六条さまの持参金 4
「桐生の、おじいさま?」
梅宮の口から思いがけない名前が出てきたことに、橘乃は驚きを隠せなかった。だが、彼女が驚いたせいで、梅宮には余計な気を使わせてしまったようだった。
「申し訳ございません、うっかり立ち入ったことを……」
「いいんですよ。気になさらないでください」
気を回しすぎて謝罪の言葉にさえ事欠いている梅宮に、橘乃は笑いかけた。
「確かに、桐生のおじいさまは、兄の母方の祖父であって、私の祖父ではありません。だけど、うちの場合、そういう話はタブーでもなんでもありませんから」
女好きの父親のせいで、六条家の子供たちは、全員母親が違う。そんな家でそれぞれの母方の親戚の話題を禁止したら、きっと互いに気を使いすぎてくたびれてしまうに違いないと、橘乃は思う。とはいえ、他の兄弟姉妹の血縁について橘乃が知っていることは、わずかしかない。例えば、兄の祖父である桐生喬久の容貌であれば、父の書斎に写真が飾ってあるので橘乃にも馴染みがある。だが、顔以外の彼のことなると、彼女は、ほとんど知らない。父と父の妻たちとの会話から、彼が華族の血を引く者であったらしいということと、『変人』と称されるほど破天荒な人物であったことを、聞きかじった程度である。
「だから、梅宮さんのお祖母さまが、兄の祖父のことを良い意味で覚えてくださっていると聞いて嬉しいです。ところで、そのお祖母さまという方は、このホテルとは?」
彼女もまた、梅宮と同じように、このホテルで働いていたのかもしれない。そんな推測をしながら、橘乃が含みをもたせた問いかけをすると、梅宮から、「オーナーです」という返事があった。
「オーナー?!」
本日2度目の驚きに、橘乃の声が跳ね上がる。
「つまり、このホテルの持ち主ってことですか?」
「はあ、一応」
なぜだが決まりの悪そうな顔で、梅宮がうなずいた。
もしかしたら訊かれたくないことなのかもしれないと思いながらも、橘乃の好奇心は止まらない。不躾な質問だと自覚しながらも、「ということは、戦後に不吉な13階の新館を建てようと思った方というのは、梅宮さんのお祖父さまかなにかですか?」と、たずねずにはいられなかった。
「いえ、彼は、一応、私の父ということになっていますが…… うわっ!」
もう少しでホテルの周囲を歩ききり、本館の玄関まであと10数メートルところで、梅宮が突然強い力で後ろへ引っ張られるようにして橘乃の視界から消えた。引っ張られた弾みで、彼の手から離れた紙袋が宙を飛ぶ。それを咄嗟に受け止めると、橘乃は彼の姿を追って振り向いた。
「お、お父さま?!」
「早速うちの娘を誘惑するたぁ、いい度胸だ」
橘乃の目の前で、父・六条源一郎が、脅迫めいた言葉をささやきながら梅宮の首を後ろから締め上げていた。
「さっきの話を盗み聞きでもしてたか? だが、あの話は保留だ。早とちりも程々にしておかねえと、痛い目にあうぞ」
冗談とは思えないほど、源一郎の顔は険しかった。声も聞いたことがないほど低く、抑揚もない。そのうえ、口調も荒っぽい。まるで別人のような父に、橘乃の身がすくんだ。
六条源一郎が多くの人から恐れられていることは、橘乃も承知している。強引な手段を使って、よその会社を乗っ取るようなこともするので、一部でハイエナ呼ばわりされているとも聞いている。だが、彼女が彼を恐ろしいと思ったのは、これが初めてである。娘たちの前では陽気なばかりの父のどこに、こんな恐ろしげな……
(……なんて、今は、のんびり怖がっている場合じゃないわ!)
すぐにでも源一郎を止めなければ、梅宮が窒息してしまう。
しかしながら、梅宮は、橘乃が考えている以上に職業意識の高い人物だったようだ。
「こ、これは、六条さ、ま。 よ、よ う、こそ、ひぐぐぐぐぐぐぐ、ぐ、らし、かん へ」
首を絞められ息も絶え絶えになりながら、梅宮が、お決まりの口上を述べた。その一言で源一郎は正気に返ったようだった。それどころか、どうやら人違いだったようである。
「梅宮くんか?!」
跳び退くようにして、源一郎が梅宮から手を離した。
「すまん! 大丈夫か?」
首元を押さえながら咳き込んでいる梅宮を、源一郎が心配そうに覗き込む。
「ごめんな。君は、いつもの黒服でホテルの中にいるとばかり思っていたから。本当にすまなかった。どこか痛むか? 壊れてないか?」
おろおろと謝りながら、源一郎が梅宮の頬や肩にペタペタと触れる。
「なんで、昼間っから、こんな普通の若者みたいな格好してんだよ? あ、今日は休みか? もしかして、まだ謹慎中なのか? うちの明子の……じゃなかった、明子の元夫の結婚式のせいだって? 俺の頼みを引き受けてくれたばっかりに、すまなかったな」
ふたりのドアマンが出迎える正面玄関に向かって歩きながら、源一郎がしきりに梅宮に話しかける。大きな庇がついている車寄せには、客待ちの空のタクシーが待機しているのみで、他の客は見あたらない。見知った顔だからだろう。ドアマンたちが、賑々しく登場した源一郎に恭しく頭を下げた。
父と梅宮の後をついて歩く橘乃は、いつもの朗らかさを忘れて、すっかり青くなっていた。ふたりが話していることから推測するに、梅宮は、半年間も謹慎させられていたようだ。しかも、その原因を作ったのが源一郎であるらしい。謹慎させたうえに首まで締めるとは迷惑極まりないが、そんな源一郎に梅宮は怒った顔ひとつ見せなかった。
「六条さま。私は謹慎させられたわけではありません」
苦笑しながら梅宮が慣れた所作で六条親子の為にホテルの重々しい扉を開けてくれる。彼は、源一郎に次いで橘乃を中に通しながら、「研修だったんですよ」と説明してくれた。
「しかも研修とは名ばかりで、3ヶ月間、海外のホテルで遊ばせてもらったようなものだったんです」
「そうだったんですか」
「そうかもしれないけど、その後の3ヶ月間は、横浜のホテルで下働きをさせられたんだろう? 降格させられたとも聞いているぞ」
橘乃がホッとしたのもつかの間、振り返った父が言う。
「もともと自分には過ぎた身分だったんですよ。降格して助かったと思っているぐらいです」
「……」
梅宮が源一郎に穏やかな笑みを向ける傍らで、橘乃は、こめかみを押さえずにはいられなかった。
彼女は自他共に認める楽天家である。姉や妹からは、「あなたはお気楽すぎる」と、よく呆れられる。それほど、彼女は、滅多なことでは落ち込まないし狼狽えたりもしない。誰かに怒ったり、誰かを責めたりすることも苦手である。だが、そんな彼女でさえ、ふたりの話を聞いているうちに頭が痛くなってきた。
「お父さま! どこまで梅宮さんに迷惑かけたら気が済むんですか!」
「え? いやあ、はははは…… だが、本当に、いろいろすまなかったな」
娘の怒りの矛先をかわすように乾いた笑い声でごまかしながら、源一郎が梅宮に謝った。謝り方に誠意が足りないと橘乃は思ったが、源一郎は、その程度の謝罪で充分だと思ったようだ。彼は、娘の背に手を添えると、「それじゃあ、橘乃、行こうか?」と、促した。
「え、でも」
「新館の話の続きでしたら、私よりも六条さまのほうがずっとお詳しいですよ」
梅宮が橘乃に一礼し、大理石でできた大階段の陰にあるエレベーターに向かって歩いていく。
(もう少し、お話したかったな)
橘乃は、名残惜しく思った。すると、橘乃の想いに気が付いたかのように、梅宮が振り返った。
「すみません! 私としたことが、持たせっぱなしにしてしまいました」
梅宮が、謝りながらこちらに駆け戻ってくる。
「は?」
「それ……」
梅宮が橘乃が手に提げている紙袋に視線を落とす。それは、父に首を絞めかけられた時に彼が放りだしてしまった紙袋だった。
「ああ、そうでした。私こそ、持っていたことを忘れかけいたわ。ごめんなさい」
「今日は、祖母の誕生日なんですよ」
橘乃から紙袋を受け取った梅宮が、照れたように笑う。袋の中身は祖母の好物の羊羹だそうだ。誕生祝いのケーキは毎年ホテルの洋菓子職人が用意してくれるので、孫たちだけで祝いをする時には、和菓子で祝うのが恒例になっているのだという。
「おばあさまに、よろしくお伝えくださいね。それから、『お誕生日、おめでとうございます』って」
「ふん。あの婆ァの生まれた日の、どこがめでたいものか」
梅宮が遠ざかっていくのを待って、源一郎が、おもしろくなさそうにつぶやいた。橘乃は、今度こそ頭にきた。
「お父さま! なんて、ひどいことをおっしゃるの!」
「なんだよ」
橘乃に叱られた源一郎がむくれる。
「橘乃は、私とあの婆さんのどっちが大事なんだ?」
「はあ? 自分の父親と他所のお家のお婆さんですよ? 『どっち』って、比べるような話なじゃないでしょう?」
「あ、そうか。そうだな」
橘乃の剣幕に驚いたのか、源一郎が我に返った。
「すまない。君の言うとおりだ。今のは、お父さんがどうかしていた。だが、そもそも君がいけないのだよ」
急に紳士的な態度に戻った父が、愛しげに橘乃の頬に手を添える。
「いつの間にか、道行く男の視線を根こそぎ引き付けずにはいられないほど魅力的な娘になってしまった。そんな君が見知らぬ男と親しげに語らっているのを発見した時のお父さんの衝撃が君にわかるかい? あれが、全ての客に対して誠実な梅宮くんではなく、美しい女と見れば声をかけずにはいられない不実で愚かな若者だったらと思うと、ぞっとする。そいつの首を絞めるだけでは飽き足らずに、このホテルの梁に吊るしていたことだろうよ」
「ありがとう、お父さま。そこまで私を想っていてくれるなんて嬉しいわ」
父が大げさなのは、いつものこと。橘乃は照れもせずに彼の言葉を受け入れた。
「でも、暴力は嫌よ。それに、私は、男性に声をかけられただけで有頂天になって付いていくほど愚かではありませんから、安心してくださいね」
「そうかな? お父さんは、とてもとてもとても心配なんだよ。だって君は、私の娘たちの中では誰よりも親切で、どんな人にも優しくできる子だからね」
父は微笑むと、「ところで、梅宮くんが言っていた新館の話って、なんだい?」と、たずねた。
「これ以上、どうしようもないんだよ。だから、建て替えるんだ」
色違いの木地が寄木細工のように連続した模様を作る床が美しい本館ロビーを突っ切り、磨きこまれたカウンターの中から穏やかに微笑みかける中年のフロント係に笑みを返し、通る度に西洋の城の中を探検しているような気分にさせられるほの暗い新館への連絡通路を抜け、艶やかなタイルがモザイクのように壁や床を飾る新館1階のティーラウンジの窓際の席に腰を下ろすまで、ひたすら橘乃の話に耳を傾けていた父は、ウェイターにケーキと飲み物を注文すると、残念そうにため息をついた。
「梅宮さんも言ってらしたわ。これ以上の改造は危険なのですってね」
だが、橘乃は、ホテルのどこをどう改造したのか、何がどう危険なのか、そもそも、そこからわかっていない。
「つまりだね。昭和27年頃からホテルの接収が解除されたことで、それまでの新館の仕様は、一気に時代遅れになってしまったのだよ」
「時代遅れ?」
「だって、誰が泊まりたいと思う?」
椅子の背に腕を引っかけ、あたりに視線を巡らせながら、源一郎が橘乃に問いかける。
「部屋は狭いし、天井は低い。おまけに客室にはベッドも風呂もない。しかも、この近所には、態度はデカイが気前は良かった進駐軍に帰国されてしまって新しい客…… つまり、これまで他に泊まるところがなかったために茅蜩館の新館を利用するしかなかった日本人の上客を喉から手がでるほど欲しがっている、おしゃれで広々とした部屋を持つ高級ホテルが沢山ある」
「それはもちろん」
せっかく泊るのだから、誰だってフカフカのベッドがある風呂付きの広い部屋を用意しているホテルに泊まりたいだろうということは、橘乃でもわかる。そう思うと同時に、梅宮や父が話そうとしている事が、ようやく彼女にも見えてきた。
「それで改造なんですね? お客さまが他のホテルに流れていかないようにするために?」
「そういうことだ」
橘乃の答えに満足するように父がうなずいた。
「この新館は、客を引き留めるために、どんどん中身を作り替えるしかなかった」
まずは、壁をぶち抜いて、2部屋あるいは3部屋をまとめ、ひとつの客室に作り替えた。だが、畳を片づけて洋室にしつらえベットを置いただけでは、どうしても天井からの圧迫感が大きくなる。また、各部屋に風呂を設置するとなると、そこに水や湯を運ぶための管を床下もしくは天井に設置しなければならない。管を通すために床を底上げすれば、ただでさえ低い天井が更に低くなってしまう。しかたがないので、それまでの2階分が1階分になるように天井も取り払わなければならなかった。
「おかげで、昔は13階だった建物が、今では8……いや、6、違う、7階建てだ」
首を捻りながら父が言い、「ちなみに、ここは大浴場だったのだよ」と教えてくれた。
「お風呂?! ここが?」
「そうだよ」
父がうなずき、「これが、その証拠だ」と、足元の床でモザイク模様を作っているタイルを指で示した。
「上の階に作るより理にかなっているだろう? 大量の水をポンプで汲み上げる手間が省ける」
「な?」と、源一郎が、ケーキと飲み物を運んできたウェイターに同意を求めた。訓練された茅蜩館のウェイターは、客から唐突に話しかけられても全く動じなかった。彼は、同意とも否定ともとれる愛想の良い笑みを源一郎に返すと、優美な所作で父の前にはミルフィーユを、橘乃の前にはアイスクリームが添えられたアップルパイを置き、カップに紅茶を注いで去っていった。
「そんなわけで、あっちを削ったり、こっちを足したり隠したりと、あれこれいじっているうちに、長年ここで働いてきた従業員や、改造に関わってきたうちの会社でさえ、全てを把握しきれなくなってきたのだよ。このままでは、ある日、こんな風に……」
父が自分の前に置かれたミルフィーユにフォークを押しつける。幾重にも重なったパイとカスタードクリームの層は、フォークの圧力に負けて醜くひしゃげ、そして崩れた。
「鉄骨の骨組み自体は触っていないから、こんなにひどく崩れ落ちることはないだろう。だけど、一部の壁は、空間を仕切るだけではなく建物を支える役目をも担っているのだよ。だから、これ以上は1枚の壁も壊せない。安全面を考えると、これ以上の改造も改装も、うちの会社としては受けられない。そう返事をしたのが1年ぐらい前だ。紫乃の結婚式の少し前だったから」
だから、新館の建て替えは、六条建設からの意見を茅蜩館ホテルが真剣に検討したうえで出した最終結論なのだと源一郎が言う。
「橘乃よりも、ここが変ってしまうことを寂しく思っている人は沢山いるよ。私も、そのひとりだし、梅宮くんもそうだ。あの子は……要くんは、ここで育ったようなものだからね。寂しいけれども、しかたがないんだよ」
「そうですね。そういう事情なら、しかたがありませんね」
橘乃は、納得するより他なかった。ホテルは、泊る所。短い期間とはいえ、人の命を預かる所だ。万が一にでも事故があってはいけない。
「それでも、ここまで、よくもったものだと思うよ」
しょげる橘乃を慰めるように源一郎が笑う。
「20年前、こんな使い勝手の悪い新館は、すぐにでも建て替えようって話があったぐらいだからね。だけども、あの頃は、とにかく本館を建て直すのが急務でね。茅蜩館には、2館同時に建て直す資金を借りるアテはあっても、返すアテがなかったようだから」
「本館も壊れかけていたの?」
「いいえ。あれは、しっかりとした建物でございました。ですが、進駐軍がホテルの中をペンキで真っ白にしてしまいましてね」
突然、源一郎の後ろあたりから女性の声がした。橘乃が腰を浮かせて声がした方を見やると、源一郎の背後にすっぽり収まるようにして、和服姿の老女が立っているのが見えた。
「すみませんね。突然。懐かしいお話が聞こえてきたから、ついつい嘴を突っ込んでしまいました」
ニコニコしながら老女が橘乃に話しかける。青一色に見えていた着物は、間近でみると、実は小さな朝顔が一面に染め付けられた江戸小紋だった。帯留めの絵柄も、アサガオである。なかなか洒落っ気のある可愛らしいお婆さんだと思いつつ、橘乃は、「いいえ。ちっともかまいませんよ」と笑いかけた。
だが、源一郎は、もしかしたら、この小粋な老女のことを苦手に思っているのかもしれない。腰を浮かせながら「八重さん」と呼びかけた彼の声は、心なしか尖って聞こえた。
「先ほどのお話の返事でしたら……」
「いえいえ」
八重と呼ばれた老女が、首を振って源一郎の言葉を遮った。
「六条さまのお嬢さまから誕生日のお祝いの言葉をいただいたと孫が申しましたので、一言お礼を申し上げねばと思いまして参じたんですよ」
「まあ! じゃあ、梅宮さんの?」
「はい 私は、あれの祖母で、このホテルのオーナーをしております恵庭八重と申します。橘乃さまのお父さまには、いつもいつも無理を聞いていただきっぱなしで、大変お世話になっております」
八重が深々と頭を下げる。
「きいたきいた。いろいろきいた。死ぬほどきいた。なんでもかんでもきかされた」
聞こえよがしにブツブツと呟きながら、源一郎は、彼女をテーブルの一員に加えるために椅子を引いた。しかしながら、八重は、「すぐに退散しますから」と座ろうとしない。
「どうぞ、お座りになってくださいな」
橘乃は熱心に八重を誘い入れた。そして、「じゃあ少しだけ」と恐縮しながら椅子に腰を下ろした八重に、「あの、ペンキって?」と話の続きをねだった。八重も楽しげに話に乗ってくる。
「ええ、そうなんですよ。壁も床も天井も、真っ白けにされてしまいましてね。接収されたホテルは、どこもそんな風だったんです。それが衛生的だっていう理由でございました」
「白くすればいいってもんじゃないって、桐生は怒り狂ってましたが」
源一郎が和臣の祖父の名を持ち出すと、八重が、「そうでした、そうでした」と、懐かしそうに手を合わせた。
「『そんなに白いのがいいなら、あいつも真っ白にしてやる!』って、うちの担当のGHQの隊長さんにペンキの缶ごとぶちまけようとした時には、さすがに肝を冷やしましたよ」
「ありましたね。そんなことも」
源一郎も懐かしそうに笑う。八重は、楽しい話し相手だった。長い年月をかけて積み重ねてきた自らの経験やホテルを訪れた人々から聞かされた知識に裏打ちされた豊富な話題とまっすぐな眼差し、そして、リズムのある話し方が、聞く者の気を逸らさない。
「そんなわけなので、本館を返してもらった時に、増築ついでに建て替えようという話になったんですよ。せっかく関東大震災にも耐え、空襲でも、ほとんど無傷ですんだのに、もったいなかったんですが、六条さんが、1階のロビーだけはペンキを塗られる前のとおりに戻してくださるって約束してくださったんです。ですから、本館が完成して、あのロビーを見た時には、泣きたくなるほど嬉しゅうございましたよ。六条さんは、いつも良い仕事をしてくださいます。ですから、新しい新館も、きっと今までよりも、皆様に愛していただけるような良いものになりますよ。どうぞ、お父さまを信じて、期待してお待ちくださいましね」
「はい」
元気よく答える橘乃に、「本当にいいお嬢さんだ」と八重が笑った。そして、「六条さんの育て方が良かったんですね。それとも、お母さまの、ですかしらねえ?」と、源一郎に賞賛の眼差しを向けた。
15分ほど話をした後、八重は、「とんだ長っ尻をいたしまして」と詫びを言いながら去っていった。
「素敵なお婆さまね」
「そうだな。意固地なところはあるが、悪い人じゃないな」
橘乃の言葉に源一郎がうなずく。そして、何気ない口調でたずねた。
「橘乃は、あのお婆さんのこと好きかい?」
「ええ」
「このホテルのことも、好き?」
「ええ。大好きよ」
「そうか」
「でも、お父さまのほうがずっと好きよ」
またむくれられたら堪らないと、橘乃は、慌てて言葉を足した。
娘に懐かれようものなら、その場で人目を憚らずに大げさに喜んでくれるはずの父は、今日に限って、なぜか浮かない顔をしていた。
「そうか、好きか」と、言ったきり、八重が去っていった方向を見つめている。
「お父さま?」
「じゃあ…… いいかな」
「お父さま? 何が、いいの?」
橘乃の問いかけに、父は答えなかった。