巡り巡って 4
帝都ホテルは、千室あまりの客室と20近くの飲食店を有し、国内のみならず世界各国の要人が訪れる、名実ともに日本を代表するホテルである。
伝統の厚みと格式の高さ、なによりも立地の近さから、帝都と茅蜩館は、なにかにつけて比べられがちだ。 だが、要自身は、帝都ホテルに対して敵愾心を燃やしたことがない。彼にとっての帝都ホテル東京とは、ライバルというよりも近所の親戚の家みたいなもの。小さい頃から頻繁に出入りしていたから、帝都ホテルのスタッフには、彼と顔見知りの者も多い。だが、帝都に多いのは、彼の知り合いだけではない。早耳の噂好きも多かった。
橘乃の持参金のことや梅宮と彼女の仲が進展しているらしいということは、すでに彼らの耳にも届いているようだった。帝都ホテルの入り口から日比谷公園を望むティールームの窓際の席に案内されるまでの間に、要は数人のスタッフから思わせぶりな笑顔を向けられた。もちろん、《思わせぶりな笑顔》といはいえ、そこは日本最高峰のおもてなしの達人ともいえる帝都のスタッフであるからして、他の客にまで悟らせない程度のさりげない微笑みでしかない。とはいえ、要の隣にいる橘乃は、彼らの微笑みにわずかな含みがあることに気がついたし、その笑顔に要への親しみがこもっていることも察したようだ。
「仲が良いんですね」
意外そうに橘乃が言う。彼女は、両ホテルのスタッフ同士が、もっとギスギスした関係にあると思っていたらしい。
「武里のホテルと仲が良いとわかった時も、不思議な感じがしましたけど」
「ライバル社の人間同士が顔を合わすたびに角突き合すことなんて、そうそうないと思いますよ。それに、帝都はうちのホテルから見て一番のご近所さんですから、特に仲がいいかもしれません」
茅蜩館の予約が満室の時などに、予約係やフロントが空き室状況を確認したうえで帝都ホテルに客を誘導するようなこともある。逆もまた然り。仲が悪くては、なにかと不便なのだ。
「帝都さんなら、こちらとしても安心してお客さまに紹介できますから」
「そんな悠長なことを言っていていいんですか?」
商売っ気に欠ける要の言葉に橘乃は呆れたようだった。帝都に負けていられないと思ったらしい。
「要さん。新しくなる茅蜩館の客室の数って、どれぐらいになるの?」
「若干の変更があるかもしれませんけれども、今のところは、本館と合わせて176室ですね」
客室だけを単純に比較すると、茅蜩館と帝都の間には5倍以上の開きがある。
「食べ物屋さんは?」
「今よりも、1店舗増えます」
こちらも、2倍の差がある。
「でも、茅蜩館だって、ここと同じぐらいにおしゃれで風格があると思うの。味わいなら、こっちのほうが上だと思うし、サービスの質でも負けてないと思うし……」
「闘争心むき出しですね。橘乃さん」
日比谷公園の緑を借景に白とガラスをメインに構成されたモダンなデザインのティールームを見回しながらブツブツ言っている橘乃を見て、梅宮は、なんとも微笑ましい気分になった。
「そんなに帝都さんと張り合うことはないと思いますけど」
「それは、帝都ホテルには到底敵わないから、始めから諦めておけということですか?」
橘乃の声が尖った。
「そういうことではなくてですね。どう言ったら、いいのかな」
答えを探すように梅宮は橘乃から視線を外した。すると、周囲の客に軽く会釈しながら、こちらに向かってくる歩いてくる男が見えた。押し付けがましくない愛想のよい笑顔といい物腰の柔らかさといい、いかにも要の同業者らしいその人が、ここ帝都ホテル東京の総支配人である。
「あ、どうも」
反射的に立ち上がった要は、もの問いたげな表情を浮かべて彼を見上げている橘乃にも男を紹介した。
「どうぞ、そのままで」
慌てて立ち上がった橘乃と要を席に落ち着けると、「要くんがティールームでデートしていると、皆が教えてくれましてね」と楽しそうに要に打ち明けた。それから、彼は、真面目くさった顔で名刺を取り出すと、「始めまして、芳賀と申します」と言いながら、丁寧な仕草で橘乃に差し出した。
学校を出てから家にいた橘乃は、一般男性から、こういった事務的な応対を受けたのは始めてであったようで、「御名刺をいただいたのは、初めてです」と目を輝かした。
素直すぎる橘乃の反応に、芳賀は好印象を持ったようだった。
「あなたが八重さんのお仕事を引き継がれるのならば、当然ですよ。茅蜩館さんは、私どもにとって尊敬すべき同業者であり、最大のライバルですから。もっとも、茅蜩館さんは、うちのことなど歯牙にもかけてくれませんが」
「そ、そんなこと、全くありませんよ。ただ…… 今も彼女に言おうとしていたんですけど、ただ闇雲に帝都ホテルさんの後を追う必要はないと思っているだけです」
当て付けめいた芳賀の言葉に、要が動揺する。要は、帝都をライバルだと思っていないのではない。違う路線を目指そうと思っているだけだ。帝都と規模で競ったら、茅蜩館のほうが潰れてしまう。
「冗談だよ」
慌てて言い繕おうとする要に、芳賀が父親のように微笑みかけた。
「君の言うとおりだ。帝都と茅蜩館は似ている。だからこそ同じにならないほうがいい」
「似ているけれども、違うんですか? その……大きさの違いだけではなくて?」
「もちろん、規模の違いも、重要な違いですよ」
芳賀が橘乃にうなずいた。
「小規模だからこそ提供できるサービスもありますし、そういったサービスだからこそ、お客さまが得られる優越感みたいなものもあります。茅蜩館は、お客さまひとりひとりの、そういう気持ちをくすぐるのが上手いですよね。だから、熱烈なファンがいる」
『あなたも、そうなのではありませんか?』と芳賀に問われた橘乃が、苦笑いを浮かべながらうつむいた。彼女もまた、つい今しがたまで帝都ホテルに対抗心を燃やしていたひとりである。
「それと、なにより大きな違いは、それぞれのホテルの成り立ち方ですね」
「成り立ちですか? 梅宮さんは、茅蜩館の始まりは、今の言葉でいうところのビジネスホテルだって教えてくれましたけれども」
「それはまた、随分と大雑把な説明ですな」
芳賀が声を上げて笑った。
「でも、まあ、そういうことですね。茅蜩館は、昔から商人、すなわち市民のための宿でした。一方、帝都ホテルは、その名前からもわかるように、いわゆる国策ホテルです。ここは、開国間もないこの国が海外からの賓客をもてなすために建てられました。私たちのホテルは、国の威信をかけてもてなさなければいけないという使命を生まれながらに背負っており、それが私たちの誇りでもある。そして、未開の国だと思われていた我が国が他所の国から、『この程度か?』『文化の未開な国だ』と嗤われないためには、相手の国――特に欧米ですね――の常識や価値観、マナーに自分たちを合わせ、更にそれを超える努力をする必要がありました。誰が見ても最上級品だとわかる調度品、食材、サービス。自分たちの国の趣味や好みとは、ずれていると感じることはあっても、『猿まね』だと嗤われても、それはそれと割り切って……ね?」
大真面目な表情で自分の話に聞き入っている橘乃に、芳賀が微笑みかけた。
「一方、茅蜩館には、そういった窮屈な縛りはありません。 国の方針や固定観念に縛られることなく、その時々に自分たちが『最上』と考えるもてなしを提供してきました。茅蜩館は自由で、そして良い意味でローカルなんですよ」
「ローカル?」
「そうだよね?」
芳賀が、要に問いかけた。そして、要がうなずくのを確認すると、日本を代表するホテルの総支配人は「それにね」と橘乃に続けた。
「昔のビジネスホテルと言われて、過去の茅蜩館を出張サラリーマン向けの低価格設定のホテルのようだったと考えるのは、違うと思いますよ。茅蜩館が主に相手にしていたのは大金持ちの商人ばかりだったようです。『本間さまには及びもせぬが、せめて成りたや殿さまに』っていうでしょう?」
ちなみに本間さまとは、酒田……今の山形県にある港町を拠点にしていた昔の豪商である。
「昔の茅蜩館は、今以上に立派で豪華で、おいそれとは足を踏み入れることができないような宿屋だったと思いますよ。敷居の高い宿泊施設といえば本陣や吉原遊郭も有名ですが、本陣に商人は泊まれませんし……というより江戸にはありませんでしたし、吉原は女性の出入りが禁止でした。昔の茅蜩館というのは、一般人が泊まれる江戸で一番の……というよりも日本で一番の豪奢な宿だったのではないでしょうか」
「そうだったんですか?」
『ごゆっくり』という言葉を残して芳賀が去っていくのを待って、橘乃が要にたずねた。
「どうなんでしょうね」
要は曖昧な笑みを浮かべた。
明治以前の茅蜩館の栄華を証明するものは、大火で焼けるなどして、ほどんと残っていない。セピア色というよりも柿渋色になっている写真なら数枚残っているが、画面いっぱいに並んだ従業員のおかげで、肝心の店構えが見えない有様である。それに、そもそも豪遊できるほどの人物ならば宿など探さなくても江戸に身を寄せる知り合いも場所も他にいくらでもあっただろうから、茅蜩館が江戸一番の豪華な宿であったという説からして眉唾だ。仮眠が取れる程度の宿泊施設が付随した高級料亭のようなものだったのではないかと、要は疑っている。
「それに、芳賀さんは謙遜してらっしゃいますけど、茅蜩館こそ、結局のところ帝都の在り様に憧れて必死で真似した時期があったわけですから。帝都ホテルは、やはり日本の最高峰のホテルだと思います。そして、昔はどうだったかはともかく、今の茅蜩館は、あのとおりのホテルですよ」
好奇心いっぱいの眼差しを向けている婚約者(仮)に、梅宮は微笑んだ。彼は、東京の茅蜩館は、今の規模が丁度良いのではないかと思っている。野心がないと橘乃に思われてしまいそうだが、そうではない。芳賀も言っていたように、要は、あの大きさだからこそできるサービスを追及してみたいのだ。
「この間、研修で海外に行かせてもらった時、ロンドンで、すごく感じの良いホテルに出会ったんです。さっきの芳賀さんが、僕が気に入るだろうから絶対に見てきたほうがいいと言って、わざわざ紹介状を書いてくれた所なんですけどね」
少し照れながら、梅宮は橘乃に打ち明けた。そこは、ロンドンの繁華街の近くにある、客室が100程度の比較的小さなホテルだった。 小さいといっても安っぽいわけではない。もともとは貴族の邸宅であったとかで設えは重厚で格調高く、宿泊料もそれなりに高い。
「ロンドンの高級ホテルといえば、サヴォイとかリッツが有名なんでしょうけれども、あそこほど煌びやかな感じはなくて、でも、とても…… なんて言ったらいいんだろう? ええと…… サービス的には、それらの高級ホテルにも引けをとらないと思うんですけど、応対がよりフレキシブルというか、お客さまとの距離が近いというか……」
自分が感じたものを少しでも彼女に共有してもらいたくて、要は、一生懸命に言葉を探した。彼自身は気がついていなかったが、家族と呼べる人々に恵まれはしても他人に囲まれて暮らしてきた要が、こうした行動に出るのは珍しいことだった。もっとも、橘乃に対して要が饒舌になったのは、これが始めてではない。このこともまた、要に関して言えば、かなり珍しいことである。
「慇懃だけども無礼ではないというか、気取っている感じがないんですよ。『ああ、ここは紳士の国なんだなあ』と、自分たちがロンドンに感じている良い方の印象を肌で感じさせてくれるというか増幅させてくれるようなホテルだったんです。食事にせよ応対の仕方にせよ、古き良きイングランドの風情を、スタッフがとても大事にしている感じが、こちらにも伝わってくるんです」
だからだろうか? 大通りから入ったところにあるせいで目立たないホテルであるのに、あのホテルは流行っていた。ホテルスタッフによると、観光客も多いが、仕事で何度もロンドンを訪れる客がリピーターになってくれているという。また、そのホテルには、イギリスでは有名なバーがあり、地元の人間にも愛されている。そして、他所からやって来るリピーターと地元客の両方の評判……つまり口コミが、ホテルの新規客を増やす呼び水になっている。
「そのホテル、なんとなく茅蜩館に似ていますね」
「そう思うでしょう」
要が身を乗り出した。
「それに、帰国した後に京都の旅館に泊まった時にも感じたんですけど、京都の人って、謙遜しながらも、自分たちの街の見どころや料理を絶対の誇りと自信をもって勧めてくるではないですか。ロンドンのあのホテルにも、そういう感じがあったんです。だったら、うちのホテルも、もっとそういうところを伸ばしてみたらいいんじゃないかって思うんです。観光地としての京都に勝つのは難しいとはいえ、自分たちのホテルのある街を生かすような取り組みはできるんじゃないかと思うんです。その時、東京という一地方としての魅力を掘り起こすのは、もちろんですけど、日本の首都であることを考えれば、全国から多くの物や人が集まってくるという利点も生かしたい。そして、最終的には、全国の良い所を取り込みながら、それを各地に還元できるような流れも作りたいと……」
「還元?」
「ええ。今までは、他所から東京が取り込むばかりという感じでしたから。でも、これから成田空港もできます。そうしたら、外国人の観光客も増えるでしょう? そういう人たちを、東京だけで帰しちゃったら…… というか、東京イコール日本だと思わせて帰すのはもったいないと思いませんか?」
「だから、奥へ奥へと誘い込む?」
「ええ。ついでに、西の人は北へ、北の人は西や南へ…… そういう流れを作る。ここを終着点ではなくて中継点にする。……って、実は、ここらへんは僕じゃなくて、武里の……浩平の養父の秋彦さんの受け売りになんですけど」
要は照れながら白状した。
ホテルセレスティアルの代表でもある秋彦も、要と同じような……というよりも、更に一歩先のことを考えていた。それがわかったのは、先日橘乃と冬樹の食事風景を防犯カメラで監視しつつ六条源一郎の前で要が話した時だった。ゆえに、秋彦もまた、義母弟の冬樹を苦々しく思っていた。冬樹がしていることは、秋彦や要が目指している方向の逆だからだ。
「たかがホテルに、どれだけのことができるかわかりません。でも、やってみたいと思うんです。幸い茅蜩館は以前から似たような取り組みをしてきましたこともあって、祖母や貴子さんだけじゃなくて、横浜や鎌倉の総支配人も、その気になってくれました。また、お客さまの中にも、こういったことに協力してくれそうな方も多くて……」
話し始めてからずっと、小心者の要は、橘乃が少しでも退屈そうな素振りをしたら即座に話を止めようと思っていた。だが、橘乃は、笑顔を絶やさぬまま、時にはこちらが気圧されるほど熱心に話を聞いてくれた。それが要に気を遣っただけの儀礼的な態度でないことは、彼女が発した幾つもの質問と、彼女が追加しようとした数々のアイディアからも明らかであった。
おかげで要は、前にもまして饒舌になり、帝都ホテルのウェイトレスがコーヒーのお替りを何杯も注いでくれるのに甘えて、夏の日がとっぷりと暮れるまで彼女と語り明かし、それどころか、店を出る頃には「また、誘ってもいいですか?」と橘乃に自分からたずねることさえしてのけた。
「要さんの次のお休みはいつですか?」
嬉しいことに、それが橘乃の答えだった。
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その後、ふたりは何度かデートを重ねた。外に出かけるだけでなく、橘乃はちょくちょく茅蜩館にやってきては簡単な作業を手伝ってくれたり八重の話相手などもしてくれたりした。お盆の入りには、亡くなった久志のために屋上で迎え火を焚くついでに、手持ち花火で遊んだ。
もちろん、冬樹への用心も怠っていない。出かける時には要が必ず橘乃を迎えにいった。橘乃も、予告なしで茅蜩館にやってくる時には必ず六条家の運転手に送ってもらっていた。不特定多数の人間が行き来する茅蜩館の廊下やロビーで、彼女を独り歩きさせるようなことも避けた。
しかしながら、それでも、どこかに油断があったのかもしれない。
事件が起こったのは、8月の末。朝夕には虫の声も聞こえるものの、日中は、まだまだ暑い日が続いていた頃のことである。
その日は、かねてから決まっていた冬のメニューの試食会の日であった。その会には橘乃も誘われていた。要は休みの日ではなかったが、昼休みを利用して彼女を迎えに行くつもりであったし、彼女にも電話でそのように伝えてあった。
「誰かに送ってもらうから、大丈夫よ。タクシーを呼んでもいいし」
橘乃は遠慮した。だが、食事会当日に六条家付きの運転手を彼女の実母ではない母のひとりが占有することになっていると聞かされれば、尚更迎えにいかないわけにはいかないと要は思ったし、八重や貴子も当然迎えに行くべきだと言った。
「冬樹が変に静かなのが気になるのよ。あなたたちのデートの噂を聞きつけるなり、要に決闘を申し込んでくると思っていたのに」
「冬樹さんのところにまで、まだ噂が届いてないだけじゃないのかね」
もの足りなさそうな顔をしている貴子に八重は呆れていたが、彼女もまた、冬樹に対する警戒を解くつもりもないようだった。
「とはいえ、これから噂が届くかもしれないなら、尚更、気をつけなくちゃいけないね」
八重は要から受話器を受け取ると、ホテルでどんな突発事項が起きようとも最優先で要を迎えに行かせるから待っているようにと、自分の口から橘乃に告げた。
そして、午後2時。
ひと段落しかけている忙しさに見切りをつけて、要は橘乃を迎えにいった。だが、六条家の玄関先に現れた要に、執事は不思議そうな顔で告げた。
「橘乃お嬢さまでしたら、先ほど、茅蜩館からのお迎えのハイヤーでお出かけになりましたけど」




