恋の障害 6
「さっきから聞いておれば、よくもまあ、次から次へとふざけたことを……」
「あんた、誰?」
出入り口を塞ぐ花瓶の間を掻い潜るようにして近づいてきた男を、冬樹が胡散臭げに眺めまわす。 どこかで見た顔だと彼は思っているのかもしれないし、もしかしたら男にライバル心を抱いていたかもしれない。 冬樹よりもだいぶ歳がいっているものの、男は、どこぞの俳優かと見紛うほどの整った顔立ちと華やぎを有していた。 この男ほど存在感が大きいと、冬樹以上に芝居がかった仕草や口調でさえ、さまになっているとしか思えないから不思議である。
「やれやれ。持参金つきの女に興味をもって近づいてきた男が、私の顔も知らないとはね!」
冬樹の問いを受けて、男が天を仰ぎながら大きく手を広げた。「今評判の敏腕御曹司が聞いて呆れるな。竹里冬樹が《カカシ御曹司》だという噂は、どうやら真実だったようだ」
「カカ……なんだって?」
「全てを人任せにして自分はつっ立っているだけ……ということだよ。君たち、このカカシくんに私を紹介してやりなさい」
手を腰に置いてポーズをとりながら、男が橘乃と梅宮に命じた。
「父です」
「六条グループの総帥であられます、六条源一郎さまです。中村物産の社外取締役も務めていらっしゃいます」
なんとも恥ずかしい気分に陥りながら、橘乃は父を紹介した。
プロに徹している梅宮はともかく、源一郎に同行していた秘書の葛笠と佐々木も恥ずかしい思いをしているらしい。黙ってうつむいている。
「そう! 私は、橘乃の父! お父さんであ~る!」
源一郎が声高らかに宣言しながら、冬樹に向かって手を差し出した。
「『以後、お見知りおきを』……と言いたいところだが、君と私の間に、そして君と橘乃の間にも、金輪際『以後』は存在しない」
出しかけた冬樹の手をすり抜けるようにして、源一郎が引っ込めた手を後ろで組んだ。
「橘乃は私の娘だ。スイートに泊まるための金が足りないというのなら、父親であるこの私が責任をもって代金を払う。君に娘を憐れんでもらう必要も、ましてや娘を介して君が私に施しをする必要も皆無だ。というよりも、ハッキリ言って、失礼だ。だが、私にとって最も不愉快だったのは、そのことではない。君は、あろうことか、私の可愛い娘の寝室に人を忍び込ませようとしただと?!」
源一郎が、冬樹から遠ざけるように橘乃を抱き寄せた。
「なんという恐ろしいことを! この子が侵入者に何かをされたら、君はどうやって償うつもりだったのだ? この汚らわしい下種野郎め! この場で私に殺されないだけ幸運だと思って、即刻ここから立ち去るがいい。ただちにだ! この馬鹿馬鹿しい花も、ひとつ残らず持って帰れ!」
源一郎の剣幕はすさまじく、冬樹に言い訳する暇を与えなかった。冬樹は、怒りを露わにする源一郎に怯み、後ずさり、最後には、運び入れた大量の花を置き去りにして逃げて行った。とはいえ、ただ尻尾を巻いて逃げ出すのは、女にモテると自認する彼のプライドが許さなかったようだ。
「橘乃さん。お父さんがなんと言おうと、僕は君を諦めないよ! またね!」
源一郎から充分に遠ざかってから、冬樹が橘乃に向かってキスを2回投げた。それがまた、父の怒りに火をつけた。
「うるせぇ! 次はねぇって言ってるだろう! とっとと失せろ!」
源一郎が冬樹に向かって牙をむく。冬樹を遠ざけてくれたのはありがたいが、ここまでされると、かえって彼が気の毒に思えてくる橘乃である。
「お父さま。やりすぎじゃない?」
「そんなことはないさ」
顔を曇らせる橘乃に、冬樹がいなくなるやいなや憑きモノが落ちたかのように普段の調子に戻った源一郎がカラリと笑った。
「私としては、むしろ、あのカカシくんに情けをかけてやったつもりなんだけどな。私が出るのがあと数秒遅れていたら、梅宮くんが問答無用で彼をつまみ出していただろうからね」
「梅宮さんが?」
橘乃は笑った。物腰の穏やかな梅宮が強硬な手段に出るところなど、彼女には全く想像できなかった。しかしながら、父は冗談を言っているつもりはないようだった。「覚えておおき、橘乃。普段おとなしい奴ほど怒ったら怖いんだよ」と、大真面目な顔で彼女に言い聞かせる。
「久志がそうだった。あいつは、ああいう客には容赦がなかったからな」
源一郎が、亡くなった友人の面影を重ねるような目で梅宮に微笑みかける。父の言葉に同意するように、梅宮も彼に笑みを返した。
「茅蜩館は上客が多いからな」
半信半疑な顔をしている橘乃に、父が言う。「金とか権力を嵩に着るような奴の言われるままになっていたら、やってられないんだよ。節度を守って過ごしている他の客への申し訳も立たない。だからこそ、茅蜩館は、必要があれば客に対して厳しい態度にも出る」
しかしながら、しがない若いサラリーマンが粗相をするならいざ知らず、竹里冬樹はカカシとはいえ経営者。つまり会社の顔である。
「『いい大人のくせに、素行が悪くて茅蜩館のスタッフに追い出された』なんて評判が立ったら、彼は、いい笑い者だ。誰にも相手にされなくなって、ただのカカシの役にさえ立たなくなる。だったら、娘可愛さに激高した父親に殴り倒される方が、彼へのダメージは少ないだろう?」
『だから自分が冬樹を叱り飛ばしてやったのだ』と父が胸を張る。威張ることではないと思うが父の話にも一理あると橘乃は思った。とはいえ、梅宮が父親と同じことをするところは、やはり想像しがたい。
「本当に、冬樹さんをつまみ出すつもりだったの?」
橘乃は梅宮に問いかけた。梅宮は、彼女の問いを否定することなく、「これ以上長引けば、他のお客さまの迷惑になったでしょうから」と言いながら、ロビーの奥へを目を転じた。
そこは、橘乃が降りてきた時よりも、だいぶ人が増えていた。ただ漫然と時間を過ごしているように見える者もいれば、そこかしこに置かれたソファーで話し込んでいる者もいる。ソファーの前のテーブルに大量の書類を置いて忙しそうに作業をしている少人数のグループもいた。
スーツ姿の男性がほどんどだが、女性の姿もチラホラと見える。彼女たちにせよ、いかにも仕事用のカッチリとした服装の者がほとんどだ。源一郎の知り合いもいるらしい。先ほどの騒ぎを見ていたらしい人が、「ああいう悪い虫が寄ってくると、可愛いお嬢さんをお持ちのお父さんは大変ですな」と父をからかいながら通り過ぎていったし、「先日はお世話になりました」と言いながら彼に近づいてくる者もいた。梅宮も人気があるようだ。小走りに出口に向かいながら、
「来月の16日、よろしくたのむよ」と、彼に念を押していく者もいれば、「この間見せてもらった浄水器ね。あれ、うちの工場でも採用することになったから」と、ついでのように彼に報告していく者もいる。
「浄水器って、喜多嶋ケミカルから入れたっていう?」
父が梅宮にたずねた。その浄水器のことならば、橘乃も知っていた。それは、明子の姉の夫の森沢の会社に附属する研究所が、いわば遊びの延長で美味しいコーヒーを飲みたいばかりに作り上げたものだった。大きすぎるために売り物になるとは誰も思ってなかったらしいのだが、処理後の水の味は申し分がないということで、1年ほど前に茅蜩館が一台を買い上げている。
「ええ。評判がいいんですよ。こちらから宣伝したわけでもないのに、飲食業関係の方からの問い合わせが多くて」
「ほお、そうかね。あんなデカさじゃあ、そうそう売れるまいと思っていたが、わからないものだね。 お、これはこれは、三波さん。お久しぶりです」
梅宮の話に相槌を打っていた父が、丸顔で口の大きい男性に話しかけながら離れていった。秘書たちも影のようにふたりについていく。
「ねえ。 今ロビーにいる人たちって、みんながみんな、宿泊のお客さまではないですよね?」
空いている椅子を目指して歩いていく父を目で追いかけながら、橘乃は、気になっていたことを梅宮にたずねた。
「ほとんど違いますね。ここは丸の内や大手町に近いですから、ちょっとした打ち合わせや取引先との約束の時間までの時間調整などで、ここのロビーを利用なさる方が多いんです」
朝のこの時間は、他に店も開いてないこともあって、割合に混んでいるという。ただの時間つぶしの客もいれば、時間追われている者もいる。この後の打ち合わせに自分の人生と社運を掛けているもの者もいるかもしれない。
「人によっては、ひどく焦っていたり気が立っている方もいらっしゃるでしょう。それでも、普通のお客さまは、他のお客さまのご迷惑になるようなことはなさいません。ですから、『客だから』という理由で他のお客さまに迷惑をかけるような方は、私どもにとっては、もはや客ではないというか……」
冬樹のことを思い出しているのだろう。梅宮が言葉を濁した。
「梅宮さんにとってのお客さまって、お泊りの人やレストランで食事をする人だけじゃないんですね」
橘乃は、梅宮に笑いかけた。
この人は、ホテルにお金を落としてくれる人だけではなく、このホテルを訪れる人をみんな客だと思ってもてなそうとしている。もしかしたら、そんなことは当たり前のことなのかしれない。どこのホテルの人だって、梅宮と同じ感覚で働いているのかもしれない。だけども橘乃は、そういう梅宮と彼がロビーに集まる人々に向ける優しい眼差しとを、とても好ましく感じた。
「追い出しちゃって正解でしたよ。あんな人、いっそのこと、梅宮さんが投げ飛ばしちゃえばよかったんですよ」
どちらかといえば《やわ》に見える彼にそれができるかどうかはともかくとして、橘乃は言った。彼女としては、梅宮を励ましたつもりである。だが、あまりにも、あっけらかんとした橘乃の物言いに、梅宮は焦ったようだ。
「いや、でも、つまみ出すのは、あくまでも最終手段ですし、やはり力に訴えるのはまずいです。それに、もう少し僕が上手くやっていれば、事を荒げずにすんだかな……という気もしますし」
「そんなことないです。梅宮さんは、冬樹さんに対して、我慢できるギリギリのところまで誠実に接してました」
それでも冬樹は無理を押し通そうとした。だから、今回のことは冬樹が悪いと橘乃は思う。
「いや、でも『ギリギリ』って言われると、どうなんでしょうね。私としては、今回は、まだまだ我慢が足りなかった気がするんですよ」
「それは、気のせいです」
更に反省を重ねる梅宮に、橘乃は言い切った。
謙虚なのは良いことだ。しかしながら、全てを自分の責任だと感じるのは気負い過ぎだと彼女は思う。ついでに言えば、少々面倒臭い。
「冬樹さんは、私を訪ねてきたんです。その私が『いい』って言っているんです。だから、それでいいじゃないですか」
「いや、でも」
「梅宮さん、しつこいです」
「でも」
梅宮が食い下がる。「今回の僕は、始めから冬樹さんに対して喧嘩腰になってしまっていたと思うんですよ。 起き抜けだったから気も立っていたし、私情が入っていたとも思います。あれでは冬樹さんが態度を硬化させても、仕方がなかったかな……と」
「え?」
「自分でもよくわからないんですけど、あの男に無性に腹が立ったんですよ。昨夜あれだけ橘乃さんに嫌な思いをさせたくせに、あれだけ無神経に振る舞える彼の自信過剰っぷりって、なんなんでしょうか? しかも、多くの人が見ている目の前で、あたかも橘乃さんが自分のものであるように振る舞うなんて、あなたに失礼じゃないですか! 六条さんじゃなくても、あれは許せませんよ。あんな男は…… あ、すみません」
ムキになって話していた梅宮が、目を真ん丸にして見つめている橘乃と次第に大きくなる自分の声に気がついて、口を閉じた。
「こんなことを言うなんて、僕……いえ、私こそ、どうかしてますね」
「いいえ。そんなことは、ないと思いますよ。私としては、むしろ嬉しいかも……っていうか……その……」
言い訳しながら顔を逸らしてしまった梅宮と同じように顔を赤らめながら、橘乃は下を向いた。
「あの…… 怒ってくれて、ありがとう」
「いえ」
咳払いをしながら、梅宮が短く応じた。「それで、あの、結局のところ、橘乃さんは冬樹さんのことをどう…… あ、おはようございます。いってらっしゃいませ」
質問を中途半端にしたまま、目の前を通り過ぎた顔なじみの客に梅宮が挨拶する。そうこうしている間に、源一郎が丸顔の男との話を終えて、こちらに戻ってきた。
「お父さま、お話はもう終わったの。これから会社に戻るの?」
橘乃は下げっぱなしになっていた頭を上げると、ホッとした思いで父に話しかけた。決して邪魔にしたつもりはないのだが、父は、橘乃の問いかけに、ひどく傷ついた顔をした。
「やはり、君は、昨日のことを許してくれていなかったのだね」
「え? 昨日?」
『昨日』と言われて橘乃が真っ先に思い出すのは、梅宮とのキス未遂である。赤らんだ顔を梅宮に向ければ、彼もまた、同じことを思い出していたようだ。冬樹に何をされても平静さを失っていなかった彼が、この時ばかりは、かなり動揺しているように見えた。
「六条さん、それは誤解です。いえ、誤解といっても、たまたま誤解の段階で終わってしまっただけなので、お叱りならば甘んじて受けるつもりではおりますが……」
「そうよ。お父さま、誤解よ」
早合点したふたりは、源一郎の言葉をロクに咀嚼することなく、彼に向かって一斉に言い訳を始めた。
「それより、どうしてお父さまが、あのことを知ってらっしゃるの? あ! もしかして、あの防犯カメラを使って?」
「そう! その防犯カメラだ! あれは、本当に君の誤解なんだよ」
どこか話が噛み合っていないまま、源一郎が必死に弁明する。「それなのに、君はお父さんのことが『大っ嫌い』だって…… 君に嫌われるぐらいなら、お父さんは、お父さんは……」
「お父さま?」
「昨日の夜から、ずっとこんな調子なんですよ」
橘乃の足元に泣き崩れた源一郎に同情するような視線を向けながら、秘書の葛笠が教えてくれる。
「おかげで仕事になりません」
第一秘書の佐々木も、口調は冷たいながらも、父を憐れんでいるようだった。
彼は、防犯カメラを仕掛けたのが源一郎ではなく兄の和臣であることを橘乃に告げると、「日頃の社長の悪行を考えますと誤解なさるのも当然かと存じますが、そういう訳なので、お嬢さまの口から『許す』と社長に言ってやっていただけないでしょうか?」と橘乃に頼んだ。
「まあ、そうだったの? それなのに酷いことを言ってしまって、ごめんなさいね、お父さま」
『大嫌い』と言ったことさえ忘れかけていた橘乃は、打ちひしがれている父の前に膝をつくと、精一杯の気持ちを込めて彼に謝った。
「本当に、本当に、もう怒っていない?」
鼻をすすりながら、源一郎が潤んだ眼を橘乃に向けた。
「ええ。だって、悪いのはお父さまではなかったのでしょう? 犯人呼ばわりして、本当に、ごめんなさい」
「わかってくれたのならば、いいよ」
橘乃の謝罪を聞くなり、源一郎は元気になった。
「ところで、君たち」
帰り際、秘書たちにせっつかれながらホテルの出口に向かっていた源一郎が振り返った。
「さっきの会話では、私と君たちが言っていることが微妙に噛み合っていなかったような気がしたのだが、何か別の話と勘違いしていたのかな? 『あのこと』って?」
もちろんふたりは勘違いしていたのだが、せっかく宥めた父親に、また泣かれてはたまらない。
「そ、そんなことはないわよ。 お父さまの気のせいじゃないかしら?」
「ええ。きっと気のせいだと思います」
引きつった笑顔を浮かべつつ、ふたりは一致団結して笑顔で父親を送り出した。
後に残ったのは、ふたりと、冬樹が残していった大量の花だけである。ロビーに置きっぱなしでは通行の邪魔にもなるので、隆文を始めとした数人のスタッフが、すでに片づけを始めていた。
「とりあえず空いている宴会場に運びますけど、その後はどうしましょうか?」
「う~ん。 どうしたらいいでしょう?」
隆文に問われた橘乃は、殊更に迷惑そうな顔を梅宮に向けた。彼女としては、このロビーにいる誰かひとりにでも、自分が冬樹からの花を喜んでいるように思われたくなかった。だが、迷惑しているとはいえ、捨ててしまうのでは花が可愛そうである。
結局、冬樹から橘乃に贈られた花は、ラウンジやレストランの利用客のうち、特に女性をターゲットにして配ることになった。自分たちが盛り上がっているほど、世間の人々どころか茅蜩館を利用する客さえ来春からの休館を知らない者が多いようだから、これらの花に休館前の各種サービスを告知する特典つきのチラシをつけて渡してみようということになったのである。




