遠い約束 1
同じ日。
「じゃあ、今日の騒ぎは六条さんの仕業に間違いないのだね?」
「ええ。間違いありません」
その日の夜までに「見舞いだ」と称して旧中村財閥本家にを訪れた人々は、26人。彼らは、同家当主の長男である中村弘晃の言葉を聞くと、一様に安堵の表情を浮かべた。また、将来の茅蜩館のオーナーが梅宮に選ばれたことを知ると喜んで帰っていった。
病弱すぎるゆえに家に引きこもっているとはいえ、中村本家とそれに連なる多数の分家を父親に代わって実質的にまとめあげているのが弘晃である。そのため、彼の元には、本家分家の区別なく中村が関わっている事業の全てに関する情報と、それらの事業を円滑に進めるために必要な国内外の情報の全てが集まってくるような仕組みができあがっている。
だからこそ、皆は弘晃からの情報は信じるに値すると思っている。しかも、彼は、今回の騒ぎの大元である六条源一郎の長女紫乃を嫁にしている。それも、弘晃本人の命と中村物産を危険にさらすことまでしてあの親バカ親父(中村一族の間では、この呼び名のほうが一般的である)から手に入れた愛妻である。
その愛妻が、「間違いないですよ」とベッドの上で微笑む弘晃の脇で、身の置きどころのない様子で「本当に、うちの父が申し訳ございません」と頭を下げ続けているのだ。この状況を見て弘晃の言うことを疑える者がいたら、その人は病的に疑い深い人物に違いない。
「しかし、一日のうちに、これだけの数のお見舞いの方がお見えになったのは、祖父が危篤に陥った日以来ですねえ」
26人目の見舞い客が帰っていくと、弘晃は、「見舞われた本人としては複雑です」と苦笑いしながら大きく伸びをした。すかさず、「縁起でもないことを言わないでください」という紫乃からの叱責が飛んできた。
「お見舞いといっても、弘晃さんに会いにくるための口実でしかないのですから」
「そうだよ。だから、紫乃さんも、そんなに目を吊り上らせなさんな」
弘晃と一緒に客人の話し相手をしてくれていた大叔父が、笑いながら紫乃をなだめた。親戚が多いため、祖父と同じ年代の親戚の男性であれば全て大叔父呼ばわりしてる弘晃であるが、大叔父の中でも体が大きく闊達な気性のこの男は、正真正銘、彼の祖父の弟である。
中村本家のお飾り当主を自認する父も、「みんなの気持ちもわからないでもないよ。最初の一報が入った時には、鈍い僕でも血の気が引いたからね。何が起こっているのかを知らないことには、みんなも落ち着かなかったんだろうね」と、学者然とした顔に笑みを浮かべながら、予定外に訪れた客たちを弁護した。
父の言うとおり、『永田町近辺のビルを大量の車両が占拠しつつある』という極めて断片的なその情報は、多くの者に過去に起こったある事件を思い出させた。
誰よりも国を憂いていると思い詰めた若者たちの行動が結果的にファシズムを台頭させることになり、この国を勝てるはずのない戦争へと追いつめていった。その記憶は、特に年長者の記憶の中に生々しく残っている。そのことを、今回、弘晃は肌で感じた。
「なんにせよ、クーデターじゃなくてよかったよ」
「ああ、戦争は、もうたくさんだ」
大叔父と父が口を揃える。
「国を大事にするのは結構なことだと思うがね。だが、自分だけが正しいと信じている奴ほど厄介な者はないからな」
「そうですね」
それについては、弘晃にも異論はない。
誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪かもしれない。誰かにとっての英雄は、誰かにとっての悪魔かもしれない。絶対的な正しさを主張する者や力で周りを黙らせようとする者を、弘晃は信用しないことにしている。なぜならば、彼にとって最大の厄災であった祖父と同じ匂いがするからだ。自分のすることに間違いはないと頑なに信じていた祖父のせいで、弘晃がどれほど迷惑したことか!
「亡くなった兄貴……つまりお前の祖父さんが祈祷師の婆さんにコロッと騙されてしまったのと同じだよ。 ああいう輩は、どれだけ正しかろうが高邁な精神を持っていようが、結局、最も卑しい奴らに煽てられてカモにされて、利用し尽くされることになる。例えば、出世欲にかられた軍人とか、戦場の過酷さを体験したことのない政治家とか、自分の手だけは汚したくない革命家とか、あるいは……」
「人を人とも思わない傲慢で尊大な商人とかね」
「そうそう、うちの兄貴みたいな」
父と大叔父が顔を見合わせて笑った。
「もっとも、わしらは兄貴ばかりを責めていちゃいかんがな」
「ええ」
大叔父の戒めを、弘晃は神妙な気持ちで受け止めた。
どんなに綺麗事を言ってみたところで、戦中の中村財閥が祖父を筆頭にあの戦争に加担した側にいたことだけは、否定のしようがない。もっとも、終戦と同時に中村の大陸への投資は、すべてパアになった。 建造を請け負った船のほとんども輸送船も含めて海の藻屑と消えた。おまけに財閥解体を命じられ、中村本家の収支は完全な赤字となった。その後の事業の建て直しも、大陸での成功体験が忘れられない祖父のおかげで難航を極め、一時は潰れる寸前までいった。
「だいたい、開戦そのものが間違ってたんだ。もちろん、戦争をしたがっていたわけじゃないことも、開戦前に回避するための必死の努力があったことも認める。だが、相手の兵力は、対アメリカだけでも軽く見積もっても3倍以上だし、戦術は優れているのかもしれないが、戦略ってもんがなさすぎた。仮に全て戦闘に勝ち続けて満州からオーストラリアに及ぶ地域を手に入れたとしてだ。 そんな広大な地域を手に入れたところで、島国育ちの我々が治めきれるわけがない。なにがしたかったのか、正直なところ、わしにはわからん」
「そうですねえ。実際、戦闘する以前に補給が途切れてしまった所が多かったようですしね」
大きな身振りで自説を展開する大叔父に父がうなずいた。
「多くの人を犠牲にして手に入れようとしたものと、戦後平和的な手段で海外に進出して手にできたもの。今と当時とは世界情勢が違いますから、今の価値基準で測ることはできませんが、それでも、戦地から送り返されるような私みたいな軟弱者よりも、引き上げの途中で亡くなった兄たちや戦争で亡くなった優秀な人たちが死なずに生きていたら、世の中もっと良くなったんじゃないかと思いますよ」
『もっとも、平和になったから、こんなことを言えるんだろうけどね』と、父が笑う。
「この程度の愚痴すら外で話せなかった窮屈な時代を経験した身としては、今の時代はありがたいよ」
「おまえの閣下は、外でも内でも言いたい放題だったじゃないか」
「『閣下』って?」
小首を傾げる紫乃に、「父の上官だった都賀さんという方ですよ」と弘晃が教えた。
戦中の父は、彼を上官として国内での任務についていた。任務の具体的な内容については、父が話したがらないので弘晃もよく知らないが、関東周辺の個人が保管している価値の高い美術工芸品を疎開させる作業かなにかであったようだ。ちなみに、この閣下という人は、宮家に大変近しい人だった。つまり、上から指図されることに全く慣れていなかった。
「ああ、うん……。そういえば、私、大変でしたね」
記憶を手繰るように宙に視線を彷徨わせつつ、父が疲れたような笑みを浮かべた。
「あの方は育ちが良すぎて、自分の言動が咎められるかもしれないという概念をお持ちでなかったからね。現状を批判するようなことを道端で平然と言い切ったために、憲兵にしょっ引かれることも一度や二度ではなかった。しかも、捕まえてしまった方が閣下の身分を知るなり慌てふためくのを見るのが、痛快を通り越して気の毒でねえ」
「『水戸黄門』というのは、お話だからこそ笑えるんだって、つくづく思ったよ」と、父が苦笑いを浮かべた。
「そういえば、あの頃、茅蜩館には随分お世話になったなあ」
「茅蜩館に?」
「あそこはね。一種の安全地帯だったんだ」
不思議そうな顔をしている紫乃に、父が言った。
「社会の現状を憂いたり軍部の批判をしたところで、閣下や私が敵国のスパイだったり共産主義者だったりするわけないことぐらい茅蜩館のスタッフは承知していてくれていたからね。ティーラウンジで一服しながら閣下がどんなに過激なことを言ってても目くじら立てたりしなかったし、目くじら立てそうな客がいたら離れたところに席を用意してくれた。それから、うるさ型の軍人や政治家が乱入してきたら、それとなく知らせてくれたりしたんだよ」
「オアシスだったんですね」
「オアシスだったんだろうよ。オアシスというか、信頼のおける情報の交換場所っていったらいいかな」
大叔父が腕を組む。
「大本営の発表なんぞを鵜呑みにする気にはなれなかったからな。実際のところ戦況はどうなのか、各国の状況はどうなのか? 本当のことを知らなければ、商売はできない。茅蜩館は、商売人の利用客が昔から多いからな。そういう情報が集まっていた」
そういうこともあって、当時の茅蜩館は一部の軍人に目を付けられていたようだ。だが、筋の通らないことについては相手がたとえ公方さまであっても突っぱねてきたという自負がある茅蜩館は、時にはのらりくらりと、時には敢然と、彼らの抗議をかわし続けたという。
「そういえば、六条さんって、昔、茅蜩館に住んでなかったか?」
「六条さんがというよりも、桐生喬久さんが、あそこのスイートルームに長期滞在していたんですよ。六条さんは、彼の書生でしたから」
訳知り顔で父が大叔父に教える。
桐生喬久は、昭和19年頃から27年頃という短い期間に活動した、いわゆるフィクサーである。 紫乃の腹違いの弟である六条和臣は、彼の娘を母に持つ。
「茅蜩館の本館が接収されてから新館が建つまでの数年間は知りませんけど、戦争中から桐生さんが亡くなるまでの10年以上は、あそこに滞在していたはずですよ」
「へえ」
叔父たちの言葉に弘晃は目を瞬かせた。初耳である。
紫乃を見ると、彼女も知らないことであったらしく、小さく首を振った。
「桐生さんは、敵の多い人だったかったからね。身の安全を考えたら、茅蜩館のスイートルームほど安心できる場所はないだろうから」
「そうだったんですか。父が……」
「紫乃ちゃんも聞いていなかったのかい?」
「六条さんは、桐生さんの役目を引き継いだことを、お子さんたちに秘密にしていますから」
意外そうな顔をする父に、弘晃が紫乃の代わりに説明する。その紫乃にせよ、弘晃との結婚を機会に源一郎から打ち明けられたばかりだ。
「じゃあ、六条さんが梅宮くんを可愛がっていたのは、始めから自分の娘の婿にするつもりだったんじゃないか、という噂が流れていることも知らないのか?」
「知りません。そんな噂があるんですか?」
「あるようなんですよ」
大叔父に問われて困惑した表情を向けた紫乃に、弘晃がうなずいてみせた。
本社から近いこともあり、中村物産の社員には茅蜩館の利用者が多い。数世代にわたって家族ぐるみで茅蜩館と懇意にしてきた者も少なくない。そのため、茅蜩館の次期オーナーの地位がかかった橘乃の婿選びが始まってから一か月余り、彼女の姉を妻に持つ弘晃は、会議などで家の外の者と顔を合わせる度に、この話題を振られることになった。
彼が話したうちのおよそ4割は、茅蜩館の次期オーナーが誰が選ばれるかということについて、単なる好奇心以上の関心を持っていた。そして、そのうちの半分は、弘晃から橘乃が関心を持っている男性の名を聞き出したいと思っているようだった。
しかしながら、残りの半分は、弘晃に訊ねるまでもなく、橘乃の将来の夫となる人物を予め知っているような口ぶりだった。彼らは、当たり前のように、『誰を選ぶもなにも、梅宮さんしかいないでしょう』と言った。彼らによれば、六条源一郎が茅蜩館の跡取りを橘乃に選ばせると言っているのは建前にすぎず、『これは六条さんが仕組んだ出来レースだ』だというのである。
「六条さんも孤児でしたからね。だから、六条さんは梅宮さんに同情して何かと目をかけてきたのだろう……、と、ばかり思っていたら、実は、娘のための理想の婿を兼任できる茅蜩館のオーナーを育てていたらしい……と」
そんな話が、様々なところで、まことしやかに囁かれているらしい。しかしながら、これまでの弘晃は、この噂に懐疑的であった。なぜなら、紫乃が、この噂を裏付けるような話を彼に一度もしなかったからだ。
紫乃は敏い。妾の子と苛められ蔑まれた経験があるからか、他人の顔色や言葉の裏に隠された気持ちを汲み取るのが上手だ。そんな彼女が、「橘乃は、父から『お前の判断に任せる』と言われているようですし、父から『お勧め』の男性を示唆されたこともないようです。むしろ、夢中になっているのは、うちの母たちのほうですね。父は、あの人にしては珍しく今日の今日まで橘乃の行動を見守っていたようなんですけど」というのだから、間違いはないように思える。
(でも、噂は噂で気になるんだよな)
まことしやかに流布している噂と紫乃の直観との間に生じているズレ。 なぜそのようなズレが生じているのか、弘晃には気になっている。
だが、紫乃のほうは、そんな些細なことで頭を悩ませるつもりはないらしい。
「とはいえ、意図的に父が仕組んだ縁談でもそうでなくても、どちらでもいいような気がしますわ。梅宮さんは好い方ですし、橘乃ともお似合いだと思いますもの」
彼女は話を締めくくるように笑うと、使用人の呼び出しに応じて、部屋を出ていった。




