に橘乃にはない毒があるのだとしたら、それは妹たちを守るために身に着けざるをえなかったものだ。そして、この先なにがあろうと、紫乃の妹たちへの愛情が揺らぐようなことはないだろう。
(ないとは思うんだけど)
弘晃は布団の中に押しこめられている封筒に触れた。
こんなものを迂闊に紫乃に見せる訳にはいかない。少なくとも、もう少し詳しいことがわかるまでは。
だけども、誰に確認すればいいだろう?
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紫乃が弘晃を布団の中に押し込んでいた頃、橘乃は姉が心配したとおり要に煩わしがられ…… もとい、橘乃に世話を焼かれることに、要が恐縮しまくっていた。
「僕のことは放っておいてくれていいですから」
「でも、私のせいで熱を出したようなものですから。それとも、迷惑?」
いつもは朗らかな橘乃の哀しそうな顔は、要を更に恐縮させた。
「迷惑なんてことはないです」
慌てて首を振った要の額から、濡れたタオルがずり落ちた。
「ただ、子供の頃から熱を出しても独りで寝ているのが普通で……って、これは、僕が孤児だからっていう理由ではなくてですね」
橘乃が同情するような気配をみせたので、要は慌てて言い添えた。
「みんな、仕事がありますから」
ついでに言うと看病している者を介して客に病気をうつしてもいけない。風邪を引いた人間は速やかに職場を離脱し、医者に行くなり薬を飲むなりして独りで直すというのが、この家の基本的なルールである。
「だから、こういうのは慣れていなくて……」
それに、自分の部屋に貴子と八重以外の女性を入れることにも慣れていない。というよりも初めてだ。もともと散らかるほどの物を置いていないとはいえ、それでも彼女に見られたら困る物のひとつやふたつはある。……と思う。
「では、慣れてもらわなくてはいけませんね。私、かなり世話焼きですから」
要の抵抗を、橘乃がにこやかな笑顔で退けた。
「ついでに言えば、今日、婚約初日なんですけど」
落ちたタオルを直してくれながら橘乃が要に思い出させた。
「少しぐらい、甘い気分を味わわせてくれたっていいと思いませんか?」
「そんなことを言われましても……」
可愛らしく口を尖らせる橘乃から、気まずげに目を逸らす。仕事の最中に甘い雰囲気を演出することに付き合わされても、要自身は甘さとは無縁である。
「冬樹さんなら、こういう時どうしますかねえ」
「どうしてそこで、あの人を持ち出すの?」
思い出すのも嫌だというように、橘乃が顔をしかめてみせた。
「すみません。あの人、そういうことには詳しそうだったから、参考にしてみてもいいかなと思ったんですけど」
そんなことを思いついてしまうこと自体、要の思考力がかなり低下している証拠だろう。
「きっと、熱のせいですね」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれませんね」
要の顔を覗き込んでいた橘乃の晴れやかな瞳が曇る。
「だって、もしも私が要さんの立場だったら、結婚することで六条家の関係者になることを素直に喜べないと思うもの。うち、いろいろと面倒くさいから」
『特に、父とか父とか父とか……』と、橘乃が呪文のように繰り返す。
冗談めかしているものの、橘乃は、『成り上がりだ』『沢山の愛人を抱えている恥知らずだ』等々の評判を持つ父親のことを、かなり気にしているのかもしれない。
「無茶苦茶ばっかりしているし、今日だって、あんなこと普通は…… いいえ、普通じゃなくてもしませんよね」
「まあ、六条さんは、娘さんのことになると無茶な人柄に拍車がかかりますけど」
それ以外の時の源一郎――要がよく知っている源一郎は、どちらかといえば慎重で用心深い人物である。 時折見せる外連味たっぷりの行動も、本当は相手への心理的な効果を狙った計算づくの行動ではないかと、要は疑ってもいる。
「それに、茅蜩館にとってもそうですけど、六条さんは僕にとっての恩人でもありますから」
小さい頃は源一郎によくかまってもらった。悩み事や進路の相談に乗ってもらったこともある。源一郎と親戚になれることを、要は、素直に喜んでいる。
その一方で橘乃と結婚するにあたって要が負担に感じている……もっと俗な言葉で言えば『ビビッている』ことがあるとすれば、それは、六条家という家の格のようなものだ。
六條家といえば、知らない者はいないほどの大金持ちだ。そして、長女紫乃の夫は、元中村財閥本家嫡男で、あの若さで実質的に日本有数の商社である中村物産を取り仕切っている人物である。また、次女の夫は、開国初期のこの国の輸出業を支えた紡績会社として知られ、今では化粧品メーカーとしても国内シェアとしては2番目か3番目を誇り、最近では素材を扱う企業として再び世界に打って出ようとしている喜多嶋紡績グループの次期総帥が内定しているような人物である。
そのような家柄も実力も文句なしの人々に続くのが自分みたいな一般人なんかで、果たしてよいのであろうか?
(でも、そんな弱音を彼女の前で漏らすわけにはいかない)
要が自分を卑下したりしたら、要を選んでくれた橘乃に肩身を思いさせることになる。だからこそ、ここは無理をしてでも、せめて背筋を伸ばし、堂々としていないといけないだろうと、要は思う。わざわざ決意しないと、ついつい下を向きそうな自分が情けないといえば情けないのだが、とにかく自分がしっかりしなければ……と思っている。
「橘乃さん、僕、頑張りますから」
風邪薬を飲んだために急速に襲ってきた眠気を戦いながら、要が宣言する。
「何を頑張るの? 今のまんまの要さんで充分だし、今だって、すごく頑張っていると思いますけど」
橘乃の笑い声が心地よい。ところで、彼女の笑い声を耳にするたびに、彼が懐かしいような切ないような気持ちになるのは、なぜなのだろう?
(彼女と出会うのが運命だったから? なあんてね)
甘ったるい理由を思いついて、要は目をつぶったまま苦笑した。早く熱を下げないと、馬鹿なことばかり考えてしまいそうだ。
「ああ、そうだ。橘乃さんのお母さんにも御挨拶しないといけませんね。それより、やっぱり今日は帰ってください。お母さんたちが心配していましたから」
特に橘乃の実の母親が辛そうだった。顔を見せてあげないと、彼女は安心できないだろう。
(『橘乃をお願い!』って、あんなに必死に……)
目を瞑れば、彼女の必死な様子や切羽詰まった表情が鮮明に浮かんでくる。
(ああ、そういえば、あの人の声は橘乃さんによく似ている。いや、似ているのは、橘乃さんじゃなくて……)
『要くん!』と、要に呼びかけた橘乃の母親の声を、彼は確かに知っていた。小さかった頃の彼は、人恋しくなる度に、あの声が……ボタンが彼の名前を呼びかけてくれないかと、孤児院の門の近くをウロウロしていたものだ。
(いや、まさかねえ)
うん、たぶん気のせいだ 熱があるせいで、記憶が混乱しているのだろう。
(目が覚めて熱が下がっていたら、ゆっくり考えよう。 とにかく、後で……)
そんなことを思いながら、要は眠りについた。




