巡り巡って 3
橘乃が歌舞伎座を訪れるのは、姉の紫乃とふたりで紫乃の母のお供をして以来だから、約2年ぶりである。
夏休みだからだろうか。 《納涼》と銘打たれた8月公演のポスターには、橘乃でも知っている役者の名前がずらりと並んでいる。 チケットを手に続々と入場している客たちから少し離れた所では、当日売りの一幕見席を求める人々が別の行列を作っていた。
橘乃たちの席は一階の桟敷席であった。 花道に近い西側で、舞台にも近い。
「こんな良いお席、私たちがいただいてしまっても、よかったんでしょうか?」
橘乃は傍らの梅宮に不安そうにたずねた。
このチケットを彼に譲ってくれたのは、紫乃の嫁ぎ先の大叔母の葉月だと聞いている。 こんなに良い席を手に入れたというのに行けなくなってしまった葉月は、さぞや悔しい思いをしているに違いない。
「私が葉月さまだったら、少しばかり具合が悪くても無理して出かけてしまうと思うんです」
高齢とはいえ、葉月も、いかにもそういう無理をしそうな女性である。 姉の紫乃と気が合うだけあって、葉月と紫乃は性格も似ているようなのだ。 つまり、思いつめたら一直線。
「まさか、葉月さま、お加減が相当悪いんじゃあ……」
「大丈夫。 葉月さまは、お元気でしたよ」
顔を曇らせる橘乃を安心させるように、梅宮が笑いながら首を振った。 そして、「それに、この席は確かに良い席ですけど、本当にお好きな方は、桟敷よりも、あの辺りの席を好まれるようです。 それに、役者に声掛けをするほどの通は上の席に座るのだと聞いたことがあります」と、1階席の中央前寄りの席から上方へと指を動かした。
「葉月さまは、どうやら、私たちのために、わざわざこの席を確保してくれたみたいです。 あの御方は、その…… 冬樹さんが広げているふざけた噂を払拭するのは、真実を見せつけてやるのが一番だと、おっしゃいまして」
「え?」
「先日、うちのホテルで花を配った時にも、祖母や貴子さんが同じようなことを言ってたんですよ。とはいえ、この席は、うちのホテルのロビー以上に目立ちそうですよねえ」
「はあ」
苦笑いを浮かべながら自分の席の周りを見回す梅宮を真似するように、橘乃も視線を動かした。
彼女たちがいる桟敷席は、舞台や花道とほぼ同じ高さに設えられており、舞台を真正面から見据えることができない代わりに、一階席に座る人々を満遍なく見渡すことができる。 また、ここと対面にある2階や3階の席の隅にも目が届く。 逆に言えば、それらの席に座っている人々からも、橘乃の姿を捉えることができるはずだ。 というよりも、見えなかったら問題かもしれない。 なにしろ、彼女の席の2、3メートル先を横切っている花道では、役者たちが行ったり来たりするのだ。 どの席からも役者が観えなければ、客は不満に思うだろう。
「ねえ。 私たちの方を向いているスポットライトが、幾つかあるような気がするんですけど」
「え? 本当ですか?」
「ええ、あれと、それから、あれ」
「あ、あれも、そうじゃないですか?」
「え? どれですか?」
「ほら、あそこの舞台の奥にある、あれ」
視線の高さを橘乃に合わせるように、梅宮がわずかに身を屈める。 橘乃も、梅宮の指の先が示す場所を正確に捉えようと彼に身を寄せた。
「あ! わかりました。あれね?」
声を弾ませて振り返った橘乃の笑顔が強張ったのは、梅宮の顔が間近にあったからだった。 これだけ近づいたのは、先日キスしかけた時以来である。 しかも、あの時以上に、橘乃は彼に体を寄せていた。 梅宮も、驚いている橘乃を見てからようやく、ふたりの距離の近さに気がついたようだ。
「で、でも、まあ、あのライトは、花道を行く役者さんを狙っているものですよね」
ギクシャクと腰を伸ばしながら、梅宮が彼女に回しかけていた手を後ろに回した。
「そ、そうですよね。 私たちにライトが当たったている……なんてことを考えるのは、それこそ自意識過剰ですよね」
ぎこちない笑みを浮かべつつ、橘乃も、梅宮に調子を合わせた。
ふたりの間にある微妙な緊張を知ってか知らずか、ふたつ離れた席に座っていた眉毛の長い老人が、「そちらの席は、花道の役者の立ち位置が目の前ですから、ライトが当たるんですよ。けっこう眩しいかもしれませんな」と、訳知り顔で教えてくれた。 目立つがどうかはさておき、ふたりにもライトが当たるのは、本当らしい。
ところが、スポットライトなどに照らされていなくとも、目敏い者たちは、既に橘乃と彼女の隣にいる梅宮を見つけていた。
「やっぱり、橘乃おねえさま! ご無沙汰しております」
「まあ。 真朱ちゃんじゃないの! お久しぶりね」
開演15分ほど前に妹の紅子と夕紀の同級だった少女に声を掛けられたのを皮切りに、橘乃の周りに数組の知り合いが集まってきた。 最初の短い幕間に入った時にも、友人の祖母とその友人だと名乗る3人組の女性に話しかけられた。
「橘乃さんって、顔が広いんですね」
梅宮は感心したが、橘乃のようなおしゃべりが、同時期に同じ学校に通っている姉妹を5人も持っていたら、知り合いも増えようというものである。 知り合いの知り合い程度の関係となると、どれだけの数になるかは、当の橘乃にも見当がつかない。 しかも、今日に限って言えば、橘乃の隣には、いかにも恋人らしき若い男性がいる。 好奇心に駆られて、「ちょっと話しかけてみようか」という気にもなるだろう。 そして、梅宮は、詮索好きな女性たちの相手に、橘乃の婚約者役をソツなく演じていた。 彼の視線にも態度にも婚約者に対する愛情が溢れているように橘乃でさえ勘違いしそうになったぐらいだから、ふたりと話した女性たちは、たとえ事前に冬樹と橘乃との噂を聞かされていたとしても、梅宮こそが橘乃の本当の結婚相手だと確信したことだろう。
「でも、実は照れ屋の要さんが、あの人たちの前で照れたりしないのは、演技だからと割り切っているからなのかしら」
場内アナウンスが観客に着席を促し灯りが落とされる直前、橘乃は面白くなさそうに呟いた。
冬樹が流した根も葉もない噂を打ち消すために梅宮が完璧な婚約者役をこなしてくれるのは、大変ありがたい。 ありがたいのではあるが、なぜだが彼女は嬉しくなかった。 嬉しくないというよりも、物足りない。 『お幸せに』と言われる度に、少しずつ寂しくなる。
客席が暗くなると、その寂しさは、橘乃にとって、いっそう切迫したものになってきた。
これだけ沢山の人間が劇場内にいるというのに、自分は独りぼっちで放ったらかしにされているような気分になってくる。 馬鹿みたいなことを考えているという自覚も、情緒不安定だという自覚も、幸いにしてあるのだが、どうしようもない。 橘乃は、《怖いの》や《辛いの》は、割合に平気だが、《寂しいの》だけは大の苦手なのだ。
橘乃は、そっと手を伸ばして、傍らの梅宮の袖に触れた。
いくら寂しかったとはいえ、後から思えば大胆な行動であったが、気がついたら、勝手に手が動いていた。 しかしながら、いくら暗闇でも、触られれば梅宮だって気がつく。
「橘乃さん?」
「あ、ごめんなさい」
こちらに顔を向けた梅宮から逃げるようにうつむくと、橘乃は詫びの言葉を呟きながら手を引っ込めようとした。 だが、戻しかけたその手を、梅宮が捕まえる。
「え?」
「……」
戸惑いながら顔を上げた橘乃から目を逸らし舞台の方に顔を向けると、彼は、捕まえた橘乃の手に自分の両手で挟んで、膝の上に置いた。
力いっぱい掴まれているわけではないので、彼の手を払うのは、橘乃の力でも容易である。
とはいえ、梅宮のほうから、手を離してくれるつもりはないらしい。
橘乃も、あえて振りほどく気にはならなかった。
彼女は繋がれた彼の手を軽く握り返すと、小さく微笑んだ。 それから、舞台に視線を移して、幕が開くのを待った。
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その後の橘乃は、久しぶりの外出を十二分に楽しんだ。
堅苦しい古典芸能だとばかり思っていた歌舞伎は、前述の老人が事前に今日の演目の見どころ……というよりも突っ込みどころを教えてくれたので、肩肘張らずに面白く観ることができた。
昼食は、30分の長い幕間の間に、梅宮が用意してくれた幕ノ内弁当を食べた。 先日の滞在時に橘乃に御馳走しそこねた茅蜩館の和食系の料理店の板前たちが持たせてくれた、心尽くしの折詰である。
食事の後は、土産物屋を冷やかし、橘乃の家族と八重たちに人形焼を買った。 今のところ全く口を挟んでこないとはいえ、橘乃と梅宮に見えない所でヤキモキしているに違いない父親への土産も、ふたりで選んだ。
込み合っている店先で肩をくっつけるようにして土産を選んでいる最中にも、ふたりは、幾組かの知り合いから声を掛けられた。 橘乃の知り合いもいたが、今度は、梅宮の知己のほうが多かった。 見るからにいなせな築地の仲卸の大将に、和装小物店の女店主、5年ほど前に引退したという某広告会社の元専務とその夫人など。 いずれも、茅蜩館を通しての知り合いだという。
「そうですか、梅宮さんとご婚約なさるんですか。 それはそれは、おめでとうございます」
梅宮の紹介によって橘乃が将来的に茅蜩館に関わることになると知れると、彼らの態度が身内に対するような暖かなものに変化することに、橘乃は気がついた。
そういえば、歌舞伎のことを教えてくれた老人も、その老人の席と橘乃たちの席の間に座っていた中年の女性たちも、そうだった。
彼らは、橘乃たちが茅蜩館の関係者だとわかると、懐かしそうに目を細めつつ、それぞれが持つ茅蜩館にまつわる思い出を語って聞かせてくれた。 「この芝居が終わったらね、茅蜩館でかき氷を食べようって話していたんです。 あそこの、ゆず味のかき氷が私は大好きなの。 毎年夏になると、必ず一度は食べに行くんですよ」と言ってくれた人もいた。
「浮かれていては、いけませんね」
観劇が終わっての帰り道に、橘乃は神妙な顔で梅宮に言った。
「沢山の皆さんが、茅蜩館を好きでいてくれているのですもの。 オーナーになるからには、私も皆さんの期待を裏切らないように、ずっと好きでいてくれるように頑張らないといけませんよね」
与えられるものが大きな分だけ背負う期待と責任も大きい。 そのことを、彼女は、姉たちと彼女たちの配偶者から、学ばせてもらった。
しかしながら、次期オーナーとして、具体的にどうしたらいいか。 橘乃には、まだ、よくわかっていない。 ホテルの仕事も、ほんの少ししか手伝っていない。 梅宮に送ってもらった本で自習もしてみたが、自分よりも母のほうが、ずっと優秀だった。 それよりなにより、橘乃が教わったのはホテルの従業員側の仕事であって、オーナーの仕事ではないだろう。
「橘乃さんは、大丈夫ですよ」
「気休めはいいです」
「気休めじゃありませんよ」
恨めしげな顔で見上げる橘乃を、梅宮が優しい眼差しで見つめ返す。 「自分の立場に責任があると自覚しているならば、現時点では申し分ありません」
「そう?」
「ええ。 例えばそれがオーナーじゃなくて、フロントでも、ウェーターでも、ルームメイクでも、自分の仕事の大切さと責任を実感しているかどうかって、大事なことだと思うんですよ。 でないと、仕事を任せる方だって、安心して任せられないでしょう?」
「そういうもの、ですか?」
「ええ。 そういう気持ちがあるかどうかで、人って、かなり違いますよ」
心許なげな橘乃に、梅宮が力強くうなずく。 「うちの浩平だって、僕たちの前では、ちゃらんぽらんなことばかり言ってますけど、仕事に対する責任感はすごいです。 3人の中では、実は、浩平が一番硬いというか理屈っぽい真面目な性格だったりもするし……と」
梅宮が立ち止まった。
歌舞伎座から歩き始めたふたりは、話に夢中になっているうちに、銀座のシンボルである時計台の脇を通り過ぎ高架線の下を潜り抜け、気がつけば内堀通りに到達していた。
ここを右――皇居の二重橋のある方向に曲がって少し行けば、茅蜩館に到着する。
「もう、こんなところまで来てしまいましたか」
茅蜩館に着いたら、多くの人が橘乃を笑顔で迎え入れてくれるだろう。 橘乃も、久しぶりに八重に会えるのを楽しみにしている。 しかしながら、このまま真っ直ぐに茅蜩館に帰るのは、どうにも名残惜しいような気がした。
「あの――」
どちらともなく、相手に声をかける。
「茅蜩館に戻る前に、お茶でもしませんか?」
明後日の方向に目を泳がせつつ誘ってくれたのは、梅宮のほうだった。
「はい」
橘乃も、笑顔で承知する。
とはいえ、ここまで歩いて来てしまうと、気軽に入れる喫茶店のような店は少なくなる。 最も近くにあるのは、茅蜩館最大のライバルともいうべき帝都ホテルのティールームであった。




