巡り巡って 1
梅宮が訪れた日を境に、橘乃及び六条家は、いつもどおりの平穏さを取り戻した。
「どうして、もっと早くに相談してくれなかったんだ」
梅宮の助言に従って橘乃が冬樹のことを相談すると、兄の和臣は、彼女ばかりか母や使用人たちまで叱りつけた。
兄と一緒に話を聞いてくれた葛笠も、「せめて、私に話してくださればよかったのに」と、これまた恨めしげであった。
とはいえ、普段から有能なうえに忙しいふたりである。 橘乃に説教しているその間にも、冬樹に対して打つべき手を打ってくれたようだった。
その後。 電話番号を変えてもいないのに、受話器を上げておかなくても冬樹からの電話が掛かってこなくなった。 引っ切り無しに送られてきた冬樹からの大量のプレゼントも、兄が『失礼のないように、全て当人にお返した』とのことである。 具体的に兄たちが何をしたかということについては、『聞かない方がいいよ』とはぐらかされたのでたずねなかったが、執事によれば、冬樹からの荷物が届けられることはなくなったとのことである。
屋敷の侵入者対策については、梅宮がひと通りの指示を出していったので、追加で対応する必要はなかったようだ。
だが、『せっかくだから』と、葛笠が、家の周りを警戒してくれている若者たちにも手伝わせて、屋敷を囲む林の中に幾つかのトラップを仕掛けたという。 橘乃たちは、葛笠から、『危険ですから、私道を通る時には道から外れないようにしてくださいね』と、忠告されている。
林に生息している鳥やタヌキの親子がトラップに引っかかりはしないかと橘乃たちは気が気ではなかったが、小動物の重さ程度では反応しないので心配いらないとのことである。 ちなみに、冬樹は、今のところトラップに引っかかってはいないそうだ。 葛笠が日頃から懇意にしている町内会長とこの地域担当の巡査に『最近、赤いスポーツカーに乗った変質者が近所をウロウロしている』と通報したこともあり、最近の冬樹は、六条家どころかこの町内に足を踏み入れることすら困難になっているらしい。
兄たちの隙のない対策が功を奏したのか、一週間も過ぎると橘乃が冬樹に煩わされることはなくなった。
だが、冬樹が完全に諦めたと確認できていない以上、彼女の安全が保障されるのは、家に籠っている限りでしかない。 周りに苦労させておいて申し訳ないとは思うものの、心配が減った分だけ、橘乃は退屈になった。
そんな、ある日のことである。
「そんなに暇なら、茅蜩館に嫁入りした時に困らないように修行でもしたら?」
暇を持て余す橘乃を見かねて提案したのは、明子の母だった。
「修行?」
「なにかあるのではないの? ホテルで働いている人ならば知っていて当然と思われているような接客のマナーとか心得とか? 接客用語とか? 外国語とか?」
橘乃がオーナーの座に就いた時に、周囲からなめられない、あるいは一目置かれるために、身につけておくべき技術や知識があるはずだと、彼女は言うのである。
「ね? あるわよね?」
「そうねえ。 あるんじゃないかしらねえ」
水を向けられた母の美和子も、心許なげながらも明子の母に賛意を示した。
具体的に何をしたらいいかについては、梅宮に相談することにした。
彼は、あれから毎日、橘乃に電話をくれる。 彼女のことを心配してくれているからこそだと思うと、迷惑をかけていることはわかっていても、やはり嬉しい。
「橘乃さんならば、あらためて接客やマナーを学ぶ必要はないと思いますけれども」と、梅宮は言ってくれた。 彼から電話を替わった現オーナーの八重も、「そんなことまでしなくってもいいですよ。 私も、みんなに任せきりで、なんにもできやしませんから」と言って、笑っていた。 そうはいっても、橘乃の退屈しのぎになると思ったのだろう、翌日に彼らから届けられた段ボール箱の中には、分厚い接客マニュアルや9か国分の接客用の外国語会話集、国内外の地図や地域の特色や産物などを写真入りで紹介した本などが詰め込まれていた。
「大量の花や高価な物を贈れば女が喜ぶだろうって思い込んでいる冬樹さんも芸がないけれども、こっちはこっちで、色気がないわね」
末妹の月子が呆れる。 だが、大量で高価な花や物を毎日送りつけれていた橘乃にしてみれば、こちらのほうがずっと嬉しいし、気が休まるというものである。
「私も、こっちのほうがいいな。 ただ買ってくるよりも、ずっと手間がかかっているもの」
自習する橘乃がわかりやすいようにマニュアルのそこかしこに挟まれたしおりと、そこに添え書きされた梅宮からのアドヴァイスを興味深げに読みながら、紅子が姉に味方した。
夕紀も、同い年の姉と同意見であるようだ。 また、梅宮にも女性に対する気遣いがあるとも、言いたいらしい。 無口な妹は、マニュアルと一緒に送られてきたチョコレートの箱からひと粒を摘み上げると、月子の減らず口に放り込んだ。
ともあれ、橘乃は、マニュアルを片手に自習に励むことにした。
梅宮の言うとおり、明治の時代に国内外で活躍できる淑女を育て上げることを目的に創設された女子校で厳しく躾られた橘乃にとって、マニュアルに書かれていることのほとんどは、目新しいことではなかった。
しかしながら、橘乃の身に染み着いているのは、主にサービスを受ける側のマナーであって、サービスを提供する側のそれではない。
案内する者の立ち位置や給仕のタイミング、果てはお辞儀の深さまで、頭ではなんとなくわかっていても、やり慣れていないことは多かった。
妹たちも、ホテルマンの所作にある種の非日常的な魅力を感じたようだった。 また、彼女たちも夏休みに入ったので、暇があった。
「折角だから、お姉さまの練習相手になってあげてもよろしくてよ」
妹たちは、口では恩着せがましいことを言いながらも、楽しそうに橘乃の練習に付き合ってくれた。
「おままごとみたいね」
様々な場面を想定しながら交替で客になったりホテルマンになったりしている娘たちを微笑ましげに眺めていた母親たちも、いつの間にか仲間に加わっていた。
語学に堪能な明子の母は、様々な国の言葉で様々な性格の客を演じて、娘たちを喜ばせた。
欠点のない女性だと思い込んでいた紫乃の母は、ホテルマンの役をやらせてみると、案外不器用であることが判明した。
一方、橘乃の母の美和子は、バレリーナのようなにフワフワと広がるスカートをものともせずに執事を驚かすほどに洗練された給仕を実践してみせて、皆の尊敬を集めた。
当初の橘乃たちの予定というよりも希望では、こんなふうに橘乃が家の中で 《ホテルマンごっこ》に興じている間に、冬樹が彼女への興味を失くしてくれるはず……だった。
しかしながら、徹底的に橘乃との接触を断ったにも関わらず冬樹は橘乃を全く諦めていなかったようだ。
そのことを、橘乃は、友人からの電話で知った。
〇 ● 〇 ● 〇
「橘乃! 結婚するって本当なの?!」
橘乃が《ホテルマンごっこ》を始めてから3日後。
橘乃が電話に出るなり、いきなり追及を始めた女性は、中学校以来ずっと仲良くしてきた友人のひとりであった。
「本当にびっくりしたんだから。 私に黙って婚約しちゃうなんて、水くさいじゃない! 親友だと思ってたのに、あんまりよ! しかも、相手が、あの武里の御曹司ですって?! あなたってば、よりによって、なんてことするのよ。 私にひとこと言ってくれたら、こんなこと絶対に許さ……」
「ちょ、ちょっと待って! 紀奈子ちゃん、落ち着いて!」
怒りに任せてわめきたてる親友に向かって、橘乃は受話器越しに声を張り上げた。
「私、その人とは婚約してないわ」
「まだ隠すつもり?」
紀奈子は、橘乃の言葉を全く信用する気がないようだった。 「だって、本人がそう言っているのよ」
「本人?」
「だから、竹里冬樹本人よ」
「はあっ?!」
後で聞いた話では、その時に橘乃が発した声は、広い屋敷のどこにいても聞こえたという。
「な? なんで、どうして? 竹里冬樹が、どこで、なにを言っているんですって?!」
「あら、本当に違うの?」
橘乃のあまりの慌てように驚いたのか、尖っていた紀奈子の声が柔らかくなった。
その後、彼女が聞かせてくれた話によると、冬樹は、あちこちで自分が橘乃と婚約することになったと吹聴して回っているということだった。
「私は、父のお供で出席したパーティーで聞いたの。 だけど、他の場所で同じ話を聞いたって言っている子が、何人もいるようよ」
『あと3日もすれば、橘乃に問い合わせが殺到することは間違いないから、覚悟しておくことね』と、友人は有難くない予言までしてくれた。
「ずいぶん惚気ていたわよ。 あなたが彼の全てで、あなたなしでは夜も日も明けない、とかなんとか」
聞いている紀奈子のほうが恥ずかしくなったそうだ。
また、冬樹は、橘乃のために、女たちを全て整理したとも言っていたという。 理由は、橘乃と彼女の父親に彼の本気を示すためであるらしい。
「『整理』って……」
「ふざけているでしょう? 女は、散らかった本でも服でもないっていうのにね。 それより、整理が必要なほどの数の女性と付き合ってたって、どういうことよ」
しかも、冬樹は、『どいつもこいつも、俺と別れたがらなくて、泣かれて大変だった』と、聞えよがしにぼやいていたということである。 相手の女性の気持ちなどまるで考えてない冬樹の物言いに、紀奈子は、すっかり腹を立てていた。
「とはいえ、彼に関する悪い噂は、前からあったのよ。 私も詳しいことまでは知らなかったのだけど、知っていそうな人にたずねてみたら、まあ、出るわ出るわ……」
他人を自分と対等とは思わずに無邪気に傷つけるようなことを、冬樹は小さな頃から何度も繰り返していたという。 学生時代には、何度か処分も受けているそうだ。
「かなり有名な話だったみたいで、『あそこにだけは嫁に行かせるわけにはいかない』って、母親たちの間では言っているようよ。 その……一部の噂好きな女性の間でと……という意味だけども」
紀奈子が言葉を濁す。
なるほど、その一部の噂好きの中には愛人が6人もいる六条家を話のネタにして面白がっているような人々が大勢含まれているようだと、橘乃は察した。
橘乃の友人だけあって、紀奈子もまた悪意のある噂を好まない。 だが、今回ばかりは、親友の未来がかかっているからこそ、ありとあらゆる伝手を頼って情報を仕入れてきてくれたようだ。
「嫌なことまでさせちゃって、ごめんね。 ありがとう」
「いいのよ。 でも、こんなことなら、くだらないスキャンダルや悪口にも日頃から興味を示しておくのだったと、私は後悔しているわ。 橘乃、あなた、本当に?」
「本当に、絶対、あんな男とは婚約していないわ。 だあれが、あんな男と!」
橘乃は断言すると、怒りにまかせて、これまでのことを全て彼女に打ち明けた。
長年の付き合いの中で橘乃が初めて人のことを……武里冬樹をボロクソに貶すのを聞いた紀奈子は、彼女の身にただならぬことが起っていると信じざるをえなかった。
「茅蜩館の持参金のことを紀奈子ちゃんに先に言わなかったのは、悪かったと思ってるわ」
「それは仕方ないと思うわ。 自分で言うのもなんだけど、私って、かなりのおしゃべりだもの。 橘乃と同じで」
謝る橘乃に、友人が笑う。
「でも、そうよねえ。 よくよく考えれば、竹里冬樹みたいな性格の人と橘乃が上手くやっていけるわけないものね。 それより、いいの、橘乃? 竹里冬樹を遠ざけるためとはいえ、茅蜩館の副総支配人だか総支配人補佐だかの人? その人と、婚約したことにしちゃったんでしょう? 後で、ややこしいことになったりはしない?」
「う~ん。 冬樹さんとややこしくならなければ、私は別にかまわないけどね」
「それだけ?」
さすが橘乃の親友だけのことはある。 紀奈子は、橘乃の曖昧な返答の裏に潜む何かを敏感に感じ取った。 そして、巧みな話術と執念とで、彼女は、橘乃から聞くべきことを――すなわち、梅宮が橘乃にとってどれほど頼りになる存在であるかということや、彼女が梅宮とならば、どのような《ややこしい関係》になってもかまわないと考えていることを探り出した。
そして、くどいようだが、紀奈子は橘乃の無二の親友であり、類は友を呼ぶのである。
紀奈子は、せっかく手に入れた嬉しいニュースを自分の胸にしまっておくようなことができる娘ではなかった。 そして、ゴシップというものは、市販の雑誌であれ巷の噂であれ、鮮度が命。 いち早く手に入れて発信した者こそが、勝者なのである!
橘乃との電話を終えた紀奈子は、早速知り合いの数名に電話を入れた。
そして、竹里冬樹の婚約話が彼の妄想に過ぎないことや橘乃が冬樹から被った被害の実態、そして橘乃を冬樹の毒牙から守るべく奮闘している梅宮という男に橘乃が恋をしているらしいことを話して聞かせた。 それから、竹里冬樹の悪行に関する情報をくれた見返りにと、学生時代には付き合いの少なかったグループに属していた女性たちにも知らせてやった。
誰かに腹を立てている橘乃も、悪行三昧の竹里冬樹の妄想に対抗する茅蜩館のホテルマンの存在も、そして、橘乃が彼に恋しているらしいという憶測も、噂好きの女性たちにしてみれば、全て美味しい話題である。
紀奈子が知り合いに伝えた3つの話題は、その日のうちに3つセットになったまま広がった。
電話線から電話線へ、友達から友達へ。 妹から姉へ、姉から妹へ、娘から母へと拡散した噂は、翌日には、妻から夫へ、あるいは母から兄や弟へも伝わるにいたった。
もちろん、これまでの経験上、男たちも、女たちの無責任な噂話を鵜呑みにするほど愚かではない。
しかしながら、六条家の娘の婚姻は、彼らにとっても重大な関心事ではある。 なぜなら、一代で莫大な財を成した六条源一郎は、既に、長女を旧中村財閥の御曹司に、次女を喜多嶋紡績グループの次期総帥と目されている若者に嫁がせることに成功している。
この調子で6人の娘全てを大家に嫁がせた暁には、六条源一郎は、巨大な閨閥を手に入れることになる。 そして、その閨閥は、自分たちの未来にも少なからぬ影響を与えることになるに違いないと、多くの者は考えていた。 だからこそ、六条家の3女の娘の嫁ぎ先を――六条源一郎の次のターゲットをどこに定めたのかということに重大な関心を寄せている男性も少なくはなかった。 嫁ぎ先の候補とされているのが、黒い噂が絶えない武里リゾートのトップと、独立不羈を貫いてきた茅蜩館のオーナーの養い子であるなら、尚更である。 しかも、武里リゾートのバカ坊主は、『橘乃と結婚したら、茅蜩館を都会のリゾートとして大々的にリニューアルする』などと息巻いているそうではないか。 どうして、自分たちが無関心でいられようか?。
ここは是非とも、噂の真偽を確かめなくてはならない。
だが、娘が絡むと何をするかわからない六条源一郎に直接確認する……のは、ネズミが猫の首に鈴をつけに行くようなもの。 うかつな質問で源一郎の逆鱗に触れることだけは、誰もがなんとしてでも避けたいと思った。
では、誰に確認するのが適当だろうか?
考えたすえに彼らが近づいたのは、源一郎の息子の和臣であった。




