恋の障害 5
「また、花?」
(なんで花ばっかりなんだよ? いい加減にしてくれ。しつこいって!)
……と、思ったのは、要だけではあるまい。
しかも、彼は寝起きで、起こされたのは夜明け前であった。フロントから居間に回ってきた電話に機嫌良く出られるわけがない。
相手も悪かった。竹里冬樹である。そのうえ、彼の要望が奮っていた。
「橘乃さんの部屋を花でいっぱいにしたい。彼女が目を覚ました時に、驚かしてやりたいんだ」
……だ、そうだ。
寝起きではなくても、要には、冬樹の言っていることが全くわからなかった。『彼女が目を覚ました時に』ということは、橘乃が寝ている間に誰かが彼女の部屋に忍び込んで花を置いてくる必要がある。
そんなこと、やっていいわけがない。
常識で考えてもわかるだろうに。この男、どうかしてるんじゃないだろうか?
「『できない』って、僕も、見かねて電話を代わってくれた清水さんも、何度も言ったんだよ」
要を起こして電話を取らせるためにフロントから居間に駆け戻ってきた隆文が、息を弾ませながら小声で彼に説明した。ちなみに、清水というのは隆文と共にフロントに詰めていた男性スタッフであり、フロント歴も長い。
「だけど、全然聞く耳を持ってくれないんだ。『君たちでは話にならない。 総支配人かオーナーを出せ』の一点張りで」
だが、この時間である。総支配人の貴子は、夫と息子たちがいる自宅に帰っている。オーナーの八重も、こういった騒ぎを面白がる浩平も、誰かが叩き起こしでもしない限り寝入っている。
待たされた挙句に電話に出てきた者が総支配人でもオーナーでもなかったので、冬樹は不満だったようだ。だが、要は気がつかないふりを通すことにした。こんな夜中に、彼の望みの人物がホイホイ電話に出られるわけがない。それに、誰と電話を代わろうと、できないものはできないのだ。
「申し訳ございません。お休み中のお客さまのお部屋に忍び込むような真似はいたしかねます」
要は、冬樹の要望を、できるだけ角が立たぬように気を遣いながらも、きっぱりと拒絶した。
「頭の固い奴だなあ。『サプライズ』だよ『サプライズ』! わかんないの!」
呆れかえったような冬樹の声の後ろから、ロック調の音楽と人のざわめきが聞こえてくる。もしかしたら、彼は、別れ際に橘乃を誘っていた《六本木の良い店》とやらで夜通し飲んでいたのかもしれない。かなり酔っているようでもある。
「彼女は、きっと喜ぶ。それなのに、なんの問題があるっていうんだ?」
「申し訳ありません。ご容赦ください」
要は慇懃に突っぱねた。喜ぶか喜ばないかという結果は関係ない。やっていいことではないと思うから、彼は、『できない』と言っているだけだ。
「うちのホテルのスタッフなら喜んでやるぞ」
「そうかもしれません。ですが、ここは茅蜩館でございます」
冬樹のホテルがやろうとやるまいと、茅蜩館はしない。できない。そして、茅蜩館以上に品格にこだわる帝都ホテルも、その他の格式の高さを売りにしているホテルも、それから、冬樹ではなく秋彦の管轄下にあるホテル・セレスティアルでさえも、される側の迷惑を考えないサプライズにホテルスタッフが加担することを許しはしないだろう。
「君さあ、僕が誰だかわかっているんだろうね?」
言うことをきかない要を、冬樹が脅しにかかった。
「存じております」
橘乃の夫にならなかったとしても(昨夜の彼女の怒りっぷりを考えると、彼が夫になることはないだろうが)、冬樹は武里グループの有力者である。将来的には、腹違いの兄たちを押しのけてトップに立つ可能性だってある。彼を怒らせることが得策ではないことぐらい、要だって充分に承知している。
「ですが、申し訳ございません。私どもは、お客さまのプライバシーを最優先に考えております。それに、お若いお嬢さま方は、夜中の侵入者には敏感でいらっしゃいますでしょうから……」
若い女性でなくても夜中の侵入者は気味が悪いだけだろうが、冬樹は、とりあえず納得したらしかった。「つまり、橘乃さんが起きている時ならばいいんだな」と言い残して、彼は乱暴に電話を切った。
「ありがとう! 本当に、ごめん!」
要が受話器を置くと同時に、彼に平伏せんばかりの勢いで隆文が頭を下げた。
「でも本当は自分で冬樹さんを納得させなきゃいけなかったよね。僕って、まだまだだなあ。もっと頑張らなくちゃ、このままじゃあ要の右腕にもなれやしない」
「そんな落ち込むことないさ。今回は、相手が悪すぎたんだよ」
要は弟を慰めた。そして、起きたついでに着替えて仕事に出ることに決める。あの調子だと、冬樹が橘乃の起床時間に合わせてホテルにやってくるかもしれない。取り越し苦労かもしれなくても待機しておいたほうがいいだろう。
「でも、隆文。本当にいいのか?」
歯を磨き終えると、彼は昨晩から気になっていたことを弟にたずねた。
「なにが?」
「だから、その…… オーナーとか? 香織ちゃんとか? それより、おまえは、いつの間に彼女とそんなことになっていたんだよ?」
なにより要が気になっているのは、3つ目の質問である。
「う~ん。ずいぶん昔からのような、つい昨日からのような?」
謎かけのようなことを言いながら隆文が苦笑いを浮かべた。
「この際だから打ち明けると、僕は、ずっと疎外感を感じてきたんだよね」
「うん?」
ネクタイを結んでいた要の手が止まった。
「茅蜩館の親戚のほとんどが僕の味方だっていうけどね。その人たちのほとんどは、東京のホテルにはいない。近くにいる時でも、要や浩平に嫌味を言うとか、親戚の集まりの時に横浜のおじさんたちと親しげにしているだけで、特に僕を可愛がってくれるわけでもない」
「うん。そうだな」
要たちを育てたのは、中立の立場を貫いている祖母の八重である。そして、仕事を教えてくれたり遊び相手になってくれたりしたのは、貴子や、ここで働いている普通のスタッフであった。
「八重お祖母ちゃんはともかく、ここの人たちって、基本的に要の味方なんだよね。小っちゃい頃から、要を仲間として扱っている。でも、僕と浩平は違う。何て言ったらいいのかな…… お客さま扱い?」
「でも、隆文、それは……」
「わかっているよ。みんなには良くしてもらったし、すっごく可愛がってもらったとも思う。お祖母ちゃんの希望だから、3人を3人とも、なるべく平等に扱おうとしてくれていたことも、ちゃんとわかってる」
顔色を変えた要に、隆文が慌てて言葉を付け足した。「わかっているんだけど、でも、空気感っていったらいいかな。要に対するのと僕たちに対するのでは、なんとなく違うんだよ。みんなは要には容赦ないし軽口も叩くけど、僕には、どうしても遠慮が出る。僕は、その遠慮が寂しかった。要が羨ましかった」
だが、親戚から可愛がられている自分が、同じ親戚から邪険にされている要を羨ましがるのは要に悪いと、隆文は子供ながらに思って我慢していたらしい。
どうやら要は、自分の不幸にばかり気を取られて、弟たちの気持ちを汲んでやることができていなかったようだ。
「そうだったんだ。気がつかなくて、ごめん」
反省する要に、「そんなのいいよ」と、隆文が笑う。
「要は、ちゃんと僕たちの《お兄ちゃん》をしてくれていたよ。だからこそ、僕も浩平も、オーナーは要がいいって思えるんだと思う。それで…… あれ? どこまで、話したんだっけ。そうだ。香織ちゃんだ。お祖母ちゃんと要と浩平を除けば、香織ちゃんだけが他の人と違ったんだ」
出会った頃の香織は、まだ幼くて、大人の事情に頓着しなかった。
幼さゆえに遠慮も気遣いもできなかった当時の彼女は、本当の意味で、3人を全く平等に扱った。同い年の隆文には、特に懐いていた。大人になるにつれ彼女も茅蜩館の相続問題を理解するようにはなったが、それでも隆文への態度を変えなかった。そんな香織は自分にとっての安らぎであったと隆文は言う。
「なるほど、それで香織ちゃんか」
「そう。でも……」
立ち上がりかけた隆文が、再び床に尻をつけてため息をついた。「勢いに任せて、横浜のおじさんたちに先に啖呵を切っちゃった。今日中に、香織ちゃんのお父さんに話しにいかないと」
「他の人から聞いたら、殺されるかもな」
大変な一日になりそうである。
〇 ● 〇 ● 〇
同じ夜。橘乃は、なかなか寝付くことができなくて困っていた。
眠ってしまおうと目をつぶれば、梅宮のことが頭を過る。彼のことなど考えまいときつく目を閉じれば、さらに鮮明になる。
あの時の橘乃は、自分から梅宮に顔を近づけていったような気がする。自分よりも背の高い彼に少しでも近づこうと、心もち顎と唇を突き出し、背伸びさえしていたと思う。
あと数秒。
あとほんの少しの間さえあれば……
あの防犯カメラさえなかったら……
(……って、私ってば、なにを考えているの! フシダラな!!)
悲鳴とも呻き声ともつかぬ声をあげながら橘乃は枕を顔に押し付けた。
彼との急接近を思い出しながら無意識のうちに首やら唇を突き出していたことにも気がつき、恥ずかしさのあまり寝床の中でのた打ち回りもした。
しかしながら、彼女が眠れない一番の原因はそこではない。
(梅宮さんは、どう思っただろう? 私のこと、どう思っているのだろう?)
あの時、梅宮も、いわゆる《その気》であったように思えたのは、橘乃の勘違いだったかもしれない。 梅宮は、橘乃の大胆な態度に困惑していたのかもしれない。もしかしたら、防犯カメラという《逃げ道》を見つけて、心底ホッとしたのではないだろうか? 橘乃のことを、尻軽な女だと思いはしなかっただろうか? 軽薄な女だと彼に思われていたら、どうしよう?
時間が経つにつれ、彼女の中で不安ばかりが膨らんでいく。そして、不安と一緒に大きくなっていくのは、『結局、自分は梅宮のことをどう思っているのか?』という疑問だった。
彼を嫌いではないことは間違いないと思う。好きかと問われれば、好きだと答えるだろう。彼を嫌いだと思う理由は、特にない。橘乃は彼を好ましく思っている。
だが、彼女を梅宮を好きなのは、今に始まったことではない。
昔から彼に感じていた『好き』と、現在彼に感じている『好き』は、果たして違うものなのか?
彼を『好き』だと思う気持ちと、家族や大好きな友達を『好き』と思う気持ちに違いはあるのか?
それぞれの『好き』の違いが、橘乃にはよくわからない。
恋とは相手のことしか見えなくなるほど激情的なものだと信じていた橘乃にしてみれば、肩透かしを食わされたような気分である。
(でもねえ)
あれほど義兄を大事にしている紫乃も、知り合ったばかりの頃は義兄に対して腹を立ててばかりいたのだ。もうひとりの姉の明子も、後に夫になる人を当時の夫の親戚のひとりとしてしか認識していなかったはずである。
(……ということは、やはり、《こんなもの》なのかしらね)
むしろ、好意的な感情を抱いている分だけ、橘乃のほうが姉たちよりも《恋》しているということなのだろうか?
「ああ、もう! わっかんないっ!」
もどかしい思いを振り払うようにベッドの上で激しく手足をばたつかせた橘乃は、今度こそ寝ようと決心して目を閉じた。すると、また梅宮のことを思い出す。そして、またしても寝床の中で激しく寝返りを打ったり暴れたりする。
そんなことを何度も繰り返している間に、なんとか眠りにはつけたらしい。フロントからの電話で彼女が目を覚ました時、カーテンの隙間から差し込む陽射しは既に力強く、枕元に置いた腕時計は8時半を示していた。
フロントから電話をかけてきたのは、要の弟の隆文だった。
「橘乃さんにお会いしたいという方が、ロビーにお見えになっているのですが」
「どなた?」
「竹里冬樹さまです」
橘乃の問いに答えた隆文の声は、ひどく強張っていた。そして、「え?」と発音したはずの橘乃の声は、「え゛?」に聞こえた。
「冬樹さんが、どうして? もう来ないとばかり思っていたのに」
「僕もです」
同情するように隆文が言う。近くに冬樹がいるのだろう、「お会いになりたくなければ、その旨、お伝えしますが」と隆文が声をひそめた。だが、「ですが、いささか面倒なことになっておりまして……」と、言外に『下に来てほしい』という気持ちを匂わすことも忘れない。
「面倒なこと?」
「ええ。今、梅宮――要が対応しているんですけど……」
「着替えたら、すぐ行きますね」
橘乃は電話を切ると、急いで身づくろいをすました。
ロビーに降りると、そこは花だらけだった。
全てのソファーの両脇にも、ソファーの前に置かれた低めのテーブルの上にも、花。
フロントのカウンターの上にも下にも、花。
柱の前後左右にも、花。
それだけではない。大階段には3段おきに、出入り口前には人の通行を妨げるが如くに、大きな花瓶に活けられた色とりどりの花々が飾られている。
「な、なんなの?」
「おはようございます」
「おはよう! マイ・ラブ!」
ホテルのスタッフとして他人行儀に頭を下げる梅宮を押しのけるようにして、冬樹がつかつかと橘乃に近づいてきた。今日の彼の衣装も、まるで男性ファッション誌のグラビアから切り取ってきたかのように華やかである。
「マ……? はい?」
「どうだい、ビックリしただろう?」
冬樹は、唖然としてる橘乃の手を取ると、自慢げに周りを見回した。彼の口ぶりからすると、これらの花を持ち込んだのは彼であるらしい。
「昨日は君の御機嫌を損ねてしまったようなのでね。せめてものお詫びのしるしにと思って」
彼は言った。どうやら、橘乃を不機嫌にしたことを、彼も少しは気にしてくれたらしい。だが、反省はしていても反省すべき点はわかってくれていないようだ。
「この陰鬱なホテルにいるから、君の気持ちまで薄暗くなるんだ。花で飾れば、君の気持ちも晴れるじゃないかと思ってね」
今日もまた、彼は、全く悪気のない顔で橘乃を怒らせるようなことを言ってのけた。しかも、近づいてきた彼の息が酒臭い。
「酔っ払っているんですか?」
「なあに、飲んではいるけど、酔ってはいないよ」
なるべく遠ざかりたい橘乃の手首を強く握りしめながら、冬樹が笑う。
「本当は、君の部屋を花でいっぱいにするつもりだったんだ。だが、そこの男が頑固でね。寝ている間に君の部屋に入って飾り付けるなんて許さないと言い張るんだ。それで、ホテル全体を花で飾り付けることを思い立った。なにしろ、このホテルは、ゆくゆくは君のものになるんだ。そう考えれば、このホテル全部が君の部屋みたいなものだからね。だけども、またしても、この男が『そこらじゅう花だらけにするのは、やめてくれ』という」
冬樹は梅宮を憎らしく思っているようだが、橘乃は梅宮の言うとおりだと思った。
ホテル内が華やかになったことは事実なのだろうが、どこに目を向けても色とりどりの花だらけで目がチカチカする。それに、このままでは誰かが花につまづいて怪我をしかねない。また、橘乃を喜ばせるためであろうとなかろうと、夜中に部屋に忍び込まれるのは迷惑以外のなにものでもない。
「お気持ちは嬉しいんですけど…… でも、これは、ちょっと……」
「それより、橘乃さん。君は、ずいぶんと狭い部屋に泊まっているんだって?」
抗議しようとした橘乃の声など、冬樹は聞いていなかった。
「六条家の御令嬢に、ただのシングルを宛がうとは! ありえない! 僕は、このホテルの常識を疑うね!」
周りの人間に聞かせようとするかのように、冬樹が声を張り上げた。
「茅蜩館さんは、常識的に、私が提示した予算に応じたクラスの部屋を準備してくれただけですわ。それに、お部屋は、とっても快適です」
ムッとしながら橘乃は言い返した。だが、彼は、またしても自分に都合のいいように、自分の聞きたいところだけ聞きかじって橘乃の言うことを曲解した。
「予算? つまり、このホテルは、次期オーナーの君から金をとろうとしているのか? だから、このホテルは貧乏臭いっていうんだ。おい、君!」
冬樹が梅宮を呼んだ。
「橘乃さんを、このホテルで一番いい部屋に移動させてくれ。金は、僕は払う」
「移動って……」
『私は物じゃない!!』 と、橘乃は心の中で叫んだ。何の権利があって、冬樹は橘乃に部屋替えをさせようというのか。橘乃は、あの部屋を気に入っているのに!
「冗談じゃないわ。 私は、今の部屋のままでいいです」
橘乃は、彼女にしては精一杯の反抗心を冬樹に示した。だが、冬樹には、橘乃の憤りが理解できないようだった。彼は笑いながら、「どうして? 狭い部屋よりも広い部屋のほうが快適だ?」と橘乃に問いかけた。そして、彼女が答えるのを待たずに、「ほら、早く」と、梅宮を急かした。
梅宮は橘乃の気持ちをわかってくれているようだが、なにしろ立場が悪い。冬樹に対して、そうそう強いことは言えない。
「お部屋は、すぐにでもご用意できます。ですが、当の橘乃さんが、それをお望みではないようですが……」
「なんだ? また反対か?」
やんわりと意見する梅宮に冬樹が苦り切った顔をする。「たかが従業員のくせに、いったいなんの権利があって、僕に意見ばかりする? 僕は客だ。金も払うと言っている。ならば、黙って言うことを聞くべきだろう?」
今の発言は、さすがに聞き捨てならなかった。
「竹里さま、お言葉ですが……」
「『たかが』って、あなたねえ……」
冬樹に詰め寄られた梅宮が何事かを反駁しかけ、堪忍袋の緒を切らした橘乃が冬樹に意見してやろうと思ったその時である。
「そんな阿呆の言うことなど、聞く必要はない!」
ふたりの声をかき消すほどの大音声がロビーに響き渡った。




